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5月9日 句会報告

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2021年5月9日 樸句会報【第104号】   一部の地域で緊急事態宣言が発令され、行動に制約を受けたゴールデンウィークでしたが、その後の句会はリアルでの開催が叶いました。「換気をしてください」との放送に従い全開にした窓が、突風で次々に閉まってしまいます。それ以上に華々しい風が会を吹き抜け、特選三句という目の覚めるような結果となりました。 兼題は「薄暑」「菖蒲湯」「薫風」です。   ◎ 特選  めくるめく十七文字新樹光             前島裕子  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「新樹」をご覧ください。             ↑         クリックしてください ‎ ◎ 特選  腕白が薫風となる滑り台             前島裕子  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「薫風」をご覧ください。             ↑         クリックしてください ‎   ◎ 特選  ぷしゆるしゆるプルトップ開く街薄暑             萩倉 誠  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「薄暑」をご覧ください。             ↑         クリックしてください     侑布子余話   こんなことがありました。   原句  菖蒲湯や人の涙で泣けと父     一読、意味がつかめず点を入れませんでした。「人の涙で泣け」とは、「人を泣かせてから泣け」っていうの?まさか。作者が三夢さんとわかって、本当は「人の涙を自分の涙にしなさい」という、情の厚いお父さまの教えでは、と気づきました。 添削  菖蒲湯や人の涙を泣けと父     「で」を「を」に変えるだけで、菖蒲湯の香り高い俳句になることに驚かされました。わたしまで、三夢さんの亡き父上の芳しい薫陶を受けたような気がしたのです。       本日の兼題はいずれも五月の季語です。例句が恩田によって板書されました。 薄暑  三枚におろされている薄暑かな               橋閒石    岩群れてひたすら群れて薄暑かな             久保田万太郎  ジーンズに腰骨入るる薄暑かな              恩田侑布子 菖蒲湯  さうぶ湯やさうぶ寄りくる乳のあたり               白雄    幸さながら青年の尻菖蒲湯に              秋元不死男  たをやかに湯舟に待てり菖蒲の刃              恩田侑布子 薫風  其人の足跡ふめば風かをる               正岡子規    薫風やいと大いなる岩一つ             久保田万太郎  薫風の鰭ふれあひし他生かな              恩田侑布子    薫風は書を読み吾は漫歩せり              恩田侑布子    隣合ふとは薫風の中のこと              恩田侑布子 これらの瑞々しい季語をいかに生かすか、そのためには観念で句を作ってはいけない、感性を働かせるようにと、恩田より注意がありました。 季語の中には特に服飾などの用語で、例えば「セル」など、ふつうには既に通じないものもあります。行事に関しては元々の趣旨からかけ離れたり、すっかり廃れてしまったものも。今回の「菖蒲湯」にもジェンダー論的に揺れが生じているが、現在の状況をどの程度反映させるべきかと、連衆から質問が出ました。これに対し、長年人々が寄せてきた思いを尊び、「生木」ではない言葉を使うのが肝要であると恩田は強調し、例として次の句をあげました。  海蠃(ばい)の子の廓(くるわ)ともりてわかれけり            久保田万太郎      [後記] 晩秋に「海蠃廻(ばいまはし)」というバイ貝の独楽で遊ぶ風習が江戸時代から大正期まであり、べいごまとなって昭和期にも続いていました。恩田は、夕刻に帰宅を急ぐ少年達の影が「海蠃打」も「廓」も知らぬ読者の目に鮮やかに浮かぶのは、かつて多くの人々が馴染んできたものを題材としていることが大きいと述べました。 現代を詠みあげるのも俳句の使命ですが、数年後には捨て去られる運命の流行り言葉を安易に使うのは厳に慎まねば。薫り高い数々の作品に浸りながら、しみじみ思いました。 (田村千春) 今回は、◎特選3句、△1句、ゝシルシ12句、・4句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

