「本日の特選句・入選句・最高点句」カテゴリーアーカイブ

本日の句会で高い評価を得た作品をご紹介します!

9月16日 句会報告と特選句

佐渡ヶ島 国仲平野の稲穂波

9月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「秋の日・茸」でした。 “茸(きのこ)”と一口に言っても、「しいたけ・しめじ・まつたけ・えのきだけ…」と色々ありますね。それぞれの持ち味を句に読みこめたら、句だけでなく料理も上達しそうな気がします。 さて、今回の高得点句。 余生とは言わじ五千歩秋うらら             杉山雅子 「年配の方の句だろうか?春でなく秋にこの句を詠んだところが、老齢感が出て良い。」 「しっかり生きていく。という、高齢者の自立を感じる。」 「今までのじっくり生きてきた人生を感じる。励まされた。」 「共感が持てる。“余生=人生を捨てる”ということはしたくないもんね。」 「これは、高齢化社会のアイドル俳句だ!!」 「歩いている季節もいいし、おいしい空気も感じられる。」 と、活発に意見が出ました。  恩田侑布子は「ややスローガンぽいが、実践句なので“余生”という措辞のいやみ、臭みが出ず、明るくて欠点を持っていない。私もこう生きたい」と鑑賞しました。 一方、「歴史的仮名遣いが間違っているので注意していきましょう」とのことでした。 誤)余生とは言わじ五千歩秋うらら 正)余生とは言はじ五千歩秋うらら  次回の兼題は「花野・運動会」です。今年は秋真っ盛り!というほどのお天気には恵まれないようですが、それでも花は咲き、運動会は雨間を縫って開催されるのでしょう。耳をそばだてながら、秋の到来を感じたいと思います。(山田とも恵) 特選  哲学を打ち消す夜半のすいつちよん                      山田とも恵  すいっちょんは馬追。草のなかに棲み、ジー、スイッチョンと鳴く。灯のそばにやってきて、姿見の上にとまっていたりもする。色は薄緑や褐色で、そんなに美形ではない。地味な秋の虫だ。  句会ではハムレットの「生きるべきか死ぬべきか」のセリフを思い出したというひともいた。若い作者ならではの句である。句頭に「哲学」を据えたのは大胆だが、作者は真剣に生死や存在を考え、どうどうめぐりしていたのだろう。そうした昼間からの懊悩が、窓辺に来た小さな虫の一声に幕を下ろす。「打ち消す」という措辞が潔い。明日は早い、さあ、寝なくちゃ。草やぶに馬追がいてくれるいとしさ。        (選句 ・鑑賞  恩田侑布子)

