平成30年4月20日 樸句会報【第47号】 四月第2回の句会です。 特選1句、入選1句、原石賞3句、シルシ7句、 ・1句という結果でした。 兼題は「藤」と「“水”を入れた一句」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎茎太き菜の花二本死者二万 松井誠司 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇妻の知らぬ恋長藤のけぶりたる 山本正幸 合評では、 「こういうの、許せません!」 「結婚前の昔の話じゃないんですか?」 「“恋”と“藤”はよく合いますね」 「昔の恋なら情緒があるし、今の恋とするなら危険な香りがある」 「“長藤のけぶりたる”が上手だと思う」 「上五の字余りが気になる」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「字余りでリズムがもたつきます。このままでは入選句ではありません。“妻知らぬ恋”で十分です。“長藤がけぶる”のだから淡い初恋や十代の恋ではないでしょう。ちょっと危険な恋。成就した恋かどうかは知りませんが、秘めやかな心情の交歓があるのでは。満たされなかった思い。今もまだ心に揺らめくものが“けぶりたる”という連体止めにあらわれて効果的です」 と講評しました。 今日はほかにも原石賞が三句も出て、恩田の添削で見違える佳句になりました。原石は詩の核心を持っていることを再認識しました。 今年度から金曜日の「樸俳句会」では、句会に併せて芭蕉の紀行文に取り組むことになりました。これは古今東西のあらゆる芸術文化から俳句の滋養を取り入れようという恩田の一貫した姿勢のあらわれでもあります。そこで、芭蕉の最初の紀行『野ざらし紀行』から始め、数年計画で『おくのほそ道』に到ろうという息の長い講読が幕を開けました。冒頭部が取り上げられ、恩田から詳細な解説がありました。 『野ざらし紀行』の巻頭は、『荘子』「逍遥遊篇」や広聞和尚など、古典からの“引用のアラベスク”ともいえるもので、文が入れ子構造になっている。芭蕉は変革者であり、それまでの和歌のレールの上で作ったわけではないが、漢文と日本古典の伝統を十二分に背負っている。「むかしの人の杖にすがりて」、このタームが重要。近代の個人の旅ではない。いにしえ人と一緒に旅立つのである。 野ざらしを心に風のしむ身かな 「身にしむ」は、いまの『歳時記』では皮膚感覚に迫る即物的な秋の冷たさが主であるが、古典では、心理の深みを背負った言葉です、と恩田は述べました。 芭蕉は、古典と現代との結節点になった人なのだということで、古典の具体例として藤原定家の二首が紹介されました。 白妙の袖のわかれに露おちて 身にしむ色の秋風ぞ吹く 移香の身にしむばかりちぎるとて あふぎの風のゆくへ尋ねむ この二首は歌人の塚本邦雄も賞賛しています。(塚本邦雄『定家百首』) [後記] 今回の恩田による『野ざらし紀行』の講義は、大学~大学院レベルだったのではと思います。芭蕉の紀行文をじっくりと読み解くことが初めての筆者としてはこれから楽しみです。 句会の後調べましたら、定家の歌は、和泉式部の<秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ>を意識しているはず、と塚本邦雄は書いています。「身にしむ」という季語のなかに詩のこころが脈々と息づいているのを感ずることができます。 次回兼題は「薄暑」「夏の飲料(ビール、ソーダ水等)」「香水」です。(山本正幸) 特選 茎太き菜の花二本死者二万 松井誠司 「茎太き菜の花」で、真っ先に菜の花のはつらつとした緑と黄色のビビッドな映像が立ち現れます。それが、座五で一挙に「死者二万」と衝撃をもって暗転します。東日本大震で亡くなった人の数です。俳句の数詞は使い方が難しい。ややもすると恣意的に流れやすいです。でも、この句の二本と二万には必然性があります。眼前のあどけない菜の花二本は、大切なかけがえのない父と母であり、二人の子どもであり、親友でもあるかもしれない。たしかにこの世に生きたその人にとって大好きな二人です。その二人の奥に、数としてカウントされてしまう二万の失われたいのちが重なってきます。二つの畳み掛けられた数詞の必然性はどこにあるか。悲しみを引き立たせる戦慄をもつことです。菜の花が無心にひかりを弾いて咲くほど、中断されたひとりひとりのいのちが実感される。「茎太き」が素晴らしい。死者二万を詠んだ震災詠はたくさんありますが、こんなにいのちの実感が吹き込まれた二万はめずらしい。 あとから作者に聞けば、ボランティアとして二度に渡り現地で活動したという。「母の手を引いて逃げる階段の途中で津波に襲われ、すがる母の手を放してしまった、その感触が今も体内に残る」とつぶやいた男性との出会い。そこでもらった菜の花の種が、なぜか今年、自庭にたくましく二本だけが並んで咲いたという。「一句のなかで生き切る」ことができ、普遍に到達した作者の進境に敬意を表したい。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
