「本日の特選句・入選句・最高点句」カテゴリーアーカイブ

本日の句会で高い評価を得た作品をご紹介します!

4月7日 句会報告と特選句

sakura

 本日はスペイン国王と妃殿下、天皇皇后両陛下がご来静。会場近くの静岡浅間神社では稚児舞楽をご覧になりました。通規制のため、少し遅れて句会が開かれました。 兼題は「古草」と「春障子」です。 (句頭の記号凡例) ◎ 特選 〇 入選 【原】原石賞 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ 高点句を紹介していきましょう。 ◎早退けの少女かくまふ春障子             山本正幸     ◎妻と子は動物園へ春障子             西垣 譲 (下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)         〇古草や突つ込んでおく古バイク             西垣 譲 合評では、 「情景がよく分かる。懐かしく、温かい感じ」 「家庭の物置の日陰。倉庫に入らないから横っちょに。とり合わせが面白い。」 「バイクへの愛情を感じる」 「いや、もう乗らないので、その辺に突っ込んでおくのですよ」 「“古”が二回出てくるのが引っかかる」 「でも、それが逆にいいのでは。」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「“古”が味を出している。このふたつの“古”は違う。古草は去年の草だが、古バイクは10年も20年も乗ってきて愛着があり、その思い出を裏に潜めている。“古”に濃淡がある。“突つ込んでおく” というぶっきらぼうで勢いのある言葉が上五と下五を繋ぎ、血の通った俳句となった」 と講評しました。     〇約束を反故にし寝ねり春障子             佐藤宣雄 合評では、 「読めばすぐ分かる句。何か理由は知らないが出て行くのが嫌になったのだろう。“春障子”に温かさがあり、“反故にし”で滑稽味も出た」 「“寝ねり”という無責任さが男っぽい。“反故にし”に意志が感じられるが、逡巡もあるのでは。」 「居直ってますよ。反省していない!」 と感想、意見はまちまち。 恩田は、 「独特の身体感覚による春障子。すっぽかしておきながら明るさがまとわりつき、居心地が悪くて安らぐことができない。屈折した心理を春障子がうまく受け止めている」 と講評しました。     〇古草や鎌の手止める貫頭衣             松井誠司   「最近うちの菜園の手入れをした。古草は根を張っていてしぶとい。この句からはその生命力が感じられる」 「“貫頭衣”が分かりにくかったが、登呂遺跡での光景でしょうか。愛着を感じる句」 との感想。 恩田は、 「弥生人の生活の息吹が生々しく伝わってくる。作業のふと手を止めた瞬間を切り取っている。古草と貫頭衣の取り合わせが面白く、絵画的に決まった」 と講評しました。     ゝ庭石のみな角とれて草古し             杉山雅子 「昔は格式のあった古い家。その庭の石をいろんな人が踏んで通っていったのだろう。」 「日本風の落ち着いた住まい。住人は若い頃バリバリ働き、老いた今も矍鑠としている。住む人の息遣いや人物像まで投映している」 との感想が聞かれました。 恩田からは、 「落ち着いた日本の家の庭の様子を詠んでいるが、季感が薄い。“みな”はあいまいな形容であり、甘い。感じは分かるが焦点が定まらない。もう少し中七を工夫して、自分の観点で焦点を絞り直したら」 と厳しめの講評がありました。     ゝ古草やひそりと昭和閉ぢてゆく             伊藤重之 「“ひそりと”に心情的に共感する。哀惜の心」 と共鳴の声。 恩田は、 「その“ひそりと”が根付いていない。俳句は副詞や形容詞から古びていくので気をつけなければいけない。また、“閉ぢてゆく”という時間の経過表現があまりよろしくない」 と講評しました。     [後記]  今日の恩田侑布子の指導テーマは「観念から詩的真実(リアル)へ」。今回は観念に堕ちていく投句が目立ったとのこと。「意味や理屈を離れて、詩のリアルを獲得してほしい」といつもにも増して熱く語った恩田代表でした。 今回、私が「古草も新草もなく犬尿(いば)る」の句を採らせていただいたとき、恩田侑布子代表から「季重なりですが、いいのですか?」と問われました。「犬は古草と新草の区別もつかず、季語を知りませんから」と私が答えたところ、「それが理屈!そこから離れなければいけません。理屈を追い出すこと」と一刀両断されました。まさに今日のテーマ!(ちょっと堪えましたが納得です) 次回兼題は、「風光る」と「雲雀」です。(山本正幸)     特選     早退けの少女かくまふ春障子                 山本正幸  頭が痛くなったのか、お腹が痛くなったのか。大した病気ではなさそうだが、思春期の危うさを感じる。桜の咲く前の柔らかいひかりが障子を明るい雪洞のようにしている部屋に引きこもる。それを春障子が意思あるように「かくまう」といった。あえて不穏な言葉を使ったことで「異化効果」が生まれ、春障子が呼吸をし出す。少女との間にあたかも密事(みそかごと)がなるよう。清楚なエロティシズムまで感じられる。言語感覚のよろしい極めて繊細な句。 特選   妻と子は動物園へ春障子                  西垣 譲    ぬけぬけとした長閑さがユニーク。ちょうど妻と子が動物園のゴリラを見ている間、一家の主人である作者は所在無く春障子の明るいふくらみの中にいる。ついていけばよかったかな。いやいや、騒がしいやつらのいない日曜の昼間はなんて貴重なんだ。一抹の寂しさの中に満足感があり、いかにも春昼の風情。「へ」は俳句では難しいが、うまく働いている。そこはかとない俳味がある。        (選句・鑑賞 恩田侑布子)

