
平成30年8月17日 樸句会報【第55号】 お盆が終わり、酷暑もややおさまった日に、八月第2回の句会がありました。
兼題は「八月」と「梨」です。
特選1句、入選2句、△2句、シルシ6句、・1句という結果でした。
特選句と入選句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
◎IPS細胞が欲し梨齧る
石原あゆみ
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇梨剥いて断捨離のこと墓のこと
伊藤重之 合評では
「梨、断捨離、墓のつながりを違和感なく読んだ。梨の持ち味ゆえのこと。桃やりんごでは無理」
「林檎の青春性、桃の甘さに対して、梨は甘いけれども他の果物とは違う。執着から離れたい気持ちに梨が合っている」
「一口梨を食べたときに浮かんでくる思いが良く表現されている」
「自分の行く末への思いがしみじみ伝わってきます」
など、「梨」という季語のもっている性質が生かされているという評が多くありました。
一方で、「~のこと~のこと」という表現が気になったという声もありました。
また、“断捨離”という新語・流行語を俳句に使うことについての質疑もなされました。
恩田侑布子は、
「梨という果物の本意を十分に見すえて詠っている。梨のさっぱりした感じなどと内容がとても合っている。また、さりげない口調で並べた「~のこと~のこと」がこの句の内容にも合っている。内容と句形が調和している上手な句。下五で死のことを言いおさえている。“墓”に着地しているその仕方に説得力があり安定感がある」
と講評しました。
〇八月や南の海の青しるき
山本正幸 この句を採ったのは恩田のみでした。
恩田侑布子は、
「とてもシンプルだけれど、海の青を“しるき”と表現したところが素晴らしい。南の海には今も死者が眠る。まさに戦争を詠っている句で、非戦、不戦の句。省略した表現が読み手に想像をさせてくれる句」
と講評しました。 「八月」という季語のもつ含み(戦争、敗戦など)、重みについてが話題になり、意見が交わされました。「八月」の季語に戦争のことが込められていることが、若い詠み手(読み手)に果たして通じるのか?という疑義が出ました。いや、知らないのならば、次の世代に歴史を伝えることは我々の責務ではないかという意見の一方で、「八月」という季語をそのような意味に閉じ込めるのではなくもっと自由でいいのではという異論も出て議論が深まっていきました。 =====
句の合評と講評のあとは、芭蕉の『野ざらし紀行』の鑑賞の続きでしたが、時間があまりなかったので時間内で読める範囲を読み進めました。 西行(さいぎょう)谷(だに)のふもとに流(ながれ)あり。をんなどもの芋(いも)あらふをみるに、 いもあらふ女西行ならば歌よまん と芭蕉は「西行谷」(神路山南方の谷で西行隠栖の跡)で詠んでいます。芭蕉の西行に対する崇敬の気持ちがここでもよくあらわれていると恩田の解説がありました。
〔後記〕
季語をどうとらえ、それをどう使うかについて考えさせられた会でした。また、句には思わず作者のいろいろが浮かび出る怖さとおもしろさを感じた会でもありました。
次回は、兼題なし。秋季雑詠です。(猪狩みき)
特選 IPS細胞が欲し梨齧る
