6月8日(土)に開催された樸の吟行会にゲスト参加された川面忠男様(日本経済新聞社友)が、ご自身のブログで3回にわたって当日の様子をレポートしてくださいました。 転載をご快諾いただいた川面様に厚く御礼申し上げます。 樸俳句会の東京吟行(上) 浅草神社の万太郎句碑 静岡市の樸(あらき)俳句会の吟行句会に参加した。5月8日の土曜日、東京の浅草神社にある久保田万太郎の句碑の前に集合という案内をいただいたからだ。浅草界隈だけでなくクルーズ船で隅田川を下り、浜離宮恩賜庭園を吟行、同園の芳梅亭で句会という段取りだった。 多摩市に住む私は地下鉄の都営浅草線・浅草駅で降りると雷門方面へ足を向けた。地上に出ると、人の多さに目を見張った。仲見世通りは人波で埋まり遅々として進まないとわかり、脇の道を通って浅草寺へ。脇道も人が多い。外国人が目立った。欧米系の人だけでなく東洋人も少なくない。言葉の違いでわかる。 浅草神社は浅草寺に向かって右隣にある。境内に入ると、人だかりがしている。日光・鬼怒川にある「日光さる軍団」の若い女性の猿回しが子猿に芸をさせていたのだ。子猿は竹馬に乗ったり台の上で逆立ちしたり芸達者だ。猿回しは新年、竹馬は冬の季語。句会までに夏の季語で猿の芸の一句を作ろうと思った。 集合時間の午前11時前、万太郎の句碑の近くへ。写真でお顔を知っている金森文孝さんに挨拶した。樸俳句会では三夢という雅号、静岡高校の後輩だ。朝早く静岡の家を出たという。静岡高校3年時の同級生、岸裕之君も樸俳句会のメンバーで顔を会わせた。昨年秋、静岡で開かれた同期会以来の再会だ。 樸俳句会の参加者は15人、ビジターの私を加えて16人だ。代表の恩田侑布子さんが現れ、万太郎の句碑の前に立った(右写真)。句碑には「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」と刻まれている。 この句について恩田さんは編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』で以下のように解説している。 冬虹のようなグラデーションが一句から立ちゆらぎます。あるときは竹馬に乗ってはしゃいでいた子どもらが、冬の日暮れに帰ってゆくところ。あるときは竹馬の友が浮かび、どうしているだろうと懐旧にさそわれます。作者の愛してやまない「たけくらべ」の美登利たちの下駄音まで聴こえそう。小学一年の「かきかた」教本には、いろはにほへとが散らばっていました。(中略)こんこんとイメージが湧くのは、やつしの美に貫かれているからです。「竹馬」にやつされたもろもろが、ゆらぐ虹を架けます。(後略) 集合後、恩田さんが私を静岡高校の先輩として参加者たちに紹介してくれた。おかげで私も樸俳句会のメンバーという気分になった。(2024.6.11) 樸俳句会の東京吟行(中) 浜離宮恩賜庭園内の句会 静岡市の樸(あらき)俳句会の吟行句会は参加者が浅草神社の久保田万太郎の句碑の前に集合後、クルーズ船で隅田川を下り、浜離宮恩賜庭園の船着場から園内に入った。時刻は12時20分頃、園内をしばらく散策して午後1時に句会の会場となる芳梅亭へ。昼の弁当を食べた後、1時半までに5句を投句した。 投句を受け付けたのは古田秀さん、後で年齢を訊いたら34歳だった。持参のパソコンに入力し、その場で16人の投句を合わせて74句をプリントした。選句は特選1句と並選2句。先生の恩田さんは3クラスに分けて25句ほど選んだが、拙句は会員の互選、恩田さんの選に1句も入らなかった。 〈異国客の込み合う通り夏衣〉は、外国人観光客の多い浅草だが、和服の日本人も目立った。世相を描いた句だが、変哲のないのが欠点だろう。 〈浅草の暑さ忘るる猿の芸〉は、日光さる軍団の出張芸を見ての句だ。浅草神社の境内で若い女性の猿回しの太鼓と掛け声に応じて子猿が逆立ち(右写真)などの芸を見せていた。当日は暑かったが、それを忘れさせてくれる一時だ。 〈観音の施無畏の癒し傘雨の忌〉だが、「傘雨の忌」は久保田万太郎の忌日。万太郎は妻が自殺したり息子が戦死したり苦難の人生だった。浅草寺本堂には「施無畏」という扁額がかけられている。どんな悩み、不安、恐怖でも観音が救うという意味だ。万太郎の句碑の前に集合と聞き、万太郎の人生を思い掲句を作った。 〈夏の空スカイツリーの突く勢い〉は、「夏の空」という季語が動くのが欠点だろう。春でも秋でもいいわけだ。 