3月3日 句会報告と特選句

boutou

桃の節句の句会。兼題は「紅梅、和布」です。 句会会場近くの駿府城公園に紅葉山庭園があります。ちょうどいま、飛び石伝いに梅林を散策して香りにうたれることができます。 高点句を紹介していきましょう。 朝日入る一膳飯屋わかめ汁             佐藤宣雄 恩田侑布子の入選句で、合評では、 「生活感のある句だ。夜勤を終えてくつろぐ肉体労働者の姿が浮かぶ」 「“朝日入る”という上五がいい。作者の感性に共感した」 「学生街の一膳飯屋を想像した。都会の一隅の光景」 「独り者だろう。“朝日入る”が効いている。小さな開放的な店の景がくっきりしている。月並みでない面白さがある」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「みなさんの鑑賞がいい。シッカリ書けていて、曲解されることのない句でしょう。安サラリーマンや学生が気軽に寄る店。あたたかい元気なおじちゃんおばちゃんが迎えてくれる。上五が清々しく、飾り気がない。和布の兼題で、浜辺ではなく店をもってきて成功している。平易な言葉が使われており、いろいろな人の想像力を掻き立てることができた」 と講評しました。   紅梅や進む病状月毎に            樋口千鶴子 恩田侑布子の入選で、合評は 「深刻な病気の状況であろう。現代社会では、安楽死など死をめぐる議論がいろいろある。人工呼吸器を着けたらもとに戻れない。大変な気持ちを抑えて句にしている。それを紅梅と対比させている」 との共感の声がありました。 恩田は、 「“紅梅”が効いている。紅梅はうつくしいが、むごさや残酷さも併せ持つ。他の植物では中七以下を受け止めきれないだろう。あえて感情を押し殺して事実のみを述べた。そぎ落とされた表現が共感を呼ぶ」 と講評しました。     色褪せてなを紅梅の香を残し            樋口千鶴子   「近くの公園に白梅と紅梅が咲いている。紅梅は白梅に比べて少し重い。しつこさもある。この句は、まだまだどっこい生きているぞという心意気がベースにあると感じた」 との感想が聞かれました。 恩田は、 「千鶴子さんはいつもものをよく見ている。誠実な眼差しが感じられる。白梅の潔い散り際に比べて、紅梅は白っぽく色が抜けたり、逆にくろずんだりして縮れて落ちる。ここでは香りに注目したのが良い。昔の人は香りの高い植物を愛好し、自分の生きる鑑とした。この句は散文のようだが、内容が良く、下五に実がある。紅梅のありように自分を重ねた。一生を見つめて一瞬を詠むのが俳句」 と講評しました。     紅梅の髪にかざして自撮りして           久保田利昭 「~して~して、という軽快感がよい」 「髪に花をかざす習慣は昔からあったが、“自撮り”で新しさが出た」 などの感想。 恩田は、 「軽いタッチの句。紅梅とこの女性の自己愛(ナルシシズム)がつり合っている。白梅ではこうはいかない。季語が効いている」 と講評しました。     風に老い飛沫に老いぬ和布採            伊藤重之 「“老い”のリフレインが効いている。和布採りの一情景と一老人の生き方が重なる」 との感想。 恩田は、 「対句をいいと思うか、鼻につくかで評価が分かれる。ちょっとカッコつけすぎているところのある句だ」 と講評しました。     [後記]  今回の句会で恩田が強調したのは「よく見る」ということでした。 よく見る(視る)とは、ただ網膜という器官に像を写すのではなく、意識と五感を総動員しなければいけないことを痛感。 次回の兼題は「古草」「春障子」です。(山本正幸) 特選 紅梅を仰げるあぎと娶りけり                   山本正幸    濃艶である。紅梅を仰ぐ女性の透けるような白い肌の顎から喉もと、首筋がみえてくる。こんな美しい女を我妻にしたのだという男の満足感と、ある種の征服感まで感じられる。白い喉のなめらかさに負けず、紅梅はいっそう黒々と濃く中天にこずむ。性愛の烈しさが匂う。「あぎと」に焦点を絞って、紅梅の紅と対比させた技法が巧みである。講座では、「娶りけり」はジェンダーギャップのことばで不快、という意見も出た。たしかにそう。しかしそれがわたしたちの蓄えてきた「言語阿頼耶識」であることも事実。時に、性愛の場は平等をよろこばない。さくらよりも肉感的なエロスを匂わせる紅梅がふさわしい由縁。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

