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2月24日 句会報告

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平成31年2月24日 樸句会報【第66号】 如月第二回目の句会です。 兼題は「春雷」と「蕗の薹」。 ○入選2句、原石賞1句を紹介します。 ○入選  春雷や午後の微熱をもてあまし                猪狩みき 合評では 「ありそうな句。流行のインフルエンザからの快復期の人でしょうか。ことしの時事俳句?」 「春の物憂い感じが出ている」 「微熱くらいなら、ワタシはもて余しません!」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は 「入選でいただきました。治りそうなのにまた午後になって上がってきた熱。“また今日も”という気だるさが春の午後の物憂い感じとよくつり合っています。第二義的には、心象を詠んだ恋の句とみることもできます。相手にぶつけられない内心の懊悩が“午後の微熱”という措辞にこめられていて、そこに春雷がかすかに轟きます。やや技巧的ですが詩のある俳句ですし、愛誦性もありますね」 と講評しました。        ○入選  天地の睦むにほひや春の雷               村松なつを 合評では 「萌え出す春の色っぽさを感じる。春の雷を聴くとギリシャ神話のゼウスを思います」 「“睦む”と“にほひ”の結びつきがよく分からないけど、何かが生まれるような感じがある」 「激しく成長をうながす夏の雷と春雷は違いますね」 「雷が鳴って、雨が降って、それで匂いがするというだけの句ではないですか?」 など感想や辛口意見も。   恩田は 「秋の雷光は稲を孕ませるものとされ、稲妻ともいなつるびとも言われてきました。ですから季節はちがっても、春雷に天地の睦み合いを感じるのは自然です。冬の間は、天も地もカキーンと凍りついて、地平線や水平線に画然と対峙していたのに、“春の雷”が轟くと、まるで天の男神、地の女神が睦み合うようにつややかに交歓を始めます。“にほひ”は嗅覚つまりsmellではなく、色合いや情趣、余情であり、ゆたかで生き生きした美しさです。源氏物語の“匂宮”を想起しますね。天地有情ともいうべき句柄の大きな句です」 と評しました。       【原】蕗の薹逢へぬ時間の知らぬ顔                海野二美   合評では 「“逢へぬ時間”に切なさを感じます。ただ“知らぬ顔”って何? 恋の相手が知らぬ顔をしているのか、知らぬ顔をしているのは蕗の薹? いろいろ考えられて面白い」 「作者である自分の知らない顔を相手が持っているということなのでは?」 などの感想がありました。   恩田は 「推敲すれば特選クラスです。“知らぬ顔”の主体が三つにブレるのです。つまり、蕗の薹、相手、自分です。また、“逢へぬ時間”は“逢へぬ日”にしたほうがより切なさが増します。“時間”は短いので切実感がなくなってしまいます。上下を変えると品のいい切ない恋の句になるのでは」 と評し、次のように添削しました。 【改】逢へぬ日の知らん顔なり蕗の薹   「蕗の薹は震えるような葉っぱ、恥じらっているようなちぢれ方をしています。こうすると透明感のある萌黄色の姿が際立つ清冽な恋の句になりませんか」       今回の兼題の例句が恩田によって板書されました。 特に中村汀女の句については、「万人受けのする句です。この句を嫌いな人はいないのでは?失われた日々への愛惜、清らかな淡々とした抒情があります」との解説がありました。  蕗の薹おもひおもひの夕汽笛               中村汀女  蕗の薹古ハモニカのうすぐもり              恩田侑布子            (『イワンの馬鹿の恋』)  春の雷鯉は苔被て老いにけり               芝不器男  あえかなる薔薇撰りをれば春の雷               石田波郷        投句の合評・講評のあと、去る2月5日にパリで開催されたポール・クローデルをめぐる俳句討論会(恩田もシンポジストとして登壇)のレジュメが配布され、恩田から解説がありました。 クローデルは、 「日本人の詩や美術は(中略)もっとも大切な部分は、つねに空白のままにしておく」 「俳句は中心イメージを取り囲む精神的な暈(かさ)によって本質が作られる」 と述べています。 想像力の反響作用によって本質が作られるという俳句論は、恩田の「俳句拝殿説」に重なります。恩田は「俳人が造れるのは拝殿まで。作者は読者に拝殿の前に一緒に立ってくださいと誘う。短歌は本殿を造りそこに読者を招じて座らせることができる。しかし、俳句は本殿は造れない。拝殿の向う、時空が畳みこまれた余白に、読者は自己を開いて他者と交感する」と『余白の祭』に書いています。  俳句討論会についてはこちら       [後記] 今回の句会で筆者が触発されたのは、「類句」「類想」についての恩田の指摘です。 「類句」「類想」の問題とは他人の俳句と似ていることではなく、自分の昔の句に似ているのがダメということ。すなわち、戦う相手はおのれの中にある。自分の固定観念を打ち破ることが必要。クローデルと姉のカミーユが師と仰いだ北斎も、死ぬまで脱皮していったことを恩田は強調しました。筆者も「自己模倣」に陥らぬよう句作に取り組みたいと思います。 次回兼題は、「朧」と「雛」です。(山本正幸) 今回は、○入選2句、原石賞1句、△2句、ゝシルシ5句、・1句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

