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4月4日 句会報告

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2021年4月4日 樸句会報【第103号】 2021年卯月の句会は、久しぶりのリアル句会でした。本日は「静岡まつり」の最終日。祭りの終わりを告げる花火の音が開け放した窓から入ってきて、最初は春雷かと思いました。 兼題は「あたたか」「柳の芽」「物種蒔く」です。 入選3句、原石賞3句を紹介します。 ○入選  湖出づる川のさざめき柳の芽               猪狩みき 【恩田侑布子評】 湖のひとところから水が流れ出し、川になって流れるところです。たっぷりした湖から狭い川幅に入り込み、流速がまし、水音も高まるようすを「湖出づる川のさざめき」と端的に捉え、そこに柳の芽がしだれて、水につくかつかないかというところ。映像的センスが抜群です。みずほとりに生まれ出る春の清らかな勢いがまさにさざめいて。 あとから聞くと、琵琶湖を訪ねられたとのこと。吟行句がこんなに生き生きとまとめられるのは素晴らしい! 【合評】 湖から川になろうとしている。柳の芽と川のさざめきが響きます。 諏訪湖から天竜川に出るところを見たことがあります。よく見る風景かもしれない。 「湖」では大きすぎませんか? 一読、「きれいだね」で終わってしまいました。     ○入選  あたたかし肩揉む爪の短さよ               海野二美 【恩田侑布子評】 爪を伸ばしてあざやかなマニキュアを塗った指は女性ならではの美しさです。でも、そんな手で肩を揉んでほしいとは思いません。むしろ深爪なくらいの十指が肩揉みやマッサージにはふさわしい。指先のまるさと、指の腹から伝わる力に、あたたかな春光があふれます。座五の「短さよ」に、揉んでくれる人の日頃の家事の甲斐甲斐しさも偲ばれます。「俳句は旦暮の詩」といった岡本眸さんの名言を思い出しました。二段切れですが、もしも「あたたかに」とつなげたらこの句の実直さはこわれてしまいます。まさか、長年のマニキュアが美しく印象的だった二美さんの句とは思いませんでした。ご母堂の介護のために爪を短くされたそうです。心身も部屋の空気もみな暖か。     ○入選  職辞せる妻の小皺のあたたかし               金森三夢 【恩田侑布子評】 今月で、長らく働いてきたお勤めを辞める妻。世の中に出て働くのはなにかと摩擦が多く、心身ともに疲れるもの。お疲れ様。ご苦労さんでしたという、夫からの感謝と労いのやさしさがあふれています。大ジワや深い皺でなくてよかった。「小皺」が愛らしく素晴らしい。愛情がここに通っています。人生の記念になる一句です。 【合評】 「職辞せる妻」に爽やかさを感じました。二人で家計を支えてきた。妻の小皺が頼もしく宝物のように思っている作者がいます。 長年暮らした歳月が感じられる。妻に対するねぎらいの情があらわれています。 「職辞せる」で切れるのではないか?自分が仕事を辞めたと取れる。妻の小皺を羨ましく感じているのでは? 自分のことなら「職辞して」になると思います。     【原】物種撒く終の棲家と決めし日に                益田隆久 【恩田侑布子評】   「物種蒔く」と歳時記の本題にあり、私もそれに倣って出題しましたが、ふつう俳句にするときは、具体的な植物の名前を据えて「あさがほ蒔く」とか、「鶏頭蒔く」とか、「牛蒡蒔く」「花種を蒔く」とかするほうがいいです。また、「撒く」は「水を撒く」のマクです。十七音しかない俳句なので誤字脱字には十分注意しましょう。 【改】あさがほ蒔く終の棲家と決めし日に    なら、「終わりの始まり」が印象的な奥行きのある入選句になります。 【合評】 「種」が持っているのは「終わり」と「始まり」。ここが自分の終わりの家だという感慨がある一方、何かの始まりでもあるということを「種」に託しているのだと思います。     【原】春陰のブロック塀で消す煙草                芹沢雄太郎   【恩田侑布子評】 急速にマイナーな存在になりつつある愛煙家が、人の家を訪問する直前にタバコの火をブロック塀で消すとは、ありそうでなかなか気付かない面白い光景です。