〈遊船やスカイツリーの見え隠れ〉は隅田川のグルーズ船に乗って見たスカイツリーの景だ(左写真)。橋の下を通る時、スカイツリーは全く見えなくなる。それは何度も繰り返された。 選句で私が特選としたのは、金森三夢さんの〈立葵スカイツリーと背くらべ〉。立葵は人の背よりも高くなるが、スカイツリーと背比べしては勝てるわけがない。それがおもしろいが、さらに立葵が擬人化されていると読めば、とても勝てっこない人に挑戦してみようという心意気のある句になる。同じスカイツリーを句材にしても拙句より格段上の句と思った。(2024.6.12) 樸俳句会の東京吟行(下) 懇親会の雑感 樸俳句会の句会が6月8日午後4時に終わると、浜離宮恩賜庭園からJR新橋駅近くの店に場所を変えて5時から懇親会となった。酒を飲みながらテーブルが同じになったメンバーと語り合い様々な雑感を抱いた。 まず岸裕之君と隣り合って座り感慨を覚えた。岸君は静岡高校3年時の同級生。東北大学に進み、一級建築士になって静岡市で岸裕之設計工房を営んでいる。同期会で顔を会わせる程度の仲だったが、いつしか毎日の拙文をメールで送るようになっていた。その後、樸俳句会のメンバーとわかった。6月8日の吟行句会には静岡市から来て句会でも隣に座った。お互い83歳、少なからずの友人が亡くなったり疎遠になったりしているが、岸君と今になって親しくなり人生はわからないものだと思った。 代表の恩田侑布子さんが参加者の中で最高年齢の岸君か私に乾杯の発声役をやるように求めた。岸君は渋った。私はビジターだからと遠慮したが、その代わり当日の句会で最高点を得た方がいいのではないかとアイデアを出した。 最高得点者は、小松浩さんで樸俳句会の編集長。毎日新聞の記者だったと紹介された。小松さんは私が勤めた日本経済新聞にも友人がいると名前を挙げたが、かなり若くて私の記憶になかった。小松さんは話を短くして乾杯の発声をした。 樸俳句会は比較的若い人が多いのではないか。ヤングの男性に年齢を訊くと、1人は31歳、もう1人は34歳と答えた。私と同じテーブルには岸君の他に3人の女性がいたが、うち2人は静岡高校で20年も後輩だ。吟行と句会には仕事の都合で参加できなかった男性が懇親会には遅れて参加し隣のテーブルに座った。彼は彼女たちの同期生、つまり私より20歳若い。 樸俳句会の句会に出て拙句が一句も選ばれなかったのは、老人俳句になっているせいかもしれない。詩嚢が枯渇と嘆く高齢者が少なくないが、もともと詩情に欠ける私はなおさらだ。 かつて高名な女流俳人の黒田杏子さん(故人)が拙句を添削し、「あなたには俳句をやめることをお勧めします」と添え書きした。むろん今に至るまで続けている次第だが、これでいいと思っているわけではない。 恩田侑布子さんが7月から早稲田エクステンションセンター中野校で「初めての楽しい俳句講座」の講師となる。私も受講する。70歳を過ぎて地元の多摩市社会福祉協議会が65歳以上の高齢者を対象に俳句入門講座を設けた際、受講して当時の講師が先生になっている「まほら会」に入会した。その後、他の結社にも入り句会は現在、月に6回だが、俳句は上手くなっていないと自覚している。樸俳句会で刺激を受け、恩田さんの講座を受ければ、何か前進できるのではないか。学び直しができて良いとも感じた懇親会だった。(2024.6.13)
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パトリア(精神の祖国)をもとめて 〜久保田万太郎シンポジウムを聴講して〜
12月16日(土)慶應義塾大学三田キャンパスで「久保田万太郎シンポジウム」が開催され、恩田侑布子先生が登壇されました。樸俳句会から猪狩みきさん、島田淳さんを始め数名が参加しました。本会は『久保田万太郎と現代 ノスタルジーを超えて』(慶應義塾大学『久保田万太郎と現代』編集委員会編・平凡社、2023年10月)の出版記念を兼ねています。 基調講演の最初に恩田先生が登壇しました。 講題は「やつしの美の大家 久保田万太郎――『嘆かひ』の俳人よさらば」。 30分という持ち時間でしたが、講演というより文学の講義のような濃い内容で、珠玉の俳句が生まれた理由から俳句表現史上の成果までが朗々と語られました。 また、解説と並行して、恩田先生のみずみずしく鮮やかな鑑賞とともに、いくつかの代表作が凛とした声で朗読されました。 [ 万太郎の句、声に出してよんだおりの味わいを満喫しました。