1月20日 句会報告と特選句

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新年2回目の句会が催されました。兼題は「枯野」「御降」「雑煮」です。 今回は力作揃い。高点句や話題句などを紹介していきましょう。 単線の地平に消えり大枯野            久保田利昭 恩田侑布子原石賞。 「景が大きい。単線に親しみを感じる」 「景色が見えるが、地平と大枯野が重なるように思う」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「“消えり”は日本語として間違い。終止形が‟消ゆ”であるので、ここは‟消ゆる”か‟消えし”が正しい。‟消ゆる”は現在形で含みが感じられ、‟消えし”は過去形となり調べはいいが少し弱くなる。‟消ゆる”にすれば、‟の”が切字として働く。鉄路と枕木のみが続いている眼前の光景。単純な映像に迫力がある。謎があり、それからどうなった?と連想が広がっていく」 と講評しました。     御降や一直線の下駄の跡             松井誠司 恩田侑布子入選。 「雨の後、下駄の跡だけ続いている光景で、詩的である」 「雪だと思う。年あらたな清浄な雰囲気が出ている」 「きれいでいいが、やや既視感がある」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「雪だろう。無垢な感じがよく出ており、一種のめでたさがある。歳旦詠はかくあるべきで、有難さがにじみ出ている」 と講評しました。     一生(ひとよ)とは牛の涎と雑煮喰ふ             萩倉 誠   「生活感が溢れている。面白い句。一生を涎のように気長に暮らす。若い頃はこういう気持ちにはならないのだろう。「と」ではなく、「か」「や」「ぞ」で切ったほうがいいか」 「人生は牛の涎と同じという発想が面白い」 「「商いは牛の涎」ということわざがある。それと同じで人間の一生は切れ目がないという見方に脱帽」 などの感想、意見の一方で、 「なんか臭ってきそう。お雑煮が美味しくなくなる」 との拒否的(?)な感想も。 恩田は、 「大胆な発想の飛躍がある。何十回と繰り返している正月、昨年も一昨年もこうだったなと。牛の反芻に結び付けたことが効いている。雑煮の神聖性を引っくり返した。俳味あり。自己戯画化が面白い」 と講評しました。 今回の句会では、「(ボブ)ディラン」を詠み込んだ句(特選句)への合評が引き金となり、「引用」の問題が話題に上がりました。 「固有名詞、地名等を詠むとその言葉の喚起力やイメージに頼りすぎてしまうのではないか」という疑問の声。また、「分かる引用と分からない引用がある。鑑賞者の立場も考慮すべきであろう」との意見もありました。 恩田は、「地名、人名、文学作品等を引用するのも表現の冒険である。イメージに頼るというのならば、まさに季語がそうであり、すべてが引用ともいえる。引用の句を否定したくない。可能性が広がる」と持論を述べました。     [後記]  「引用」をめぐる議論が白熱しました。引用した言葉に、思ってもみなかった角度から光を当て、新たないのちが蘇るような句を詠みたいなあ、と皆さんの発言を筆記しながら考えておりました。 次回の兼題は「春を待つ(待春)」「寒晴」です。(山本正幸) 特選 ディラン問ふ 「Hoどwdoんyouなfee気l」分と枯野道                                           萩倉誠  子どもの頃、ディランやビートルズの歌声は容赦なく耳に入った。団塊の世代は熱狂し、級友たちもコーラと同じように親しんでいた。あれから半世紀。 1965年ディランのヒットシングル「Like a Rolling Stone 」の歌詞を中七に引用し、日本語訳をルビとした異色作である。あの頃、深い気持ちや思想哲学はカッコ悪かった。フィーリングがすべてだった。時代は老い、高度経済成長の右肩上がりの日本は、少子高齢社会となった。 「どんな気分?だれにも知られず転がり落ちてゆく石は」が本歌と知れば、句意はいよいよ深い。青春前期だった作者は、いまディランより少し遅れて古稀に近づいた。作者は両親の墓参りに富士山の裾野の大野原を通ったそうな。枯野のむこうにこの世を転がってゆく石のイメージがある。地平線に仄みえる死の幻影は、「feel」という措辞によってあかるく軽くなる。現実感の希薄さは枯野をあてもなくただよう。 「作者が誰かに質問される句はみたことがない」という意見が合評で出た。そう、そこに新しみがある。不変のディランの歌詞。一変した作者と時代。枯野道には長い時がふり積もる。 俳句技法に熟達した人が「と」が気になるという意見を述べた。 「Hoどwdoんyouなfee気l」分 ディランの問へる枯野道 ルーチン通りならこう添削するが、原句の味は死んでしまう。座五の「と」のイージーさが、フィーリングの時代を生きて来た寄る辺なさに合っている。それを感じていたい。          (選句・鑑賞 恩田侑布子)