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4月1日 句会報告
平成30年4月1日 樸句会報【第46号】 四月第1回の句会。「静岡まつり」のメイン会場である駿府城公園は桜が満開です。今日は祭の最終日で、恒例の大御所花見行列の大御所に扮したのは歌手の泉谷しげるさん。 今回から三人の女性会員(お二人は市外)を迎え、心弾む新年度のはじまりです。 入選2句、シルシ5句、・5句という結果でした。 兼題は「当季雑詠」と「“音”を入れた一句」です。 入選句のうち一句および話題句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇雨は地に椿落つ音聞きに来し 石原あゆみ 合評では、 「読んではっとさせられた。雨をこういうふうに表現できるんだと」 「雨が上から落ちてくる。椿のボタッと落ちる音を聞きに来たということでしょうか?」 「“音”を聞きに来たのは雨なんですか?」 「切れがないような・・。ズルズルしている感がありますね」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「上五の“雨は地に”のあとにかすかな切れを読み取りたい。雨は地をしめやかに音もなく濡らし静まり返っている。作者はこぬか雨の中、一人傘をさして椿の落ちる音を聞きに来た。すでに落椿は足もとにおびただしく転がっている。黄色の列柱のような蕊に雨粒を溜めて地に落ちたばかりの大きな花弁。花びらの傷みかけたもの。茶色に焦げて地に帰らんとするもの。でも作者は、この樹上の真紅の椿が雨の大地に着地するその瞬間の音が聞きたい。傘のなかで薄い肩をすぼめ、闇を曳いて咲き誇る椿をじっとみている。逝く春の懈怠の情趣が濃く、作者も読者も、紅椿が命を全うするさまを春雨とともにいつまでもみつめて立ち尽くす。 が、こうした鑑賞はやや好意的にすぎるかもしれない。“地に”に小さな切れがあるとは気づかないひとも多いだろう。誰も間違いようのない伝達力のある俳句にするためには、さらに次のような省略が必要だろう。 雨は地に椿の落つる音聞きに こうすると余白がさらに縹渺と広がらないでしょうか」 と講評しました。 ・春昼の岸壁ポルシェから演歌 山本正幸 本日の最高点句でした。 合評では、 「私も“春昼”で作ろうとしたができなかった。“春昼”のけだるさと“岸壁”という緊張感のある場所を一句に取り入れた発想が面白い」 「現代俳句として優れている。まとまっていて魅力的」 「“ポルシェ”と“演歌”の取り合わせがいい。ポルシェって金持ちの息子やヤクザが乗ってるんでしょ?」 「春昼=のどか、岸壁=危険なところという対比の面白さ」 「いや、“ポルシェ”と“演歌”はどうみてもあざといですよ!」 「青空と黄色いポルシェの安っぽさがいいのでは?」 など反応は様々。 恩田侑布子からは、 「うまく作ってある。俳句に上手く仕立てましたという俳句。俗な即きかたで、いかにもという風景。この書き方がすでに流行歌です。緊張感はなく、逆にけだるさや放恣な感じがある。港の持っている卑猥さ、成金趣味の俗悪な光景についての消化度は低い。キッチュでもない。キッチュなら徹底的にキッチュを突き詰めてほしい。樸がこういう方向に行くと、先行きが危ういです!」 と激辛の評がありました。 本日恩田侑布子が副教材として用意したのは、恩田が書いたふたつの新聞記事です。 ① 2018年3月16日(金) 讀賣新聞夕刊 「俳句 五七五 七七 短歌」 3月の題「芽」 ② 2018年3月19日(月) 朝日新聞朝刊 「俳句時評 破格の高校生」 句会では点盛はできたものの、残念ながら合評の時間は取れませんでした。 ① に掲載された句 山かけてたばしる水や花わさび 恩田侑布子 仙薬は梅干一つ芽吹山 恩田侑布子 いつの世かともに流れん春の川 恩田侑布子 天つ日をちりめん皺に春の水 恩田侑布子 遠足の大空に突きあたりけり 恩田侑布子 (花わさびの句が最高点) ② に取り上げられた句 ぼうたんのまはりの闇の湿りたる 渡辺 光(東京・開成高) 母の乳房豊満なりし早苗月 白井千智(金沢錦丘高) 採石場ジュラ紀白亜紀草田男忌 渡邉一輝(愛知・幸田高) 性別を暴く制服百合白し 西村陽菜(山口・徳山高) 性という製造番号七変化 西村陽菜 風鈴やスカートを脱ぎ捨てる部屋 西村陽菜 (風鈴の句が最高点) [後記] 本日、恩田の紹介した高校生の句の新鮮な切り口とその感性には瞠目させられました。 これらの句は『17音の青春 2018 五七五で綴る高校生のメッセージ』(神奈川大学広報委員会 編 KADOKAWA発行)に収められています。 所収の入選作品にはそれぞれ恩田の寸評が付けられており、筆者はこれらの寸評こそこの新書の白眉と思います。かくも深くかつ温かく鑑賞し、句の世界をさらに拡げてくれる恩田の評を読んで作者の高校生たちはどんなに励まされることでしょう。 次回兼題は「藤」と「“水”を入れた春の句」です。(山本正幸)
3月16日 句会報告
平成30年3月16日 樸句会報【第45号】 駿府城公園の桜のつぼみが大きく膨らんだ昼下がり、3月2回目の句会が行われました。 入選1句、原石賞3句、△2句、シルシ8句でした。 兼題は「菜飯」と「風」です。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇春一番お別れといふ選択肢 萩倉 誠 合評では、 「春一番は一見幸先の良さそうなイメージの言葉だが、あの猛烈な風に当たるとそういう選択肢も浮かんでくるのかもしれない」 「“お別れ”は死別のことなのではないか。死を受け入れるというような」 という感想が聞かれました。 恩田侑布子は、 「季語の“春一番”の次に何が来るかと思うや、破局という選択肢が待っているという。意外性が面白い。お別れではなく、“お別れといふ選択肢”が待つといういい方に含みがある。年に一度しか吹かない春疾風に、このままいっしょに天空に吹き飛ばされてしまいたいのに、そうはいかない。醒めて“お別れしましょう”といいあう。だが、“春一番”の鮮烈な風に煽られた記憶は消えない。消えてほしくない。青春性の熱を秘めた句である」 と述べました。 【原】一角獣空に漂い春愁い 西垣 譲 合評では、 「一角獣=乙女、メルヘンチックなイメージの句」 「空の雲の形が一角獣に見えたのだろう。春の愁い、気だるさを一角獣と取り合わせたのが面白い」 「一角獣と春愁いが即きすぎ」 という感想・意見が出ました。 恩田侑布子は、 「一角獣はユニコーンで、普段は凶暴だが処女(聖母マリア)に会うとおとなしくなるという。パリのクリュニー美術館にある15世紀のタピストリーは有名で、キリスト教とケルト文化の混淆に、私も時を忘れて見入ったことがある。近代ではフロベールの小説やリルケの詩が名高い。この句は中七までは青春性に溢れ素晴らしい。もしかしたら一角獣は、永遠の至純なるものに憧れる作者そのひとではなかろうか。俳句の魅力にこういうロマンチシズムもあることを忘れたくない。ただし季語を替えたい。 一角獣空にただよふ遅日かな こうすれば句柄が大きくならないか」 と講評し、添削しました。 【原】風呂敷に春日包みて友見舞う 石原あゆみ 合評では 「中七が生きていて、情景もよくわかる」 「“春日を包む”という比喩が利いている」 という感想が出ました。 恩田は、 「中七に詩の飛躍があり、やさしい思いも伝わってくる。ただし、言葉がごちゃついている。友までは言わなくていい。 風呂敷に春日包みて見舞ひけり こうすることで、一句は普遍性を得るのではないか」 と講評し、添削しました。 【原】春の雁異国の少女がレジを打つ 萩倉 誠 本日の最高点句でした。 合評では、 「最近コンビニなどでレジ打ちする外国の少女を見る。帰りたくても帰れない少女と発つ雁が対照的だ」 「遠くを飛ぶ雁と、日常でレジ打つ外国の少女の遠近感が良い」 「中七が字余りなのが気になる」 という感想が出ました。 恩田は、 「日本は、少子高齢化による働き手の不足への対策が遅れ、コンビニも飲食店も外人の労働者が増えた。中七の字余りをすっきりさせたい。“春の雁”という季語もまだ座りがいまいちなので 鳥ぐもり異国の少女レジを打つ または 外つ国の少女レジ打つ鳥ぐもり としたいところ」 と講評し、添削しました。 [後記] 今回は特選句がありませんでしたが、磨けば光る原石賞が三句ありました。自分ではブラッシュアップして出したつもりでも、選句者の目に触れることで「その手があったか!」と驚くことが、よい学びにつながる気がします。 次回の兼題は「音」と当季雑詠です。 (山田とも恵)
