「本日の特選句・入選句・最高点句」カテゴリーアーカイブ

本日の句会で高い評価を得た作品をご紹介します!

12月21日 句会報告と特選句

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平成30年12月21日 樸句会報【第62号】  平成三〇年の年忘れ句会は、ゴージャスそのもの。連衆の一年ぶんの頑張りが結晶し、ゆたかな果実が並びました。どの果実も、作者のしっかりした足場、その人ならではの深い根っこをもっていることが「あらき俳句会」の誇りです。なんと特選二句、入選四句!ほかにも胸を打つ句や、作者の暮らしに立ち会うかの肌合いが迫る句が多かったです。この一年間、あらきのHPをご愛読いただきました皆様にもこころから感謝を捧げます。ありがとうございます。どうぞお健やかに、佳い年をお迎え遊ばされますよう。            (樸代表 恩田侑布子)   特選                         婚姻は刑のひとつか冬薔薇                  山本正幸    「結婚は人生の墓場」とはよくいわれる。筆者も同感する一人だが、作者はさらにきわどい。刑の一つではないかと、自己と他者に問いかけるのである。しかも「結婚」ではなく、性的結合の継続をより含意する「婚姻」である。時の流れか若気の至りかで結婚してしまったものの、その後の長い他人との共同生活は、苦役を通り越して刑罰にさえ感じられる。座五の「冬薔薇」がまた暗示的。一見美しいフォルムは、よくみれば霜枯れて花弁は無残に黒ずみ、小さな花冠に比して、鋭い鋼の棘はびっしりと茎を覆っている。逃げられない牢獄のように。鉄の門扉が威圧するかのように。          (選 ・鑑賞   恩田侑布子)     特選                         セーターに着られまんまる母の背                  石原あゆみ    人が服を着ているのではなく、服に着られている。そういうことがママある。ここにはふくふくした真新しいセーターの中に、すっかり縮んで小さくなってしまった母がいる。漢字わずか三つの平明な表現だが、特に「まんまる」という口語表現がいい。苦労と心配をかけて来た母の背なをみつめる娘のまなざしが透きとおっている。「お母さん、新品のセーター、自分では似合っているつもりなんでしょ」と言いさして、いつの間にか背のまるまった母に、じっと心からの感謝を捧げている。「背(せな)」という開放音Aの体言止めに余韻がある。           (選 ・鑑賞   恩田侑布子)    ◯柚子百果草間彌生と混浴す             村松なつを  「俳句の一字おそるべし」とは、この句のためにあることばだと思った。一字違えば超ド級の特選句だったから。しかし、ひとまずは原句を解釈しよう。異色の柚子湯の光景であることは間違いない。「百果」だから、柚子のみならず林檎やかりんや蜜柑など、多彩な果物を浮かべた湯のごちゃごちゃの中、天下の異才との混浴図になる。すでにおわかりのように、果が「顆」なら最高の俳句になる。柚子を百個ほど浮かべた湯は、草間彌生の代表作、あのドット模様のかぼちゃシリーズ一連の作品に見紛う、この世ならぬ湯舟になるのである。黄色のはじけるような色彩と球形と相まって、かぐわしい香りに満ちた空間は迷宮的でさえある。その水玉の只中に、赤いウィッグのおかっぱ頭に色白で豊満な草間彌生が浸かっている。「あなた、だあれ」と振り向いた刹那である。柚子湯という古典的な家庭行事、冬夜の秘めやかなよろこびの季語を、摩訶不思議な現代アートに変容させた作者の力技には脱帽するほかなかった。「顆」であったなら!                (恩田侑布子)   ◯編み進むほどセーターは君になる              海野二美  マフラーやミトンを編んで好きな人にプレゼントする女性は多かった。しかし、セーターとなると難易度が格段に高い。半端な気持ちでは編めない。だいたい小学校のリリアンしかやったことのない筆者には夢のまた夢。この句の作者は本気だ。「編み進むほど」という措辞に、たしかな手応えを感じる。両手から生き物のように細糸の華麗なセーターが編み出されてゆく。結句の「君になる」に、セーターを編みながら幻想する恋人の胸や肩のリアルな量感が出現する。その若々しいエロスの火照りを味わいたい俳句である。                (恩田侑布子)                                ◯輪郭を光らせて猫冬至る             石原あゆみ  逆光の路地の猫であろう。それも三毛のような和猫ではなく、ロシアンブルーのような毛足の長く細いしなやかな猫を思う。シャープに切り取られた寡黙な画面は、ただ一匹の美猫のもの。凡手ならば下五を「冬至かな」としてしまったかもしれない。「冬至る」の措辞は鮮度が高い。猫の逆光の毛足の繊細さに、冬そのものの本質を感受した断定の見事さ。   (恩田侑布子)                                  ◯あの頃のセーターさがす鬱金いろ               林 彰  詩情あふれる俳句である。「あの頃のセーターさがす」というユーミン調の十二音を、座五の「鬱金いろ」が見事に受けとめている。まさに動かしようのない帰着といっていい。麦穂色ともいいたくなる深いカームイエローのふっくらとしたセーターが眼に浮かぶ。作者は納戸の奥に眠っている昔のセーターをなぜか無性に着たくなって引っ張り出してみたのだろう。そこに現れたのはすでに色相を超えた「鬱金いろ」としかいいえない魅惑を秘めた柔らかなある時間だった。それは青春のかがやかしい日々。いや、よく読むと作者はまだそのセーターに再会していない。さがしている途中らしい。母の遺品のシュミーズで有名な写真家の石内都を思うまでもなく、衣服は思いのほか年をとらない。古びない。鬱金いろのセーターに詰まった鬱金いろの日々。もう一度その洞(うろ)にもぐりこんでみたい。      (恩田侑布子)       ===== 句の合評と講評のあとは、芭蕉の『野ざらし紀行』を読み進めました。 蔦(つた)植(うゑ)て竹四五ほんのあらしかな 手にとらば消(きえ)んなみだぞあつき秋の霜 わた弓や琵琶(びは)に慰(なぐさ)む竹のおく それぞれの句の解釈と背景の説明が恩田からありました。晩年の「軽み(蕉風)」とは違い、ここには「悲愴激越」の芭蕉の姿がある。芭蕉という人間は本質的に激情の人であった。芭蕉は自己変革をし続けた人。また、王維など中国の古典をしっかり踏まえていることなども述べられました。 =====                     [後記]  恩田が冒頭に書いているとおり、今回の句会は平成30年の納めに相応しい豊穣な会となりました。  一年を通していつも熱い樸でした。また、今年から始まった金曜句会での『野ざらし紀行』の講読は芭蕉の文学への良い導きとなっています。  句会報を納めるにあたって筆者の個人的な事柄を書き記すことをお許しください。  今年、悲しかったことは石牟礼道子さんのご逝去です。  1969年、出版されたばかりの『苦海浄土』に二十歳の筆者は震撼させられました。1972年に大阪で開催された水俣病関係の集会でお姿に接しました。「こんなに小さな方がこの闘いを!」と、そのときの印象は強く心に残っています。その後、折にふれて石牟礼さんの作品に接し、水俣病にとどまらず近代における<加害>と<被害>の関係とその意味を自分なりに問うてきました。生と死のあわいを往還するような、また地霊が宿るような石牟礼さんの詩歌や散文は筆者の中でこれからも息づき続けることと思います。  4月15日には東京・朝日ホールで催された「石牟礼道子さんを送る」集まりに参加しお別れさせていただきました。石牟礼さん、ありがとうございました。  樸俳句会でも今年は二回にわたり石牟礼さんの句集を鑑賞し、その俳句は連衆の間に静かな感動を呼びました。恩田は、石牟礼さんの句を「等類がない俳句」と評し、『藍生』2019年2月号追悼号に「石牟礼道子全句集」について評論を寄せています。   『石牟礼道子全句集 泣きなが原』についてはこちら           さようなら、石牟礼道子さん 2018.4.15               うれしかったこと。句会でも取り上げられた句集『黄金郷(エルドラド)』の著者上野ちづこ(上野千鶴子)さんの講演を拝聴する機会がありました。『黄金郷』にご署名を頂戴するとともに少しく言葉を交わしていただけたのです。恩田に師事していることを伝えると、「そうなんですか。恩田さんは静岡にお住まいでしたね。どうぞよろしくお伝えください」と微笑まれました。   上野ちづこ『黄金郷(エルドラド)』についてはこちら  樸HPの読者の皆様、明年もよろしくお願い申し上げます。(山本正幸)