4月4日 句会報告

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2021年4月4日 樸句会報【第103号】 2021年卯月の句会は、久しぶりのリアル句会でした。本日は「静岡まつり」の最終日。祭りの終わりを告げる花火の音が開け放した窓から入ってきて、最初は春雷かと思いました。 兼題は「あたたか」「柳の芽」「物種蒔く」です。 入選3句、原石賞3句を紹介します。 ○入選  湖出づる川のさざめき柳の芽               猪狩みき 【恩田侑布子評】 湖のひとところから水が流れ出し、川になって流れるところです。たっぷりした湖から狭い川幅に入り込み、流速がまし、水音も高まるようすを「湖出づる川のさざめき」と端的に捉え、そこに柳の芽がしだれて、水につくかつかないかというところ。映像的センスが抜群です。みずほとりに生まれ出る春の清らかな勢いがまさにさざめいて。 あとから聞くと、琵琶湖を訪ねられたとのこと。吟行句がこんなに生き生きとまとめられるのは素晴らしい! 【合評】 湖から川になろうとしている。柳の芽と川のさざめきが響きます。 諏訪湖から天竜川に出るところを見たことがあります。よく見る風景かもしれない。 「湖」では大きすぎませんか? 一読、「きれいだね」で終わってしまいました。     ○入選  あたたかし肩揉む爪の短さよ               海野二美 【恩田侑布子評】 爪を伸ばしてあざやかなマニキュアを塗った指は女性ならではの美しさです。でも、そんな手で肩を揉んでほしいとは思いません。むしろ深爪なくらいの十指が肩揉みやマッサージにはふさわしい。指先のまるさと、指の腹から伝わる力に、あたたかな春光があふれます。座五の「短さよ」に、揉んでくれる人の日頃の家事の甲斐甲斐しさも偲ばれます。「俳句は旦暮の詩」といった岡本眸さんの名言を思い出しました。二段切れですが、もしも「あたたかに」とつなげたらこの句の実直さはこわれてしまいます。まさか、長年のマニキュアが美しく印象的だった二美さんの句とは思いませんでした。ご母堂の介護のために爪を短くされたそうです。心身も部屋の空気もみな暖か。     ○入選  職辞せる妻の小皺のあたたかし               金森三夢 【恩田侑布子評】 今月で、長らく働いてきたお勤めを辞める妻。世の中に出て働くのはなにかと摩擦が多く、心身ともに疲れるもの。お疲れ様。ご苦労さんでしたという、夫からの感謝と労いのやさしさがあふれています。大ジワや深い皺でなくてよかった。「小皺」が愛らしく素晴らしい。愛情がここに通っています。人生の記念になる一句です。 【合評】 「職辞せる妻」に爽やかさを感じました。二人で家計を支えてきた。妻の小皺が頼もしく宝物のように思っている作者がいます。 長年暮らした歳月が感じられる。妻に対するねぎらいの情があらわれています。 「職辞せる」で切れるのではないか?自分が仕事を辞めたと取れる。妻の小皺を羨ましく感じているのでは? 自分のことなら「職辞して」になると思います。     【原】物種撒く終の棲家と決めし日に                益田隆久 【恩田侑布子評】   「物種蒔く」と歳時記の本題にあり、私もそれに倣って出題しましたが、ふつう俳句にするときは、具体的な植物の名前を据えて「あさがほ蒔く」とか、「鶏頭蒔く」とか、「牛蒡蒔く」「花種を蒔く」とかするほうがいいです。また、「撒く」は「水を撒く」のマクです。十七音しかない俳句なので誤字脱字には十分注意しましょう。 【改】あさがほ蒔く終の棲家と決めし日に    なら、「終わりの始まり」が印象的な奥行きのある入選句になります。 【合評】 「種」が持っているのは「終わり」と「始まり」。ここが自分の終わりの家だという感慨がある一方、何かの始まりでもあるということを「種」に託しているのだと思います。     【原】春陰のブロック塀で消す煙草                芹沢雄太郎   【恩田侑布子評】 急速にマイナーな存在になりつつある愛煙家が、人の家を訪問する直前にタバコの火をブロック塀で消すとは、ありそうでなかなか気付かない面白い光景です。「春陰」の季語に、春の薄暗い物陰と心理的な陰翳がかさなって奥行きがあります。惜しいのは「で」です。   【改】春陰のブロック塀に消す煙草  こうすると一字の違いとはいえ、春陰の季語が生きて来ます。句格が上がり入選句になります。 【合評】 この方は紳士で、普段はこういうことはしないのですが、春で自律神経が乱れ、イライラが募ってついやってしまったのでしょう。 ドラマ性が感じられる怪しげな句。ブロック塀の陰で何かアクションをおこすタイミングをはかっているのではないか。 「春陰」「ブロック塀」「煙草」でアンモラルな感じが出ている。     【原】柳の芽くぐりくぐりて車椅子                山本正幸 【恩田侑布子評】 さみどりの柳の芽を空からのやさしいすだれのように思って、車椅子を押す人と乗る人が、ともに頰を輝かせている情景が目に浮かびます。このままでもなかなかの俳句ですが、「芽」と「て」で調べが小休止するのが惜しまれます。   【改】芽柳をくぐりくぐるや車椅子  こうされると一層リズミカルになって、かろやかな春のよろこびがにじみ出ませんか。 【合評】 外に出たかった気持ちがよくあらわれています。一人で乗っているのでしょうか。車椅子は案外安全な乗り物なんです。 いろいろな事を「くぐりくぐりて」ワタシは爺さんになっちゃいました。     句会冒頭、本日の兼題の例句が恩田によって板書されました。 物種蒔く  あさがほを蒔く日神より賜ひし日               久保田万太郎  子に蒔かせたる花種の名を忘れ               安住 敦  死なば入る大地に罌粟を蒔きにけり               野見山朱鳥 暖か  暖かや飴の中から桃太郎               川端茅舎  あたたかな二人の吾子を分け通る               中村草田男  あたたかに灰をふるへる手もとかな               久保田万太郎 柳の芽  退屈なガソリンガール柳の芽               富安風生  柳の芽雨また白きものまじへ               久保田万太郎     合評と講評の後、角川『俳句』4月号に掲載された恩田侑布子特別作品21句「天心」を読みました。 連衆の共感を集めたのは次の句です。下部に連衆の評の一部を掲載しました。    身のうちに炎(ほむら)立つこゑ寒牡丹  虚無僧の網目のなかも花あかり  ふらここの無垢板やせて春の月    やすらげる紙にのる文字春しぐれ    花の雲あの世の人ともやひつゝ 作者の今の心境や生き方を反映している句が多いように感じました。(全体) 私には何のことか分からず情景の浮かばない句もいくつかありましたが、全体的に調べやリズムがよく気持ちよく読めました。(全体) 感覚をはっきり的確に言葉に出している。寒牡丹のあざやかな色をフィルターから外へ取り出す手際のあざやかさ。(寒牡丹の句) 虚無僧すら幻惑されてしまう花なんですね。(虚無僧の句) ふらここに長い歳月を感じます。おおぜいの子どもたちが乗って遊んだのでしょう。静止している一枚の木の板をいま春の月が静かに照らしています。(ふらここの句) 地上にあるものと空の月。季語がふたつですが、逆にそれによって情景がよく見えます。季重なりに必然性があると思いました。(ふらここの句)  [後記] 本日の句会で、投句のひとつに顕われた「マイナス感情」をめぐって、句作のありかたについての議論になり、恩田は「あらゆる感情に付き合っていくのが文学です」と述べました。 たしかに、句を読んでいて今まで味わったことのないような感情に驚くことがあります。いや、本当は未知なのではなく、自分の中で忘れたり隠されたりしていたものが俳句の力によって呼び起こされたのでしょう。たった十七音でそれができるとは!  (山本正幸)   今回は、○入選3句、原石賞3句、△5句、ゝシルシ10句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ●樸俳句会ではリモート会員(若干名)を募集しています。ネット(夏雲システム)を利用して全国どこからでも、投句・選句・選評ができます。投句に対して恩田侑布子が講評・添削をいたします。 リモート会員として入会ご希望の方はこちら   ============================  4月28日 樸俳句会 入選句を紹介します。 ○入選  円陣解く野球少年春疾風               山本正幸    【恩田侑布子評】 五七五の展開の小気味好さ。とくに上五の「円陣解く」と下五の「春疾風」がよく響き合い、一句は大きな時空に開放されます。小学生の男の子たちでしょう。地域の名監督(・・・)が率いる野球団に入って休日の朝から練習に励んでいます。ときどき、よその学区の野球団と他流試合もあります。これはその草野球の開始前。グラウンド中央に全員集合!お揃いのユニフォームで不揃いの背丈が仲良くスクラムを組み、「行くぞ!」の一声で、かけ足でポジションへ散ってゆきます。場外には、下の子を遊ばせながら見守っている父や母や祖母がいます。誰もが青空にヒットの快音を期待しながら、そこは、なかなか。三振やファールが続いたり、たまに川原のやぶ草に飛込む場外ホームランが出たり。以後は春疾風。少年はたちまち青年になり、父になり、疾風怒濤の生涯が待ち構えています。〈竹馬やいろはにほへとちりぢりに〉の万太郎は、ひらがなのやさしさ。正幸さんの作品は、漢字のいさぎよさと言えそうです。