「春陰」の季語に、春の薄暗い物陰と心理的な陰翳がかさなって奥行きがあります。惜しいのは「で」です。   【改】春陰のブロック塀に消す煙草  こうすると一字の違いとはいえ、春陰の季語が生きて来ます。句格が上がり入選句になります。 【合評】 この方は紳士で、普段はこういうことはしないのですが、春で自律神経が乱れ、イライラが募ってついやってしまったのでしょう。 ドラマ性が感じられる怪しげな句。ブロック塀の陰で何かアクションをおこすタイミングをはかっているのではないか。 「春陰」「ブロック塀」「煙草」でアンモラルな感じが出ている。     【原】柳の芽くぐりくぐりて車椅子                山本正幸 【恩田侑布子評】 さみどりの柳の芽を空からのやさしいすだれのように思って、車椅子を押す人と乗る人が、ともに頰を輝かせている情景が目に浮かびます。このままでもなかなかの俳句ですが、「芽」と「て」で調べが小休止するのが惜しまれます。   【改】芽柳をくぐりくぐるや車椅子  こうされると一層リズミカルになって、かろやかな春のよろこびがにじみ出ませんか。 【合評】 外に出たかった気持ちがよくあらわれています。一人で乗っているのでしょうか。車椅子は案外安全な乗り物なんです。 いろいろな事を「くぐりくぐりて」ワタシは爺さんになっちゃいました。     句会冒頭、本日の兼題の例句が恩田によって板書されました。 物種蒔く  あさがほを蒔く日神より賜ひし日               久保田万太郎  子に蒔かせたる花種の名を忘れ               安住 敦  死なば入る大地に罌粟を蒔きにけり               野見山朱鳥 暖か  暖かや飴の中から桃太郎               川端茅舎  あたたかな二人の吾子を分け通る               中村草田男  あたたかに灰をふるへる手もとかな               久保田万太郎 柳の芽  退屈なガソリンガール柳の芽               富安風生  柳の芽雨また白きものまじへ               久保田万太郎     合評と講評の後、角川『俳句』4月号に掲載された恩田侑布子特別作品21句「天心」を読みました。 連衆の共感を集めたのは次の句です。下部に連衆の評の一部を掲載しました。    身のうちに炎(ほむら)立つこゑ寒牡丹  虚無僧の網目のなかも花あかり  ふらここの無垢板やせて春の月    やすらげる紙にのる文字春しぐれ    花の雲あの世の人ともやひつゝ 作者の今の心境や生き方を反映している句が多いように感じました。(全体) 私には何のことか分からず情景の浮かばない句もいくつかありましたが、全体的に調べやリズムがよく気持ちよく読めました。(全体) 感覚をはっきり的確に言葉に出している。寒牡丹のあざやかな色をフィルターから外へ取り出す手際のあざやかさ。(寒牡丹の句) 虚無僧すら幻惑されてしまう花なんですね。(虚無僧の句) ふらここに長い歳月を感じます。おおぜいの子どもたちが乗って遊んだのでしょう。静止している一枚の木の板をいま春の月が静かに照らしています。(ふらここの句) 地上にあるものと空の月。季語がふたつですが、逆にそれによって情景がよく見えます。季重なりに必然性があると思いました。(ふらここの句)  [後記] 本日の句会で、投句のひとつに顕われた「マイナス感情」をめぐって、句作のありかたについての議論になり、恩田は「あらゆる感情に付き合っていくのが文学です」と述べました。 たしかに、句を読んでいて今まで味わったことのないような感情に驚くことがあります。いや、本当は未知なのではなく、自分の中で忘れたり隠されたりしていたものが俳句の力によって呼び起こされたのでしょう。たった十七音でそれができるとは!  (山本正幸)   今回は、○入選3句、原石賞3句、△5句、ゝシルシ10句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ●樸俳句会ではリモート会員(若干名)を募集しています。ネット(夏雲システム)を利用して全国どこからでも、投句・選句・選評ができます。投句に対して恩田侑布子が講評・添削をいたします。 