10月7日 句会報告と特選句

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平成30年10月7日 樸句会報【第58号】 十月第1回は、なんと真夏日。 特選1句、入選2句、原石3句、シルシ12句でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 特選                         ひつじ雲治療はこれで終わります。                  藤田まゆみ    ひつじ雲は季語ではない。無季の句、いや超季の句である。  一読胸を衝かれる。いつか誰もがこう言われる。死の現実が確かにやってくる。でもわたしたちは考えないようにしている。癌は完治するひとも多いが、そうでない場合は闘病生活が長くなった。  「治療はこれで終わります」は医者のことばだろう。あまりにそっけない。だがこれは、すでに、よく診てくれたお医者さんとの間に暗黙の合意がしずしずと築きあげられて来た結果であろう。昨日今日会ったお医者さんはこうは言うまい。  この句の異様さは、無季と口語の上に、最後の句点にある。「。」で終わる句はみたことがない。散文でないのにあえて「。」を打った。そこに医者の宣告を円満にしずかに受け入れる覚悟がある。一期を卒え、すべてに別れなければならない現実の冷厳さ。というのに何なのだろう。どこからやってくるのだろう。この不可思議な明るさは。秋でも春でもない、季節を超えたしずかな白いひかりは。  窓から大空が見える。青空の所 々に、羊がもくもく群れ遊んでいるような高積雲がひろがっている。ああ、ようやく長かった抗がん剤の治療から解放される。そんなに遠くない日、あのまるい柔らかな羊雲のようにわたしは大空に帰ってゆく。風に吹かれて木立をどこまでも散歩するのが好きだったように、天上でもやわらかに風に吹かれていたい。  悲しい、寂しい、苦しい、なにも言わない。人間は生まれて、愛して、死ぬ。それが腹落ちしている。精一杯明るく、甘えず、愚痴もいわず生き抜いてきた自負が、柔らかなひつじ雲にあどけなく輝いている。  現実をしかと見て、どこにも逃げない。毅然と最後まで胸を張って生きる。見事な俳人の生き方である。          (選句 ・鑑賞   恩田侑布子)                                            〇ハンカチのしわは泣き顔赤とんぼ              天野智美 恩田侑布子は、 「“季重なり”(ハンカチと赤とんぼ)ですが、“赤とんぼ”がしっかり座っているのでいいでしょう。生き生きしています。中七から下五にかけての詩的な飛躍がいいです。顔を埋めて泣いたあとのハンカチを即物的に捉えている。悲しみを押し付けられず、想像力をかきたてられる句ですね」 と講評しました。 合評では、 「乙女チックな感じ」 「かわいい句。“しわ”が泣き顔を類推させる。赤とんぼの取り合わせにノスタルジーを感じる」 「捨てられた女の句じゃないですか?」 「擬人化がよくないのでは」 などの感想、意見が述べられました。                     〇受賞者の緩みなき顔秋澄める              猪狩みき 恩田侑布子は、 「いい句です。“緩みなき顔”という措辞、よく出ましたね。受賞者の来し方の“一生懸命さ”と精神性の高さが表出され、季語とよく響き合っています」 と講評しました。 合評では、 「季節としてはスポーツの賞とも文化の賞とも取れるが、この句の受賞者は、長年の文化的な功績を称えられた方のように感じます。“緩みなき顔”に受賞者の真面目な性格を思い起こされます」 との感想がありました。 [後記] 今回も連衆の最高点を集めた句が恩田の特選になりました。選句眼が向上した樸俳句会です。 合評の中で、「季重なり」と俳句で使われる文法を「取り締まる動き」が現代の俳句界にあることを恩田は憂えつつ紹介しました。恩田は「表現の冒険を許さない動きは文学をやせ衰えさせることになる」といいます。筆者も同感です。句作の原則があってもなお、そこから文法的にはみ出した名句は数多くあります。例えば筆者の愛誦する横山白虹の「ラガー等のそのかちうたのみじかけれ」は形容詞の活用誤りと思われますが、その感動はいささかも減ずることはありません。 次回兼題は、「木の実」と「露」です。(山本正幸)