(猪狩みきさん)] [ 岩波文庫の解説からもっと知りたかった「やつし」がよくわかりました。(島田淳さん)] 続いての基調講演は、石川巧氏(立教大学文学部教授)「久保田万太郎から劇文学の可能性を考える」、長谷部浩氏(演劇評論家、東京芸術大学美術学部教授)「万太郎と戸板康二−劇作と批評について」。 次に塾生による、久保田万太郎作品を脚色した朗読劇が上演されました。 休憩をはさみ、基調講演者三人に朗読劇の演出を行なった五十嵐幸輝さんを交え、パネルディスカッションが展開されました。 [ 個人的には、石川先生による戦前・戦中の文壇の状況、長谷部先生の「小芝居」と呼ばれた小劇場の隆盛と万太郎の万能人ぶりなどを併せて聴講したことで、恩田先生の「万太郎論」をより深く理解できたように思います。 また、慶應大学生による朗読劇『大寺學校』について、パネルディスカッションの中で恩田先生が切子硝子の照明から漏れる明かりの描写が場面転換になっていることに触れていらっしゃいました。そして「あの描写によって『劇』が『詩劇』になった」ことに感心されたとおっしゃいました。 そのお話をうかがって、万太郎が「描いたもの」ではなく、「描き方」をよく見なければいけないと、拙いなりに理解しました。 そして、「嘆かひの俳人」「日本文学に永く浅草を伝えるもの」という百年来の後ろ向きのレッテルを恩田先生が剥がされ、新たな万太郎像が目の前に現れたー意味が少しわかったように思います。(島田淳さん)] 終演後、恩田先生、島田さんとご一緒に、同大学図書館の資料室を見学しました。小説や戯曲の代表作、直筆原稿の他、文化勲章、著名人たちのサインが入った還暦祝いの赤い羽織、愛用のメガネや山高帽子、晩年の日記などが展示されていました。 ふと、万太郎が脚色した作品のポスターが目に止まりました。誰もが知っている劇場で、昭和40年度芸術祭参加作品と銘打っています。 万太郎の演劇はドラマらしいドラマが起きない、時として主人公は登場せず他の人物たちに「語られる」のみ、とパネルディスカッションで拝聴しました。現代では難解にも思えるそのような作品が、少なくとも昭和中期まで普通に上演されていたことになります。 会場を後にしてから、恩田先生が講演の終章でおっしゃっていた「近代の果てに精神的難民となった現代人」「パトリア(ラテン語で祖国)としての万太郎俳句集」という言葉を反芻しました。 私自身、高度成長の時代に合わないからという理由で捨て去った、その実、心のどこかで捨てるに忍びないと復権を願い続けていたモノやコトがあるのでは? それらを再び手繰り寄せることで、「やつしの美」への私なりの理解が深まるのではないか、そのように考える機会を与えていただいたシンポジウムでした。 (樸編集委員 見原万智子)
久保田万太郎シンポジウムに恩田侑布子が登壇します
恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫) 12月、早くも三刷りです! 大勢の皆さまにご支援いただき、本当にありがとうございます。
「けはいの文学-久保田万太郎の俳句」恩田侑布子を読んで
「けはいの文学-久保田万太郎の俳句」恩田侑布子(『図書』9月号)を読んで 兵庫県在住 S.S 江戸の雰囲気の残る落語の世界に身をおく木久扇さんに続いて、生粋の江戸っ子として「伝統的な江戸言葉」を駆使した(特に小説や劇作)という久保田万太郎(1889-1963)の俳句のことにふれてみようと思います。 全く門外漢である私が<万太郎の俳句>を取り上げようとしたのは、月刊『図書』の今月号で、「俳人」とキャプションされた 恩田侑布子 という方の「けはいの文学-久保田万太郎の俳句」 という文章を読んで感じ入ったからです。「感じ入った」というのはいささか大げさになりますが、それほど見事な批評的紹介文だと感じたということです。 最近、コロナ問題にとらわれていろんな資料なども手さぐりで読んだりしていて、どこか心のささくれのようなものを自覚することがあります。そんな私を、万太郎の俳句が別の世界に連れていってくれたという強い印象が残りました。けれども、最後のところで、今を生きる恩田の批評性が爆発しているとみることもできます。 恩田は、万太郎の俳句を5つの小見出しのもとで、それぞれに自分の惹かれてきた俳句を計13句、それぞれを作句したときの万太郎の年齢を付して紹介しています。