8月5日 句会報告と特選句

sando

 8月1回目の句会が行われました。今回の兼題は「風鈴」「夜店」でした。 「風鈴」は住宅環境の変化によって最近は姿を消しつつありますが、あの音色は日本人のDNAに刻まれているのか、自然と涼しい風を感じることができる気がします。 さて、まずは今回の高得点句から。 風鈴に音みな吸い取られし午後             佐藤宣雄 「夏の午後の倦怠感がある」 「音を“吸い取られる”という表現がとても勉強になった」 「風鈴の音が聞こえるからこそ、より周りの音が静かに聞こえるという感覚が共感できる」 というような意見が出ました。 恩田侑布子からは、 「発想は面白いがリズムが良くないと思う。静謐な風鈴の音を感じる上五と中七があるのに、最後の「午後」という音が雑音になってしまっていてもったいない。」という意見が出ました。  作者は情景を明瞭にしたいと思い、あえて「午後」を入れたとのことでした。   全体のリズム感を保ちつつ、自分の描きたい情景を浮き上がらせる…難しい!    さて、続いての句です。 ちちははとあにあねと行く夜店かな             藤田まゆみ 「幼いころを思い出している光景かなぁ」 「夜店の出ている場所へと向かう、幼い日のあたたかい雰囲気が懐かしくなる」 「できたらもう一度戻りたい」 「あとから付いていく自分の姿を俯瞰で見ているよう」 というような、幼いころを思い出す意見が多く出ました。 が、一方で 「これはこの句会(大人しかいない句会)で投句されているから“過去を懐かしんでいる”というような鑑賞になるが、誰が投句しているか分からない状態だったら小学生の素直な句と感じるのではないか?」というような意見も出ました。 恩田侑布子もこの意見に賛成とのことでした。 また、「ちちはは」は良いとしても「あにあね」まで平仮名にしてしまうのはやや作為的に感じてしまう、という意見が出ました。 あえて作為的にしたからこそ、小学生の素直な句には思えなかったのかもしれません。  とはいえ、指摘があった通り「句会の状況を見て、句を勝手に解釈してしまう」というのは句の本質をとらえ損ねる危険があるので、今後も注意していきたいと思いました。  次回の兼題は「涼し」「残暑」です。暦では秋ですが、現代の日本では8月下旬はまだ秋の実感よりも、夏がかげっていく実感の方がしっくりきますね。夏好きとしては、離れがたい気持ちでいっぱいです。(山田とも恵) 特選   貝風鈴カウンセリング始まれり                         山本正幸  貝風鈴がカウンセリングの小部屋に吊るされている。白やスモーキーピンクのやわらかな色の薄い貝殻たちが透明な糸につづられて音もなき音、かそけき音をたてる。砂浜を裸足で歩くときのあの心地よさをからだのどこかが思い出すような音色(ねいろ)である。これはなんのカウンセリングだろう。深刻とまではいかないけれど、もやもやとした気の晴れない悩みごと、心配ごとの相談に来たのだろう。カウンセラーの話を聞く前に、揺れる貝殻のしずかに触れ合う音に癒されてゆく。こころはすでになかば静まって、これから対処してゆくべきことが夜明けの水のように感じられる。作者はカウンセリングの受け手であったかもしれないが、不思議にも掲句のデリケートさ、やさしさ自体がヒーリング効果をもっているようだ。A音の頭韻に、ラ行のリリレリが添って、調べに微妙な風と陽光がささめく。七月初めの梅雨の晴間。ゆれる貝殻のむこうに青空がみえてくる。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

7月1日 句会報告と特選句

茅屋 烏瓜の花

   7月1回目の句会が行われました。 今回の兼題は「サングラス・夏の夕」でした。静岡市内は陽ざしを遮るものが少ないため、ガラにもなくサングラスが欲しくなってしまいます。 まずは今回の高得点句から。 すててこの論語嫌ひや夏ゆふべ             伊藤重之 「手ぬぐい、団扇、風鈴…昭和の世界観がパーッと広がった」とノスタルジーを感じた方が多いようでした。 また、あえて「論語嫌ひ」というところが「そう言いながらもついつい論語の勉強をしてしまう、昭和頑固親父のかわいい後ろ姿」をイメージさせ、ユニークという意見もありました。 恩田侑布子からは 「“すててこ”と“夏ゆふべ”の季重なりが気になる。 “すててこ”の面白さを生かせる言葉がほかにきっとあるはず」 と、いう意見がありました。      続いて、今回の句会で話題になった句です。    掌の豆腐捌きて夏の夕             杉山雅子  先ほどの「すててこの句」は男性から人気でしたが、こちらの句は女性に人気の句でした。 「豆腐を捌(さば)く」というところが珍しかったこともあり、この一語に対して色々な意見が生まれました。 例えば「捌くは男っぽく、手慣れている印象。夕暮れの豆腐屋さんの光景なのでは?」という意見がある一方、 「膨大な家事を捌くように生活する主婦が、手のひらでササッと豆腐を切って味噌汁に投げ込む雄姿なのでは?」という意見もありました。作者は自分の手のひらで豆腐を切っている時に句の着想を得たそうです。主婦の実感の句です。  恩田侑布子も 「“捌く”というところが夏っぽく効いていて、サバッとした感じがする。確かに冷奴なんかは切るというより、捌く感じがしますね」 と、主婦の実感がこもった鑑賞でした。  次回の兼題は「風鈴」「夜店」です。蝉の声も聞こえ始め、いよいよ夏本番。今年はどんな夏がやってきて、どんな句を作れるのか、夏休み前の子供のようにワクワクしています。(山田とも恵) 特選  苛立ちはけもののやうに夏野ゆく                       山田とも恵  一句一章の句。一気に読ませる。「苛立つて」でなく「苛立ちは」とした擬人化が効果的だ。芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の「夢は」と同じ叙法である。芭蕉は上五で情景を提示したが、この句は暴力的に「苛立ちは」で始まる。そこに有無を言わせぬ苛立ちの感情と、若さゆえの動物的なエネルギーの発散がある。作者は現状に満足していない。吠えるように、夏草の茂る径(みち)を歩いて行く。言うにいえない懊悩が体性感覚にのりうつり、若いいのちの圧倒的な存在感がある。哀しみや寂しさの俳句は山のように詠まれてきたが、苛立ちの感情は新しい。ネガとポジのはざまのような夏野があざやかである。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

