
平成29年12月22日 樸句会報 本年最後の句会会場はいつもと違って小ぶりな会議室。至近距離での親密な熱い議論がかわされました。投句の評価は、特選1句あったものの、入選なし、原石賞1句、△1句、シルシ9句という結果でした。一年の疲れが出たのでしょうか?
兼題は「時雨」と「“石”を入れた句」です。
話題句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎「AI」と「考える人」漱石忌
久保田利昭
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
【原】石垣の滑らなりしや水洟や
藤田まゆみ
この句を採ったのは恩田侑布子のみでした。
恩田は、
「発想は面白く、表現が未だしの句。語順を変え切字を一つにすると、水洟を垂らす作者の今と、駿府城の四〇〇年の濠の歴史が対比され、作者のユニークな感性が生きるのでは」
と評し、次のように添削しました。
水洟や濠の石垣滑らなる
△しぐるるやマドンナを待つ同期会
山本正幸
この句を採ったのは男性ばかり。
合評では、
「情景が浮かぶ。ホテルの受付。気が付けば外は雨。そういえばあの〇〇ちゃんはどうしているだろう?今日は来るのか?雨の持つしっとり感と同期の女性への想いが一致した」
「同感!“しっとり感”ですよ」
「“しぐるる”は心の中のざわつきでもある。急に降ってくるのが時雨。彼女は昔のイメージと変わっているかなぁ。もしかしたら・・」
「待つときのもどかしさ、複雑な感情を詠った」
という感想の一方で、
「なんだか、全然ピンときません」
と女性の声(複数)もありました。
恩田侑布子は、
「まだ来ない人を待つ心情のしっとりとした感じはある。小さな喫茶店での会を思った。“同期会”が行われる百人単位の大きなホテルには“しぐるるや”は合わないのでは。きっと会場はビルの中でもう同期会は始まっているのだろう」
と講評しました。
ゝ石橋を冬日と渡り八雲の碑
森田 薫
本日の最高点句でした。
合評では、
「目に浮かぶ光景。“八雲館”のある焼津だろうか。詠われた自然と人名が合っている」
「中七の“冬日と渡り”の措辞がとてもいい」
との共感の一方で、
「句としてはよくできていると思う。しかし、八雲の碑と冬日が少しそぐわないのでは?」
「“あなたと渡り”ではいかが。私は“叩いて渡り”ますが(笑)」
「石橋と碑(いしぶみ)がくどいのではないか」
などの意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「皆さんの鑑賞に同感です。石橋と碑がくどいという指摘はそのとおり。上五~中七はいい。しかし、下五が“八雲の碑”の必然性があるか?吟行の嘱目詠ならいいですが」
と評しました。 今回の兼題の「時雨」について、恩田侑布子は下記の句を紹介し、それぞれ解説をしました。 水にまだあをぞらのこるしぐれかな
久保田万太郎
一句一章の句。万太郎の和文脈です。「かな」の切れが実に美しい。 翠黛の時雨いよいよはなやかに
高野素十
しぐれの持つ“艶”を引き出した句です。京の翠黛山に降る時雨を詠ったものですが、王朝人の翠のまゆずみで描いた眉も奥に幻想され、下五の“はなやかに”が効いて名句になりました。 投句の合評と講評のあと、桂信子の俳句(『桂信子全句集』(1914~2004年) 60歳以降の作品から)を読みました。
共感の声が多くあがりました。「若い頃の“女性性”を前面に出した句よりも格段に良い」との評価も。「忘年や・・」の句に対する「モノではなく、ひとは心の中にいるのですね」との最年長会員の感想に一同大きくうなずきました。
特に点の集まったのは次の句でした。 たてよこに富士伸びてゐる夏野かな 大寒のここはなんにも置かぬ部屋 忘年や身ほとりのものすべて塵 闇のなか髪ふり乱す雛もあれ 冬滝の真上日のあと月通る 恩田侑布子は第一句集を出版した際、桂信子から評価の葉書をもらい、俳句のパーティーでもやさしく声をかけてもらったことがあるそうです。 [後記]
句会の冒頭、恩田侑布子から「このたび“桂信子賞”をいただくことになりました。句集『夢洗ひ』だけでなく、これまでの俳人としての歩みを評価されたことがとても嬉しいです。来月伊丹市の“柿衛文庫”での授賞式に出席し、記念講演を行います」との報告がありました。芸術選奨文部科学大臣賞、現代俳句協会賞に続く受賞で、実に喜ばしいことです。連衆から心よりのお祝いの言葉が述べられました。
(授賞式のご案内はこちらをご覧ください) 本日配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。