石原あゆみ 切実な病をもつ人が、万能細胞で健康になりたいと願っている。梨はどこか寂しい果物で、その白さや透きとおった感じは病人ともつながる。梨をサクッとかじった瞬間、歯茎をひたす爽やかな果汁に、ふとIPS細胞の新しい臓器の感触を思った。発想の驚くべき飛躍だが、季語の本意を踏まえて無理がない。この句の深さは、作者がIPS細胞を欲しいと願う一方で、それはまだ無理、という現実も十分了解していること。切実な願望を持つ自分と、いま置かれている現実をわかっている自分と、ふたりの自己が鏡像のように静かに照らし合っている。心理的な陰影の深い句である。「が」を「の」にすべきでは、という意見があったが、それは俳句をルーチン化するとらえ方だ。「の」では、調べはきれいになっても他人事になる。「が」で一句に全体重がかかった。「吾、常に此処において切なり」(洞山良价)。そこにしか心を打つ俳句は生まれない。若く感性ゆたかな作者の幸いをこころから祈る。
(選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)

平成30年8月5日 樸句会報【第54号】 八月第1回の句会です。
特選1句、入選2句、原石賞1句、シルシ5句、・4句という結果。前回の不調から一気に好調に転じた樸俳句会です。
兼題は「鬼灯」と「海(を使った夏の句)」です。
特選1句と入選2句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
◎海月踏む眠れぬ夜に二度も踏む
芹沢雄太郎
(下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)
〇大の字に寝て炎昼を睨みつけ
松井誠司 合評では、
「今年は猛暑。ホントこんな気持ちです。響いてくるものがあります」
「“睨みつけ”の視線の強さがいい」
「座五で炎昼を押し返すパワーを感じました」
「“大の字”と“睨みつけ”で炎昼のつらさを表現した」
「下五を連用形にしたのがよい」
など共感の一方で、
「“睨みつけ”でなければいいのに・・。よけい暑くなってしまうじゃないですか!」
「“睨みつけ”の理由と意味が分かりづらい」
などの感想も述べられました。
恩田侑布子は、
「まさに家の中で大の字になって寝ているところ。部屋の窓から燃え盛る炎昼がみえる。それを横目で睨んでいるのです。こんくらいの炎天に負けてたまるか!という気概ですね。寝ながら見栄を切っているような滑稽感もある。作者のいのちの勢いが感じられます。合評にもありましたが、連用形で終わったところがいい。ここに切れ字を使ったら型にはまってしまいますものね」
と講評しました。
〇横たわるかなかなと明け暮れてゆく
林 彰 合評では、
「“横たわるかなかな”とは絶命間近の蝉のことですか?それとも“横たわる”で切れるのでしょうか?両方の読みができるような・・」
「夕闇が近づいてくる実感がありますね」
「夏バテ気味。がんばりたいけどがんばれない。さびしい蝉の声・・。今日も一日過ぎていくのだなぁという感慨がある」
「子規っぽい。病床にある感じがよく出ており、内実がこもっている」
との感想のほか、
「それでどうした?というような句じゃないですか。“と”って何ですか?」
との辛口評も。
恩田侑布子は、
「“横たわる”でしっかり切れています。山頭火のようですね。または、放哉に代表句がもう一つ加わったような感じさえします。破調感が強いが、句跨りの十七音です。実感がこもっています。リアルな息遣いのある口語調です。蜩には他の蝉にはない初秋のさびしさがあります。社会の片隅で生きる弱者の気持ちになり切って、作者はそれを肉体化している。まさかお医者さんの林さんの作とは思いませんでした。長足の進歩ですね!」
と講評しました。ちなみに、林さんは名古屋の職場には自転車通勤、句会には新幹線通勤?です。 ...