9月28日 句会報告と特選句

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平成30年9月28日 樸句会報【第57号】 九月第2回。夏が戻ったような陽気の日の句会でした。 特選1句、入選1句、△6句、シルシ5句、・1句という結果になりました。 兼題は「野分」「草の花」でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) この日の最高点句が特選になりました。      特選                         爽籟やあなたの鼓動聞分ける                  萩倉  誠    恋の句である。  歳時記に「爽籟」は「秋風」の傍題として「金風」や「風の爽か」と並んで載っていることが多い。単独で立項するものに講談社の『日本大歳時記』がある。森澄雄の解説がいい。「秋風のさわやかな響きをいう。籟とは三つ穴のある笛、あるいは簫のことで、転じて孔から発する響き、また松籟などとも言って、風があたって発する響きにもいう」  そのとおり、「爽籟や」の季語の切れによっていのちをもった句である。松林を思わぬまでも、木立を吹き抜けるさわやかな風を感じる。その風のなかに、今はここにいないあなたの胸の搏動が脈うつ。それは眼の前のあらゆるものをゆすいでゆく初秋の涼しい風のなかに、わたしだけが聞き分けることのできる音、この世にたった一つのしらべである。  そもそも鼓動は胸に耳を当てないと聞こえない。臥所をともにしないかぎり聞こえぬ音なのだ。そう思う時、この鼓動は心臓の搏動を超える。足音、息遣い、声、表情、しぐさ、揺れる髪、目の色、あなたといういのちのすべてになる。かつてはげしく恋したひとの、若きいのちの脈打つ気配を、いま作者は衰滅の季節のほとり、大空の下で聴き分ける。  あなたはYouであるとともに、掛詞にもなっていて、遠称の「彼方」でもある。カール ・ブッセの詩を思う。   山のあなたの空遠く   「幸」住むと人のいふ   噫われひとと 尋めゆきて   涙さしぐみ かへりきぬ   山のあなたになほ遠く   「幸」住むと人のいふ      (『海潮音』より「山のあなた」(上田敏訳))  「あなた」はかぎりなく遠い。だのに何十年経っても、万象のなかに一つの鼓動をありありと聞き分けられる。ひとを好きになるということはそういうことだ。          (選句 ・鑑賞   恩田侑布子)           〇シュレッダー野分の夜には強く咬む              山本正幸 恩田侑布子だけが採りました。 「野分の題で、シュレッダーが出てきたのはおもしろい。都会的なオフィスにある現代の“もの”と野分の出会いが新鮮だ。“夜”も効いている。同僚の帰った一人のオフィスでシュレッダーが動いている音が良い。“夜には”の“には”の強調もよく効いている。愛咬の “咬”を使ったところ、シュレッダーが生き物のように感じられる。なかなか斬新な句」 と評しました。 連衆からは、  「“野分”に都会のイメージはない」 「面白いとは思った。野分は外を吹きいろいろなものを流していく。シュレッダーはモノをゴミにする。“咬む”はいい」 「でも破壊力が感じられません」 などの感想が述べられました。      今回の句会では、句の説明くささ、説明的な句ということが話題になりました。 恩田から以下のようなアドバイスがありました。 「牛糞の匂ひ新たに野分あと」は「牛糞の匂ひ新たや野分あと」に変えると、野分あとの臨場感がより強くでて説明的でない表現になる。 「ありがとうと聞こえし口元草の花」は逆に「ありがとうに見えし口元草の花」にすると、説明くささが薄れ、余韻が深まる。 「に」の助詞が必ず説明的になるというわけではない。一句一句呼吸が違う。その内容と調べにふさわしい表現になるように工夫することが大事、とのことでした。     また、今回の兼題(「野分」「草の花」)について、名句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。  吹とばす石はあさまの野分哉                芭蕉  象徴の詩人を曲げて野分哉              攝津幸彦  牛の子の大きな顔や草の花                虚子  死ぬときは箸置くやうに草の花              小川軽舟 なお、芭蕉の句は、四回の推敲の末、ようやく掲句が定まったとのことで、次第次第に一句が迫力と大きさを増していく推敲の過程に目を見開かされました。                      [後記] 「野分」と「台風」の語感の違い、強さの違いが会で話題になりましたが、台風続きの今年、台風のあいまの句会でした。「説明、理屈でない表現」をするには。まだまだ道は遠そうです。多くの句を読むことで俳句の詩的な呼吸を感じられるようになるといいなと思っています。 次回兼題は、「顔」を使った句と当季雑詠です。 (猪狩みき)