「見たマンマを詠むと説明的で即きすぎの句になります。月並ではない新しみある俳句を!」
どうしても発想が月並になってしまう筆者ですが、一気に新しさの高みにのぼる王道がない以上、コツコツ句作を続けようと思います。
次回兼題は、「“寒”を入れた句」「コート」です。
(山本正幸)
特選 「AI」と「考える人」漱石忌
久保田利昭 AI、考える人、漱石忌、三つの名詞が並列や直列の関係にないところが新しい。これはトライアングル構造の句である。もし〈AIと「考える人」漱石忌〉なら、三角構造は崩れて弱くなる。カギカッコで括られた「AI」は「考える人」同様、すでに存在として受けとめられている。ブロンズの「考える人」が覗き込むロダン(1840〜1917)の「地獄の門」は1900年前後の作という。漱石(1867〜1916)は ロダンより二十七も歳下だが、ロダンより一年早く四十九歳で卒した。ロダンの生存期間にすっぽり入るから、同時代の近代を象徴する彫刻家と文豪といえる。そう思うと切れは、〈「AI」と/「考える人」漱石忌〉になり、漱石のみ実在者と思えば、切れは、〈「AI」と「考える人」/漱石忌〉となる。人工知能とロダンの考える人を対比させ、漱石忌でうけとめた後者ととるのが自然だろう。とはいえ、切れの位置の変幻は読者を思弁に誘い込む。人工知能が近未来にかけて猛威を振るい世界の活動を根底から変えようとしている。その「AI」 と「考える人」を、漱石が双肩に受けて真面目な顔で考えて居る。漱石の胃に穴が空いたのは我執のもんだいであったが、今やartificial intelligenceが加わった。山本健吉は、俳句は認識を刻印する芸術であるといった。刻印というより認識の迷宮をそぞろ歩きし、あ、もういいやと、漱石の口髭を撫でたくなる句ではないか。
(選句/鑑賞 恩田侑布子)

12月1回目の句会が行われました。
この日は句会終了後に樸俳句会の忘年会が開催されることもあってか、いつもに増して真面目な雰囲気の句会だったように感じました。今回の兼題は「落葉・霜・冬季雑詠」。久しぶりに特選句も出て、大いに盛り上がりました。
今回の入選句をご紹介します。
浮雲のどれも陰もつ一茶の忌
伊藤重之
合評では、
「俳句の形としてお手本のような句」
「一茶の幸福とは言えない人生が見えるよう」
「“陰もつ”を“陰もち”にした方が、切れが深くなるのではないか」
という意見が出ました。
恩田侑布子は、
「生涯辛酸を舐め続けながらも俳諧自由のこころを失わなかった俳人一茶への共感がある。浮雲は年中見られるけれど、“どれも陰もつ”という措辞に十一月の季感がただよい、肌寒さを感じさせる」
と講評しました。
落葉踏む堤の端にひとりかな
藤田まゆみ
恩田は、
「堤の突端 まで落葉を踏んでゆく。つくづく誰も居ないなと思う。作者の背後には落葉が記憶のように降り積もっている。孤独感とさみしさをうたって、嫌味や押し付けがましさのないところがいいじゃありませんか」
と講評しました。
リヤカーの塀に倒立石蕗の雨
森田 薫 合評では、
「絵として美しく情景が見えるようだが、リヤカーが立てかけてある情景を“倒立”とするところに少し違和感を持った。“塀に立てかけ”のほうが自然ではないか」
という意見が出ました。
恩田は、
「一枚の絵に完全になっている。内塀でしょう。ほとんど使わないかすでに使い手のいなくなったリヤカーが、広い元農家の敷地片隅の塀に立てかけてある。しずかに降る雨が過ぎ去った時間を慰撫するよう。日のひかりの薄い初冬の情景として出色」
と講評しました。 下記に掲載する特選句は、今回、恩田を含む参加者の約半分が点を入れるという最高得点句となりました。この特選句に関しては「“霜雫”という季語が、どんな情景を描いているか」というところで議論を呼びました。植物に降りた霜から溶け出した雫なのか、屋根にできた霜が垂れ落ちる様子か。たった二文字の言葉に語りつくせぬ情景が詰まっている豊かさに、言葉の持つ面白さを改めて噛みしめる時間となりました。次回の兼題は「時雨・石」です。(山田とも恵)
特選
霜雫この世の時間使ひきる
伊藤重之 霜雫は温かい静岡平野の市街地ではまず目にすることはない。わたしも四半世紀前にいまの山中に引っ越して、初めて厳寒の時期だけ見聞きするようになった。霜が降りる日は、明け方冷え込んでも日中はよく晴れる。冬晴れの下、山あいでは納屋などのトタン屋根から霜雫がかがやくように地に落ちる。それは朝霜の一面の厳しい白さとはまた別種の風情。どこかあの世の明るさもふくむ明るさ、ふしぎな時間である。すべてを昇華した末のような水滴が、寒気のゆるんだ日向に銀色のしずくを滴らせ、ときに水銀柱をおもわせる垂線を引く。静かで清らかな冬の真昼。愛するかけがえのないひとは、なすすべもなくこの世のいのちの火を使い切ってしまった。霜夜のような凍てつく時間、凍る思いの日 々のはてに、いま真っ青な冬晴れに見守られて大地にかえってゆく雫。泪のとけこんだ銀のかがやきがひとの一生に重なる。「霜雫」の季語の本意本情に一歩を付け加え得た俳句といえるのではなかろうか。