平成30年7月27日 樸句会報【第53号】 七月第2回の句会です。記録的な酷暑(埼玉熊谷で41.1℃)のためか今回はやや低調。
特選・入選ともになし。原石賞2句、△1句、シルシ4句、・5句という結果でした。
兼題は「山開き」と「夏越」です。
原石賞と△の句からそれぞれ1句紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 【原】人類のつけ噴き出して炎暑かな
樋口千鶴子 合評では、
「これはすごい句と思った。こういうことを俳句にすることは大切ではないでしょうか。“つけ噴き出して”に温暖化の進んでいることへの人間の反省が込められている」
「CO2の問題。理屈を感じました」
「“つけ”としたことで川柳ぽくなったのでは?」
「“炎暑”は人間の罪なのですか?」
「こういった重目のものは好みではありません」
などさまざまな感想、意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「わたしたち現代社会が直面している題材を俳句に詠うことは大切なこと。現代社会の困難・矛盾に対する姿勢がないと地獄の裏づけのない「屋上庭園の花鳥諷詠」になってしまいます。きれいな句にまとめようとしていないところが良い。ただし、“つけ”にまだ理屈がのこっている。損得勘定の次元を引きずっているのが惜しいです」
と講評し、次のように添削しました。 人類の業噴き出せる炎暑かな 「人間の罪業の深さへの内省を誘います。文学的になり、心の深さが出ませんか」
と恩田は問いかけました。
△形代を納めてバーの小くらがり
伊藤重之 本日の最高点句でした。
「ハードボイルド小説風の孤独感があり、いい雰囲気」
「“形代”と“バー”の落差が面白い」
など連衆の感想がありました。
=====
投句の合評と講評の後は、金曜日の句会の定番となった「野ざらし紀行」講義の四回目です。以下、筆者のまとめと感想です。
伊勢の外宮に詣でると峯の松風が芭蕉の身にしみます。 みそか月なし千(ち)とせの杉を抱()あらし この句は「峯の松風」をうたった西行の歌を踏まえている。また、この句のあらしは、『荘子』の斉物論篇で名高い地籟としての風をふくんでいるという説があるとのことでした。
本日の恩田の講義から、芭蕉における荘子や西行の影響の大きさが分かりました。また、神仏習合の思想(本地垂迹説が人々の心にある)についての説明も恩田からあり、日本文化に対する芭蕉の幅広く深い教養に感じ入った連衆でした。
[後記]
いつもより少人数での本日の句会は、外の猛暑にも負けない?熱い論議。特に原石賞の「炎暑」の句については様々な意見が出されました。人類の将来に関する悲観論、CO2削減に応じない大国のエゴ、逆に地球は氷河期に向っているとの学者の意見等々‥。
社会問題を題材にした俳句についての議論は、発言者の思想や社会認識の一端に触れることができて、筆者としては興味深いものがあります。
次回兼題は「鬼灯」と「海(を使った夏の句)」です。(山本正幸)

平成30年7月1日 樸句会報【第52号】 例年より早い梅雨明け後の、七月第1回の句会です。
入選2句、原石賞3句、シルシ1句、・7句という結果でした。
兼題は「夏の燈」と「葛切または葛桜」です。
入選句と原石句から1句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
〇夏ともし母が箪笥を閉める音
芹沢雄太郎 合評では、
「涼しさと静けさのなかの音と。静かで寂しい感じでもあり、静かで平穏な幸せを感じでもある」
「涼しい感じ、夏痩せした母だろうか、ちょっとさみしげな句」
「老いた母の立てる音、さみしい感じが表されている」
というような老いた母をイメージさせるという評がある一方、
「あまり寂しい感じはしない。リズム感のある句で日常のいろいろな場面が想像できる」
との感想もありました。
恩田侑布子は、
「老いた母とは思いませんでした。子どものころ、夏蒲団の上でうとうとしていると、几帳面な母がたたんだ衣服を箪笥にしまう音がするといった光景でしょう。夏灯の持っている庶民的な生活のふくよかさと同時に昭和の簡素な暮らしの匂いも感じる。読み下すと響きも良い。夏灯に涼しい透明感があります。箪笥を閉める静かな音に一句が収斂していくところがいい。つつましくも清潔なくらし。ほのぼのとした句ですね」
