恩田侑布子「戦争とエロスの地鳴り−三橋敏雄」(『証言・昭和の俳句 増補新装版』第Ⅱ部所収 コールサック社、2021年8月15日刊)を読んで 新たな三橋敏雄像の描出 編者の黒田杏子が第Ⅰ部のインタビューで明らかにした三橋敏雄像と恩田侑布子が第Ⅱ部で描き出したそれはおのずと違うものになっています。 インタビューを録音し文章化する場合、第一の読者はインタビューの対象、ここでは三橋自身です。三橋が「私の生き様、私の思いを私以上に表している」と感じとれば、そのインタビューは成功し、最高の読者を勝ち得たことになります。 「未来への予言」の語り部 黒田は、第Ⅰ部のあとがきで、三橋の「・・・戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に言い残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなく、ずしりと来るような戦争俳句をね」という言葉を引用しました。そのうえで、13人のすぐれた先達の証言を「未来への予言」と呼び、この予言集が、地球上の多くの人々と出会うことを希う旨をもって筆を置きました。 黒田は、この予言集が戦争をまったく知らない新しい世代に、さらには全地球的規模で発信されることを希い、その担い手となる「2020年代の語り部」の登場をも期待して、第Ⅱ部を設けたのではないでしょうか。 新たな語り部に求められる感性と情熱、力量を備えている現代の俳人の一人が恩田です。 恩田は、今回の執筆にあたり、現代を生きる新たな世代、世界に出てその地に生活基盤を築いている人たち、国境や民族を越えて俳句を人類共通の文化として受け入れようとする人々をも念頭においていたはずです。 恩田は若い世代の育成と海外に拠点を置く会員の指導にも力を注ぎ、自身、パリ日本文化会館客員教授として、フランスの大学で俳句と日本文化についての講演を行ったという活動歴を有しています。 生命をつないでいく本源的欲求から 恩田は、三橋の歩みを「俳句による戦争体験の昇華と昭和の反省に生涯をかけた高潔なたましいのみちのり」と呼んでいます。そして、「三橋がイデオローグの平板に陥らず文学の成熟を遂げたのは、エロス的人間の足元から俳句を立ちあげ得たからで」あると明言しています。 ここでいうエロスは、人間が生命をつないでいくうえでの本源的欲求、喜怒哀楽の原点、人間の尊厳そのものといったことを意味しているのではないでしょうか。そうであるならば、エロスは、時代と世代、国境と民族を越えて、人間に普遍的に存在し、かつ、その有り様は一人ひとりの個人によって異なってくるはずです。 それを有無を言わせず一瞬のうちに暴力的に奪いとり、その後も耐え難い痛みを残し続ける戦争の非人道性を、三橋は俳句という文学を通して訴えている、と恩田は読みとったのだと思います。 恩田自身エロス的人間を描いた句をつくり、現代社会を洞察したクリティシズムの句を評価しています。反面、安易な性的表現や自らの生き方を脇においた時流的言辞には厳格であり、「反戦・非戦」といった言葉の使用にも慎重であることの本意が、こうしたところからも見えてきます。 生身の自己を晒しながら 前半部分の「酔眼朦朧湯煙句会」での、生身の自己を晒しながら三橋という俳句の巨人に真正面からぶつかり、教えを乞う姿勢にも深い共感を覚えます。 恩田は、樸俳句会においても、連衆と同じ目線で学び、歯に衣を着せぬ時もあれば、子どものような振る舞いを見せることもあります。その生き方には、裏も表も、虚勢も力みもありません。 「俳句のつくり方を教えてください」と恩田が「ぬかし」た「たわごと」を三橋は一言のもとに撥ねつけます。しかし、恩田は三橋との会話やその生き様からも学び、30年近くかけて自らの「俳句のつくり方」を打ち立ててきたのだと思います。 田村千春は、植物の句に対する恩田の挑み方に言及して、「対象に入り込み、自分と同化させる」という「おそらく誰にも真似できない方法」(「天心への旅―恩田侑布子「天心」を読む―」)と述べています。明晰な洞察に基づく的確な表現だと思います。 * * * 9月15日、恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』が岩波文庫から刊行されました。そこで、どのような新しい久保田万太郎像が描き出されているのでしょうか。 つねに全力投球、直球勝負の恩田の人と文に接する時と同様、今回の著作においても、読み取る側に、ずしりと重いボールを受けとめる覚悟が問われてきます。 鈴置昌裕(樸会員)
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恩田侑布子「戦争とエロスの地鳴り−三橋敏雄」を読んで
恩田侑布子「戦争とエロスの地鳴り−三橋敏雄」を読んで (『証言・昭和の俳句 増補新装版』コールサック社、2021年8月15日刊) 本書は、前半が昭和を代表する俳人へのロングインタビューおよび自選50句(聞き手・黒田杏子、全13章)、後半が令和を生きる俳人20人の書き下ろし原稿という二部構成。 さっそく恩田の「戦争とエロスの地鳴り – 三橋敏雄」から読み始めました。酔眼朦朧湯煙句会での交流を中心に始まり、恩田の<擁きあふ肌といふ牢花ひひらぎ>に対し、三橋敏雄が「無季にすべきだ。さらに句が大きくなる」と説く場面が出てきます。 続いて「第13章 三橋敏雄」を読み、無季句探究の原点に戦争があると知りました。それは「無季でなければ言えない世界」だというのです。 戦争体験者の中には当時の多くを語ろうとしない人が少なくありません。三橋敏雄も本書のインタビューの中で生々しい表現はいっさい使っていません。 しかし、十七音の最奥からこちらを見つめるどんな感情、どんな告発をも逃さない恩田の比類なき鑑賞によって、魂は生きたいのに身体は砕け散ってしまった理不尽な数百万の死が胸に迫り、涙が溢れました。 三十数句の「戦争の世紀を刻印する秀句」が無季、有季を問わず掲げられていますが、ここでは次の一句を挙げます。 純白の水泡(みなわ)を潜きとはに陥つ 『巡礼』 第13章冒頭に、三橋敏雄の出身地 八王子は東京西部の多摩に位置し、剣術が盛んで、祖父は近藤勇や土方歳三と同じ天然理心流を習っていた、とあります。 その道場は、現存します。もう15年くらい前になりましょうか、多摩地区実業団剣道大会五十周年を記念し、模擬刀による天然理心流の型が披露されました。 当日、遅刻した私はすごいオーラを放つ二人組とすれ違いました。一人は銀のバレッタで長髪をまとめた細身の五十代男性、いま一人は刀を担ぎ黒髪をなびかせ颯爽と去る三十代の美女。彼らこそ、新撰組の後継者でした。 出場選手の一人として型を目の当たりにした夫は「剣道の北辰一刀流とまるで違う。徹底的な省エネ。実戦向き。一例を挙げると、鍔競り合いになったら相手の鍔を支点に刃の向きを変え頸動脈を斬る」と驚嘆していました。 十代にしてかなりの遣い手だったという三橋先生の御祖父様。「ただの田舎と思ってもらっては困る」という多摩の気風が、三橋先生のお心のどこかにあったりするかしら、いやいやそんな狭いお心でいらっしゃるはずないか、などと思いは巡ります。 見原万智子(樸会員・編集委員)