3月4日 句会報告と特選句
平成30年3月4日 樸句会報【第44号】 彌生三月第1回。少し窓を開け、春風を呼び込んでの句会です。 特選2句、入選2句、△3句、シルシ8句という実りゆたかな会でした。 兼題は「踏青」と「蒲公英」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎合格や不合格あり春一番 久保田利昭 ◎「ヤバイ」ほろ酔いの 掌(て)が触れ春ぞめく 萩倉 誠 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇蒲公英を跨ぎ花一匁かな 芹沢雄太郎 合評では、 「かわいらしい句。思い出かな?こういう句は大好きです」 「かわいい。“花一匁”にノスタルジアが感じられる」 「うまくまとまってはいる。“跨ぎ”がもっと能動的であれば採りましたが」 「あちこちに咲いているたんぽぽは“跨ぐ”には小さすぎませんか?子どもの歩幅と一致しないような気がして・・」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「一読して、たんぽぽと花いちもんめは即きすぎかとも思った。でも花いちもんめの歌を思い出すと、“あの子がほしいあの子じゃわからん”と、浪のように手をつないで歌いながら、鮮やかな黄の蒲公英をひょいとまたぎ越す子どもの無邪気さが感じられた。子ども時代の余燼がまだ身のうちに残っていなければつくれない俳句。若草と蒲公英。その上にゆれる赤いスカートや半ズボンの戯れは春日の幸福感そのもの」 と講評しました。 〇犬矢来こえて行くべし猫の恋 林 彰 合評では、 「“犬矢来”ってなんですか」 「市内では見かけないですね。よく言葉を知っている作者ですね」 との質問や感想。 恩田侑布子は、 「“矢来”は遺らいであり、追い払う囲い。竹や丸たんぼを荒く縦横に組んでつくるもので“駒寄せ”と同義。犬のションベンよけ、埃よけともされ、最近は和風建築の装飾化している。この“犬矢来”という死語になりかけた措辞を活かした手柄。しかも犬なんかに負けるんじゃないぜ、猫の恋よ、の思いも入ったところに俳諧がある」 と講評しました。 投句の講評の中で、今回の兼題について例句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。 来し方に悔いなき青を踏みにけり 安住 敦 たんぽぽや長江濁るとこしなへ 山口青邨 蒲公英のかたさや海の日も一輪 中村草田男 [後記] 本日は「静岡マラソン」の日。走り終えたランナーたちとすれ違いましたが、みな爽やかな感じ。達成感・充実感があるのでしょう。句会のあとの連衆も同じような表情をしているのかもしれません。 次回兼題は「菜飯」と「“風”を入れた一句」です。 (山本正幸) 特選 合格や不合格あり春一番 久保田利昭 大方のひとにとって人生の始めの頃の喜び哀しみは受験にまつわることが多い。同じクラスでいつも軽口を叩きあっては笑いこけていた友人が、高校受験や大学受験で一朝にして合格者と不合格者の烙印を押されてしまう。それを春一番の吹き荒れる様に重ねた。この春一番はまさにこれから二番三番とかぎりなく展開する嵐の道のりを暗示する。それが合格やの「や」であり不合格「あり」である。が、いずれにせよまばゆさを増す春のきらめきのなかのこと。泣いても笑っても船出してゆく。さあこれからが本番だよと作者は懐深くエールを送る。 特選 「ヤバイ」ほろ酔いの 掌(て)が触れ春ぞめく 萩倉 誠 独白をうまく取り入れた冒険句。句跨りだが十七音に収めた。ほろ酔いの掌は思わずどこに触れたのか。手と手かしら?もしかしたら胸元にタッチ?「ヤバイ」。よこしまな関係になりそう。一瞬のたじろぎ、期待、春情。交錯する感情が生き生きと伝わってきて面白い。なんといっても座五の「春ぞめく」が出色。①群がり浮かれて騒ぐ。②遊郭をひやかして浮かれ歩く。の辞書にある語義に身体感覚が吹き込まれ、それこそザワザワ身内からうごめくよう。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
2月23日 句会報告