と講評しました。
〇岬まで歩いてみよか夏灯
天野智美 合評では、
「“夏灯”と上五・中七が合っている、風を感じられる句」
「涼風!が吹いている」との感想がありました。
恩田侑布子は、
「小さな岬に行く道の途中に夏灯がポツンポツンとある情景が浮かび、涼しさが伝わってくる。西伊豆に多い30分で行って戻れるような岬でしょうか?単純化された良さがあり、また軽快な口語がシンプルな内容とあっている。夏灯の季語が生き生きと感じられる愛すべき句」
と講評しました。
【原】梅雨の月太り肉な背白濁湯
藤田まゆみ 恩田侑布子は、
「よくある温泉俳句だが、平凡を免れている。五・七・五がすべて名詞で、そこから今にも降り出しそうなふくらんだ月、白濁した露天の湯、脂ののった女体、という存在感が迫る厚みのある描写である。中七の“な”が口語っぽいのが問題。“太り肉な背”→“せな太り肉(じし)”にしましょう。
〈 梅雨の月せな太り肉白濁湯 〉となり、これなら文句なく◯入選句でした」
と講評しました。
投句の合評と講評のあと、本年2月10日90歳で逝去された石牟礼道子の句集『天』の俳句を鑑賞しました。 当日のレジュメです。クリックすると拡大します。
↓ 椿落ちて狂女が作る泥仏
わが酔えば花のようなる雪月夜 常世なる海の平(たいら)の石一つ
などが連衆の共感を呼びました。 「子規以降、近代以降の俳句とは違うところから書かれている。“写生”という姿勢から出発していない俳句。専門俳人の高度な技術とは違う次元、別の土俵から立ち上がっている句である。子規の写生がすべてではない。“俳句という文芸の広さゆたかさ”を意識していたい」
と恩田が話しました。
〔後記〕
俳句初心者には、鑑賞、合評でかわされる感想がとても興味深いです。入選句の母の年齢をどうイメージするかのそれぞれのとらえ方の違いを楽しみました。
次回兼題は「山開き」「夏越」です。 (猪狩みき)

平成30年6月22日 樸句会報【第51号】 六月第2回の句会です。句会場に近い駿府城公園内に「劇団唐組」の紅テントが設置されました。本日と明日の夜、『吸血姫』の公演が行われます。
入選2句、△2句、シルシ7句という結果でした。兼題は「立葵」と「蝸牛」です。
〇 入選句を紹介します。
〇大御所の天晴聞こゆ立葵
海野二美 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。
合評では、
「大御所(家康)と葵(徳川家の紋章)はいかにも近くないですか?」
との意見も。
恩田侑布子は、
「“聞こゆ”で切れています。駿府城公園に家康像が建っていますが、訪れた人でないと分からないかもしれません。また、徳川家の葵は京都の葵祭の双葉葵と同系の“三つ葉葵”で“立葵”とは種類が違うので、徳川の紋章と近いとの指摘は当たりません。 “あっぱれ! でかした!”と臣下を褒めたたえている大御所家康が、少しも公家風でなく、三河の田舎臭さをとどめているところが、立葵の季語の本意に合っています。“天晴”が、褒めことばであるとともに、梅雨晴れ間の真っ青な空も連想させて勢いがあります。視点が斬新。手垢のついていない俳句です」
と講評しました。
〇雲に名を附けて遊ぶ子たちあふひ
伊藤重之 合評では、
「広い空間の感じられる句。立葵が咲いていて、空を見上げると雲があって、それに動物などの名前をつけて遊んでいる子供たちの声が聞こえてくるようです」
との共感の声。
恩田侑布子は、
「ほのぼのとした句。作者も子どもの視点になって、立葵越しに空を見上げているのがいいです。画面構成が生き生きとしています。子どものエネルギーと躍動感が感じられ、立葵がみずみずしく鮮明に見えてきます」
と講評しました。 =====
金曜日の句会の定番となった、芭蕉の『野ざらし紀行』講義の三回目です。恩田の詳しい講義がありました。
今日は富士川を出て、小夜の中山まで。何とこの紀行文で静岡(府中)は残念ながらスルーされています。
「唯是天にして、汝の性のつたなきをなけ」は