11月4日 句会報告と特選句

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秋晴の静岡市。折しも「大道芸ワールドカップ in 静岡 2016」が開催され、駿府城公園や繁華街など30か所以上でアーティストの妙技が披露されていました。 兼題は「団栗」と秋の季語の「・・寒」です。 高点句や話題句などを紹介していきましょう。 朝寒や佐渡への距離問ふ海の宿             松井誠司 恩田侑布子原石賞。 合評では、 「孤独な旅人の感じが出ている。しかし、”朝寒”が合わないのではないか。”朝寒し”のほうがいいと思う。」 「”朝寒”でいいだろう。朝起きたときに宿の人に問うたのである。」 恩田侑布子は、 「”朝寒”が効いていると思う。新潟平野、それも晩秋の海辺の光景が浮かぶ。中八の字余りを整理したい。 また、”海の宿”は説明過多で句が小さくなってしまった。」 と講評し、つぎのように添削しました。  朝寒や佐渡への距離を訊ける宿       団栗や三つ拾へば母の佇つ             伊藤重之 恩田侑布子入選。 恩田侑布子は、 「団栗を母と拾った遠い日が眼前に蘇る。調べもいい。 だが、”三つ”というのは寺山修司の句に「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」もあり、やや作為が感じられる。作為を消すにはどうしたらいいか、が課題。」 と講評しました。 合評のあと、「秋の寒ささまざま-体性感覚の季語」と題して、14の句を例に、恩田侑布子からレクチャーがありました。 参加者の共感を呼んだ句は、 ひややかに人住める地の起伏あり  飯田蛇笏 野ざらしを心に風のしむ身かな   芭蕉 などでした。 恩田侑布子は、 身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む   蕪村 について、高校時代にこの句から衝撃を受けた体験を語り、 「ここには詩的真実がある。自我の表現は近代以降だと言われているが、ヨーロッパの象徴派の詩人の感覚と比べても遜色がない。」 と評価しました。 [後記] 今回も盛り上がった句会でした。家族へのそれぞれの思いを託した句が多かったように思います。 蕪村を語った恩田侑布子ですが、その第四句集『夢洗ひ』にあるいくつかの句も、フランスの象徴派の詩と相通ずるものがあるのではないかと感じました。 次回の兼題は「水鳥(鴨、白鳥などでもよい)」「冬夕焼」です。(山本正幸) 特選    秋冷やライト鋭き対向車               久保田利昭  慣れっこになっている日常のひとこまを掬い取った良さ。 一義的には、対向車の白いヘッドライトに秋冷を感じた。何とも言えぬ突き刺さるものを感じたのである。二義的には、体性感覚を超えて、現代の文明を逆照射している。百年前まではあり得なかったこと。鋼鉄の車体に閉塞して、人 々 が冷たく擦れ違う現代をあぶり出している。一見すると目新しくはないが、揺るぎなく、切れ味鋭い手堅い句である。「秋冷」が動かない。「ライト鋭き」で、透き通るヘッドライトの無機質感が伝わってくる。 幼いころ祖父母の家に行くと、板壁に赤い提灯が畳んで架けられていた。油紙の手ざわりがやさしくて外して遊んだものだ。川端茅舎の句に「露散るや提灯の字のこんばんは」がある。提灯をかざして声を掛け合ってゆき合った夕闇からまだ百年も経っていないのに、なんと遠くに来てしまったことか。             (選評 恩田侑布子)