平成30年2月23日 樸句会報【第43号】 如月第2回の句会です。 投句の結果は、入選1句、△5句、シルシ6句。 兼題は「寒明」と「春炬燵」です。 入選は当季雑詠の句でした。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇冬桜スマホにこぼす想ひかな 萩倉 誠 この句を採ったのは恩田侑布子のみでした。 合評では、 「“こぼす想ひ”は技巧的だが、いかにも、という句」 「“冬桜”と“スマホ”の取り合わせはいい」 「最初は採った。“こぼす”は良かったけど、“想ひ”がチョット・・」 「高校生なら得意になってつくるような句」 といささか辛口批評も混じりました。 恩田侑布子は、 「斬新です。“こぼす”はいいと思う。“スマホ”という現代の流行アイテムを使った風俗俳句であるが、きわめてリリカル。スマホと冬桜の季語の取り合わせが秀逸。スマホの画面に指先で打つ一字一字がはらはらと花びらのように散っていく幻想。でも恋する人には読んでもらえないかもしれないという切ない心が感じられる。冬桜に実らぬ恋を象徴させた」 と講評し、「もし推敲するならば」と次のように添削しました。 冬桜スマホに想ひこぼしけり 「“想ひかな”だと片思いの気持ちに陶酔したままだが、こうすることによって淋しさが嫌味でなくなるのでは」 と問いかけました。 投句の講評の中で、今回の兼題について例句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。 川波の手がひらひらと寒明くる 飯田蛇笏 寒明けの日の光りつゝ水溜り 久保田万太郎 春炬燵あかりをつけてもらひけり 久保田万太郎 ぜいたくは今夜かぎりの春炬燵 久保田万太郎 [後記] 今回の句会で恩田侑布子が強調したのは、「ストーリー(あらすじ)を作ってはダメ」ということでした。物語的になってしまうと「余白」は生まれないとのことです。恩田の評論集『余白の祭』を再読したいと思います。 また、蛇笏の漢文脈と万太郎の和文脈を対比させての解説もとても興味深く聴いた筆者です。 次回兼題は「踏青」と「蒲公英」です。(山本正幸)
2月11日 句会報告と特選句
平成30年2月11日 樸句会報【第42号】 如月第1回の句会。名古屋と市内から見学の男性お二人が見え、仲間のふえそうなうれしい春の予感です。 特選1句、入選3句、原石賞3句、シルシ5句でした。 兼題は「息白し」と「スケート」です。 特選句、入選句及び最高点句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎スケートの靴紐きりりすでに鳥 松井誠司 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇白息を残しランナースタートす 石原あゆみ 合評では、 「まさに冬のマラソンの情景。選手の意気込みが映し出されている。垢ぬけている句」 「息を残しておきながらランナーはスタートしている。対照の妙がある」 「句の中に短い時間的経過が感じられる。箱根駅伝の復路でしょうか。白息のある場所にもうランナーはいない」 との共感の声がきかれました。 恩田侑布子は、 「発見がある。白息だけがスタート地点に残った。白息を吐いた肉体の主はすでにレースの渦中に飲み込まれた。その瞬間のいのちのふしぎを表現しえた句。ただ句の後半すべてがカタカナになって、ランナーとスタートの境がなくなり緊張感がゆるむのが惜しまれる」 と講評しました。 〇群立ちてわれに飛礫や初雀 西垣 譲 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。 恩田は 「作者が歩いてゆくと前方の群れ雀がおどろいて一斉にぱあっと飛び立った。一瞬、つぶてのように感じた。着ぶくれてのんびり歩いている自分に対して「もっときびきび生きよ」という励ましのように感じたのだ。新年になって初めてみる雀たちからいのちのシャワーを浴びた八十路の作者である。このままでも悪くないが“群れ立つてわれに飛礫や初雀”とするとさらに勢が増し、いちだんと臨場感がでるでしょう」 と講評しました。 【原】湯たんぽや三葉虫に似て古し 久保田利昭 本日の最高点句でした。 合評では、 「西東三鬼の“水枕ガバリと寒い海がある”の句を思い浮かべました。気持ち良く夢の世界に入りこめそう」 「時間が止まったようだ。また人もいないような感じがする。“古し”にアルカイックなものを感じた」 「素直な句。こねくり回しておらず、何の気取りもない」 「湯たんぽを使っているという“自嘲”もあるのでは?」 などの感想、意見が述べられました。 恩田侑布子は、 「感性と把握が素晴らしい。太古の生命の面白さが出ていて、“場外ホームラン”級の発見。ただし“古し”はよくない。