富士川の辺で捨子を見ての言葉ですね。『莊子』を踏まえているという国文学者の見解がありますが、もんだいの大きなところで注意を要します。『莊子』内篇「大宗師」に「死生は命なり。其の夜旦の常有るは、天なり」が出てきて、それは「道」を意味します。ですが「性」は大宗師篇のある内篇では一度も出て来ません。外篇の「駢拇」になって、初めて出てくる語なのです。そこでは、生まれつきやもってうまれた本性を意味し、芭蕉のここでいう「運命」とは微妙なずれがあります。つまり『莊子』の説く「性」よりも矮小化した宋学的な使われ方であることに注意すべきです。 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれ鳧(けり) この句についてはいろいろな解があります。①白楽天からとった、槿花一日の栄を詠んだもの、②出る杭は打たれる式の理屈。現在は③嘱目というのが定説です。素直な眼前の写生ですね。古典にがんじがらめになるのではなく、ただ馬がぱくっと食べたととりたい。蕉風を樹立した直後の41歳の芭蕉が、「白氏」の古典を踏まえつつも風狂の世界へ踏み出しています。後年の軽みへ至る原点ともいえる句です。白い木槿だととても美しいですね。初秋の清らかな感じがします。手垢のついていない俳諧自由を打ち開いた一句といえるでしょう。 馬に寢て殘夢月(つき)遠しちやのけぶり 夜明けに宿を発ったので、馬上でうつらうつらと夢の行方を追っている。麓ではお茶を煮ている煙(ちやのけぶり)が立ち上っています。「小夜の中山」という地名はまさに「夜中」をさしているわけですから、暁闇の取り合わせで、ここに俳味、おどけがあります。
地の文は巻頭から引き続き中国古典を下敷きにした格調の高い文ですね。これから『野ざらし紀行』には、『奥の細道』に匹敵する名句が出て来ます。
一歩もとどまらず、死の日まで脱皮していく芭蕉。密度の濃い脱皮に感嘆します。
[後記]
句会の翌日、冒頭でもふれた唐組の『吸血姫』公演を観ました。筆者がこの奇想天外な前衛劇をはじめて観たのは1971年6月。京都・出町柳三角州でした(当時は“状況劇場”)。懐かしい紅テント内の桟敷は200人の観客で身動きもできないほど。劇の舞台は、江ノ島の愛染病院です。公演会場から濠を挟んで向かいにある市立静岡病院に入る救急車の音が聞こえてきたりして臨場感が高まります。47年前の感動が蘇りました。恩田侑布子を俳句同人誌「豈」に誘った攝津幸彦さんも、きっとこのような演劇空間に惹かれていただろうと、49歳で夭折された<前衛>俳人にしばし想いを馳せました。(攝津さんについては恩田がその評論集『余白の祭』で一章を割いて論じています。)
次回兼題は「夏の燈」と「葛切または葛桜」です。(山本正幸)

平成30年6月3日 樸句会報【第50号】 六月第1回の句会です。
特選1句、入選2句、原石賞1句、シルシ5句、・6句という結果でした。
兼題は「梅雨入り」と「ほととぎす」です。
特選句と入選句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎廃炉遠し野の白昼に蛇つるむ
山本正幸
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇梅雨めくや父の書棚に父を知る
石原あゆみ
合評では、
「父との会話はあまりないのだろう。言葉のやりとりはないけれど、父の本棚を見て父が分かったような気がした。“梅雨めく”がいいと思います」
「本棚を見ればその人となりが分かると言う。お父様がご存命かどうかは別として、ここには父の一面を知った発見があります」
「もういない父なのかもしれない。“こんな人だったんだ”という驚きがある」
「きっと俗世間では派手ではなく、出世や金儲けとは縁遠かった父。その父の深さを感じている」
などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、
「男の孤独まで感じさせるいい句だと思います。ついぞ父の本心を聞いていなかったなあ、あんなことも聞いてみたかった、という余韻が響きます。作者の中で父が大きな存在感を持っていることもわかります。書棚に梅雨どきの湿りや黴臭さ、そして過ぎ去った父の日々まで感じられる。季語の付け味がとてもいいです」