俳句討論会「クローデルの日本」がパリ日本文化会館で開催されました。

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俳句討論会「クローデルの日本―『百扇帖』をめぐって」が パリ日本文化会館で開催され、樸代表の恩田侑布子もシンポジストとして登壇しました。 ポール・クローデル(1868-1955)が、日本大使として勤務した最後の年にまとめたフランス語の句集『百扇帖』(Cent Phrases pour Évantails, 1927)について、フランス、アメリカの俳人/俳句研究者と現代日本の俳人、比較文学者が討論しました。          記 俳句討論会「クローデルの日本―『百扇帖』をめぐって」   日時:2019年2月5日(火)18時~  場所:パリ日本文化会館小ホール  座長:杉浦 勉(日本文化会館館長)  シンポジスト:芳賀徹、夏石番矢、         金子美都子、恩田侑布子、         アビゲール・フリードマン(米)         アラン・ケルベール(仏)      ↓ クリックすると拡大します              (撮影 佐藤麻里子)                                                                         

俳句討論会「クローデルの日本―『百扇帖』をめぐって」に恩田侑布子が登壇します。  2019年2月5日 パリ日本文化会館

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俳句討論会「クローデルの日本―『百扇帖』をめぐって」が パリ日本文化会館で開催されます。樸代表の恩田侑布子もシンポジストとして登壇します。 ポール・クローデル(1868-1955)が、日本大使として勤務した最後の年にまとめたフランス語の句集『百扇帖』(Cent Phrases pour Évantails, 1927)について、フランス、アメリカの俳人/俳句研究者と現代日本の俳人、比較文学者の視点から捉え直します。              記 俳句討論会「クローデルの日本―『百扇帖』をめぐって」   日時:2019年2月5日(火)18時~  場所:パリ日本文化会館小ホール     Maison de la Culture du Japon à Paris     101 bis, Quai Branly, 75015 Paris  座長:中條忍  シンポジスト:芳賀徹、恩田侑布子ほか                  ポール・クローデル『百扇帖』恩田侑布子訳 33作品抄出についてはこちら ※ 『俳句あるふぁ』2019年冬号にも『百扇帖』恩田訳の俳句47句、短歌21首、短詩10篇が掲載されていますのでどうぞご高覧ください。

『俳壇』・『俳句あるふぁ』に恩田侑布子が寄稿しております。ご高覧いただければ幸いです。

◎『俳壇』一月号:特別作品「青女」三十句。 ◎『俳句あるふぁ』冬号:ポール・クローデル『百扇帖』18頁の大特集 ・「仏詩人大使の生涯」恩田侑布子講演より ・『百扇帖』俳句・短歌・詩(恩田侑布子訳) ・芳賀徹先生と恩田侑布子の対談 