芭蕉の言葉“言ひおほせて何かある”(『去来抄』)ですよ。言い過ぎで、意味の世界に引き戻してしまった。感性の世界のままでいてほしいのです。句は形容詞からそれこそ“古びて”いくのです」 と講評し、次のように添削しました。 三葉虫めく湯たんぽと寝まりけり または 湯たんぽの三葉虫と共寝かな 〇重心の定まらぬ夜と鏡餅 芹沢雄太郎 合評では、 「定まらない心とどっしりした鏡餅との対比が面白い。“夜と”と並べず“夜や”と切ったらどうでしょう?」 「句から若さを感じました」 との感想がありました。 恩田侑布子は、 「自己の不安定さとどっしりと座った鏡餅との対比。“青春詠”のよさがある。“と”だから、揺れながら生きている実感がある。この不安感はみずみずしい。夜の闇のなかに鏡餅のほのぼのとした白さが浮き立つ。うつくしい頼りなさ。作者のこれからの可能性に期待するところ大です」 と講評しました。 投句の講評の中で、今回の兼題について例句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。 息白くはじまる源氏物語 恩田侑布子 この亀裂白息をもて飛べと云ふ 恩田侑布子 スケート場沃度丁幾の壜がある 山口誓子 スケートの濡れ刃携へ人妻よ 鷹羽狩行 [後記] 今年から始まった日曜句会の2回目です。新しい参加者を迎え、新鮮な解釈が聴かれました。 次回兼題は「春炬燵」と「寒明け」。春の季語です。(山本正幸) ※ 恩田侑布子は昨年の芸術選奨と現代俳句協会賞に続いて、この度第9回桂信子賞を受賞しました。1月28日の“柿衛文庫”における記念講演が好評を博し、4月8日に東京でアンコール講演が予定されています。 追ってHP上でお知らせします。 特選 スケートの靴紐きりりすでに鳥 松井誠司 フィギュアスケーターは氷上で鳥になる。まさに重力の桎梏を感じさせないジャンプと回転。それはスケート靴のひもをきりりと結んだ瞬間に約束されるという。白銀の世界にはばたく鳥の舞。その美しさを想像させてあますところがない。「すでに鳥」とした掉尾の着地が見事である。折しも冬季オリンピックの前夜。作者のふるさとは信州で、下駄スキーに励んだという。土俗的なスキー体験がかくもスマートな俳句になるとは驚かされる。体験の裏付けは句に力を与える。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
1月19日 句会報告
平成30年1月19日 樸句会報【第41号】 新年2回目の句会です。入選4句、△1句、シルシ3句、・3句という結果でした。 兼題は「新年の季語を使って」です。 なお、1月7日分は特選、入選いずれもなかったため句会報はお休みさせていただきました。 今回の入選句を紹介します。(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇初詣卯杖確たる師の歩み 杉山雅子 合評では、 「難しい言葉を使った、格調のある句」 「共感します。元気な師匠と一緒に初詣に来た。おめでたい情景」 「先生の人となりまで想像される。頑固な怖い先生だったのかな?でもそういう先生こそ慕われる」 「書道や技藝の先生でしょうか?」 「俳優の笠智衆を思いました」 などの共感の声がありました。 恩田侑布子は、 「うづゑは、卯の杖、初卯杖ともいう新年の季語。元は、正月初卯の日に地面をたたいて悪鬼をはらう呪術的なもので、大舎人寮から天皇へ献上した杖というが、今は初卯に魔除として用いる杖で、柊・棗・梅・桃などで作る。大阪の住吉大社、伊勢神宮、賀茂神社、太宰府天満宮の祭儀が有名です。静岡ではあまり馴染みがない難しい季語を使って、格調のある新年詠になった。正月の挨拶句として素晴らしい。こんな一句を弟子からもらえたら、先生はさぞかし嬉しいでしょう。確たるというところ、地面を叩く呪術的な祈りがリアルに感じられる。畳み掛けた季語も讃仰の気持ちと取ればいいのでは」 と講評しました。 〇初茜山呼応して立ち上がる 杉山雅子 この句は恩田侑布子のみ採りました。 恩田侑布子は、 「作者は元朝の幽暗に身を置いているのでしょう。初日の出を今かいまかと待っている。東の空がうす茜に染まり始めたと思うと、背後の山々がまるで呼び合うようにして、闇の中から初茜に立体感をもって浮き上がってくる。元朝の厳かな時間が捉えられている。二句とも杉山雅子さんの俳句で気迫がある。昭和四年生まれでいらっしゃるのに素晴らしい気力の充実です。今年も益々お健やかにいい俳句が生まれますね」 と評しました。 