リモート会員として入会ご希望の方はこちら   ============================  4月28日 樸俳句会 入選句を紹介します。 ○入選  円陣解く野球少年春疾風               山本正幸    【恩田侑布子評】 五七五の展開の小気味好さ。とくに上五の「円陣解く」と下五の「春疾風」がよく響き合い、一句は大きな時空に開放されます。小学生の男の子たちでしょう。地域の名監督(・・・)が率いる野球団に入って休日の朝から練習に励んでいます。ときどき、よその学区の野球団と他流試合もあります。これはその草野球の開始前。グラウンド中央に全員集合!お揃いのユニフォームで不揃いの背丈が仲良くスクラムを組み、「行くぞ!」の一声で、かけ足でポジションへ散ってゆきます。場外には、下の子を遊ばせながら見守っている父や母や祖母がいます。誰もが青空にヒットの快音を期待しながら、そこは、なかなか。三振やファールが続いたり、たまに川原のやぶ草に飛込む場外ホームランが出たり。以後は春疾風。少年はたちまち青年になり、父になり、疾風怒濤の生涯が待ち構えています。〈竹馬やいろはにほへとちりぢりに〉の万太郎は、ひらがなのやさしさ。正幸さんの作品は、漢字のいさぎよさと言えそうです。

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樸俳句会ではリモート会員(若干名)を募集しています。ネット(夏雲システム)を利用して全国どこからでも、投句・選句・選評ができます。 投句に対して恩田侑布子が講評・添削をいたします。 araki.haiku★gmail.com (★を@に変更)へご連絡ください。 その際、お名前、ご住所、電話番号をお知らせいただければ幸いです。詳しいご案内を差し上げます。

Yūko ONDA’s Haiku World “Iwan-no-Baka-no-Koi”

Yūko ONDA's Haiku World “Iwan-no-Baka-no-Koi”     To whom it may concern, My name is Machiko Mihara, a member of Araki-Haikukai which chairperson is Ms. Yūko Onda. I have uploaded short videos in order to introduce her first collection “Iwan-no-Baka-no-Koi”. Please take a look the following:          I would be very glad if you kindly give me your suggestion and impression. Especially, I would ...

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (四) 平出 隆

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       囲われるエロスの秘儀、息づく起源                    平出 隆  恩田侑(ゆ)布(う)子(こ)の句集『イワンの馬鹿(ばか)の恋』(ふらんす堂)を読んでいたら、大きな時の広がりを感じた。それは「恋」という距離の変幻にかかわっている。ひろがり、というのはひとまずは、他者すなわち「漢(おとこ)の遠さ」である。      みつめあふそのまなかひの青嵐      目のまへの漢のとほさ春の雷    恋人と逢(あ)っているときの充溢(じゅういつ)し、また虚(うつ)ろにもなる感覚として、これらは一般的である。そうした感覚が、しかし別の句では、「自分の遠さ」ともなり変わって、襲い返してくる。      人体は隙間ばかりや春の雨      蝮草知らぬわが身の抱き心地      春嵐千里にべつの吾をりぬ     これらの句は、六章に分かれた最初の「恋 一」の章にある。自分を遠くに投げやる意志が、通俗を遠ざけ、大きな時空を生み出す。この作者の美質だろう。最後の章「恋 二」にはさらにひろがりのある句がある。       吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜      千年やうなじさみしき春の浪      秋光の白樺として逢ひゐたり    先のと同様の「自分の遠さ」が、ここではより深く、自然や事物の中に溶かされている。けれども、集中もっとも目を引くのは、別の章にある次の一句だろう。       死に真似をさせられてゐる春の夢    「自分の遠さ」が、ここでは構造化されている。「夢」の中の「死に真似」とは、序文で眞鍋呉夫がいうとおり、「夢魔的な入れ子構造」だろう。恋、夢、死は同心円状に詩の光源を定める。エロスの秘儀を囲うようなその入れ子構造の中には、なにかが破られるまでの息づきが満ちるようだ。  私たちの詩歌がどんな大きな「恋」の時間の中にあるか、示す一例かもしれない。      《出典》     「文芸21 詩歌」     初出年月日:二〇〇〇年(平成十二年)八月三日     初出紙:朝日新聞夕刊           『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)    

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (三) 向井 敏

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       エロスの幻想を深々とたたえる                    向井 敏  真鍋呉夫といえば、安部公房や島尾敏雄らとともに文学集団「現在の会」に拠った戦後派作家の一人。幻想的で何かしら不気味な、「奇妙な味の小説」の先駆ともいうべき作風の持ち主だったと記憶するが、この人はまた句作にも堪能で、長い句歴を持つ人でもあったとは知らずにいた。平成四年、その句集『雪女』(初版冥草舎、普及版沖積舎)が第三十回「歴程賞」に選ばれるということがなければ、ずっと気づかずにきたかもしれない。  「歴程賞」は元来、現代詩の分野での業績を対象とする賞で、句集に対する授賞はきわめて異例。興をひかれて一読し、その詠法のあざやかさに一驚した。とりわけ、女人の性の蠱惑(こわく)を、なまなましさを失うことなく幻想的に描きだす独得の句才に。たとえば、こんなふうな。      口紅のあるかなきかに雪女         雪女溶けて光の蜜となり         花よりもくれなゐうすき乳暈(ちがさ)かな         花冷(はなびえ)のちがふ乳房に逢ひにゆく         雪 桜 蛍 白桃 汝(な)が乳房     性的幻想を詠んで余人には模しがたい出来だったが、世間は広い、さきごろ、右の諸作にまさるとも劣らぬ句を詠む女人の俳人が登場した。 俳人の名は恩田侑布子、句集の題は『イワンの馬鹿の恋』。三十余年の句歴から佳什(かじゅう)を選んだもので、題材もさまざまなら、句法も「書くたびに鬱の字をひく春時雨」の機智、「雲の峰かつぐイワンの馬鹿の恋」の諧謔、「会釈して腰かける死者夕桜」の幻想と、まことに多彩。  しかし、この人の本領は恋の句であろう。左にその秀逸を三句ばかり。      吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜      蝮草知らぬわが身の抱き心地         告げざれば火のまま凍る曼珠沙華    その恋の句を追ううちに、やがてエロスの幻想をふかぶかとたたえた、絶品二句に出逢うことになる。こういうのである。      あしゆびをそよがせ涅槃したまへり      死に真似をさせられてゐる春の夢    前者は一見したところ、釈迦の涅槃像を写したかのごとくだが、そうではあるまい。 すくなくとも、それだけではない。この涅槃は仏語でいう解脱の境地と、俗語でいう性の陶酔境とを兼ねているのだ。深読みすれば、「あしゆびをそよがせ」る歌麿の春画の一景のようにさえ見えてくる。 後者の句の「死に真似」も、性の陶酔のさまを寓した言葉であることはいうまでもない。  この二句と、『雪女』における「乳房」の句とを読みくらべてみると、一口に性的幻想といってもずいぶん様子が違うことに気がつく。恩田侑布子の句では全身全霊でエロスの世界に没入しているのに対して、真鍋呉夫の句の場合はどこか醒めて、あるいはゆとりをもって観照しているといったふうがある。