3月7日 句会報告

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2021年3月7日 樸句会報【第102号】   2021年弥生の句会は、コロナの影響などにより今回もリモート句会となりました。 兼題は「目刺」「踏青」「春の月」です。 特選1句、入選2句を紹介します。   ◎ 特選  目刺焼くうからやからを遠ざかり              見原万智子  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(目刺)をご覧ください。             ↑         クリックしてください       ○入選  可惜夜の添寝をつつむ春の雨               萩倉 誠 【恩田侑布子評】   「添寝」からすぐ赤ん坊の添い寝を思いましたが、そうではないようです。 男女、しかも夫婦ではない恋人同士のようです。それでなければ「可惜夜の」措辞が生きてきません。久々に逢えた愛しい人のとなりで、ただしめやかな春の雨音につつまれてそのひとの眠りを見守っています。春雨とはちがう「春の雨」の微妙な情調が一句全体をひたしています。 【合評】 しっとり感。 詩情あふれる句。最初はなぜ「可惜夜や」としなかったのかと思いましたが、ここに切れを入れると上五の存在感が強くなりすぎ、季語の影が薄くなってしまうのかも知れません。そう考えると、掲句の方がより良い形だと思えました。       ○入選  春の月財布も軽き家路かな               島田 淳 【恩田侑布子評】   省略の効いた句です。さらに、ふつうは失敗しやすい「も」がこの句ではめざましく活きています。「財布も」の「も」に感心しきりです。「財布の」とした場合と比較してみると違いは歴然です。「も」の一字によって作者の足取りも心も軽いことが余白にうかがえます。ほろ酔いの一杯機嫌で家路につく軽やかな満足感。何より素晴らしいのは、おおらかな春の月にみあう恬淡な心境が垣間みえることです。 【合評】 分かりやすい句だが、思わず頬が緩む。長い冬が去り、やっと訪れた春の宵は何となく心が浮き立ち、思わず衝動買いに走る楽しさ。気が付けば散財により軽くなってしまった財布にも溢れる満足感。       学びの庭                      恩田侑布子  リズムは俳句のいのちです。なぜなら俳句は韻文だからです。事務文や日記や小説や評論などの散文は、意味の伝達をなによりも第一に考えます。いっぽう、韻文では、内容と調べは不即不離です。ことに、現代短歌が昭和後期から趨勢として口語散文化へ傾斜してゆき、いまや俳句が日本の韻文の最後の砦ともいうべき状況になりつつあります。わたしたち俳人は韻文としての俳句の固有性と可能性にこれからも果敢に挑戦しつづけて参りましょう。  『去来抄』の名言のひとつに「句においては身上を出づべからず」があります。頭だけの句、想像だけの句、教養にものをいわせた句ほど弱いものはありません。自然、社会、人間という現場のただなかで全人的な俳句を志していきたいものです。       [後記]  個人的な感覚ですが、どこかへ出かけて吟行したとき、その場で句を詠むよりも数日経過してそのときのことを思い出しながらの方が、俳句としての言葉が出てくるような気がします。目の前のものを俳句という型に当てはめてどう詠むかという技術論・形式論ではなく、自分の心に何が引っかかり、本当は何を詠みたいのか、いわば感動の芯のようなものを見つめ返す契機になるからかもしれません。恩田代表の「学びの庭」にもあるように、「自然、社会、人間という現場のただなか」に立ち、本当に詠みたいものは何なのかを問うことから、感動やそれを伝える言葉が生じるのかもしれません。(古田秀) 今回は、◎特選1句、〇入選2句、△8句、ゝシルシ15句、・6句という結果でした (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)     