9月9日 句会報告と特選句

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平成30年9月9日 樸句会報【第56号】 九月第1回、重陽の句会です。 特選1句、入選1句、△1句、シルシ4句、・11句という結果でした。 兼題は「当季雑詠(秋)」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)                          ◎馬鈴薯をふかしゲバラの日記読む             芹沢雄太郎 (下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)                               〇酔ふことが恥ずかしいのさ星月夜              萩倉 誠 合評では、 「作者は本当は恥ずかしいとは思っていないのでは?“さ”の軽さがいい」 「一人で飲んでいる。秋冷のなかできっと美味しいのでしょう」 「好きな女性のいる宴会で、変なところを見せたくなくて、酔い覚ましに外へ出て星空に言い訳をしているような感じ」 「人生を軽く生きている。斜に構えて、適当に楽しんでいるみたい」 「面白い発想。どこで飲んでるのか。小料理屋かな?外は満天の星」 「昔ワタシは無茶苦茶呑みましたよ。恥ずかしいくらい」 「バルコニーに一人居て、酔ってはいないのでは?」 など、自分に引き付けた様々な感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「初々しい息遣いに賭けた句じゃないですか。“うぶ”な感じが良い。でも一人でいるのか?異性がいるのか?・・・どういう場面かよく分からない。ほわーんとしたデリケートな良さ。星月夜の景色が広がり、澄んだ秋の気配があります」 と講評しました。 ===== 入選には至りませんでしたが、「牝鹿」を題材に詠んだ投句がありました。 「鹿」を詠んだ有名な句として、恩田から次の句が紹介されました。  雄鹿の前吾もあらあらしき息す             橋本多佳子 また、俳句の基礎教養として、明治生まれの大物女流俳人四人の名が挙げられました。  橋本多佳子  中村汀女  星野立子  三橋鷹女 名前の頭文字をとって「四T」と呼ばれ、多佳子も汀女も杉田久女がいなければ世に出なかったとの説明がありました。 この中で、橋本多佳子が(どういうわけか)特に男性に人気があるとのことでした。 [後記] 今回、連衆の最高点を集めた句が恩田の特選になり、いつにも増して盛り上がりを見せた樸俳句会でした。 「当季雑詠」といっても秋の季語は数多あります。筆者が常用している『合本 俳句歳時記 第四版』(角川学芸出版)には秋の季語として511語収載されています(植物の季語が一番多く190語)。その中で複数の連衆に選ばれたのが、「秋の蝶」「星月夜」「秋の風」「鳥渡る」「虫の声」でした。親しみやすい季語、作りやすい季語があるようです。 次回兼題は、「野分」と「草の花」です。   (山本正幸)              特選   馬鈴薯をふかしゲバラの日記読む                        芹沢雄太郎    とっさに浮かんだのはゲバラの髭面の写真ではなかった。一枚の薄暗い絵。ゴッホの「ジャガイモを食べる人 々」だった。貧しい農民たちがランプの光の下で背なかを丸めてふかし藷を囲んでいる絵。肌寒い土間で、藷を差し出す人間のぬくもりのようなものが胸に来た。ジャガイモはゲバラの生きて死んだ南米が原産地で、ふかすというもっともシンプルな食べ方は革命家の日常そのものを思わせる。作者は日記を読みながら、生き方にまで深く共鳴している。まるで、薄暗い土間で一緒に熱 々の馬鈴薯を頬張るように。  ゲバラについては、キューバ革命の成功者というくらいしか何も知らなかった。顔のTシャツも映画もみたことがない。句会で樸の仲間が、目をきらきらさせて学生時代の思い出と一体になったゲバラを語り出した。半世紀前、若者の間で神のような英雄であったことに驚いていた。作者も団塊世代かと思いきや、三四歳の雄太郎さんであった。いわば「見ぬ世の人の」日記に、全身が運ばれる旅をしているのだ。秋気の迫る夜更け。熱い馬鈴薯のくぼみはエア ・ポケットなのか。技法上は引用句の範疇に入るが、認識 ・感情 ・体感が渾然と珠のようになった熱い句である。  死を予感したゲバラが子どもに残した手紙の一節もいい。 「世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから」          (選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)

8月17日 句会報告と特選句

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平成30年8月17日 樸句会報【第55号】 お盆が終わり、酷暑もややおさまった日に、八月第2回の句会がありました。 兼題は「八月」と「梨」です。 特選1句、入選2句、△2句、シルシ6句、・1句という結果でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)                          ◎IPS細胞が欲し梨齧る             石原あゆみ (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                                  〇梨剥いて断捨離のこと墓のこと              伊藤重之 合評では 「梨、断捨離、墓のつながりを違和感なく読んだ。梨の持ち味ゆえのこと。桃やりんごでは無理」 「林檎の青春性、桃の甘さに対して、梨は甘いけれども他の果物とは違う。執着から離れたい気持ちに梨が合っている」 「一口梨を食べたときに浮かんでくる思いが良く表現されている」 「自分の行く末への思いがしみじみ伝わってきます」 など、「梨」という季語のもっている性質が生かされているという評が多くありました。 一方で、「~のこと~のこと」という表現が気になったという声もありました。 また、“断捨離”という新語・流行語を俳句に使うことについての質疑もなされました。 恩田侑布子は、 「梨という果物の本意を十分に見すえて詠っている。梨のさっぱりした感じなどと内容がとても合っている。また、さりげない口調で並べた「~のこと~のこと」がこの句の内容にも合っている。内容と句形が調和している上手な句。下五で死のことを言いおさえている。“墓”に着地しているその仕方に説得力があり安定感がある」 と講評しました。                                    〇八月や南の海の青しるき              山本正幸 この句を採ったのは恩田のみでした。 恩田侑布子は、 「とてもシンプルだけれど、海の青を“しるき”と表現したところが素晴らしい。南の海には今も死者が眠る。まさに戦争を詠っている句で、非戦、不戦の句。省略した表現が読み手に想像をさせてくれる句」 と講評しました。 「八月」という季語のもつ含み(戦争、敗戦など)、重みについてが話題になり、意見が交わされました。「八月」の季語に戦争のことが込められていることが、若い詠み手(読み手)に果たして通じるのか?という疑義が出ました。いや、知らないのならば、次の世代に歴史を伝えることは我々の責務ではないかという意見の一方で、「八月」という季語をそのような意味に閉じ込めるのではなくもっと自由でいいのではという異論も出て議論が深まっていきました。 ===== 句の合評と講評のあとは、芭蕉の『野ざらし紀行』の鑑賞の続きでしたが、時間があまりなかったので時間内で読める範囲を読み進めました。 西行(さいぎょう)谷(だに)のふもとに流(ながれ)あり。をんなどもの芋(いも)あらふをみるに、  いもあらふ女西行ならば歌よまん と芭蕉は「西行谷」(神路山南方の谷で西行隠栖の跡)で詠んでいます。芭蕉の西行に対する崇敬の気持ちがここでもよくあらわれていると恩田の解説がありました。                                             〔後記〕  季語をどうとらえ、それをどう使うかについて考えさせられた会でした。また、句には思わず作者のいろいろが浮かび出る怖さとおもしろさを感じた会でもありました。 次回は、兼題なし。秋季雑詠です。(猪狩みき)                              特選   IPS細胞が欲し梨齧る                       石原あゆみ  切実な病をもつ人が、万能細胞で健康になりたいと願っている。梨はどこか寂しい果物で、その白さや透きとおった感じは病人ともつながる。梨をサクッとかじった瞬間、歯茎をひたす爽やかな果汁に、ふとIPS細胞の新しい臓器の感触を思った。発想の驚くべき飛躍だが、季語の本意を踏まえて無理がない。この句の深さは、作者がIPS細胞を欲しいと願う一方で、それはまだ無理、という現実も十分了解していること。切実な願望を持つ自分と、いま置かれている現実をわかっている自分と、ふたりの自己が鏡像のように静かに照らし合っている。心理的な陰影の深い句である。「が」を「の」にすべきでは、という意見があったが、それは俳句をルーチン化するとらえ方だ。「の」では、調べはきれいになっても他人事になる。「が」で一句に全体重がかかった。「吾、常に此処において切なり」(洞山良价)。そこにしか心を打つ俳句は生まれない。若く感性ゆたかな作者の幸いをこころから祈る。        (選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)