10月21日 句会報告と特選句

akinohatake

 10月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「花野」「運動会」でした。 「運動会」は昔、春の季語だったそうですが、現在は秋の季語です。しかし昨今熱中症対策などで春に運動会を行う学校も増えているので、あと数年したら春の季語に戻るかもしれない、ということが話題に上がりました。世相に影響される季語もあるのだと興味深く聞いていました。  また今回より、怪我をされ休まれていた話題豊富な長老(!?)が元気に復帰され、どこか沈んだ雰囲気の句会に活気が戻りうれしい日となりました! さて、今回の高得点句から。  父は砲兵  大陸の花野駆けたる足といふ            山本正幸 「大陸→花野→足とズームインしていくようでおもしろい。」 「“花野”が“戦争”と対比されていて、より残酷さが際立つ」 「カラー映像としてあまり残っていない戦争はどこかフィクションのようだが、花野という言葉が入ると鮮やかになり途端に生々しく感じる」 という意見が出る一方、 恩田侑布子からは「戦争に絡む句は伝えたいことを明瞭にしないと、意図しない形で取られてしまう危険性がある。」と指摘がありました。  恩田の指摘を受け、一同、句における戦争や時事問題の描き方を再考するいい機会となりました。    また、今回は説明過多の句が多かったと恩田より講評ありました。 「説明過多」というのは「自分の中に伝えたいことがそんなにない」時に生まれやすく、反対に「伝えたいことがたくさんある」場合は削っていく作業なので、自然と説明を省いていくので過多にはなりにくいということです。 例)陽を留む金木犀のしたの夜  山田とも恵(10月21日句会より) 上記の例句では、「金木犀のしたの夜」が余分で、いらない説明。推敲の余地あり。  次回の兼題は「小春日・大根」です。 いよいよ冬の季語の到来です。寒さに負けず、紅く染まる季節を楽しみたいと思います。(山田とも恵) 特選    鈴虫を貰いし夜の不眠かな               久保田利昭  なにげなくもらった鈴虫だったのに、ただ風流な声を聴こうと思っただけなのに。寝室の窓際に置いた虫籠から澄み切った音色がきこえる。うすい羽をこすり合わせて出しているとは思えない。その声に思わず引き込まれてゆく。思い出さなくてもいいことまで、ついつい糸を手繰るように思い出されてキリがない。なんと、すっかり夜明け近くになってしまった。一匹の鈴虫がもたらした心理のドラマは、人生行路の凝縮そのもののようであった。非常に実感がこもる句で、不眠が感染してしまいそう。          (選句・鑑賞 恩田侑布子)