2月24日 句会報告

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2021年2月24日 樸句会報【第101号】 2021年如月の句会は、コロナウイルス第3波を考慮しリモート句会となりました。 兼題は当季雑詠、または「探梅」「寒肥」(前回、急遽休会となったぶん)です。 入選4句を紹介します。     ○入選  探梅や独り上手の万歩計               海野二美 【恩田侑布子評】 ひとり歩きは探梅にこそふさわしい。冬の梅はおもいがけない山かげに真っ白な空間をつくり清香をただよわせています。そのつつしみ深さは独歩のひとの胸にかようもので、複数でおしゃべりしていたら雲散します。この句のよさは、「探梅や」と上五で冬の梅の空間を響かせ、ひとり歩きの人の万歩計に焦点がさだまることです。万歩計にカウントされる歩数を頼りとし、楽しみともして健康を気遣いながらそぞろ歩きする年配者の思いに、冬の梅を探る空気が感じられます。孤独が社会問題の現代にあって、「独り上手」という措辞も気が利いています。          ○入選  風上は南アルプス寒肥す               村松なつを 【恩田侑布子評】 大井川のほとりに山荘をもつ作者は、茶畑や菜園に寒肥をほどこしています。川風もさることながら、吹き下ろす北風はなにより南アルプスの神々の座からやってきます。雪の降らない静岡県中部は冬青空が美しいところです。「南アルプス」の措辞によって、青天の高さはるけさと足元の寒肥との対比が、いちやく勇壮の気を帯びました。 【合評】 大景と手元の作業の対比があざやか。 気持ちのいい句です。吹き来る風は南アルプスから。広い空、遠い山脈を背景にして寒肥作業に精を出す人の姿が見えてきます。 黒い地を耕す小さな人間が白いアルプスを背にした広大な景。       ○入選  探梅や杖に拾ひし棒を振り               村松なつを 【恩田侑布子評】 山坂がちの探梅行です。もっと足元が悪くなると困るから、予備にこの棒でも拾っておこうか。そう思って杖にしたはずの細い木の棒でしたが、気がつけばいつのまにか調子良く振り回して歩いていました。一人の気楽でしずかな梅を探る時間が活写されています。どちらかというと〈風上は南アルプス寒肥す〉の優等生的俳句より、こちらの野趣あふれる無欲な俳句に惹かれます。また、こうしたところにこそ、作者の本来の個性が今後ますますひかり出るのではないかと期待しております。         ○入選  紅梅や晶子の歌碑は海へ向き               山本正幸 【恩田侑布子評】 同じ梅でも白梅とはちがって、紅梅は春浅い空にくっきりと濃厚な輪郭をきざみます。そのあでやかさはまさに近代短歌の女王、与謝野晶子のもの。しかも、大海原にむかう歌碑は晶子という歌人の肺腑の大きさを象徴するようです。「清水へ祗園をよぎる花月夜こよひ逢ふ人みな美くしき」の『乱れ髪』から、晩年の「初めより命と云へる悩ましきものをもたざる霧の消え行く」の『白桜集』まで、旺盛な作歌と評論活動を展開した表現者は終生自己更新をしつづけました。清見寺にある歌碑「龍臥して法の教へを聞くほどに梅花の開く身となりにけり」に触発されたという掲句は、K音の点綴も歯切れよく、高らかな晶子賛歌、紅梅賛歌になっています。 【合評】 輝く才能と、意志を貫く強さの持ち主である与謝野晶子には、狭くて暗い場所は似合わない。今も、広々した美しい世界へ眸を向けている気がします。まだ寒い春先に紅色をほこる梅を思わせるような、凛とした香気を放ちながら。       学びの庭  表現の苦しみとよろこび                     恩田侑布子 今回はリモート句会が続いたせいか、表面的にいいすぎてしまっている句が目立ちました。すべて言ってしまうと大事な詩の余白がうまれません。日常生活はりくつと因果関係からなり立っています。俳句という詩は日常や事実をふまえつつも、そこから自由にはばたいてふたたび着地する文芸です。日常べったりでも、絵空ごとでもない「虚実皮膜(ひにく)」を目指しましょう。 芭蕉の名言、「心の作はよし。詞(ことば)の作は好むべからず」はどんな場合にも肝要です。ことばの上の作意をよしとすれば、器用さでいくらでも七、八〇点の句をならべられるようになるでしょう。となると、将来の俳句宗匠の座はAIが占めることになりかねません。 ソツのないよく出来た句より、破綻をおそれず切実な足元から破行句を!と申し上げて次回を期します。俳句を表現する苦しみこそ、よろこびであり楽しみだと、だんだん思うようになってきます。これは何ものにもおかされないこころの財産になります。         [後記] 今回もリモート句会の後、恩田先生より全句講評と「学びの庭」を送付して頂きました。 連衆の句それぞれに、全人格を持って向き合った先生の講評を読むことは、筆者にとってかけがえのない時間となっています。 講評に散りばめられた箴言を反芻しながら、次回の句会に向けて句作していくことは、独りでは決して設定することの出来ないハードルを、先生や連衆の力を借りて、一つ一つ越えていくような充実感があります。 そして今日もまた、句作をしながら「表現の苦しみとよろこび(恩田)」について思いをめぐらせています。                        (芹沢雄太郎) 今回は、〇入選4句、△5句、ゝシルシ8句、・4句という結果でした (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)    