と講評しました。
〇梅雨ごもり使徒行伝にルビあまた
山本正幸
合評では、
「キリスト教の使徒行伝ですね。“梅雨ごもり”がなんとなく意味深」
「ルビとか注釈が多いんですね」
「“梅雨”は日本的なこと。“キリスト教”は西洋のこと。その対比が面白い」
などの感想。 恩田侑布子は、
「季語が面白い働きをしています。“梅雨”という日本の湿潤な風土の中、異国の聖書を読んでいる。使徒行伝は新約聖書の一部で、イエスが亡くなった後、弟子たちによって書かれたものですね。荘重な文語訳にびっしり振られたルビが目に見えるよう。異民族が西洋のものを読んでいる。“梅雨ごもり” がそれを際立たせている。理解したいけれど今ひとつしっくりこないというもどかしさが体感的に伝わってきます。本日紹介するクローデルもカトリックの信仰を持っていた人です。姉のカミーユ・クローデルの影響で少年時代から日本への強い憧れを持ち、50代になった大正10年から昭和2年まで駐日大使を務めました」
と講評しました。 投句の合評と講評のあと、ポール・クローデルの『百扇帖』を恩田侑布子が俳句と短歌の形に訳出したレジュメが副教材として配布されました。 ↑
クリックすると拡大します 連衆の点を集めた俳句と短歌は次のとおりです。
みづの上(へ)に水のはしれり若楓 秋麗に生(あ)れし漆の眸かな 無始なるへ身を投げつづけ瀧の音 万物や瞑りてきく瀧の音 長谷寺の白き牡丹の奥処(おくが)なる
朱鷺いろを恋ひ地の涯来たる 神鏡はおのが深みに璞(あらたま)の
水の一顆をあらはにしたり 日仏交流一六〇周年記念事業の一環として、神奈川近代文学館で開催された「ポール・クローデル展記念シンポジウム」に恩田侑布子がパネリストとして登壇しました。
「今に生きる前衛としての古典―― 詩人大使クローデルの句集『百扇帖』をめぐって」
日 時 2018年6月17日(日)13時30分開演
会 場 神奈川近代文学館 展示館2階ホール
コーディネーター 芳賀徹
パネリスト 夏石番矢・恩田侑布子・金子美都子 ※ シンポジウムの詳細はこちら [後記]
句会報が50号に達しました。
これまでの句会報を遡り、連衆それぞれの句と鑑賞を味わう事が、筆者の密かな楽しみとなっています。
自身の句作も句会報のように、日々継続することが大切であると、歳時記を捲りながら想う筆者であります。
次回兼題は「立葵」と「蝸牛」です。 (芹沢雄太郎) 特選 廃炉遠し野の白昼に蛇つるむ
山本正幸
福島第一原発の廃炉は万人に願われているものの道のりは遠い。メルトダウンした燃料デブリを取り出すことさえできないのだから。富岡町から飯館村まで「うつくしま」とも呼ばれた自然と調和した町 々は帰還困難区域となって7年が経った。今や、2階家まで青葛が茂り、スーパーや団地の駐車場のコンクリートの割れ目から青野が広がっている。「廃炉遠し」という字余りの上句の切れが遣る瀬ない。が、一転して、燦 々たる陽光の中で二匹の蛇が絡み合っている。人間の招いた放射線量など知らぬ。超然と、雌雄が命を交歓している。その白昼の讃歌は逆に、わたしたち人間の所業を炙り出してやまない。蝶などの昆虫や蜥蜴などの小動物の交尾だったらこの力強さは出なかった。蛇は、インドのナーガや中国の女媧や日本のしめ縄など世界中で太古から、いのちと豊穣のシンボルである。そのいのちの脈 々たるエネルギッシュな連鎖と見えない廃炉とが対比され、一種悪魔的な絵をみる思いがする。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

平成30年5月18日 樸句会報【第49号】 五月第2回の句会です。真夏日近い気温で、自転車で参加する会員は汗だくの様子。
入選2句、△3句、シルシ3句、・4句という結果でした。
兼題は「新緑」と「短夜」です。
入選句と△のうち1句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇新緑をみつむる瞳みつめけり
芹沢雄太郎 合評では、
「かわいいなと思った。少女の詠う句として受け止めた」