9月16日 句会報告と特選句

佐渡ヶ島 国仲平野の稲穂波

9月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「秋の日・茸」でした。 “茸(きのこ)”と一口に言っても、「しいたけ・しめじ・まつたけ・えのきだけ…」と色々ありますね。それぞれの持ち味を句に読みこめたら、句だけでなく料理も上達しそうな気がします。 さて、今回の高得点句。 余生とは言わじ五千歩秋うらら             杉山雅子 「年配の方の句だろうか?春でなく秋にこの句を詠んだところが、老齢感が出て良い。」 「しっかり生きていく。という、高齢者の自立を感じる。」 「今までのじっくり生きてきた人生を感じる。励まされた。」 「共感が持てる。“余生=人生を捨てる”ということはしたくないもんね。」 「これは、高齢化社会のアイドル俳句だ!!」 「歩いている季節もいいし、おいしい空気も感じられる。」 と、活発に意見が出ました。  恩田侑布子は「ややスローガンぽいが、実践句なので“余生”という措辞のいやみ、臭みが出ず、明るくて欠点を持っていない。私もこう生きたい」と鑑賞しました。 一方、「歴史的仮名遣いが間違っているので注意していきましょう」とのことでした。 誤)余生とは言わじ五千歩秋うらら 正)余生とは言はじ五千歩秋うらら  次回の兼題は「花野・運動会」です。今年は秋真っ盛り!というほどのお天気には恵まれないようですが、それでも花は咲き、運動会は雨間を縫って開催されるのでしょう。耳をそばだてながら、秋の到来を感じたいと思います。(山田とも恵) 特選  哲学を打ち消す夜半のすいつちよん                      山田とも恵  すいっちょんは馬追。草のなかに棲み、ジー、スイッチョンと鳴く。灯のそばにやってきて、姿見の上にとまっていたりもする。色は薄緑や褐色で、そんなに美形ではない。地味な秋の虫だ。  句会ではハムレットの「生きるべきか死ぬべきか」のセリフを思い出したというひともいた。若い作者ならではの句である。句頭に「哲学」を据えたのは大胆だが、作者は真剣に生死や存在を考え、どうどうめぐりしていたのだろう。そうした昼間からの懊悩が、窓辺に来た小さな虫の一声に幕を下ろす。「打ち消す」という措辞が潔い。明日は早い、さあ、寝なくちゃ。草やぶに馬追がいてくれるいとしさ。        (選句 ・鑑賞  恩田侑布子)

8月5日 句会報告と特選句

sando

 8月1回目の句会が行われました。今回の兼題は「風鈴」「夜店」でした。 「風鈴」は住宅環境の変化によって最近は姿を消しつつありますが、あの音色は日本人のDNAに刻まれているのか、自然と涼しい風を感じることができる気がします。 さて、まずは今回の高得点句から。 風鈴に音みな吸い取られし午後             佐藤宣雄 「夏の午後の倦怠感がある」 「音を“吸い取られる”という表現がとても勉強になった」 「風鈴の音が聞こえるからこそ、より周りの音が静かに聞こえるという感覚が共感できる」 というような意見が出ました。 恩田侑布子からは、 「発想は面白いがリズムが良くないと思う。静謐な風鈴の音を感じる上五と中七があるのに、最後の「午後」という音が雑音になってしまっていてもったいない。」という意見が出ました。  作者は情景を明瞭にしたいと思い、あえて「午後」を入れたとのことでした。   全体のリズム感を保ちつつ、自分の描きたい情景を浮き上がらせる…難しい!    さて、続いての句です。 ちちははとあにあねと行く夜店かな             藤田まゆみ 「幼いころを思い出している光景かなぁ」 「夜店の出ている場所へと向かう、幼い日のあたたかい雰囲気が懐かしくなる」 「できたらもう一度戻りたい」 「あとから付いていく自分の姿を俯瞰で見ているよう」 というような、幼いころを思い出す意見が多く出ました。 が、一方で 「これはこの句会(大人しかいない句会)で投句されているから“過去を懐かしんでいる”というような鑑賞になるが、誰が投句しているか分からない状態だったら小学生の素直な句と感じるのではないか?」というような意見も出ました。 恩田侑布子もこの意見に賛成とのことでした。 また、「ちちはは」は良いとしても「あにあね」まで平仮名にしてしまうのはやや作為的に感じてしまう、という意見が出ました。 あえて作為的にしたからこそ、小学生の素直な句には思えなかったのかもしれません。  とはいえ、指摘があった通り「句会の状況を見て、句を勝手に解釈してしまう」というのは句の本質をとらえ損ねる危険があるので、今後も注意していきたいと思いました。  次回の兼題は「涼し」「残暑」です。暦では秋ですが、現代の日本では8月下旬はまだ秋の実感よりも、夏がかげっていく実感の方がしっくりきますね。夏好きとしては、離れがたい気持ちでいっぱいです。(山田とも恵) 特選   貝風鈴カウンセリング始まれり                         山本正幸  貝風鈴がカウンセリングの小部屋に吊るされている。白やスモーキーピンクのやわらかな色の薄い貝殻たちが透明な糸につづられて音もなき音、かそけき音をたてる。砂浜を裸足で歩くときのあの心地よさをからだのどこかが思い出すような音色(ねいろ)である。これはなんのカウンセリングだろう。深刻とまではいかないけれど、もやもやとした気の晴れない悩みごと、心配ごとの相談に来たのだろう。カウンセラーの話を聞く前に、揺れる貝殻のしずかに触れ合う音に癒されてゆく。こころはすでになかば静まって、これから対処してゆくべきことが夜明けの水のように感じられる。作者はカウンセリングの受け手であったかもしれないが、不思議にも掲句のデリケートさ、やさしさ自体がヒーリング効果をもっているようだ。A音の頭韻に、ラ行のリリレリが添って、調べに微妙な風と陽光がささめく。七月初めの梅雨の晴間。ゆれる貝殻のむこうに青空がみえてくる。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