11月4日 句会報告

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平成30年11月4日 樸句会報【第59号】 11月第1回。「大道芸ワールドカップin静岡」の喧噪を抜けると、句会場のアイセルに着きます。 兼題は「芋」「鹿」「猫」です。 入選◯1句、△6句、シルシ8句という結果でした。入選句を紹介します。 なお、10月19日の句会報は、特選、入選ともになかったためお休みしました。                     〇卓袱台の主役は芋茎雨の夜              松井誠司 恩田侑布子だけが採りました。 「芋茎、なんというレトロな食べ物。今日のメイン料理というわけではなさそうです。肴にして夜更けにひとりちびちび飲んでいる。外はしめやかな雨。静かなさびしさが句の底から湧きあがってきます。形容詞がなくても伝わってくるわびしい孤独感があります。座五の“雨の夜”がいいですね。 でも作者の自解によると、信州で育った幼いころの体験だったのですね。戦後間もない頃で、晩秋になると農家に米はあっても、彩りのあるおかずは買えなかったと。この句のいうに言えない冬隣の雨に包まれる気配は、農耕民族のわたしたちが二千年間聞いてきた雨音だと思います。DNAに深く染み込んだものを呼び醒ます俳句といったらいいでしょうか」 と講評しました。 本日投句された中の一句を例に、俳句における「直喩」について恩田から解説がありました。     大道芸ワールドカップin静岡  秋の日の幾何学のごとジャグリング  恩田は、「発想はいいが、“のごと”がもんだい。直喩にするなら思い切って斬新な比喩にしたい。“のごと”は取って“幾何学”で切り、替わりに“◯◯の”と作者の発見を入れたいです」と評しました。 ======= 去る10月21日に静岡市駿河区丸子で開催された「恩田侑布子俳句朗読&講演会」(詩人大使クローデルの『百扇帖』から)には連衆の何人かが参加し、欠席投句者からも挨拶句が寄せられました。 そのなかでも石原あゆみさんの俳句と自註は、恩田をして「誰のこと?穴があったら入りたい」と大いに照れさせました。  バレリーナ指先に呼ぶ秋の虹      朗読パフォーマンスの鈴の音で世界が変わりました。 また木々の借景も加わり、一人のバレリーナを見るようでした。 一つ一つの言葉と一つ一つの動きが相まって、更に世界が変わっていき吸い込まれていきました。指のさきから秋の虹が句とともに伸びているのです。(石原あゆみ)                                講演会の句は、ほかに二句あり、思い出に浸りつつひとしきり話題になりました。 「恩田侑布子俳句朗読&講演会」についてはこちら   [後記] 丸子待月楼の講演では、詩人ポール・クローデルの像がくっきりと立ちあがり、その短唱の「気息」まで伝わってきました。 恩田は「『百扇帖』にはありとあらゆるものがある。ないものといえば、ボードレールがその批評『笑いの本質について』のなかで述べた、グロテスクな笑い、絶対的滑稽といったものだけかもしれない」と、この二人のフランス詩人の資質の違いを端的に述べました。 また、俳句朗読パフォーマンスにおいては、恩田の句はすべからく声に出して読むべし、その音楽性を味わうべし、との意を強くした筆者です。 延期となりましたパリ日本文化会館でのシンポジウムの日程も決まり次第お知らせいたします。どうぞご高覧ください。 次回兼題は、「枯葉」と「鍋」です。(山本正幸)

恩田侑布子 俳句朗読&講演会 2018年10月21日(日) 

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 認定NPO法人丸子まちづくり協議会主催の俳句朗読&講演会に恩田侑布子が登壇します。  根っからの静岡人なので、地元での講演の機会に感謝しております。  東海道五三次で一番小さなまりこの宿。その大きな魅力を、ポール・クローデルの表現した日本の美から見つめ直してみませんか。とろろ汁の「待月楼」でお待ちいたします。                        恩田侑布子                 ↑          クリックすると拡大します                             ↑          クリックすると拡大します

シンポジウム クローデル『百扇帖』をめぐって(下)