6月17日 句会報告と特選句

aoume

6月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「短夜(みじかよ)・“田”の字を一つ入れて」でした。 梅雨入りしても今年は雨が少なく関東は珍しく水不足。かと思えば九州地方は集中豪雨。 季語が生まれた時代とはだいぶ自然の流れが変わってしまったのだと、寂しさを感じてしまいます。 句を通して、あるべき自然の姿を残して行けたらなぁと思います。 さて、まずは今回の高得点句から。 みる夢はひとつにしとけ明け易し             松井誠司 「欲張って夢を見ても、あっという間に朝が来てしまうから短夜の時期は注意せよ、という面白みがある」 「夢は寝てる間に見る夢のことだけでなく、将来の希望、夢のことを言っているのではないか?」 というような意見が出ました。 恩田侑布子も 「第一義は、夢をみたあと、また夢をみたら、短い夏の夜が明けてもう朝になって居た。夢はひとつでいいのにという思い。 第二義は、若いころから欲張っていろいろと夢を見てきた。ところが振り返れば、どれもみな完全に実現したとはいえそうもない。 そこで、われとわが身に遅まきながらつぶやく「みる夢はひとつにしとけ」と。 一夜の明け易さと、人生の短さの両義がかけられた二重構造の句。一読後の面白みのあとの、切なさが良い」 と鑑賞しました。     続いて、今回の句会で非常に盛り上がりを見せた句です。 短夜の取り逃がしたる一句かな             伊藤重之 満場一致で「分かる!」という声が沸き、俳句を楽しむ人にとっては「あるある」なエピソードのようでした。 「短夜のこの時期ならば、今(眠る寸前)思いついたこの名句を明朝まで覚えていられる気がする!と思いながら眠りについてしまうので、短夜という季語に合っているのでは」 という意見も出ました。 恩田侑布子からは「事」に終始してしまっている感じもするが「取り逃がしたる一句」という表現は面白いと思う、との意見でした。 また、「枕元にメモ帳とペンを置いて、取り逃がさないで寝ましょう」というアドバイスがあり、耳が痛い一同でした。 次回の兼題は「蜘蛛(の囲)」「植ゑ」「昼顔」です。兼題を通して新しい季語を知ることができるので、毎回とても楽しみです。 次回はどんな句が生まれるのでしょうか。 (山田とも恵) 特選 口笛を鋤きこむ父の夏畑                          大井佐久矢 田畑に何かを鋤(す)き込む俳句といえば、次の師弟俳人の両句が思い浮かぶ。 残生やひと日は花を鋤きこんで 飴山実 荒 々 と花びらを田に鋤き込んで 長谷川櫂 ともに春の花びらを鋤き込む審美的な句である。 一転して、佐久矢の句は、弾けるようにかろやかな青春詠である。口笛を鋤きこむところに、父の若さとともに、趣味の菜園の匂いがする。夏畑の開幕を告げる口笛である。これから植えるのは、瓜や茄子などの苗だろうか。それとも種撒きなら、ハーブだろうか、枝豆だろうか。いずれにしても初夏の陽光が燦々と降りそそぐ。作者のふるさとが信州の佐久であることを知れば、たちまち浅間山の麓、広大な佐久平の景が広がり、父の口笛はいっそう涼やかに透きとおって感じられよう。 ...