7月1日 句会報告と特選句

茅屋 烏瓜の花

   7月1回目の句会が行われました。 今回の兼題は「サングラス・夏の夕」でした。静岡市内は陽ざしを遮るものが少ないため、ガラにもなくサングラスが欲しくなってしまいます。 まずは今回の高得点句から。 すててこの論語嫌ひや夏ゆふべ             伊藤重之 「手ぬぐい、団扇、風鈴…昭和の世界観がパーッと広がった」とノスタルジーを感じた方が多いようでした。 また、あえて「論語嫌ひ」というところが「そう言いながらもついつい論語の勉強をしてしまう、昭和頑固親父のかわいい後ろ姿」をイメージさせ、ユニークという意見もありました。 恩田侑布子からは 「“すててこ”と“夏ゆふべ”の季重なりが気になる。 “すててこ”の面白さを生かせる言葉がほかにきっとあるはず」 と、いう意見がありました。      続いて、今回の句会で話題になった句です。    掌の豆腐捌きて夏の夕             杉山雅子  先ほどの「すててこの句」は男性から人気でしたが、こちらの句は女性に人気の句でした。 「豆腐を捌(さば)く」というところが珍しかったこともあり、この一語に対して色々な意見が生まれました。 例えば「捌くは男っぽく、手慣れている印象。夕暮れの豆腐屋さんの光景なのでは?」という意見がある一方、 「膨大な家事を捌くように生活する主婦が、手のひらでササッと豆腐を切って味噌汁に投げ込む雄姿なのでは?」という意見もありました。作者は自分の手のひらで豆腐を切っている時に句の着想を得たそうです。主婦の実感の句です。  恩田侑布子も 「“捌く”というところが夏っぽく効いていて、サバッとした感じがする。確かに冷奴なんかは切るというより、捌く感じがしますね」 と、主婦の実感がこもった鑑賞でした。  次回の兼題は「風鈴」「夜店」です。蝉の声も聞こえ始め、いよいよ夏本番。今年はどんな夏がやってきて、どんな句を作れるのか、夏休み前の子供のようにワクワクしています。(山田とも恵) 特選  苛立ちはけもののやうに夏野ゆく                       山田とも恵  一句一章の句。一気に読ませる。「苛立つて」でなく「苛立ちは」とした擬人化が効果的だ。芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の「夢は」と同じ叙法である。芭蕉は上五で情景を提示したが、この句は暴力的に「苛立ちは」で始まる。そこに有無を言わせぬ苛立ちの感情と、若さゆえの動物的なエネルギーの発散がある。作者は現状に満足していない。吠えるように、夏草の茂る径(みち)を歩いて行く。言うにいえない懊悩が体性感覚にのりうつり、若いいのちの圧倒的な存在感がある。哀しみや寂しさの俳句は山のように詠まれてきたが、苛立ちの感情は新しい。ネガとポジのはざまのような夏野があざやかである。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)