(選句/鑑賞 恩田侑布子)

10月2回目の句会が開催されました。雨続きの今秋ですが、静岡はこの日晴れ間が見え、暖かな日差しが差し込んでいました。 本日の兼題は「酒」。お酒を楽しまれる方が多い樸俳句会。実感のこもった俳句が多く盛り上がりました。高得点句を中心にご紹介してまいります。(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎一葉忌縦皺多き爪を切る
杉山雅子
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
◯隣室は数学を吾は新酒を
藤田まゆみ 合評では、
「数学の難しい問題に挑むワクワク感と、新酒を飲むワクワク感。別々の部屋にいるのに静かなワクワク感が共通している」
「論理的な思考と、感情的な楽しみが隣り合わせになっている面白さのある句」
という感想が出ました。
恩田は、
「ユニークな内容に句またがりの破調が合っていて面白い。隣では数学の難問に取り組んでいる子ども、わたしはへっちゃらで新酒を傾ける。秋の夜長にそれぞれの楽しみがあっていい。型にはまらない個性的なのびのびとした俳句で楽しい」
と評しました。 ◯深酒を洗ひ流すや天の川
久保田利昭 合評では、
「酒飲みの心境がよく詠まれている。きれいな星空を見て、ちょっと反省することってあるよね」
「サラッとした句。ヒヤッとした夜の空気を感じる」
恩田は、
「酒豪はやることが大きい。深酔いして夜更け家路につくとき、天の川の下で酒気を洗い流すという。恩田は天の川で夢を洗う「夢洗ひ」でしたが久保田さんは酒を洗う「酒洗ひ」。してみると天の川はミルキーウェイじゃなく、どぶろくどくどくでしょうか」
と評しました。
◯良寛のいろは一二三や草の花
伊藤重之 この句は恩田のみ入選で、ほかは誰も点を入れませんでした。
その理由として「あまりにも上手」「良寛にもたれかかってしまっていると感じた」というような意見が出されました。
恩田は、
「良寛に“いろは”“一二三”の双幅があって名高い。良寛の手跡のやわらかさと草の花が絶妙な配合で上手い句。欲をいうと技術力で書けてしまったような、どこか肉声から遠い感じのするうらみもある」
と講評しました。
[後記]
秋の季語には「酒」を含むものが多くこの兼題となりましたが、想像以上に幅広いお酒の種類が句に登場し、いつも以上に自由な明るい句会となりました。お酒は感情に直結する飲み物なので、句が思い浮かびやすいのかもしれません。飲めない筆者としては、羨ましい気持ちになりました。次回の兼題は「身に入む」「林檎」です。(山田とも恵)
特選
一葉忌縦皺多き爪を切る
杉山雅子 縦皺の爪は老化現象といわれる。雨の降るような手足の爪を久しぶりに切る。気づけば今日は二十五歳で死んだ樋口一葉の命日十一月二三日。いつの間にか一葉の何倍も年を重ねてしまった。桜貝のような爪であった一葉のうら若い肉体を蝕んだ結核、病のなかではげしく才能を燃焼させて書き綴った不滅の文学作品、そして我が八十路の来し方をこもごも重ねみる。
一句の良さは対比された文学者一葉と私の命との等価性にある。どちらもずっしりと重く、その価値に軽重はない。冬の深まりにこの世に生きる悲しみを分かち合い人の世の不思議な運命を思う。
(選句 ・鑑賞 恩田侑布子)

7月1回目の句会。本日は七夕。静岡市清水区の七夕祭も今年で65回目になります。
兼題は「バナナ」と「虹」。特選2句、入選2句、原石賞2句、シルシ9句という結果でした。
高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎虹の橋袂めざして走れ走れ
久保田利昭
◎アリランの国まで架けよ虹の橋
杉山雅子
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇置き去りのバナナ昭和の色となる
萩倉 誠 合評では、
「こういう発想は今までなかったのではないか。 “置き去り”が分かりにくいかもしれないが」
「古びていく昭和への哀感がある。高度成長した昭和の時代が去っていく寂しさ」
「バナナは昭和の象徴だろう。琥珀色の中に死んでいく昭和」