HP用金子美都子 

「今に生きる前衛としての古典― 詩人大使クローデルの句集『百扇帖』をめぐって」  ・日 時 2018年6月17日(日)13時30分開演  ・会 場 神奈川近代文学館 展示館2階ホール ・コーディネーター 芳賀徹 ・パネリスト 夏石番矢・恩田侑布子・金子美都子       川面忠男様のご寄稿の(下)を掲載します。  シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (4)   日常の風景と深読みの詩句 恩田侑布子さん、夏石番矢さんに続き金子美都子さん(聖心女子大名誉教授)がパネラーとなり「クローデルは物真似をしなかった。そこがいいところだ」と話し出した。「生命力が豊か」と感じさせる詩がクローデルの特徴という。金子さんは欧州の短詩を研究してきた学者だ。 金子さんは『百扇帖』をめくっていると、ふと金魚と猫を題材にした以下の詩句が目に入ったという。仏文学者の山内義雄先生の訳だ。  鉢のそばにうづくまった猫どの  薄目をあけて日(のたま)はく「私は金魚がきらひです」 金子さん(写真)は「一風変わった詩篇だが、日常的でわかりやすい光景を詠んでいる」と言ったうえフランス語で読み、以下のように解説した。 「夏の昼間、金魚鉢の中で金魚が泳いでいる。傍らでうずくまった猫が薄目で見るともなく『金魚など嫌い』と言っているようだ。しかし、実は幼い頃よく目にした光景だ。クローデルは『百扇帖』に生き物を詠んだこんなコミカルな鑑賞もあるということを示したかったのだ。  フランス近代詩で猫を謳ったのはボードレール。猫に託した恋人の詩などがある。クローデルの詩とは違う。ボードレールの詩では猫と詩人の関係が猫は恋人、女性への微妙な愛情のシンボルになっている。 クローデルの詩の中では人と猫とが接近している。クローデルが俳句を理解しようと思っていたことの表れだ。日本の俳句は発生の根底に諧謔がある。万葉集や古今集は身体表現の豊かな、また滑稽な動作を詠んだ笑いの歌が認められ、そこには動植物を擬人化した動作が詠み込まれている。 クローデルは、明治後半に東大法学部の外国人教師として教えていたミシェル・ルボンの日本文学詩歌集を参照している。その中に芭蕉の〈麦飯にやつるる恋か猫の妻〉という句が載っている。それについてルボンが麦飯は白米より栄養が少ないとか、猫の恋は俳諧として好まれた題材であると注を付けている。古典詩歌の気品や威厳に全く反するものではないとも。クローデルは動物も人間と同列に扱われる題材だと思ったのではないか。」 次に金子さんは同じようにクローデルが身近なことを詠んだ句として「紙鳶」を紹介した。芳賀徹さん訳だ。   小柄なお母さん  小走りで  凧を舞いあがらせる   いや、それは子ども  母さんの背で口を ぽ  かんとあけて  凧あげしてる 金子さんは「微笑ましい短抄。〈ぽ〉で切るのはクローデルの手法であって『意味の出血』と言っている」と述べた。「意味があふれて出てしまう」のだ。 続いて金子さんは「影月」と「陰墨」というクローデルの二つの詩句をフランス語と日本訳で紹介した。どちらも有名だという。 まず山内義雄先生訳の「影月」。  今宵床上にあって 手 壁面にものの影をゑがく 月出でぬ また「陰墨」(栗村道夫訳)も似たような秋の詩句だ。  月のわれに与ふる此の陰  此の世のものならぬ 墨の如し これらの詩句について以下のように解説した。 「秋のひんやりした空気、十五夜を過ぎた月が上っている。〈名月や畳の上に松の影〉という其角の句があるが、影をつくっているのは〈手〉、そこで切っている。クローデルが得意な表現だ。手から出た息吹がとどける無言の言葉を君も心の耳に受けよ、という文言があるが、手から自分の持っている思想、考えが最終的には手という身体から相手の心に伝わるという大事なものになるわけだ。それを出せる空間を十分にとっている。 壁の上に陰をつくる手は、存在するすべてが至るところで自分がそれなしには存在しえなかったものを指示している。そこで月が隠れた意味を示している。陰は月が与えた墨にもなっている。ここで見えない世界というか、現実の世界にないものを表している。」 