8月5日 句会報告と特選句

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平成30年8月5日 樸句会報【第54号】 八月第1回の句会です。 特選1句、入選2句、原石賞1句、シルシ5句、・4句という結果。前回の不調から一気に好調に転じた樸俳句会です。 兼題は「鬼灯」と「海(を使った夏の句)」です。 特選1句と入選2句を紹介します。  (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)                         ◎海月踏む眠れぬ夜に二度も踏む             芹沢雄太郎 (下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)                                       〇大の字に寝て炎昼を睨みつけ              松井誠司 合評では、 「今年は猛暑。ホントこんな気持ちです。響いてくるものがあります」 「“睨みつけ”の視線の強さがいい」 「座五で炎昼を押し返すパワーを感じました」 「“大の字”と“睨みつけ”で炎昼のつらさを表現した」 「下五を連用形にしたのがよい」 など共感の一方で、 「“睨みつけ”でなければいいのに・・。よけい暑くなってしまうじゃないですか!」 「“睨みつけ”の理由と意味が分かりづらい」 などの感想も述べられました。 恩田侑布子は、 「まさに家の中で大の字になって寝ているところ。部屋の窓から燃え盛る炎昼がみえる。それを横目で睨んでいるのです。こんくらいの炎天に負けてたまるか!という気概ですね。寝ながら見栄を切っているような滑稽感もある。作者のいのちの勢いが感じられます。合評にもありましたが、連用形で終わったところがいい。ここに切れ字を使ったら型にはまってしまいますものね」 と講評しました。                              〇横たわるかなかなと明け暮れてゆく               林 彰 合評では、 「“横たわるかなかな”とは絶命間近の蝉のことですか?それとも“横たわる”で切れるのでしょうか?両方の読みができるような・・」 「夕闇が近づいてくる実感がありますね」 「夏バテ気味。がんばりたいけどがんばれない。さびしい蝉の声・・。今日も一日過ぎていくのだなぁという感慨がある」 「子規っぽい。病床にある感じがよく出ており、内実がこもっている」 との感想のほか、 「それでどうした?というような句じゃないですか。“と”って何ですか?」 との辛口評も。 恩田侑布子は、 「“横たわる”でしっかり切れています。山頭火のようですね。または、放哉に代表句がもう一つ加わったような感じさえします。破調感が強いが、句跨りの十七音です。実感がこもっています。リアルな息遣いのある口語調です。蜩には他の蝉にはない初秋のさびしさがあります。社会の片隅で生きる弱者の気持ちになり切って、作者はそれを肉体化している。まさかお医者さんの林さんの作とは思いませんでした。長足の進歩ですね!」 と講評しました。ちなみに、林さんは名古屋の職場には自転車通勤、句会には新幹線通勤?です。                                              ...