「“置き去り”のバナナと“昭和”の取り合わせに無理矢理感があるが、発想は面白い」
「“となる”が不自然」
などの感想、意見がありました。
恩田は、
「“意味”に還元していないところが良い。昭和の時代へのノスタルジア、ペーソスを感じ、説明できないニュアンスがある。それは良い句の条件でもある。季語が効いており、面白い感性だ。哀惜の情はあっても、昭和の時代への政治的な批判精神はない。哀惜の情を詠うとき批評は邪魔になる。昭和史の中に眠ろうとするあまたのエピソード。その人固有の体験を呼び覚まそうとしている」
と講評しました。
〇虹立つやミケランジェロの指の先
塚本敏正 「リズムがすがすがしい。気持ちのいい句」
「私は “ピエタ”が好き。ミケランジェロの指から虹が立っている。本物の虹との二重イメージの句」
「ミケランジェロその人の指ではなく、真っ白な大理石の彫刻の指。例えば、巨人ゴリアテへ投げる石を持ったダビデの手を想像させる。虹は希望の象徴」
「“ダビデの像の”と作品を特定すれば、特選でいただいたのに」
との感想、意見。
恩田は、
「そのままミケランジェロの指と読むべきだ。固有名詞が効いている。例えば“草間彌生の”とすると“虹”と相殺してしまう。ミケランジェロだからこそルネッサンスの時代精神を体現し、芸術賛歌になっているし人間賛歌にもなっている。ミケランジェロの作品名を載せるとそこに収斂してしまう。ここにはエコーのような多層構造がある」
と講評しました。
【原】スコール過ぎバナナの下に水平線
佐藤宣雄
恩田は、
「迫力のある句。景色に重量感と立体感があるが、上五を変えたい」
と講評し、次のように添削しました。 天霽(は)るるバナナの下に水平線
【原】バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日々
西垣 譲 合評では、
「まもなく命が尽きるとき、最後に“これを食べたい”という欲望が出てくる。昔バナナは風邪をひかないと食べられなかった。戦争体験が背景にある」
「五七五に収まりきらず、内容は短歌的のように感じた。“切れ”はないが、一気に読み共感した」
「“喰ひ”のほうが良いのでは?」
などの感想と意見が出ました。
恩田は、
「生きるという実感のある句。“喰ひて”の字余りは問題ない。“喰ひ”だと“死なむ”に繋がっていかない。むしろ“日々”を変えたい。このままだと長いある一定の期間となり、理屈に解消し思い出話になってしまう。“あの時”という切実感を出したい」
と講評し、次のように添削しました。 バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日
[後記]
恩田侑布子の句集『夢洗ひ』が、平成29年度の現代俳句協会賞(第72回)を受賞しました。芸術選奨文部科学大臣賞とのダブル受賞です。
句会冒頭、樸俳句会一同でお祝いを申し上げ、大きな拍手を送りました。連衆にとって励みになることです。 今回の兼題の「バナナ」について話が盛り上がりました。句会参加者の年齢層にあっては、当時のバナナは高級品。一日3本以上食べることもあるという人もいて、健康談義にまで広がりました。皆さんそれぞれ思い入れがあって句作に取り組んだようです。
次回兼題は、「空梅雨」と「トマト」です。
(山本正幸)
特選
虹の橋袂めざして走れ走れ
久保田利昭 虹の脚や虹の根はよく俳句にされるが、「虹の橋の袂」は盲点かもしれない。しかも座五に「走れ走れ」と命令形を畳み掛けたところがユニーク。一読して、あまりにも楽天的な向日性を思う。が、一句の異様な無音に気付くや、世界は一転、不気味な悪夢のように思えてくる。走った末に行き着くところは虹の橋ではなく、袂にすぎない。しかも掴むことも登ることもできない幻かもしれない。それなのにひたむきに走る。もしかしたらこれは、底無しの虚無ではないか。楽天と虚無がメビウスの環のような階段になったエッシャーのだまし絵のような俳句。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)
特選
アリランの国まで架けよ虹の橋
杉山雅子 「アリランの国」という措辞がよく出たと感心した。何か他の国を象徴するもので代用できないか考えてみたが「サントゥールの国」では甘くなるし、「ウォッカの国」では虹が生きない。アリランは動かない。日本は韓国侵略の歴史をもち、近年は一部の人によるヘイトスピーチもある。また民族分断という悲劇の歴史も継続している。作者は隣国の庶民に深い共感を寄せ、幸せを祈る。それは自身が少女時代に戦争を体験したことも大きいだろう。アリランという哀調の民謡を唄う庶民に人間として共感を惜しまず、この虹を隣国まで架けようという心根は美しい。視覚的にもチマの鮮やかな遠い幻像に、大空の虹が濃淡をなして映発し合う。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)