6月3日 句会 特選句鑑賞

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六月の第一回目の句会が行われました^^ 今回の特選句をご紹介いたします。なんとも美味しそうな、元気の出る作品です!  なお以下の写真は、恩田侑布子の手作りの、新茶と雪の下の天ぷらです。新茶の天ぷらとは、いかにも静岡らしいですね^^(大井佐久矢) 特選    鯵刺身五島列島育ちかな              原木栖苑    真鯵とか室鯵という魚そのものではなく、調理され食卓に供された「鯵刺身」だから成功した句。まず上五で、皿に盛り付けられた薄い銀色ののこる新鮮な鯵の刺身の映像がうかぶ。次いで、五島列島の島々をとりまく青海原も思い浮かぶ。ところが、座五に逆襲が待っている。「育ちかな」と、まるで海の男、あらあらしい野生児のような言い方で、この刺身のイキのよさを讃えて終わるのである。芭蕉の「行て帰る心の味也」で、初句に帰れば、人間も鯵も生まれて死んでゆく、同じ土俵だよと、作者の腹の据わりぶりがこころ憎い。まさにイキのいい俳句。          (選句・鑑賞 恩田侑布子)

5月20日 句会報告と特選句

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5月2回目の句会が行われました。 兼題は「夏に入る」と「春季の花(春の季語の花ならなんでもOK)」でした。 春を迎えた頃の句会でも思いましたが、季節の変わり目の句は特に感性から滴るような句が多いように感じ、披講(作品を読み上げること)を聞くのがいつも以上にワクワクします。 以下は、今回の高得点句と、話題作の二句についてのレポートです。 バゲットのやうな二の腕夏来たる             山本正幸 この「バゲットのような二の腕」については、子育て真っ最中の立派な二の腕を持ったお母さんという人物像をイメージする人もいれば、「バゲット=茶色くて硬そう」というイメージから筋肉質な男性をイメージした方もいて、比喩の難しさと面白さを感じました。 恩田侑布子は「バゲットのやうな」を「バゲットのごとき」とし、 バゲットのごとき二の腕夏来たる とした方がより、フランスパンのようなこんがりした健康さが出るのでは、と添削していました。 女学生の制服が夏服に衣替えし、ほっそりとした二の腕を目撃しても、やはり夏の到来を感じそうなものですが、あえて「バゲットのような二の腕」から夏を感じ取った視点がユーモラスだと思いました。     つめくさやみどり児のほゝ匂ひさせ            藤田まゆみ 話題になった句です。二人の方が特選で取られました。お二人とも子育て経験のある女性。お一人は「こんな風に素敵な子育てできなかったなぁ」と自戒を込めて取られたそうです。きれいごとだけではない、子育ての厳しさを感じるお言葉でした。 恩田先生からは「つめくさ」は白詰め草の別名として辞典には載っていても、歳時記にはなく、季語にならない。普通に「しろつめ草」として、 しろつめ草みどりごのほほ匂はせて とされれば、素直にやさしい情景がうかぶのではないか、と添削していただきました。 このイメージは子を育てる経験があってもなくても、本能的に憧れてしまう光景ですね。赤ちゃんを抱きながらシロツメクサの咲く原っぱを歩いているような、やさしく幸せそうな実景が香りとともに立ち上がってくるように思いました。男性陣からは点が入らなかったのが、とても興味深かったです。 次回の句会は6月3日(金)。 兼題は「短夜(みじかよ)」と「‟田‟の字を一つ入れて」です。 皆さんが、夏至に向かう時候と、この季節の田んぼをどう俳句にするのか、今からとても楽しみです。(山田とも恵)     特選    君を立て周りを立てて霞草             久保田利昭     ある意味人を食った句である。「君を立て」と唐突に言われると、まず読者はドキッとする。最後まで読んで、ははーん、霞草のことだったのと肩透かしを食らう。霞草は花束の中で、引き立て役によく使われる。自己主張をしないので何の花にも合う。薔薇が「君」なら、スイートピーは「周り」の花だろうか。一義はブーケの霞草だが、ダブルイメージとして、花束を渡される主人公や主賓を気遣う控えめな人物が浮かび上がる。「周りを立てて」とまでいわれると、霞草にあわれをもよおす。主役になりきれない人生への共感に満ちて、じつは温かい句なのだ。         藤波やかなたの人の声をきく               原木裕子     見事な長藤がたなびいている。藤は春の湊のよう。すぐそこまで夏は来ているが、まだ春らんまんの駘蕩としたゆたかさのなかにくつろいでいる。風になびく光景は、桜にもおさおさおとらぬ美しさ。作者は藤波のもつ悠遠さをよくみつめている。樸の原初同人、戸田聰子さんを追慕されているのかもしれない。藤波さながら終焉まで優美で高貴であった人を。戸田邸の藤棚に、皆で招かれた春昼があった。庭先の格子戸の桟までかぐわしい匂いがこぼれていた。「かなた」と「きく」のひらがなが、内容のやさしさにマッチしている。いつまでもいつまでも、その人の声がきこえる深い春の青空である。        (選句 ・鑑賞  恩田侑布子)