1月10日 句会報告

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2021年1月10日 樸句会報【第100号】        樸代表 恩田侑布子 第100号記念祝詞    このたびの初句会が樸句会報の100号記念になるとのこと、慶賀に存じます。これも連衆のみなさまの熱意のたまものです。心から感謝しおん礼申し上げます。  樸は一人ひとりが真剣に、「リアル・オンライン融合句会」の全俳句を選句し、口角泡を飛ばして合評し、笑い合う楽しい句会です。そこにぱらぱら振られる恩田のカプサイシンが心地よい緊張感をもたらすことを庶幾しております。もちろんコロナ禍とあって、だだっぴろい部屋には三方向から風が吹き込み、美男美女があたらマスクをしております。が、そこからはみだす頬のかがやかきは隠しようもございません。三時間余の句会を、「生きがいです」とも「ボケ防止です」とも言ってくださる連衆のイキイキした俳句に私自身が毎回励まされております。三役と編集委員のみなさまのたゆまぬご支援にもつねづね頭が下がります。  そうと教えられるまで夢にも知らなかった第100号記念、本当にありがとうございます。これからも一人ひとりの目標に向かって、互いに温かく見守りあい切磋琢磨して、一句でもいい俳句をつくってまいりましょう。       2021年の初句会は、新型コロナウイルス感染再拡大の影響もありネット句会となりましたが、新年に相応しい力作が寄せられました。 兼題は「初雀(初鴉、初鶏)」「去年今年」です。 特選1句、入選1句、原石賞6句を紹介します。 ◎ 特選  ししむらを水の貫く淑気かな              古田秀  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(淑気)をご覧ください。             ↑         クリックしてください       ○入選  初鴉燦々とくろ零しゆく               田村千春 【恩田侑布子評】   元日の淑気のなかをゆく鴉の濡れ羽色がきわやかです。黒い色はひかりを吸いますからふつうは「燦々と」は感じられません。ところがこの句では、「燦々と」にたしかな手応えがあります。「初鴉」を句頭に置き、「くろ」をひらがなにしたことでしなやかな羽根の動きが眼前し、「零しゆく」で、青空に散る水滴が墨痕淋漓としたたるのです。みどりの黒髪ならぬぬばたまの羽の躍動は斬新です。一句一章の句姿も新年のはりつめた空気さながら。       【原】終電ののちの風の音去年今年                猪狩みき   【恩田侑布子評】    終電の通り過ぎたあとの風に去年今年を感じるとは、まさにコロナ・パンデミックに襲われた昨年をふりかえる二〇二一年ならではの新年詠です。ただ「カゼノネ」という訓みかたはクルしくないですか。   【改】終電ののちの風音去年今年   あるいは都会の無機質な風の質感に迫って   【改】終電ののちのビル風去年今年     などにされると、コロナ禍に吹きすさぶ深夜の風がいっそうリアルに感じられるでしょう。   【合評】 終電を降り人がほとんどいないホームに立つと、私はまず「こんなこといつまで続けるんだろう」と思い、次に「今日はやり切った。そして続けるしかない」と気持ちを切り替え、さらに移動し始めます。気持ちの境目と去年・今年の境目という二重構造になっている点が優れていると思います。 終電を降りて深夜の家路を急いでいます。すでに年は改まりました。自分ではよく働き、よく生きてきたと思う…。耳元で風が囁きます。「あゝ、おまへはなにをして来たのだと…」(by中也)。作者の心情がよく伝わってくる句だと思いました。 コロナ禍で深夜の初詣も自粛。終電も早くなったことのむなしさと淋しさが後の風に良く響く。さりげない一句に、例年にない年明けの哀感が滲み出ている。       【原】胸に棲む獅子揺り起こす去年今年                金森三夢  【恩田侑布子評】   力強い新年の詠草です。ただ終止形の「す」だと一回きりの感じがしてもったいないです。「去年今年」の季語ですから、いくたびも揺りおこしつつという句にしたいです。そこで、   【改】胸に棲む獅子揺り起こし去年今年 一字の違いで秀句になります。   【合評】 作者の内にある獅子を起こす。今年の意気込みを感じる。       【原】今年こそ麒麟出でよと富士映ゆる                金森三夢  【恩田侑布子評】   ご存知のように中国の古典では麒麟は聖人がこの世に現れると出現するといわれ、才知の非常にすぐれた子どものことを麒麟児といいます。郷土の誇り富士山に、気宇壮大な幻想を力強くかぶせたところがすばらしい。惜しいのは最後の「映ゆる」。「麒麟出でよ」と富士山が身を乗り出しているようで俗に流れます。ここは作者自身の肚にどーんと引き受けたいところ。     【改】今年こそ麒麟出でよと富士仰ぐ 格調のある特選句◎になります。座五は大事。俳句の死命を制します。       【原】干涸びし甲虫の落つ煤払い                島田 淳  【恩田侑布子評】   「煤払い」のさなかに貴重な体験をしました。いえ、俳句の眼がはたらいていたからこそ、この瞬間を見逃さなかったのでしょう。「夏のカナブンがその姿を止めていた」と作者はコメントしています。その感動にたいして「落つ」はもったいない。正直なたんなる報告句になってしまいます。   【改】干凅びし甲虫と会ふ煤はらひ 詩的ドラマが生まれます。       【原】初雀しばし「じいじ」に浸りおり                萩倉 誠  まだ幼い孫におじいちゃんおじいちゃんと慕われ、まといつかれる作者。「初雀」と「じいじ」の取り合わせがなかなかです。そのぶん「浸りをり」でいわゆる「孫俳句」に転落しかかったのが惜しいです。 「孫が逗留中。「じいじ」「じいじ」の大洪水。溺死しそうな毎日が続く」の作者コメントを生かし、こんな案を考えてみました。   【改】初雀「じいじ」コールに溺死せり   浸るのではなく溺死。俳味を得ればもう「孫俳句」とはいわせません。       【原】レジとづれば大息つきぬ去年今年                益田隆久  【恩田侑布子評】   コロナ禍の日本で、いえ世界中の小売店でどれほどこのような光景が日々繰り返された去年今年であったことでしょう。「大息つきぬ」に理屈抜きの実感があります。ただ「レジとづれば」の字余りの已然形はいかがでしょうか。「…するときはいつも」は現実に忠実かもしれませんが俳句表現としては弛みます。ここはレジを閉じる一瞬に焦点を当て定形で調べを引き締めたいです。   【改】レジ閉ぢて大息つきぬ去年今年 これならすぐれた時代詠の入選句◯になります。   【合評】 年中無休が当たり前のようになった現代の小売業。サントムーンもららぽーとも大晦日元日関係ないかのように営業していました。掲句はずっと小規模な商店かもしれませんが、大晦日も営業していたのでしょう。「大息」に実感があり、レジを閉じる音とともに年が変わってしまったような錯覚が生きています。ああもう今年は「去年」に、来年は「今年」になってしまった…  [後記] 新年詠に際して連衆のそれぞれの思いを一部抜粋してみました。 昨年の初句会で恩田代表から、新年の季題は明るく、めでたしが良しと伺った。それを基に作句・選句しました。 「去年今年」が平べったく「去年と今年」「去年から今年」となってしまいとても難しい季語だと思いました。新年の明るさや喜びの句が少なかったのはやはりコロナ禍のせいでしょうか。 たった一語の違いで、つまらない句が活き活きと動き出すおもしろさ。日本語の素晴らしさ。 年始の慶びを実感できない、表現しづらい社会状況だった。きっといまの時代にしか作れない俳句があると思うので、喧騒ややるせなさを逆手にとって、したたかに頑張っていきましょう。 俳句という器のサイズと、季の中に私自身を往還させることの大切さを改めて認識出来ました。季語ともっと親しくなるために、机の上で作句するだけでなく、自然環境に身を置く事を大切にする一年としたい。 緊急事態宣言が再発令され、なかなかコロナ収束が見通せない年初です。 句座をフルメンバーで囲める日の来ることを心より願います。思う存分口角泡を飛ばしたい筆者です。    (山本正幸) 今回は、◎特選1句、○入選1句、原石賞6句、△4句、ゝシルシ9句、・5句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   ===================== 1月27日 樸俳句会 特選句と入選句を紹介します。   ◎ 特選  レコードのざらつき微か霜の夜              萩倉 誠  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(霜夜)をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ○入選  風花舞へり六尺の額紙               萩倉 誠 【恩田侑布子評】   「額紙」は「葬式のときに棺を担いだり位牌を持ったりする血縁者が額につける三角形の紙」と、辞書にあります。私の経験したお葬式にはそうした風習はなく、初めて知った言葉です。知ってみるとなかなか迫力のある光景です。 六尺の大男の額に三角の白紙がひらひらして、そこに風花が舞うとは、きっと喪主なのでしょう。悲しみに寡黙に耐えて白木の仮位牌を胸に抱き出棺の儀式に歩むその瞬間でしょう。句またがりのリズムが効果的。 作者がわかってお聞きすると、御殿場市の田舎では1950年代まで土葬だったそうです。棺を担ぐ男たちを「六尺」といって、みな白い三角の額紙をつけて土葬の野辺まで歩いたそうです。帰りには浜降りといって、黄瀬川や千本松原で仮位牌に石をぶつけて流したそうです。日本の古い送葬の儀式の最後の証言ともいうべき大変貴重な俳句です。      