6月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「麦秋」「鮎」。
夏の季語なのに「麦の“秋”」これ如何に!?日本語の季節をあらわす言葉は実に面白いですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします
◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ
◎日表に阿弥陀を拝す麦の秋
荒巻信子
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇麦の秋ことさら夜は香りけり
西垣 譲 「見た目でなく香りに着眼した所が良い」
「湿気ているような香りで季節感を表現している」
というような感想がでました。
恩田侑布子は
「麦秋は一年で一番美しい季節だと思っている。その夜の美しさがサラッと描けている一物仕立ての句」
と講評しました。
〇カーブを左突き当たる店囮鮎
藤田まゆみ 「なんとも不思議な句。理屈はいらない。囮鮎のお店へ向かうワクワク感が詠み込まれている」
という意見が出ました。
恩田侑布子は
「見たことのない個性的な句。運転手と助手席の人との会話の口語俳句。可笑しさがあるだけでなく、“カーブ”という言葉から川の流れに沿って蛇行した道を車が走っていることが分かる。沿道には緑の茂みがあり、季節感まで詠みこまれている」
と講評しました。
〇巨大なる仏陀の如し朴の花
塚本敏正 恩田侑布子は
「“巨大なる仏陀”と先に言うことで、作者の驚きが出ている。山を歩いているとき、谷を覗くと朴の花がその谷の王者のように咲き誇っているところに出会う。その姿を想像すると“巨大なる仏陀”は決してこけおどしでなく、朴の花の本意に届き、その気高さを捉えている。直喩はこれくらい大胆なほうが良い。誰もが思いつくようなものはだめ。直喩には発想の飛躍が必要」
と講評し、直喩を使った名句を紹介しました。 死を遠き祭のごとく蝉しぐれ
正木ゆう子
やませ来るいたちのやうにしなやかに
佐藤鬼房
雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし
飯田龍太
〇駄犬どち鼻こすり合ふ春の土手
西垣 譲 「やさしい句。“駄犬”と“春の土手”が合っている。あまり美しくない犬でしょ」
という感想がでました。
恩田侑布子からは、
「散歩している人と犬同士が出くわし、はしゃぎあっている様子が分かる。“どち”の措辞がうまい。“駄犬らの”にするとダメ。作者も犬と同化していて、動物同士の温もりと春の土手の温もりが感じられる」
との講評がありました。 今回の句会では点がばらけたこともあり、たくさんの句を鑑賞しあうことができました。が、それゆえ終了時間間際はかなり駆け足になってしまいました。それぞれ思い入れのある句を持ち寄るものですから、致し方ないですね。作者から句の製作過程を直接伺えるのも句会の楽しみの一つです。
次回の兼題は「バナナ・虹」です。
(山田とも恵) 特選
日表に阿弥陀を拝す麦の秋
荒巻信子 日光のさす場所が日表。田舎の小さなお堂に安置された阿弥陀三尊像だろう。もしかしたら露座仏。磨崖仏かもしれない。阿弥陀様は西方浄土を向いておられるから、まさにはつなつの日は中天にあるのだろう。背後はよく熟れた刈り取り寸前の麦畑、さやさやとそよぐ風音も清らかである。阿弥陀様のまどやかなお顔、やさしく微笑む口元までも見えてくる。「拝す」という動詞一語が一句を引き締め、瞬間の感動を伝える。日表と麦秋という光に満ちた措辞が、この世の浄土を現出している。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)

6月1回目の句会。兼題は「夏の日」と「更衣」です。
特選2句、入選2句、原石賞1句、シルシ10句。粒揃いの句が多かった前回と比べると今回は不調気味。
兼題にもよるのでしょうか。浮き沈みの激しい?樸俳句会です。
高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします
◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ
◎風立ちて竹林にはか夏日影
松井誠司 ◎先生の自転車疾し更衣