6月3日 句会報告と特選句

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平成30年6月3日 樸句会報【第50号】 六月第1回の句会です。 特選1句、入選2句、原石賞1句、シルシ5句、・6句という結果でした。 兼題は「梅雨入り」と「ほととぎす」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎廃炉遠し野の白昼に蛇つるむ              山本正幸 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)    〇梅雨めくや父の書棚に父を知る             石原あゆみ 合評では、 「父との会話はあまりないのだろう。言葉のやりとりはないけれど、父の本棚を見て父が分かったような気がした。“梅雨めく”がいいと思います」 「本棚を見ればその人となりが分かると言う。お父様がご存命かどうかは別として、ここには父の一面を知った発見があります」 「もういない父なのかもしれない。“こんな人だったんだ”という驚きがある」 「きっと俗世間では派手ではなく、出世や金儲けとは縁遠かった父。その父の深さを感じている」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「男の孤独まで感じさせるいい句だと思います。ついぞ父の本心を聞いていなかったなあ、あんなことも聞いてみたかった、という余韻が響きます。作者の中で父が大きな存在感を持っていることもわかります。書棚に梅雨どきの湿りや黴臭さ、そして過ぎ去った父の日々まで感じられる。季語の付け味がとてもいいです」 と講評しました。     〇梅雨ごもり使徒行伝にルビあまた              山本正幸 合評では、 「キリスト教の使徒行伝ですね。“梅雨ごもり”がなんとなく意味深」 「ルビとか注釈が多いんですね」 「“梅雨”は日本的なこと。“キリスト教”は西洋のこと。その対比が面白い」 などの感想。 恩田侑布子は、 「季語が面白い働きをしています。“梅雨”という日本の湿潤な風土の中、異国の聖書を読んでいる。使徒行伝は新約聖書の一部で、イエスが亡くなった後、弟子たちによって書かれたものですね。荘重な文語訳にびっしり振られたルビが目に見えるよう。異民族が西洋のものを読んでいる。“梅雨ごもり” がそれを際立たせている。理解したいけれど今ひとつしっくりこないというもどかしさが体感的に伝わってきます。本日紹介するクローデルもカトリックの信仰を持っていた人です。姉のカミーユ・クローデルの影響で少年時代から日本への強い憧れを持ち、50代になった大正10年から昭和2年まで駐日大使を務めました」 と講評しました。 投句の合評と講評のあと、ポール・クローデルの『百扇帖』を恩田侑布子が俳句と短歌の形に訳出したレジュメが副教材として配布されました。              ↑     クリックすると拡大します     連衆の点を集めた俳句と短歌は次のとおりです。  みづの上(へ)に水のはしれり若楓  秋麗に生(あ)れし漆の眸かな  無始なるへ身を投げつづけ瀧の音  万物や瞑りてきく瀧の音  長谷寺の白き牡丹の奥処(おくが)なる         朱鷺いろを恋ひ地の涯来たる  神鏡はおのが深みに璞(あらたま)の          水の一顆をあらはにしたり 日仏交流一六〇周年記念事業の一環として、神奈川近代文学館で開催された「ポール・クローデル展記念シンポジウム」に恩田侑布子がパネリストとして登壇しました。 「今に生きる前衛としての古典―― 詩人大使クローデルの句集『百扇帖』をめぐって」  日 時 2018年6月17日(日)13時30分開演   会 場 神奈川近代文学館 展示館2階ホール  コーディネーター 芳賀徹  パネリスト 夏石番矢・恩田侑布子・金子美都子 ※ シンポジウムの詳細はこちら     [後記] 句会報が50号に達しました。 これまでの句会報を遡り、連衆それぞれの句と鑑賞を味わう事が、筆者の密かな楽しみとなっています。 自身の句作も句会報のように、日々継続することが大切であると、歳時記を捲りながら想う筆者であります。 次回兼題は「立葵」と「蝸牛」です。     (芹沢雄太郎) 特選   廃炉遠し野の白昼に蛇つるむ                  山本正幸    福島第一原発の廃炉は万人に願われているものの道のりは遠い。メルトダウンした燃料デブリを取り出すことさえできないのだから。富岡町から飯館村まで「うつくしま」とも呼ばれた自然と調和した町 々は帰還困難区域となって7年が経った。今や、2階家まで青葛が茂り、スーパーや団地の駐車場のコンクリートの割れ目から青野が広がっている。「廃炉遠し」という字余りの上句の切れが遣る瀬ない。が、一転して、燦 々たる陽光の中で二匹の蛇が絡み合っている。人間の招いた放射線量など知らぬ。超然と、雌雄が命を交歓している。その白昼の讃歌は逆に、わたしたち人間の所業を炙り出してやまない。蝶などの昆虫や蜥蜴などの小動物の交尾だったらこの力強さは出なかった。蛇は、インドのナーガや中国の女媧や日本のしめ縄など世界中で太古から、いのちと豊穣のシンボルである。そのいのちの脈 々たるエネルギッシュな連鎖と見えない廃炉とが対比され、一種悪魔的な絵をみる思いがする。          (選 ・鑑賞   恩田侑布子)    