この違いは男と女の性感覚の差と通い合っているのかもしれない。  ことわっておかなくてはならないが、『イワンの馬鹿の恋』のことをいうのに『雪女』を持ち出したのは、ほかでもない、恩田侑布子も『雪女』の作風に心を奪われ、私淑すること七年、昨年ようやくその「心の師」と相会することができたとあとがきにあったせいである。類は友を呼ぶということであろうか。      《出典》     本と出会うー批評と紹介     初出年月日:二〇〇〇年(平成十二年)九月三日(日曜日)     初出紙:毎日新聞            『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (二) 勝目 梓

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          隠喩(いんゆ)――――――恩田(おんだ)侑布子(ゆうこ)                    勝目 梓  単なる俳句ファンに過ぎない私のような者にまで、自作句集を贈ってくださる方々がときにいらして、恐縮しています。  恩田侑布子句集『イワンの馬鹿の恋』(平成十二年 ふらんす堂)もそうした中の一冊です。著者の初句集とのことですが、十八歳で飯田龍太選の「毎日俳壇」で特選を重ねた後に、十年近い中断をはさんで句作を再開、という句歴の紹介が巻末にあります。      死にかはり逢ふ白梅の日と翳と         死に真似をさせられてゐる春の夢        会釈して腰かける死者夕桜       亡き人と摺足で逢ふ日の盛      深い思索と豊かな身体的な感性とを入念に練り上げた末の、見事な結実と言うべき作と思います。一つの情景を捉(とら)えて、それを現実世界と夢幻の領域の間(あわい)に漂わせた上で再度見直す、という手法がこの俳人のきわ立った特性であり、また大きな魅力と思えます。  従って恩田侑布子の句は、写実的に見える作にもどこか現実の地平を越えていくことばのひびきが感じ取れるし、夢幻の中の情景と思える作には逆に一種の現実的なリアリティが生じるのだろうと思うのです。  そうした二重の構造を備えた詩心と手法があればこそ、掲句のような、死者があたかも形あるものの如(ごと)くに生者と混在している句想が自在に生れるのではないでしょうか。  そのように考えると私は、〈死に真似を――〉の句に触れて、死者そのものにも春の夢の訪れがあるのかもしれない、などといった不思議な思いに導かれたり、〈死にかはり――〉という聞き馴(な)れないことばが、「生まれかわり」とほとんど同義語のように使われていることに、目から鱗(うろこ)が落ちるような思いを味わったりするのです。      蹴り初めは母のおなかや夕桜      砂いつか巌にかへらむ夕河鹿      寒紅を引きなつかしやわが死顔    生は即ち死であり、死は新たな生であると捉えれば、時間というものにもまた、現在から未来へ進む一方に、過去に向っていく流れのあることが視(み)えてくる道理です。  生れて初めて蹴(け)ったものの記憶を辿(たど)って胎児期まで遡(さかのぼ)り、河原の砂がかつての巌(いわお)の姿を取り戻すまでの厖大(ぼうだい)な時の経過を軽やかな夢想の裡(うち)に捉え、かと思うと鏡に映る紅を引いた自身の顔をデスマスクに見立てて、それを懐かしいと詠(よ)む作者の、時間というものに対する姿勢、思索が、不思議に心地よい自在な感じの場所に私を立たせてくれる気がします。      手をひかれ冥府地つづき花の山      春嵐千里にべつの吾おりぬ      彼岸より此岸がとほし花の闇      身をよせて日焼子死後を問ひにけり     これらの作も、あの世とこの世を自在に行き来しながら、たゆたうような時の流れの中に軽やかに身と心をあそばせているかのような、この作者ならではの佳句です。      擁きあふ肌といふ牢花ひひらぎ      接吻(くちづけ)はわたつみの黙(もだ)夕牡丹      骨壺の隙間おそろし夕桜      翡翠(かはせみ)や水のみ知れる水の創(きず)    この句集には、印象が明るくて、ことばのひびきも軽快な作が数多く収められています。それでいながらそれらの句にはいずれも、人間の生にまつわるさまざまな切ない真実の相が、あるときは官能的な、またあるときは思念的な巧みな隠喩が用いられていて、それが句に奥行きと底の深さを与えています。恩田侑布子は隠喩の俳人と呼びたいほどです。     《出典》   『俳句の森を散歩する』   (株式会社小学館 二〇〇四年一月一日発行)       『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (一)  