山本正幸
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇膝小僧抱きて見る君夜光虫
山田とも恵 合評では、
「幻想的な句。ロマンティシズムも感じられる。夜光虫の青白い光が“君”という人間のかたちになってくる」
「発想が面白い」
「膝小僧を抱くのが誰なのか分かりにくい」
などの感想、意見がありました。
恩田は、
「膝小僧を抱いて遠くから好きな人を見ている。海辺には大勢の仲間がいる。あの人が好きなのに傍に行けないもどかしさ。夜光虫のブルーの光が幻想的に渚を彩る」
と講評しました。
〇吹き抜けに大の字でいる夏日かな
久保田利昭 「こういう光景にあこがれる。誰もいないお寺かな」
という感想。
恩田は、
「天井の高い吹き抜けのフロアーに大の字で寝ころがる。高窓から午前の陽が射しており、まだ涼しい時間である。いまにもストレッチ体操でも始まりそうな健康的な感覚に溢れている」
と講評しました。
【原】立ちこぎて夏を頬ばる男子かな
萩倉 誠 合評では、
「自転車に乗って、頬ばった夏の風はどんな味がするのだろう?」
「風を受けて爽やかな感じが伝わってくる」
「“夏を頬ばる”の措辞で採った」
などの感想。
恩田は、
「“立ちこぎて”が耳慣れない。また“男子(だんし)”がそぐわないかな」
と講評し、次のように添削しました。 立ち漕ぎの夏を頬ばる男の子かな
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投句の合評と講評のあと、いつも恩田が現俳壇から注目の句集を紹介し鑑賞するコーナーがあります。
今回は5月29日の朝日新聞紙面の「俳句時評」で恩田侑布子が取り上げた上田玄氏の俳句(『月光口碑』より20句抄出)を読みました。
はじめに恩田から、作者を取材して知り得た来歴、時代背景などの紹介がありました。 連衆からは、
「挫折していった仲間たちを想って詠っていると思う」
「同世代として共感できる句がある」
「生きていくことへの決意を感じる。自分をスカラベに擬した句に共感」
「イメージが追いついていかない」
「いちいち辞書を引かないと理解がおぼつかない」
「戦争体験者としてはやや違和感がある」
「この世代の“戦争”とは“ベトナム戦争”を指すのではないか」
「謎めいている。謎解きを読者に強いる」
「深刻すぎないか? ナルシシズムを感じる」
「やはり万人に分かる俳句であるべきだろう」
「俳句というより“詩”に近いと思う。
『現代詩手帖』に出てきそう」
「この内容を読者に媒介する人、訳す人が必要」
など様々な感想や意見がありました。 恩田は、
「多行形式という表現技法は措いて、実に深い世界である。古典の素養も背景にある。こういう句を埋もれたままにしておいてはいけない、と思った。今、俳壇が軽く淡白になってゆく中で貴重だ」
と語りました。
一番票を集めた句は次の二句です。 人間辞めて
何になる
水切り石の
跳ねの旅 塩漬けの
魂魄を
荷に
驢馬の列 [後記]
上田玄氏の俳句について、同じ時代の空気を吸ってきた筆者としては俄かには評価しがたい感じに襲われました。まさに、おのれの来歴と現在の在り方を問うものであるからです。どの句にも “祈り”(家族への、友人たちへの、時代への、そして・・)がこめられていると思います。
次回兼題は、「麦秋」と「鮎」です。(山本正幸) 特選
風立ちて竹林にはか夏日影
松井誠司 夏日影は陰ではなく、夏の日のひかりをいう。純然たる叙景句は難しいが、技巧の跡をとどめない自然な句である。カタワカナカと6音のA音が主調をなす明るい調べも内容にマッチして心地よい。一陣の風に竹幹がしない、いっせいに大空に竹若葉がそよぎわたる。はつなつの光が放たれる里山の光景である。竹の琅玕、若竹のみずみずしさ、きらきらと透き通る日差しのなかに、読み手もいつしらず誘われてゆく。
藤枝市在の白藤の瀧への吟行と、あとから聞く。地霊も味方してくれたのだと納得。
特選
先生の自転車疾し更衣
山本正幸 更衣の朝、通学路は一斉にまばゆいワイシャツの群れとなる。「おはよう」。背中からさあっと風のように追い越してゆくひと。あ、先生だ。作者の憧れの先生は女性だが、読み手が女性なら男の先生を想像するだろう。初夏の風を切ってゆく背中が鮮やかである。更衣の季語から朝の外景に飛躍し、はちきれんばかりの若さにあふれる。疾しと、中七を形容詞の終止形で切り、座五を季語で止めた句姿も美しい。一句そのものに涼しいスピード感がある。
(選句 ・鑑賞 恩田侑布子)

本日はスペイン国王と妃殿下、天皇皇后両陛下がご来静。会場近くの静岡浅間神社では稚児舞楽をご覧になりました。通規制のため、少し遅れて句会が開かれました。