クローデルも実と虚の間を行き来する詩人だと思う。       (川面忠男 2018・6・28)         シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (5)    芭蕉を超える?句もあり 恩田侑布子さん、夏石番矢さん、金子美都子さんという3人のパネラーの発言の後、司会の芳賀徹さん自身がパネラーになってポール・クローデルの詩を鑑賞、解説した。それらの詩句は「日本――神話的ヴィジョン」、「牡丹と月――自然のエロス」、「魂のうるほひ」と芳賀さんの言葉で分類している。 まず「神話的ヴィジョンの句」。  日本  長き琴のごと    出づる日の一指のもとに いまをののく まずこの詩句について芳賀さん(写真)は「クローデルは日本史を知っている。古代の神話にも興味を持っている。太平洋のいちばん東に上ったばかりの朝日、その光を浴びて日本列島は琴のように張っている。クローデルが作り上げた神話的日本のヴィジョンだ」とコメントした。 続いて以下の詩句。  夜明け  男体(なんたい)は白根に放つ   大いなる金の矢 芳賀さんは「男体山の山頂の日の光がさらに下にある白根山に。これもダイナミックな日本神話の世界。クローデルの中には神話的ヴィジョンがあり、それが百扇帖の骨格をなしている」と言った。 また同じような詩句の紹介。  緑の森の  動かぬ闇のなかから   緋いろのどよめき 芳賀さんはこう解説した。 「男体山の上から山麓の緑の広がりを見ると、その一個所に朝日が当たり明るくなっている。芭蕉の〈あらたふと青葉若葉の日の光〉を受けているが、芭蕉よりいいかもしれない。神話的ヴィジョンを凝縮し自分の詩として俳句の中に詠んだ。」 次は「牡丹と月――自然のエロスの詩句」。  白牡丹の  芯にあるのは   色ならぬ 色の思ひ出   香りならぬ 香りの思ひ出 さらにもう1篇。  牡丹  思ひに先立って わがうちに萌(きざ)す   この紅(くれなゐ) 芳賀さんは「〈白牡丹といふといへども紅ほのか〉、という高浜虚子の句よりはいい。牡丹が好きな蕪村は〈牡丹切て気のおとろひし夕かな〉と牡丹と一体になっている素晴らしい句を作ったが、これに匹敵する」と評した。 そして「魂のうるほひ」の句。「何と言っても『百扇帖』の中で最もいいのは」と以下の詩句に言及した。「山内先生の訳もいい」と訳は山内義雄先生のものだ。    水の上(へ)に  水のひびき   葉のうへに   さらに葉のかげ 「これは百扇帖の最高峰。これには芭蕉も及ばないのではないか。〈水のひびき〉と〈葉のかげ〉だけで成り立っている詩。ひっそりとしてまさに幽玄の世界。これ以上ない静寂、水の響きがあるからいっそう静寂が深まる。 芭蕉の〈閑さや岩にしみいる入る蝉の声〉も蝉の声があるから閑さが増すが、具象的過ぎる。クローデルの詩は音や色のない世界に入っている。 葉は竹の葉、かすかに揺れている。水は京都の寺の庭の池の隅でちょろっ、と落ちている。葉のかげは太陽ではなく月の陰だろう。フランス人の詩がここまで行ったのは驚嘆すべきだと思う。」 芳賀さんが言うようにクローデルの詩が芭蕉よりいいかどうかはわからないが、日本の美の真髄をつかんでいたことは確かだと感じた。       (川面忠男 2018・6・29)            シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (6)        「余白」に気づいた西洋人 シンポジウムの司会者、芳賀徹さんは恩田侑布子さん、夏石番矢さん、金子美都子さんの3人のパネラーに追加の発言を求めた。それぞれの発言について芳賀さんはコメントしたが、ここではパネラーの発言のみ以下の通り要約する。 まず恩田さんは「ポール・クローデルは西洋人として初めて東洋の余白ということに気づいて実験した詩人だった」と以下の通り述べた。 「ジャポニスム(日本趣味)の影響を受けたのは二十歳の頃だ。ジャポニスムの影響を受けた画家としてモネがいる。移ろう光と雲と水の色、ジャポニスムを自家薬籠中のものにしたと言ってみることができると思う。