作者のお住まいは山に囲まれていて、そこから竜爪山(りゅうそうざん)(静岡市葵区にある標高1000m程の山)に登る人や下ってくる人をよく見かけるそうです。 〇光ごと口に含みし初手水 石原あゆみ 本日の最高点句でした。 合評では、 「上五から中七への措辞がうまい」 「情景がよく分かる。初日が射してきた。輝く水を口に含んだ。すらりと詠んで嫌味がない」 「新年のおめでたい感じがよく出ている」 「光ごと杓子で汲んだところを捉え、快感さえ感じます」 「素直にできているが、類句がないだろうか」 「うまいがゆえに既視感がある」 との感想が聞かれました。 恩田侑布子は、 「元旦に神社へ初詣したのだろう。御手洗で手をゆすいだあと、口に含む清らかな水が、ひかりと一体に感じられた。その一瞬を捉えて淑気あふれる句。過不足なく上手い。あまり巧みなので、類句類想がないかちょっと心配。なければいいですね」 と講評しました。 〇婿殿と赤子をあてに年酒酌む 萩倉 誠 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。 合評では、 「あまりにも幸せな光景。うらやましさが先に立ってしまって・・・(採れませんでした)」 「おめでたすぎるのでは?“孫俳句”の亜流のような気がする」 などの感想がありました。 恩田侑布子は、 「“あてに”が巧み。酒の肴、 つま(・・)にという意味。まことにめでたい光景。この世の春。“婿殿”の措辞にすこし照れがにじみかわいい。似た素材の句に、皆川盤水に〈年酒酌む赤子のつむり撫でながら〉がある。でも、こちらは婿殿と三者の関係なので違いますね。ちょっとごたついているので、“酌む”の動詞は省略したらどうでしょう。 →“婿殿と赤子をあてに年酒かな”でいいじゃないですか」 と評しました。 [後記] 本日配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。 「新年詠は、ふだんなかなか出来ない大らかな命や大地の讃歌を」 大方の連衆が納得する中で、「新年をおめでたく感じない人もいる。自分も強制されたくない」と異議が呈されました。このような“異論”が遠慮なく提出され、議論に発展していくのも樸句会の良いところではないでしょうか。 恩田は「『“新年詠”のない句集は物足りない』とある書店の社長さんがおっしゃっていました。人生は、悲しいこと、苦しいことのあることが常態ですが、“新年詠”が一句あると句集が豊かになり、拡がりを持ちます」と述べました。 次回兼題は、「息白し」「スケート」「新年雑詠」です。 ※ 今回の句会報から通し番号を記すことといたします。(山本正幸)
12月22日 句会報告と特選句
平成29年12月22日 樸句会報 本年最後の句会会場はいつもと違って小ぶりな会議室。至近距離での親密な熱い議論がかわされました。投句の評価は、特選1句あったものの、入選なし、原石賞1句、△1句、シルシ9句という結果でした。一年の疲れが出たのでしょうか? 兼題は「時雨」と「“石”を入れた句」です。 話題句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎「AI」と「考える人」漱石忌 久保田利昭 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 【原】石垣の滑らなりしや水洟や 藤田まゆみ この句を採ったのは恩田侑布子のみでした。 恩田は、 「発想は面白く、表現が未だしの句。語順を変え切字を一つにすると、水洟を垂らす作者の今と、駿府城の四〇〇年の濠の歴史が対比され、作者のユニークな感性が生きるのでは」 と評し、次のように添削しました。 水洟や濠の石垣滑らなる △しぐるるやマドンナを待つ同期会 山本正幸 この句を採ったのは男性ばかり。 合評では、 「情景が浮かぶ。ホテルの受付。気が付けば外は雨。そういえばあの〇〇ちゃんはどうしているだろう?今日は来るのか?雨の持つしっとり感と同期の女性への想いが一致した」 「同感!“しっとり感”ですよ」 「“しぐるる”は心の中のざわつきでもある。急に降ってくるのが時雨。彼女は昔のイメージと変わっているかなぁ。もしかしたら・・」 「待つときのもどかしさ、複雑な感情を詠った」 という感想の一方で、 「なんだか、全然ピンときません」 と女性の声(複数)もありました。 恩田侑布子は、 「まだ来ない人を待つ心情のしっとりとした感じはある。小さな喫茶店での会を思った。“同期会”が行われる百人単位の大きなホテルには“しぐるるや”は合わないのでは。