兼題は「古草」と「春障子」です。 (句頭の記号凡例)
◎ 特選 〇 入選 【原】原石賞
△ 入選とシルシの中間 ゝシルシ 高点句を紹介していきましょう。 ◎早退けの少女かくまふ春障子
山本正幸
◎妻と子は動物園へ春障子
西垣 譲
(下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)
〇古草や突つ込んでおく古バイク
西垣 譲 合評では、
「情景がよく分かる。懐かしく、温かい感じ」
「家庭の物置の日陰。倉庫に入らないから横っちょに。とり合わせが面白い。」
「バイクへの愛情を感じる」
「いや、もう乗らないので、その辺に突っ込んでおくのですよ」
「“古”が二回出てくるのが引っかかる」
「でも、それが逆にいいのでは。」
などの感想、意見が出ました。
恩田は、
「“古”が味を出している。このふたつの“古”は違う。古草は去年の草だが、古バイクは10年も20年も乗ってきて愛着があり、その思い出を裏に潜めている。“古”に濃淡がある。“突つ込んでおく” というぶっきらぼうで勢いのある言葉が上五と下五を繋ぎ、血の通った俳句となった」
と講評しました。
〇約束を反故にし寝ねり春障子
佐藤宣雄 合評では、
「読めばすぐ分かる句。何か理由は知らないが出て行くのが嫌になったのだろう。“春障子”に温かさがあり、“反故にし”で滑稽味も出た」
「“寝ねり”という無責任さが男っぽい。“反故にし”に意志が感じられるが、逡巡もあるのでは。」
「居直ってますよ。反省していない!」
と感想、意見はまちまち。
恩田は、
「独特の身体感覚による春障子。すっぽかしておきながら明るさがまとわりつき、居心地が悪くて安らぐことができない。屈折した心理を春障子がうまく受け止めている」
と講評しました。
〇古草や鎌の手止める貫頭衣
松井誠司
「最近うちの菜園の手入れをした。古草は根を張っていてしぶとい。この句からはその生命力が感じられる」
「“貫頭衣”が分かりにくかったが、登呂遺跡での光景でしょうか。愛着を感じる句」
との感想。
恩田は、
「弥生人の生活の息吹が生々しく伝わってくる。作業のふと手を止めた瞬間を切り取っている。古草と貫頭衣の取り合わせが面白く、絵画的に決まった」
と講評しました。
ゝ庭石のみな角とれて草古し
杉山雅子 「昔は格式のあった古い家。その庭の石をいろんな人が踏んで通っていったのだろう。」
「日本風の落ち着いた住まい。住人は若い頃バリバリ働き、老いた今も矍鑠としている。住む人の息遣いや人物像まで投映している」
との感想が聞かれました。
恩田からは、
「落ち着いた日本の家の庭の様子を詠んでいるが、季感が薄い。“みな”はあいまいな形容であり、甘い。感じは分かるが焦点が定まらない。もう少し中七を工夫して、自分の観点で焦点を絞り直したら」
と厳しめの講評がありました。
ゝ古草やひそりと昭和閉ぢてゆく
伊藤重之 「“ひそりと”に心情的に共感する。哀惜の心」
と共鳴の声。
恩田は、
「その“ひそりと”が根付いていない。俳句は副詞や形容詞から古びていくので気をつけなければいけない。また、“閉ぢてゆく”という時間の経過表現があまりよろしくない」
と講評しました。
[後記]
今日の恩田侑布子の指導テーマは「観念から詩的真実(リアル)へ」。今回は観念に堕ちていく投句が目立ったとのこと。「意味や理屈を離れて、詩のリアルを獲得してほしい」といつもにも増して熱く語った恩田代表でした。
今回、私が「古草も新草もなく犬尿(いば)る」の句を採らせていただいたとき、恩田侑布子代表から「季重なりですが、いいのですか?」と問われました。「犬は古草と新草の区別もつかず、季語を知りませんから」と私が答えたところ、「それが理屈!そこから離れなければいけません。理屈を追い出すこと」と一刀両断されました。まさに今日のテーマ!(ちょっと堪えましたが納得です)
次回兼題は、「風光る」と「雲雀」です。(山本正幸)
特選
早退けの少女かくまふ春障子
山本正幸 頭が痛くなったのか、お腹が痛くなったのか。大した病気ではなさそうだが、思春期の危うさを感じる。桜の咲く前の柔らかいひかりが障子を明るい雪洞のようにしている部屋に引きこもる。それを春障子が意思あるように「かくまう」といった。あえて不穏な言葉を使ったことで「異化効果」が生まれ、春障子が呼吸をし出す。少女との間にあたかも密事(みそかごと)がなるよう。清楚なエロティシズムまで感じられる。言語感覚のよろしい極めて繊細な句。 特選
妻と子は動物園へ春障子
西垣 譲