しかし、描きつくしたいという西洋的感性による巨大な絵が自分の胸の中でどんどん縮んでいく。一方、雪舟の『秋冬山水図』は、見ている時よりも離れている時に絵がどんどん大きくなる。なぜかと言えば、余白があるからだ。 モネは余白を理解できなかった。ロートレック、ゴッホもジャポニスムは取り入れていたが、余白については理解していなかった。小石を一つ投げてそこに広がりができるようなものが余白だ。目に見えるすべてを表現することではなく、写実主義ではなく、余分なものは省いて、肝心なものだけを描く。写実主義では本当の美の秘密は描けない。 クローデルは省略して凝縮することに気がついた初めての人ではないかと思う。まさに俳句の精神、深いもの、無への接近ができた。クローデルの脳裏には北斎があった。『百扇帖はクローデルが描いた北斎漫画』ではなかったか、と言いたい。」 続いて司会の芳賀さんに声をかけられて金子さんが以下の通り発言した。 「〈水の上に 水のひびき〉の句のように日本人が感じることができるような詩句をつくることがクローデルの素晴らしいところだが、クローデルの全体を見ると、日本にだけ入り込もうとはしていない。 筆を使っているのは大きい。中国や日本にいたことから全てが始まっているように思える。墨を使うと自分が書きながら画家と同じようになる。作者であるだけでなく作品の鑑賞者、批評家にもなれる。墨を使って書いたことが実験的であり、前衛的なことであった。 クローデルは1980年代以降、日本の詩とか東洋の詩を考えている。その余白は前衛的なことであった。 シュールレアリスト(超現実主義者)のアンドレ・ブルドンが初期の作品の『黒い森』という詩篇に何秒かの空白を入れた。その何秒かの空白が信じがたいほどの効果を出した。語と言うものの周りに置かれた空白のゆえに、またその後に書かなかった他の無数の語と接触するゆえに、とシュールレアリスム宣言に書いている。書かれること書かれないこと、無言の言葉、短縮ということがフランスでは前衛的なことと思う。 その余白の使い方はクローデルとは全然違う。クローデルの場合は象徴詩であると思う。ブルトンの場合は象徴であったならばシュールレアリズムにならないわけだ。その余白のくくり方が違う。クローデルは(〈かあさんの背で口を〉の後、空白をつくり〈ぽ〉と置き、改行して〈かんとあけて〉と続く、といった)『意味の出血』もだいぶ前から『百扇帖』に練り込んでいる。 句読点の廃止は、アポリネールが1913年の作品「アルコール」で初めて試みた。その中でマリーランサー(画家)との恋で有名なミラボー橋を詠んでいるが、そこで初めて句読点を廃止した。句読点は『百扇帖』にも全く入っていない。」 夏石さんが司会の芳賀さんに発言を促がされ、以下の通り述べた。 「(クローデルは)リズムも、書き方も、まっさらなところから書いている。パターンから書かない。日本に迫るとき、詩的な部分とナイーブな感性がうまくからまっている。 日本の中でいろんなものに着目するが、最後は水滴に集約していく。水、太陽、植物とかなりテーマがあるが、水滴に集約していくところがおもしろい。 山頭火も最終的には水を様々な角度から詠んでいる。クローデルも(山頭火と)接触はなかったが、日本は水というものに注目せざるを得ない環境にある。」 再び金子さんが発言、クローデルの『日本文学散歩』(芳賀訳)の以下の文言を紹介した。 「いいハイカイというものは、本質的に、一つの中心となる映像と、その映像 が心の中によびおこす反響、つまりはっきりと言いあらわされたものであれ、言外のものであれ、その映像をとりかこんで生じる一種の霊的精神的な暈(かさ)とからなっている、といえましょう。」 そして金子さんは「クローデルは大胆にいろいろなことをやろうする意思が強 くて、自分が吐く息のリズムに合うような詩づくりを貫き通していた。文体を省略し、自分の詩を作っていた。」とも述べた。 最後に芳賀さんが「クローデルは、もののあわれがわかっており、これからも日本人が読んで面白がり、さらに解釈してゆきたい詩人だ」と締めくくった。       (川面忠男 2018・6・30)