12月6日 句会報告

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令和2年12月6日 樸句会報【第99号】 師走一回目の句会。マスクを着けている鬱憤を晴らすかのように、侃侃諤諤の議論が繰り広げられました。 兼題は「木の葉」「紅葉散る」です。 入選2句を紹介します。 ○入選  「おもかげ」は羊羹の銘漱石忌               前島裕子 【恩田侑布子評】   十二月九日が漱石の命日です。漱石は甘党で「草枕」にもみどり色の羊羹が出て来ます。「おもかげ」の銘といえば虎屋の黒砂糖羊羹です。その黒い表面に漱石が小説で造形したさまざまな人物の面影が映ると見たのでしょう。いろんな人間のおもかげを追い求め、自己を投影した書斎のひと漱石にふさわしい忌日の句です。ふと、「俳句」十二月号の拙文「不可能の恋、その成就」の想い人を「おもかげ」とした唱和かしら、とも思いましたが、たんなるうぬぼれであったようです。 【合評】 漱石は甘いものに目がなかったようで、奥さんが隠すんですよ。そのエピソードと「漱石忌」が響きます。 季語の斡旋が効いている。 下手をすると安っぽくなる句だが、漱石の背景をかぶせて読むととてもいい。「おもかげ」がぴったり。 菓子の名前に頼ってしまうのはいかがなものか。 「おもかげ」の名が作者の琴線に触れたのではないか。一連の心の動きを想像すると味わい深い。       ○入選  灯されてひとりの湯船冬紅葉               古田秀 【恩田侑布子評】   「灯されて」に旅館の露天湯を思います。鬱蒼とした裏山が迫るひとけのない温泉。真っ暗な闇に冬紅葉の黒ずんだ紅が白っぽい灯を浴び、孤独感が迫ります。調べも落ち着いた大人の句の作者が三〇になったばかりの古田秀さんの作品とは驚きました。 【合評】 自分の家ではなく、温泉宿の檜風呂でしょうか。屋内にいる作者から外の冬紅葉が見えて心がほぐれていく。 「灯されて」という受動態がいいですね。一人ということが際立ちます。心象と実際に見えているものが一致している。 寂寥感がある。 強羅温泉に行ったときちょうどこのような感じでした。        「枯葉」「紅葉散る」の例句が恩田によって板書されました。   一ひらの枯葉に雪のくぼみをり              高野素十  枯葉のため小鳥のために石の椅子              西東三鬼  こやし積む夕山畠や散る紅葉              一茶   散るのみの紅葉となりぬ嵐山              日野草城     注目の句集として、宮坂静生 第十三句集 『草魂』(20200901角川書店刊)から恩田が抽出した十二句を読みました。 連衆の共感をあつめたのは次の句です。  冬林檎窓へ子どもの張りつきて    あたたかや半人半(はん)蛙(あ)土器の貌    中村(カカ)の(・)を(ム)じさん(ラド)わつさわつさと大根葉    草を擂りつぶし草魂沖縄忌    わが縄文月下にあそぶ貫頭衣       [後記] コロナに明け、コロナに暮れていく2020年。この疫病は俳句という詩の世界にどんな影響を及ぼすのでしょうか。虚子は「俳句はこの戦争(第二次大戦)に何の影響も受けなかった」と言い放ったそうですが、これはアイロニーではないでしょうか。我らみな「時代の子」たることを免れることはできません。「何の影響も受けな」ければ、それはもはや「詩」ではあり得ないと筆者は思います。 本年、WEBでの投句システムを併用しながら樸俳句会が継続できたのは連衆の熱心な取り組みのおかげです。今年の成果をアンソロジーとしてHPに掲載しました。 「2020・樸・珠玉集」はこちらです                     (山本正幸)   今回は、○入選2句、△2句、ゝシルシ9句、・6句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)  