ぬけぬけとした長閑さがユニーク。ちょうど妻と子が動物園のゴリラを見ている間、一家の主人である作者は所在無く春障子の明るいふくらみの中にいる。ついていけばよかったかな。いやいや、騒がしいやつらのいない日曜の昼間はなんて貴重なんだ。一抹の寂しさの中に満足感があり、いかにも春昼の風情。「へ」は俳句では難しいが、うまく働いている。そこはかとない俳味がある。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)

桃の節句の句会。兼題は「紅梅、和布」です。
句会会場近くの駿府城公園に紅葉山庭園があります。ちょうどいま、飛び石伝いに梅林を散策して香りにうたれることができます。 高点句を紹介していきましょう。 朝日入る一膳飯屋わかめ汁
佐藤宣雄 恩田侑布子の入選句で、合評では、
「生活感のある句だ。夜勤を終えてくつろぐ肉体労働者の姿が浮かぶ」
「“朝日入る”という上五がいい。作者の感性に共感した」
「学生街の一膳飯屋を想像した。都会の一隅の光景」
「独り者だろう。“朝日入る”が効いている。小さな開放的な店の景がくっきりしている。月並みでない面白さがある」
などの感想、意見が出ました。
恩田は、
「みなさんの鑑賞がいい。シッカリ書けていて、曲解されることのない句でしょう。安サラリーマンや学生が気軽に寄る店。あたたかい元気なおじちゃんおばちゃんが迎えてくれる。上五が清々しく、飾り気がない。和布の兼題で、浜辺ではなく店をもってきて成功している。平易な言葉が使われており、いろいろな人の想像力を掻き立てることができた」
と講評しました。
紅梅や進む病状月毎に
樋口千鶴子 恩田侑布子の入選で、合評は
「深刻な病気の状況であろう。現代社会では、安楽死など死をめぐる議論がいろいろある。人工呼吸器を着けたらもとに戻れない。大変な気持ちを抑えて句にしている。それを紅梅と対比させている」
との共感の声がありました。
恩田は、
「“紅梅”が効いている。紅梅はうつくしいが、むごさや残酷さも併せ持つ。他の植物では中七以下を受け止めきれないだろう。あえて感情を押し殺して事実のみを述べた。そぎ落とされた表現が共感を呼ぶ」
と講評しました。
色褪せてなを紅梅の香を残し
樋口千鶴子
「近くの公園に白梅と紅梅が咲いている。紅梅は白梅に比べて少し重い。しつこさもある。この句は、まだまだどっこい生きているぞという心意気がベースにあると感じた」
との感想が聞かれました。
恩田は、
「千鶴子さんはいつもものをよく見ている。誠実な眼差しが感じられる。白梅の潔い散り際に比べて、紅梅は白っぽく色が抜けたり、逆にくろずんだりして縮れて落ちる。ここでは香りに注目したのが良い。昔の人は香りの高い植物を愛好し、自分の生きる鑑とした。この句は散文のようだが、内容が良く、下五に実がある。紅梅のありように自分を重ねた。一生を見つめて一瞬を詠むのが俳句」
と講評しました。
紅梅の髪にかざして自撮りして
久保田利昭 「~して~して、という軽快感がよい」
「髪に花をかざす習慣は昔からあったが、“自撮り”で新しさが出た」
などの感想。
恩田は、
「軽いタッチの句。紅梅とこの女性の自己愛(ナルシシズム)がつり合っている。白梅ではこうはいかない。季語が効いている」
と講評しました。
風に老い飛沫に老いぬ和布採
伊藤重之 「“老い”のリフレインが効いている。和布採りの一情景と一老人の生き方が重なる」
との感想。
恩田は、
「対句をいいと思うか、鼻につくかで評価が分かれる。ちょっとカッコつけすぎているところのある句だ」
と講評しました。
[後記]
今回の句会で恩田が強調したのは「よく見る」ということでした。
よく見る(視る)とは、ただ網膜という器官に像を写すのではなく、意識と五感を総動員しなければいけないことを痛感。
次回の兼題は「古草」「春障子」です。(山本正幸) 特選 紅梅を仰げるあぎと娶りけり
山本正幸
濃艶である。紅梅を仰ぐ女性の透けるような白い肌の顎から喉もと、首筋がみえてくる。こんな美しい女を我妻にしたのだという男の満足感と、ある種の征服感まで感じられる。白い喉のなめらかさに負けず、紅梅はいっそう黒々と濃く中天にこずむ。性愛の烈しさが匂う。「あぎと」に焦点を絞って、紅梅の紅と対比させた技法が巧みである。講座では、「娶りけり」はジェンダーギャップのことばで不快、という意見も出た。たしかにそう。しかしそれがわたしたちの蓄えてきた「言語阿頼耶識」であることも事実。時に、性愛の場は平等をよろこばない。さくらよりも肉感的なエロスを匂わせる紅梅がふさわしい由縁。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。