シンポジウム クローデル 『百扇帖』をめぐって(上)

宗達の扇散図屏風

「今に生きる前衛としての古典― 詩人大使クローデルの句集『百扇帖』をめぐって」  ・日 時 2018年6月17日(日)13時30分開演  ・会 場 神奈川近代文学館 展示館2階ホール ・コーディネーター 芳賀徹 ・パネリスト 夏石番矢・恩田侑布子・金子美都子  このシンポジウムを聴講された川面忠男様からご寄稿いただきましたので、(上)(下)二回に分けて掲載させていただきます。川面様、ありがとうございます。                                       シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (1)    息がとどける無言の言葉 横浜の神奈川近代文学館で「ポール・クローデル展」が開催されているが、6月17日午後1時半から4時まで記念イベントの一つとしてシンポジウムが行われた。「今に生きる前衛としての古典――詩人大使クローデルの句集『百扇帖』をめぐって」というのが演題である。 シンポジウムでは左から司会の比較文学者の芳賀徹・東大名誉教授、3人のパネラーが俳人の恩田侑布子さん、同じく夏石番矢さん、聖心女子大名誉教授の金子美都子さんという順で着席した(写真)。 最初に芳賀さんがクローデルという人物についてあらまし以下のように語った。 クローデル(1868~1955)はフランスの駐日大使だったが、外交官としてだけでなく劇作家、詩人としても優れていた。日本の文化をフランスに伝えた最も重要な人である。昭和2年(1927)に大正天皇の大喪儀に参列後、離日し駐米大使になった。 シンポジウムではフランス文学の側からではなくて日本側からクローデルの俳句集『百扇帖』を見た。1942年、フランスのガリマール書店から初版本が出た時に序文の中に「日本の俳句に倣って俳句というミツバチの中に私がそっと捧げた贈り物である」と書いている。芳賀さんは、これが俳句と言えるかどうかと述べ、クローデルと親しかった山内義雄(フランス文学者)は短唱と言っていると紹介した。そのうえで「短歌とか俳句と決めつけることはない。最も鋭く強く深い詩魂を押し込めたのが『百扇帖』」と言う。 『百扇帖』はフランス側から研究されていないという。日本の詩がフランスの近代詩にどういう影響を与えたのか。そういう評価は未だ何もない。日本の俳人もフランス語を読める人が少ない。シンポジウムで「百扇帖」がどういうものか明らかにしていく意味は大きいと芳賀さんは述べた。恩田さんはフランス語が読める。夏石さん、金子さんはフランス文学の先生だ。 序文の一部に次の件がある。「扇子というあの翼、すぐにも風のそよぎをひろげるあの翼の上だ。君のこころの耳に、手から出た息がとどけるこの無言の言葉を、どうか迎え入れてくれたまえ」。これを紹介して芳賀さんは「いい言葉ですねえ」、「こういう言葉を言える人は他にいない」と述べた。 続いて3人のパネラーが『百扇帖』について鑑賞した。      (川面忠男 2018・6・25)                           シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (2)  雪になる雨金になる泥ありぬ ポール・クローデルの『百扇帖』にある172篇のうちシンポジウムのパネラーが3篇を選んだうえフランス語で読み、自分なりに鑑賞した。最初が恩田侑布子さん(写真)、静岡市の樸俳句会の代表者、昨年は現代俳句協会賞、今年は桂信子賞を受賞した俳人だ。恩田さんは自分が訳した詩を紹介、解説した。以下、要約しよう。 172篇を読むと短詩、短歌、俳句に分かれたという。172編がすべてエロス的言葉であって散文とは全く違うという印象、翻訳もエロス的体験だった。 最初は巻頭の詩。クローデルが31歳で出会った運命の女性、ロザリーとの愛の詩だ。息吹の交歓を感じてしまったと言い、このように訳した。    あたしのいいひと  薔薇 薔薇って  ささやく人よ   でも  もしも   ほんとの名前  知られたら  あたし  たちまちしぼんじやう 「薔薇」には「ローザ」とルビが振られている。司会の芳賀徹さんが「上手い」と言った。 続いて恩田さんは短歌に訳した五行詩を紹介した。  長谷寺の白き牡丹の奥処なる朱鷺いろを恋ひ地の涯来る 〈奥処〉には「おくが」とルビ。 こう解説した。「わたしはとうとうやってきたという感慨を込めている。それは日本という海の中の島国を暗示しているようだ。主題の白牡丹の芯にひそんでいる薄桃色が造形的にも5行の詩句の真ん中に置かれている。あたかも牡丹の花びらを分けるように置かれている。」 三つめの訳の紹介は〈雪になる雨金になる泥ありぬ〉と俳句になった。そして以下のように解説した。 「省略のきいた単純化された対句構造の詩だ。最初は〈雨しづしづと雪になり 泥しづしづと雪になる〉と直訳体を考えた。しかし、エロス的体験からすると落ち着かない。詩の凝縮度の高いのは俳句だと直感した。そこで〈雪になる雨金になる泥ありぬ〉と訳した。雨が雪になるのは当り前だが、泥が金になるのは当り前ではない。 詩人クローデルは詩人としての大きな翼があって飛躍がある。泉のように湧くイメージがある。日本人が泥で思い出すのは田の泥土だが、クローデルは大使として赴任した中国で大河の泥を見ている。私たちの息吹は泥から芽生え、やがて泥に帰る命の循環の泥でもある。」 さらに恩田さんの解説は中学の教科書で見たという俵屋宗達の絵に飛んだ。 「『伊勢物語』の芥川の場面を描いた絵では、在原業平とみられる男が高貴な女性を盗み得て芥川の畔に出る。女が草の露を目にして「あれは何か」と訊ねる。やがて、その女が鬼に食われてしまう、という話になり、〈白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを〉という歌になる。俵屋宗達はそんな恋を金泥の絵の中に閉じ込めたわけだ。