きっと会場はビルの中でもう同期会は始まっているのだろう」 と講評しました。 ゝ石橋を冬日と渡り八雲の碑 森田 薫 本日の最高点句でした。 合評では、 「目に浮かぶ光景。“八雲館”のある焼津だろうか。詠われた自然と人名が合っている」 「中七の“冬日と渡り”の措辞がとてもいい」 との共感の一方で、 「句としてはよくできていると思う。しかし、八雲の碑と冬日が少しそぐわないのでは?」 「“あなたと渡り”ではいかが。私は“叩いて渡り”ますが(笑)」 「石橋と碑(いしぶみ)がくどいのではないか」 などの意見が述べられました。 恩田侑布子は、 「皆さんの鑑賞に同感です。石橋と碑がくどいという指摘はそのとおり。上五~中七はいい。しかし、下五が“八雲の碑”の必然性があるか?吟行の嘱目詠ならいいですが」 と評しました。 今回の兼題の「時雨」について、恩田侑布子は下記の句を紹介し、それぞれ解説をしました。 水にまだあをぞらのこるしぐれかな 久保田万太郎 一句一章の句。万太郎の和文脈です。「かな」の切れが実に美しい。 翠黛の時雨いよいよはなやかに 高野素十 しぐれの持つ“艶”を引き出した句です。京の翠黛山に降る時雨を詠ったものですが、王朝人の翠のまゆずみで描いた眉も奥に幻想され、下五の“はなやかに”が効いて名句になりました。 投句の合評と講評のあと、桂信子の俳句(『桂信子全句集』(1914~2004年) 60歳以降の作品から)を読みました。 共感の声が多くあがりました。「若い頃の“女性性”を前面に出した句よりも格段に良い」との評価も。「忘年や・・」の句に対する「モノではなく、ひとは心の中にいるのですね」との最年長会員の感想に一同大きくうなずきました。 特に点の集まったのは次の句でした。 たてよこに富士伸びてゐる夏野かな 大寒のここはなんにも置かぬ部屋 忘年や身ほとりのものすべて塵 闇のなか髪ふり乱す雛もあれ 冬滝の真上日のあと月通る 恩田侑布子は第一句集を出版した際、桂信子から評価の葉書をもらい、俳句のパーティーでもやさしく声をかけてもらったことがあるそうです。 [後記] 句会の冒頭、恩田侑布子から「このたび“桂信子賞”をいただくことになりました。句集『夢洗ひ』だけでなく、これまでの俳人としての歩みを評価されたことがとても嬉しいです。来月伊丹市の“柿衛文庫”での授賞式に出席し、記念講演を行います」との報告がありました。芸術選奨文部科学大臣賞、現代俳句協会賞に続く受賞で、実に喜ばしいことです。連衆から心よりのお祝いの言葉が述べられました。 (授賞式のご案内はこちらをご覧ください) 本日配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。 「見たマンマを詠むと説明的で即きすぎの句になります。月並ではない新しみある俳句を!」 どうしても発想が月並になってしまう筆者ですが、一気に新しさの高みにのぼる王道がない以上、コツコツ句作を続けようと思います。 次回兼題は、「“寒”を入れた句」「コート」です。 (山本正幸) 特選 「AI」と「考える人」漱石忌 久保田利昭 AI、考える人、漱石忌、三つの名詞が並列や直列の関係にないところが新しい。これはトライアングル構造の句である。もし〈AIと「考える人」漱石忌〉なら、三角構造は崩れて弱くなる。カギカッコで括られた「AI」は「考える人」同様、すでに存在として受けとめられている。ブロンズの「考える人」が覗き込むロダン(1840〜1917)の「地獄の門」は1900年前後の作という。漱石(1867〜1916)は ロダンより二十七も歳下だが、ロダンより一年早く四十九歳で卒した。ロダンの生存期間にすっぽり入るから、同時代の近代を象徴する彫刻家と文豪といえる。そう思うと切れは、〈「AI」と/「考える人」漱石忌〉になり、漱石のみ実在者と思えば、切れは、〈「AI」と「考える人」/漱石忌〉となる。人工知能とロダンの考える人を対比させ、漱石忌でうけとめた後者ととるのが自然だろう。とはいえ、切れの位置の変幻は読者を思弁に誘い込む。人工知能が近未来にかけて猛威を振るい世界の活動を根底から変えようとしている。その「AI」 と「考える人」を、漱石が双肩に受けて真面目な顔で考えて居る。漱石の胃に穴が空いたのは我執のもんだいであったが、今やartificial intelligenceが加わった。山本健吉は、俳句は認識を刻印する芸術であるといった。刻印というより認識の迷宮をそぞろ歩きし、あ、もういいやと、漱石の口髭を撫でたくなる句ではないか。 (選句/鑑賞 恩田侑布子)