「こういう句は本能的にいただいてしまいます。青春の恋の真只中の句」
「新緑をきれいだなと見つめるような男に今まで会ったことがありません!(笑)」
「新緑の映っているその瞳を見ている。十代の瞳でしょう」
「田中英光の小説『オリンポスの果実』を思いました」
「吾子俳句ではないですか?身内のことを詠んだ」
などの感想・意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「清新な句です。黒い瞳に若葉がひかりとともに映っている情景は、相手が少女だろうが少年だろうが、あるいは赤ん坊だろうが、心惹かれるものがあります。ただ、“見る”という漢字が二回出てくるのがしつこくうるさいです」として、じつは原句が「見つめる瞳見つめけり」だったのを、上記のように直して入選句にしたのでした。
作者はお子さんが生まれたばかりの芹沢さん。赤ちゃんの瞳に新緑が映っているのを詠まれたのね、と納得し、「あらき」の仲間に新しい命が生まれたことを祝福し喜んだ連衆でした。
〇熱く読む兜太句集や明易し
山本正幸 合評では、
「“熱く”に共感した。俳句に通じている作者という感じがします」
「亡くなったばかりの金子兜太さんの句集を時間を忘れて読んだということ。句作に手馴れている」
という共感の声の一方で、
「訴えてくるものあまりない。今までもこういう感じの句はあったじゃないですか?」
「句だけみたときなぜ“金子兜太”なのか、よく分からない」
「“明易し”と“句集”の取り合わせはよくある。切り口が古臭い」
などの意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「“兜太句集”が動かない。南方戦線のトラック島で現場指揮を執った人。戦争末期で、餓死者が八割にのぼったという。すさまじい体験をしてきた。“私は聖人君子ではない”と自分でもおっしゃっています。金子兜太の句集に名句は少なく退屈なところがあるが、その本質は“熱さ”です。中村草田男も熱いが兜太の熱さとは違う。草田男にあるのは、炎天下のきらめき。中七を“草田男句集”とすると平凡になってしまいます。兜太は98歳まで枯淡とは無縁で、ふてぶてしく生き抜いた男。だが、やっぱり亡くなってしまった。“明易し”という感慨がある。それは平凡な人の死に覚える無常感よりも独特の濃厚さをもつのだろう」
と講評しました。
△万緑や我が笑へば母も笑ふ
天野智美 恩田侑布子は、
「実感があります。万緑の季語は、草田男の“吾子の歯”の赤ん坊のイメージが鮮烈ですが、ここでは我と老母の取り合わせがユニークです。素朴な親子の情愛が大自然に祝福されているよう。無心な笑顔に元気だった昔の母がよみがえるのですね」
と講評しました。
今年度からはじまった金曜日の「芭蕉の紀行文を読む」講義。『野ざらし紀行』を詳細に読み解いていきます。今日は富士川の辺まで。 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき この後につづく文章には『荘子』内篇と『論語』学而篇の引用がみられる。
また、芭蕉はすこぶる美しい富士を詠んでいない。富士の見えない日こそよいのだと。これは、吉田兼好の『徒然草』の「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」の美意識に通ずる。兼好も伝統的な美意識を転換させた。 猿をきく人すて子にあきのかぜいかに 芭蕉は捨子に対して、「露ばかりの命まつ間と捨置けむ」と、食べ物だけ与えてそのまま行ってしまう。死ぬことは必定。今の現代人の感覚とは違っているのである。
また、「猿をきく人」とは「哀猿断腸」の中国の旅愁を表現した詩書画のパターン。このようないわゆる風流からの脱却を指向した。ここにも古典文学に対する芭蕉の新し味への志向があらわれている。 [後記]
「野ざらし紀行」の二回目。冒頭をじっくり読みました。遅々とした歩みですが、そのゆっくりさには快感があります。
次回兼題は「ほととぎす」「梅雨入り」「走り梅雨」です。(山本正幸)

平成30年5月6日 樸句会報【第48号】 五月第1回の句会です。ゴールデンウイーク最終日とあって静岡市中心部にある駿府城公園にはどっと人出。今夜、公園内の特設会場で催される「ふじのくにせかい演劇祭2018『マハーバーラタ』」公演に参加される句会員もいるようです。