2020 樸・珠玉作品集

2020珠玉集1

二〇二〇年・樸・珠玉作品集    (五十音順)       ゆくえのしれぬ旅の魅惑 恩田侑布子     二〇二〇年はコロナ・パンデミックにより樸の句会も変更を余儀なくされました。他県から参加して下さる方々のために、春から投句はすべてリモートに切り替えました。そこから一室につどって全句稿を手にナマで談論風発の句評を展開する地元組と、オンラインで選評し合い、メールで全句講評をお返しする遠方組と二手に別れることになりました。こうしてコロナ困難を逆手に、遠近全体で一つの場を構成する「リアル・オンライン融合句会」を築けたのは本年の成果でもあります。いま一つの成果は高齢俳人社会のなか、アットホームな樸に、三十代前半の意欲ある若者が三人に増えたことです。  愛知、神奈川、東京、埼玉と遠方の仲間も、地元静岡の仲間も、老いも若きも同じ日に投句し、俳句を選び遠慮なく批評し合う緊張感とよろこびは斉しく一緒。いつもときめきます。世界を襲うウィルスへの不安に加え、それぞれが職場の変動や家族の介護や自身の病気という鬱屈を抱えながらも、俳句という表現のよろこびをあかあかと灯してまいりました。たとえ風雨が強くて火がかき消えそうになっても、俳句の榾は次なる大いなる火を育てようとします。  上手い俳句ではなく、足元から自分の俳句をつくってゆくことが樸の誇りです。連衆一人ひとりの新鮮で多彩な俳句に、私自身どんなに眼を丸くし、感動をもらって来たことでしょう。それぞれの船頭によるゆくえのしれぬ旅ほど面白いものはありません。  樸十八人衆の熱い精選句。これこそが本年最大の成果です。とくとご高覧いただき、「わたしも仲間になろう」、と思ってくださる方がお一人でもあれば幸甚に存じます。      天野智美      多磨全生園      寒林を隔て車道のさんざめき     ひどろしと目細む海や蜜柑山     なまくらな出刃で指切る日永かな                       猪狩みき     木下闇結界のごと香りけり     秋扇やゆづれぬものを持ちつづけ     鰯雲小屋へ荷揚げのヘリコプタ     予想していたよりも早く、そして急に、母と暮らすことになった。好き放題出かけられた生活は一変。遠くまで出かけることは減り、生活範囲がかなり狭くなった。俳句を作るには少し困る事態かな、と思ったりもした。でも、日々の生活の中から俳句の種は見つけることができることを知った。それに、実際の生活の場は狭くても、言葉を使えばどこまでも遠く広い世界を表現できることも知っている。知っているのと実際に作れるとの間はかなり隔たっているけれど。        伊藤重之   マスクの眼改札口を溢れ出る     這ひ廻る人工知能日短か     未遂なる愛の幾つか冬鷗        海野二美   七種や普段に帰す塩加減     海老蔵の睨み寿ぐ四方の春     鳩追ふ児金木犀の香をくぐり     俳句を詠むことも句会も、段々に私の血となり肉となってまいりました。最近秀句を作れずにおりますが、一向にめげておりません。そこがだめな所だとは思いますが、風物に出会う度、感動を言葉に置き換える時間がとても好きです。これからも、凡人の主婦らしく、日々の心情を詠んで行きたいと思っています。        金森三夢   赤べこの揺るる頭(かうべ)や風光る     早苗舟登呂の残照負うてゆく     天の川みなもと辿る野営かな    昨年の霜月、樸の門を叩き早一年。恩田侑布子という優れた師と素晴らしい連衆に囲まれ、月二回の句会を大いに楽しませていただいております。恩田代表の歯に衣着せぬ一刀両断のコメントに打ちのめされ、少しだけ成長できたと実感しております。句会は修行の道場。二年目は措辞を磨くことを目標にして精進致します。何卒お手柔らかに。        島田 淳   早苗投ぐ水面の空の揺るるほど     年上の少女と追へり夏の蝶     土工らの肩冷やしをり天の川     還暦の友人と「これからは創造的な趣味を持とう」という話になった。消費的な享楽は、いずれ「おもしろうてやがてかなしき」気分になる。「俺は客だ」という驕りがでるかも知れない。創造的な趣味、例えば俳句は、自分の内面と来し方を見つめ、表現する技術と独創性が求められる。点盛りで無点でも折れない心が育まれる。それから…「俺は陶芸をやるわ」と彼は言った。私は、今の気持ちを句にできないか折れない心で考えている。          芹沢雄太郎   冬の蟻デュシャンの泉よりこぼれ     短日の切株に腰おろしけり     鉛筆のみるみる尖り日短か  単身赴任生活が始まって八ヶ月が過ぎた。  家族と会えず、自己と向き合わざるを得なくなった今、ありがたいことに俳句が私のそばに寄り添い、いつも励ましてくれている。  この気持ちを大切に育てて、少しずつ周りの人へ届けられるようになりたい、そんな事を考えながら、今日も句を詠んでいる。        田村千春  早苗田は空に宛てたる手紙かな    ラ・クンパルシータ洗ひ髪ごとさらはれて    よこがほは初めての貌青すすき    樸の会は私にとって発見の場で、俳句以外の話題にも毎回興味津々――例えば本には帯というものがあり、これがあってこそ本といえるのだとか。句集ではたいてい自選句が載っている。  恩田先生の処女句集『イワンの馬鹿の恋』はめったに手に入らない。図書館に予約し、漸くまみえることが叶った時、踊り出しそうだった。ところが、なんと帯がないではないか。喜びと悲しみを行き来する感情を持て余し、一句。  秋寒し帯の散りぬる稀覯本        萩倉 誠   鰤大根妻には言はぬ小料理屋     鬼平の笑ひと涙あさり飯     怪獣図鑑ひろげて眠る小春空     =575はパズルだ= 筆記なしのパソコンでの打ち込文書作成に馴れ、 思考力の低さが加わり、言葉の喪失は増すばかり。 言葉探しと思考力低下の防止も兼ね俳句の手習いを・・・ 俳句道の厳しいこと、(陳腐な貴乃花の相撲道なんかペッ) 待てども待てども言霊は降りず、三駄句の連続。 我が存在は“句会にこびりついた、三等米のご飯粒”。 容赦なく恩田師範の“駄句滅の刃”が一閃、二閃、三閃! ああせめてなりたや“二等米のご飯粒”・・・      林 彰   名をもらひあくびをかへす仔猫かな     桃源に辿り着きしや水温む     ペンを置きカルテを閉じる鰯雲        樋口千鶴子   如何に照るアフガンの地や冬の月     ボランティア震える両手暖めて     お隣は実家へ八十八夜かな        古田秀   マネキンの顔に穴なしそぞろ寒     洋梨の傷かぐはしきワンルーム     それきりのをんな輪切りの檸檬かな    三十歳になった記念というわけではないが、三十歳までしか応募できない石田波郷新人賞に応募した。審査員の一人である村上鞆彦さんの秀逸十句選に一句(「君ずっとしゃべってパセリ皿の上」)を採っていただいたので何となくほっとした。新人賞を取った筏井遙さん『うしろから』からの一句に「全焼ののちの涅槃図見にゆきぬ」。涅槃図と言えば恩田侑布子の「擁きあふ我ら涅槃図よりこぼれ」が印象深い。来年は涅槃図を見に行きたいと思う。        前島裕子   千鳥ヶ淵桜かくしとなりにけり     裸子の羽あるやうに逃げまはる     「おもかげ」は羊羹の銘漱石忌  今年の夏、両親の引っ越しで実家をかたづけたおり、本棚に「陰翳礼讚」を発見。学生のころ読んだのか、色褪せて、小さい文字だ。句会で先生が時々おっしゃる一冊、家に持ち帰り読んだ。何か大事なものがある。  樸に入会してもうすぐ二年になろうとしている。 句会は楽しく、いい刺激を与えてくれるが、句作となると迷い悩む日々である。自分らしい句が詠めるようにと思っている。  「陰翳礼讚」を再度読んでみよう。        益田隆久   つぶらじい月夜の古墳護りたり     寒昴ふるさと発し此処に老ゆ     六十路こそ初投句なれ帰り花    「うしろ手に閉めし障子の内と外・中村苑子」「ピーマン切って中を明るくしてあげた・池田澄子」「酢牡蠣吸ふ天(あま)の沼矛(ぬぼこ)のひとしづく・恩田侑布子」。絶対自分では作れそうもない句ばかり好きになる。好きな服や好きな女ほど自分に似合わないのと同じか。昔茶道を習った。連続した所作が漫然と連続しているので無く、所作の切れを意識しつつも切らさない呼吸が俳句と似ているような気もする。        見原万智子   鰤さばく迷ひなき手に漁の傷     老教授式典に来ず山眠る     春の水洗ふや堰の杉丸太  四切れで九十円のパン不味い  コーヒーを二秒で淹れるな  孵らぬ子それ無精卵朝ご飯  友人から時おり句めいたものが送られてくる。拙句を踏まえたものもある。どれも面白くやがて哀しいと思うのは、私が友人の暮らしを熟知しているから。俳句は個を超えた普遍性が求められる。ではどうすれば面白く哀しい普遍性のある句を詠めるのだろうか。  コーヒーの香りの中で「多作多捨でご健吟くださいね」と微笑む恩田先生の姿が揺れている。        村松なつを   熱気球ゆさり野菊へ着地せり     女湯に桶音しきり椿の夜     手枕のこめかみに聞くちちろ虫    新幹線の中でアナウンスが流れる際に短い曲が流れる。同じ音楽でも壮大な交響曲やソナタなどに比べるこの車内チャイムはなんという小作品だろうか。それでいて聴く人の心へ浸み込むように響いてくる。  旅する人にはその無事の祈りに、新生活の若者へはエールに、傷心の青年には慰めに、疲れたビジネスマンには栄養ドリンクに、寝ていた人にはアラームに・・・。  読み手の心の襞に届いて初めて完成する俳句のようだと思う。        山田とも恵   黒南風や日常に前輪が嵌まる     立ち漕ぎの踵炎昼踏み抜きぬ     湯船ごと銀河の底網に揺るる    世阿弥の『風姿花伝』には次のような記述がある。  トキノマニモ、ヲドキ・メドキトテアルベシ。(中略)コレチカラナキイングワナリ。  ヲドキとは何をやってもうまくいく時期、メドキは何をやってもダメな時期。それは因果なのでどうしようもないらしい。私の句作はただいま超メドキである。しかしこの果てで生まれるのを待つ何かの胎動を感じている。その時を迎えるまで樸の面々の胸を借り、腐らず作り続けるしかない。        山本正幸   過激派たりし友より届く蜜柑かな     突堤のひかり憲法記念の日     短日や匂ひ持たざる電子辞書    一年ほど前、「マスクとり団交の矢面にたつ」を投句し、恩田先生に入選で採っていただきました。しかし、現下のコロナ禍にあっては句の意味が一変しました。マスクを外し口角泡を飛ばせば、経営側・組合側双方のリスクとなり、もはや団交どころではなくなってしまうのです。いのちこそ大事。今回の疫病は俳句を含む詩の世界をいかに変貌させるのでしょうか。      