4月20日 句会報告と特選句

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平成30年4月20日 樸句会報【第47号】 四月第2回の句会です。 特選1句、入選1句、原石賞3句、シルシ7句、 ・1句という結果でした。 兼題は「藤」と「“水”を入れた一句」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎茎太き菜の花二本死者二万              松井誠司  (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)       〇妻の知らぬ恋長藤のけぶりたる             山本正幸  合評では、 「こういうの、許せません!」 「結婚前の昔の話じゃないんですか?」 「“恋”と“藤”はよく合いますね」 「昔の恋なら情緒があるし、今の恋とするなら危険な香りがある」 「“長藤のけぶりたる”が上手だと思う」 「上五の字余りが気になる」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「字余りでリズムがもたつきます。このままでは入選句ではありません。“妻知らぬ恋”で十分です。“長藤がけぶる”のだから淡い初恋や十代の恋ではないでしょう。ちょっと危険な恋。成就した恋かどうかは知りませんが、秘めやかな心情の交歓があるのでは。満たされなかった思い。今もまだ心に揺らめくものが“けぶりたる”という連体止めにあらわれて効果的です」 と講評しました。 今日はほかにも原石賞が三句も出て、恩田の添削で見違える佳句になりました。原石は詩の核心を持っていることを再認識しました。 今年度から金曜日の「樸俳句会」では、句会に併せて芭蕉の紀行文に取り組むことになりました。これは古今東西のあらゆる芸術文化から俳句の滋養を取り入れようという恩田の一貫した姿勢のあらわれでもあります。そこで、芭蕉の最初の紀行『野ざらし紀行』から始め、数年計画で『おくのほそ道』に到ろうという息の長い講読が幕を開けました。冒頭部が取り上げられ、恩田から詳細な解説がありました。 『野ざらし紀行』の巻頭は、『荘子』「逍遥遊篇」や広聞和尚など、古典からの“引用のアラベスク”ともいえるもので、文が入れ子構造になっている。芭蕉は変革者であり、それまでの和歌のレールの上で作ったわけではないが、漢文と日本古典の伝統を十二分に背負っている。「むかしの人の杖にすがりて」、このタームが重要。近代の個人の旅ではない。いにしえ人と一緒に旅立つのである。  野ざらしを心に風のしむ身かな 「身にしむ」は、いまの『歳時記』では皮膚感覚に迫る即物的な秋の冷たさが主であるが、古典では、心理の深みを背負った言葉です、と恩田は述べました。 芭蕉は、古典と現代との結節点になった人なのだということで、古典の具体例として藤原定家の二首が紹介されました。  白妙の袖のわかれに露おちて         身にしむ色の秋風ぞ吹く  移香の身にしむばかりちぎるとて        あふぎの風のゆくへ尋ねむ この二首は歌人の塚本邦雄も賞賛しています。(塚本邦雄『定家百首』)        [後記] 今回の恩田による『野ざらし紀行』の講義は、大学~大学院レベルだったのではと思います。芭蕉の紀行文をじっくりと読み解くことが初めての筆者としてはこれから楽しみです。 句会の後調べましたら、定家の歌は、和泉式部の<秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ>を意識しているはず、と塚本邦雄は書いています。「身にしむ」という季語のなかに詩のこころが脈々と息づいているのを感ずることができます。 次回兼題は「薄暑」「夏の飲料(ビール、ソーダ水等)」「香水」です。(山本正幸) 特選   茎太き菜の花二本死者二万                松井誠司  「茎太き菜の花」で、真っ先に菜の花のはつらつとした緑と黄色のビビッドな映像が立ち現れます。それが、座五で一挙に「死者二万」と衝撃をもって暗転します。東日本大震で亡くなった人の数です。俳句の数詞は使い方が難しい。ややもすると恣意的に流れやすいです。でも、この句の二本と二万には必然性があります。眼前のあどけない菜の花二本は、大切なかけがえのない父と母であり、二人の子どもであり、親友でもあるかもしれない。たしかにこの世に生きたその人にとって大好きな二人です。その二人の奥に、数としてカウントされてしまう二万の失われたいのちが重なってきます。二つの畳み掛けられた数詞の必然性はどこにあるか。悲しみを引き立たせる戦慄をもつことです。菜の花が無心にひかりを弾いて咲くほど、中断されたひとりひとりのいのちが実感される。「茎太き」が素晴らしい。死者二万を詠んだ震災詠はたくさんありますが、こんなにいのちの実感が吹き込まれた二万はめずらしい。  あとから作者に聞けば、ボランティアとして二度に渡り現地で活動したという。「母の手を引いて逃げる階段の途中で津波に襲われ、すがる母の手を放してしまった、その感触が今も体内に残る」とつぶやいた男性との出会い。そこでもらった菜の花の種が、なぜか今年、自庭にたくましく二本だけが並んで咲いたという。「一句のなかで生き切る」ことができ、普遍に到達した作者の進境に敬意を表したい。    (選句・鑑賞  恩田侑布子)