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       『断絶を見つめる目』                   古田 秀  生と死、明と暗、人工と自然、主体と客体。近代化とは人間を自然から切り離し、あらゆるものに線を引き分類し続ける営みであった。結果として世界の解像度は飛躍的に上がったが、個人と世界、個人と個人の間にさえ、深い断絶が横たわることとなる。俳人・恩田侑布子の作品は、美しくしなやかな言葉の魔法でその断絶のむこう側を描き出す。しかしそれは読者に断絶を再認識させることであり、彼女もまたままならない世界との隔たりを見つめている。恩田侑布子第一句集『イワンの馬鹿の恋』は、その断絶を見つめる視線と緊張感が魅力的である。    擁きあふ我ら涅槃図よりこぼれ    後ろより抱くいつぽんの瀧なるを    蝮草知らぬわが身の抱き心地    擁きあふ肌といふ牢花ひひらぎ  「擁」「抱」の字が印象的な四句。他者や自然と一体化する行為でありながら、自らの肌が知覚する接触面がそのまま隔たりとして現れるもどかしさ。しかし半端な慰めを求めず、その隔たりを見つめる凛としたまなざしがある。    手を引かれ冥府地つづき花の山    死に真似をさせられてゐる春の夢    会釈して腰かける死者夕桜    卯の花の谷幾すぢや死者と逢ひ    寒紅を引きなつかしやわが死顔  「死」は生者と常に伴走する。「死」を遠ざけんとしてきた現代社会の在り様とは異なり、恩田は当然のように「死」と対話する。近代化が作り出した生と死の断絶を、彼女は言葉で乗り越える。    わが庭のゆかぬ一隅夏夕べ    かたすみの影に惹かるる祭笛    わが影や冬河の石無尽蔵    寒灯の定まる闇に帰らなむ    くるぶしは無辺の闇の恋螢  「影」「闇」の存在が印象的な五句。全貌が知れない、未知のものを怖ろしいと思うのは、近代的啓蒙主義の副産物。自らも作り出す影、光に寄り添うようにそこにある闇をひとたび受け入れれば、曖昧なままを許す底の知れない懐の深さに魅入られ、目をそらせない。    粥腹の底の点りぬ梅の花    翡翠や水のみ知れる水の創    髪洗ふいま宙返りする途中    冬川の痩せつつ天に近づけり  世界と対峙するとき、自らの肉体の変化と眼前の自然の変化は呼応する。それまで知覚できなかったものが、言葉となって現前のものとなる。これまであった世界との隔たりが消えたかのように、感性の翼が自在に空を駆ける。    みつめあふそのまなかひの青嵐    寒茜光背にして逢ひにくる    吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜    再会の頬雪渓の匂ひして  恩田曰く、恋は感情の華。表現せずにはいられない衝動にも似た心の震えは、断絶を乗り越えるための大きな原動力となる。互いの存在を確かめ合うのと同時に、最適な距離をさぐる緊張と撓み。恋慕の相手への、まっすぐで凛々しい視線がある。    生涯を菫の光(か)ゲへ捧げたり    仮の世に溜まる月日や花馬酔木    来し方やいま万緑の風の水脈    龍淵に潜み一生(ひとよ)のまたたく間    光陰に港のありし冬菫    長かりし一生(ひとよ)の落花重ねあふ  宇宙の壮大な時間に比べれば、人間の一生は短く儚い。だからこそ今この瞬間の生命のきらめきがあると言えよう。野の草花が、風が、川の流れが、虫や鳥の声が、いま私たちの一瞬と交錯する。恩田侑布子の詩の翼は断絶を悠悠と越え、今この瞬間のきらめきを普遍の境地へ導くのである。     (了)                  (ふるたしゅう・樸俳句会員) 『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)