5月6日句会 選句と鑑賞

2016-04-24 11.36.38

5月の第一回目の句会は、「蝌蚪(かと)」と「柳」を兼題にしておこなわれました!^^ 蝌蚪とは、おたまじゃくしのことです。参加者のなかでも、蝌蚪という言葉をはじめて聞いたという方がいました(私もそうでした)。 初めて目にしたときは音読することさえ難しいような季語ですが、俳句をつうじてあたらしい言葉を知っていくのはとても楽しいです。 なお、兼題とは、句会に先立って知らされているテーマのことです。季語が選ばれることが多いですが、その他にも何らかの漢字一字や、ほかの言葉が指定されることもあります。 同じテーマに即して、参加者たちが作品を持ち寄るわけですね!  なお、季語には「傍題」もあります。たとえば、「柳」という季語の傍題には、「青柳」「糸柳」「柳影」「柳の雨」「雨柳」などなど、柳にかんするたくさんの言葉が含まれています。「柳」が兼題であるといっても、句会の参加者はこれら多くの傍題を作句に使えます。 さらにあらき俳句会では、兼題として出された季語や言葉を使っていない作品を提出することももちろん可能です。兼題は、あくまで参加者が作品をつくりやすくなる一つのきっかけとして出されるにすぎません。今回の句会でも、「ライラック」「アマリリス」「花時雨」「清明」などの季語による作品がありました。そして、無季の句や破調の句、そして季重なり(二つ以上の季語を含む作品)も、あらき俳句会で分かち合うことが可能です。 今回特選にえらばれたのも、兼題以外の季語「蝮草(まむしぐさ)」を用いた作品でした。あらき俳句会における作品評価には、特選、入選、原石賞、などがあり、特選が最高の評価です。 それでは、今週の特選句と恩田代表による鑑賞を、ぜひお楽しみください! (大井佐久矢)   特選   土中にはあんぢゆうありや蝮草                山田とも恵   蝮草は晩春の季語。山裾の土のなかから這い出し、鎌首をもたげる蝮を思わせる異形の草、蝮蛇草に問いかける。死後土に帰ったとして、土の中には安住があるのですか? この世のどこにも安住はないのではないか。異形のものに問いかけずにはいられない。「あんぢゆう」というひらがな表記によって、土の湿っぽくなまあたたかい不気味さが感じられる。また「土の中」ではなく、ドチュウと音読みしたことで、感傷に沈まず、抒情が強靭になった。行く春の物狂おしさ、生きることの得体の知れなさを独自の文体で描いた作者は、二九歳。将来が楽しみな大型新人の登場である。       (選句 ・鑑賞  恩田侑布子)