入選1句、原石賞3句、シルシ5句、・4句という結果でした。
兼題は「薄暑」「夏の飲料(ビール、ソーダ水等)」「香水」。
入選句及び原石賞の句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇サイダーの泡 生(あ)れやまず逢ひたかり
山本正幸 合評では、
「サイダーはまさに初夏。甘かったり、ちょっと酸っぱかったり。泡を見ているうちに恋人に逢いたい気持ちが募ってきたのでしょう」
「泡がどんどん生まれてくる動きの中に作者の気持ちが表現された。こちらも気持ちよく読めました」
「逢いたい気持ちがふつふつと湧いてくる。せつないですね」
「いいとは思うが、イマイチ強さが足りない。作ったような感じ」
「共感しませんでした。逢いたければ私はどんどん自分から行きます!」
などの感想・意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「サイダーをグラスに注いだ瞬間、透明な泡が無数に涌き上がってくる。ああ、逢いたいなという瞬時に涌き上がった切なさがいいです。学生時代の恋人でしょうか。なつかしさと一緒になった切ない思慕。中七の切れ“泡生れやまず”がうまいですね」
と講評しました。
【原】香水に閉じこめし街よみがえり
天野智美 合評では、
「匂いというのは忘れ難い。もう戻れない街だけれど・・」
「街がよみがえるって、記憶がよみがえるということですか?」
「匂いの記憶は言葉以上のものがありますね」
という感想や質問。
恩田は、
「“閉じこめし街”が分かりにくい。散文的な書き方です。しかし、内容は面白い。気持ちに共感できます」
と述べ、次のように添削しました。
香水や封じたる街よみがえり
または
香水に封じし街のよみがえる
「“閉じこめ”よりも“封じ”のほうが気持ちに近くないですか?」
と問いかけました。 投句の合評と講評のあと、注目の句集として、上野ちづこ処女復帰句集『 黄金郷(エルドラド)』(1990年10月深夜叢書社刊)が紹介されました。
“上野ちづこ”は社会学者で東大名誉教授の上野千鶴子さん(1948年生まれ)です。
合評では、
「地下にうごめくマグマのような人ではないか」
「私には難しすぎます」
「自己満足的で一般市民に届いていないのでは?」
「ひどい破調をこれだけ堂々と詠めるのはすごい」
「70年代だからこういう感覚なのだろう。少女っぽいところもある」
「難解句といいながらも、意外と分かります」
「“虫ピン”の句はマルセル・デュシャンをみるようです」
「俳句というよりも“短詩”ではないでしょうか」
などの感想が述べられました。 恩田は次のように解説しました。
「無季で自由律の句をこれだけ書ける人はめったにいません。俳句文芸の無限の可能性を感じてほしい。水準はとても高く、哲学と詩に隣接しています。異界を覗くような句、じつに抒情的な句、消費社会の飽くなき欲望を詠んだ句、哲学的に深く宇宙的なものに届く句があります。当時もしこの人の才能を見出す名伯楽がいたなら、上野千鶴子さんは俳人としても大成したのではないでしょうか。俳句史における一大損失といえるかもしれません。皆さんも従来の自分に凝り固まらずに、各々の表現方法を追求してほしいと思います」
連衆の点を集めた句は以下のとおりです。
わたしというミスキャスト 幕が降りるまで
虫ピンで止める時間の 標本箱(コレクション)
充溢する闇を彫っても彫っても
弱い人よ この蕩遥のバスに乗るな ※ 上野ちづこ『黄金郷(エルドラド)』についての恩田のレジュメはこちら [後記]
兼題によって投句内容の浮沈があるのでしょうか。今回はやや低調。「香水」には苦労したという声が多くきかれました。
上野さんの句については、1970~80年代の空気や、時代を牽引した思想家・文学者・芸術家などを背景に読むと実に興味深いものがあります。
次回兼題は「短夜」と「新緑」です。(山本正幸)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。