金泥はエロチック、この世との境目にあるようなものと思う。金になる泥の雨という発見は、クローデルが日本文化、東洋の文化に対して深い体験をし、自家薬籠中のものにした。知識ではなくて、自分が東洋人になって読まれた句と思った。 中東は砂の文明、西洋は石の文明、東洋は泥の文明という言葉もある。この句は、ポール・クローデルが肺腑の底から捧げた日本と東洋のオマージュ(賛辞)と言えるのではないだろうか。」  シンポジウムでは言及されなかったが、恩田さんの『百扇帖』の訳が他にも資料に載っている。俳句となったものを列挙してみよう。  ふかむらさき金の鈴より幽(かそ)かなり  詩よ薫れ灰と烟のそのはざま  秋麗に生(あ)れし漆の眸かな  無何有(むかいう)のさとの風汲む扇かな  無始なるへ身を投げつづけ瀧の音  万物や瞑(めつむ)りてきく瀧の音  みづの上(へ)に水のはしれり若楓    さよなら日本 すやり霞の金砂子      (川面忠男 2018・6・26)                       シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (3)    日本への肉薄と東西の対比 ポール・クローデルの『百扇帖』をめぐり俳人、恩田侑布子さんに続いて俳人でフランス文学者の夏石番矢さんが発言した。流暢なフランス語でクローデルの詩を読み自分の言葉で訳し解説した。「テーマの切り口はいろいろだが、一つは牡丹と薔薇を読みながら東洋と西洋の違い、それを短い詩の中に詰めている。クローデルが自分を縛り付けているカトリシズム、あるいは日本の白、これは神道につながってゆく」。これがイントロダクションだった。 夏石さんはシンポジウムに間に合わせて京都の職人に扇を作ってもらい、扇に墨で二文字の詩の題、クローデルの詩、その日本語訳を書いた。夏石さんが好きな2篇を『百扇帖』と同じように仕立てたのだ。 その一篇は「紅白」で夏石さんは扇(写真)を手にしながら話を続けた。日本語訳は〈牡丹 血が赤いように 白い〉。これは俳句と思ったようで以下のように説明した。 「文語訳にすれば詩になるという錯覚があるが、それはちょっと違うと思う。それまでの日本の詩歌の日本語に比べれば現代語は成熟していないが、古い綺麗な言葉をつかっていればいいという問題ではない。」 夏石さんの詩の解釈は以下の通り深い。 「牡丹を見ながら薔薇が出てきたり、薔薇を見ながら牡丹を見ていたりという入れ子状になっている、長谷寺の牡丹は必ずしも白ではないようだが、白い牡丹を見た時には死、つまりキリスト教の磔刑、キリストが流した血をイメージする。あるいは最後の晩餐のイエス・キリストが赤葡萄酒を自分の血だと思って教えを憶えているようにと弟子たちに。血が赤いように牡丹が白いという。白さの凝縮と赤さの凝縮がここで出てきて東西の世界観、宗教観と言うものが短い詩に単純だが、さりげなく書かれている。  続いて「日本人が見慣れているものが小さな詩になっている」として「米㷔」という題の詩を挙げた。夏石さんの言葉をそのまま記そう。 「お米のところがおもしろい。たくあんと梅干が出て、それを綺麗な短詩にしている。米㷔〈この黄色く白い花 火と 光の 混合 のようだ〉。ありふれたことを簡単なフランス語に。稲の花の小さい雄蕊が出てきて、黄色い籾の部分があって、火と光の混合のようになっている。(クローデルは)稲妻と稲が結合することを知っているのかも知れないと言う気がした。単純な中に純粋な感受性が出ている。」 扇に仕立てた二篇目は「日蛇」という題で〈湖の一方より 朝日 もう一方に  七つ頭の 蛇到来〉という詩句。こう解説した。 「不思議な神話的な光景だ。東から朝日、もう一方は西になる。日本の朝日と西洋の人はとらえている。〈七つの頭の〉の解釈が難しいが、どうとるかは読者次第だ。 対極的なイメージとしてもおもしろい。ヨハネの黙示録(12章3節)はドラゴンだが、最後にラッパが鳴って七つ頭の蛇が出てくる。東アジアには龍とか八岐大蛇がいて、水の神様だ。両方に解釈できる。 不思議な曼陀羅、宇宙観、世界観を示す短詩としておもしろい。直感と知性で日本の本質、(ひいては)俳句に肉薄している。」 同時にクローデルはカトリックに縛られていると言い「葡萄」と題した詩句を紹介した。〈神曰く 私を締め付けうるのは 藤ではない 葡萄の木と 葡萄の実だ〉。日本の藤や花を見ていて葡萄の木と葡萄の実を題材にしたのは、キリスト教カトリックに意識が縛り付けられていると自覚しているからである。 ここで司会の芳賀徹さん(東大名誉教授)がこんなコメントをした。 「芭蕉に〈草臥(くた)びれて宿借るころや藤の花〉という素晴らしい句がある。芭蕉が一日歩いてきて藤の花を見てホッとする。その気分が藤の花に象徴されている。疲労感とそれを和らげるのが薄紫の藤の花である。クローデルはゆらゆらと揺れている。」 恩田さんも「たゆたいの感情」と補足、芳賀さんが「藤は疲れと安らぎの象徴」と言ったことで藤と葡萄を通じて東と西の違いが感じられた。 夏石さんは「謎の俳句です」と言って〈太陽の巫女 天秤の 皿の上に 座っている〉という詩句も最後にコメントした。 「不思議なイメージ。天秤ですからバランスをとる。片一方の皿に太陽の巫女が座り、もう一方に何かがあるが、書いてない。たぶん月の女神ではないかと言う気がした。」 これについて芳賀さんが「月と太陽は陳腐。クローデルが座っているのか、地球ではが大きすぎる」と評した。恩田さんも「今生きている私たち、天照と私たち」と言ってシンポジウムらしくなった。 夏石さんは言及しなかったが、資料に〈私は来た 世界の果てから 長谷寺の 白牡丹の奥に 隠れている薔薇色のものを 知るために〉という訳の詩句がある。これは恩田さんが〈長谷寺の白き牡丹の奥処(おくが)なる朱鷺色を恋ひ地の涯来る〉と短歌に訳したものだ。受け止め方は趣味の問題だが、私には短歌の響きが心地いい。       (川面忠男 2018・6・27)