11月1日 句会報告

20201101上

令和2年11月1日 樸句会報【第98号】 “ニューノーマル”な暮らしを余儀なくされつつも、徐々に市民の文化活動がもとに戻りつつあります。本日のみ、会場をアイセル21から静岡市民文化会館に変更しての句会でした。冬が近づく澄んだ風通しのいい部屋で、新しいメンバーも加わり一同新鮮な気持ちで句会に臨みました。 兼題は「刈田」「そぞろ寒」です。 入選2句を紹介します。 ○入選  そぞろ寒有休残し職を退く               見原万智子 理屈がなく、実感のある句です。パンデミックの二〇二〇年は、途方も無い失業者を世界中で激増させています。作者もなんらかの理由で退社することになりました。「職を退く」の措辞に志半ばのさびしさがにじみます。どうせ辞めるなら有給休暇を目一杯取ればよかったと思うものの、現実は甘くなく、言い出せる雰囲気ではなかったのです。男性は二割強、女性は六割近くが非正規が、現在のわが国の労働環境の実態です。早期退職に応ずれば数千万もの退職金が出る会社もありますが、とてもとても。その薄ら寒い心象と、冬に向かう気持ちが季語に自然に籠もっています。この句の良さは一身上の事情がすなわち、現代社会の写し絵になっている重層性にあります。 (恩田侑布子) 【合評】 今はむしろ会社から有休を取らされるものではないか。 若干説明的かもしれないが、現代の雇用状況の厳しさと「そぞろ寒」の実感の取り合わせが良い。   ○入選  マネキンの顔に穴なしそぞろ寒                古田秀 人間は穴の空いた管です。『荘子』でいえば七竅(しちきょう)(両目、両耳、両鼻孔、口)が、ものを見聞きし、匂いを嗅ぎ、食べ、喋っているのです。マネキンにはうらやましいほど大きな瞳があり、すっきりと高い鼻があります。ところが、よく見るとどうでしょう。穴がありません。ふさがっています。当たり前のことに改めてゾッとした瞬間です。一句はわたしたちが穴の空いた管であることを振り返らせ、同時に、いつもきれいと思っているものの非人間的なそぞろ寒さを突きつけて来ます。同じ秋季でも、やや寒・冷ややか・肌寒はより体性感覚に、そぞろ寒はより心象にふれる季語です。感覚の鋭い「そぞろ寒」の句です。ただし、最近のマネキンはのっぺらぼうや、頭部がそもそもないものが多いようです。都会詠、人事句の古びやすさはその辺にあるのかもしれません。 (恩田侑布子) 【合評】 些事に追われ何かに違和感をおぼえても深く考えないようにしている、そんな私の毎日に釘を刺されたように思った。 思い浮かぶマネキンの様子によって大分印象の変わる句。   披講・選評に入る前に今回の兼題の例句が板書されました。  刈田昏れ角力放送持ちあるく              秋元不死男  鶏むしる男に見られ刈田ゆく              大野林火  ぴつたりと居る蛾の白しそぞろ寒              角田竹冷   口笛を吹くや唇そぞろ寒              寺田寅彦   [後記] 私自身も樸に入会してまだ半年ほどですが、新しい方が加わって句会が活性化するのはいつでも良いことのように思います。一方で、俳句を始めよう、学んでみようと思った人に対して俳人・結社側の姿勢は十分に応えられていると言えるでしょうか。俳壇の高齢化が言われ続けて久しい昨今ですが、当然ながら若年層を多く取り込んでいく組織ほど“寿命が伸びる”でしょう。科学の世界では、研究者は自身の専門分野に関して、世間への啓蒙活動に研究の10%程度の時間を割くべきだと言われています。SNS・インターネットや出版物での適切な情報発信はこれからも重要な仕事だと思います。私も30歳になったばかりです。2,30代の若者よ、ぜひ樸に来たれ! (古田秀)   今回は、○入選2句、△3句、ゝシルシ7句、・5句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   11月25日 樸俳句会 兼題「短日」「帰り花」 入選句を紹介します。 ○入選  短日や匂ひ持たざる電子辞書                山本正幸   金属の辞書はモノとして古くはなっても、紙の辞書のような色つや匂いはありません。ましてや長年の手擦れによる角のまるみや紙のヤケなど、味のあるやつれた表情など望むべくもありません。金属の電子辞書のいつまで経っても怜悧な佇まいに、使い古したつもりでいた自分が、逆にほころぶように老いてゆくことに気づき愕然としたのです。「短日や」の季語に自身の老いが重なり、「匂ひ持たざる電子辞書」が再び「短日や」に返ってゆきます。芭蕉の名言、「発句の事は行きて帰るこころの味はひなり」(「三冊子」)を思い出させる優れた俳句です。 (恩田侑布子) 次回の兼題は「木の葉」「紅葉散る」です。