それは、万太郎俳句の代表作としてネットで読むことができる句群とほとんど重なっていませんでした。 ここでは、まず、その小見出しごとに恩田の一文を添えて俳句だけを列記しておくことにします。恩田の言葉の切れ端だけで味わうことは難しいかもしれませんが、そうさせてもらいます。絖(ぬめ)のひかり 「万太郎はひかりのうつろいをとらえる天性の詩人でした。//季物そのものではなく、うつろうあたりのけはいを絖(ぬめ)のように掬いとっています。」 鶯に人は落ちめが大事かな 56歳 ふりしきる雨はかなむや櫻餅 33~37歳 新涼の身にそふ灯影ありにけり 36歳短歌的抒情の止揚 「万太郎の俳句の水脈にはこの短歌的抒情がひそんでいます。//短歌の抒情を俳句の冷静さで止揚したしない(ゝゝゝ)があればこそ、王朝由来の抒情を俳句という定型に注ぎこめたのです。」 しらぎくの夕影ふくみそめしかな 40歳 双六の賽に雪の気かよひけり 38~45歳 夏じほの音たかく訃のいたりけり 59歳 ㊟「六世尾上菊五郎の訃、到る」との前書付き稚気のままに 「おとなの俳句の名匠が子ども心を失わなかったのもおもしろいことです。//子どもらしい匂いやかな稚気を持ち続けることもまた、非凡な才能でしょう。」 さびしさは木をつむあそびつもる雪 36歳 時計屋の時計春の夜どれがほんと 48~52歳彽佪趣味への反発 「万太郎は、漱石の「彽佪趣味」や、「ホトゝギス」の虚子の「客観写生・花鳥諷詠」に反発を感じていました。//彽佪趣味にアンチ近代を装う倒錯した近代の知性を見、そこにエリート臭をかぎあてても何もふしぎではなかったのです。」 人情のほろびしおでん煮えにけり 56歳 ばか、はしら、かき、はまぐりや春の雪 62歳かげを慕いて 「万太郎は恋句の名手でもあります。//おぼろに美を感じる感性はモンスーン域のもの。日本の風土を象徴するしめやかな恋です。」 さる方にさる人すめるおぼろかな 46歳 わが胸にすむ人ひとり冬の梅 56歳 たよるとはたよらるゝとは芒かな 67歳 恩田は、最後にもう一つ小見出し「文学の沃土から」 をおいて、万太郎俳句を総括するとともに、現代とクロスさせようとしています。 万太郎俳句の源を、恩田は次のように評しています。 「万太郎の俳句は絖(ぬめ)のふうあいの奥に厳しい文学精神が息づいていました。彽佪趣味や花鳥諷詠という、禅味俳味の石を終生抱こうとはしませんでした。//万太郎は俳句という桶から俳句を汲んだのではありません。文学の大いなる泉から俳句を汲んだのです。」 「俳句という桶から俳句を汲んだのでは」ないという恩田の言葉は、とても説得的に、私のように俳句に縁遠い者にも鋭く響きました。それこそ全く知らない恩田の俳句にも通じるものなのかもしれません。 そして、コロナ禍のもとで生きる私たちに向け、「万太郎の俳句は日本語の洗練の極み」と結論づけつつ、次のメッセージを送っています。 「近代の個人主義とは根を違える万太郎の俳句は、分断と格差社会の現代に新たなひかりを放ちましょう。なぜならそれは最も親密で馴染みのふかい在所を奪われた人間の望郷の歌であり、感情と古典にしっとりと根ざしたものだからです。」 最後の一文で、恩田は、冒頭においた<鶯に人は落ちめが大事かな>を念頭に、こんな問いを万太郎に発しています。 「かれははたして<鶯に国(ゝ)は落ちめが大事かな>と、つぶやくことをゆるしてくれるでしょうか。」 この一文をどう解釈することが正当なのか私には分かりません。 冒頭の句<鶯に人は落ちめが大事かな>を、恩田は「おもしろいと思いながらもいま一つわからなかった」けれど、「足もとからみずからの来(こ)し方を低くつぶやいている」万太郎に思い至ったそうです。「文学では早くから檜舞台に立ったものの、家庭生活は不幸だった」万太郎が、「老の坂を迎えて、落魄の日々をなつかしみ、あわれみ、いたわ」っている姿に、恩田は「鶯の声のあかるみにこころのうるおいが溶けこんでい」ると受けとめているようです。 ですから、今の心のささくれやすくなる状況のもとにあって、こんな句をつぶやいて、そこに「こころのうるおい」を失くすことなくやっていこうよというメッセージを込めようということかもしれませんね。 恩田の真意を汲みとれたわけではありませんが、私としては、「本当に大切なものは何か」という問いの前に立たされた人間の集団である<国>というものを思い浮かべました。さらに言えば、成長信仰の囚人である現代の日本社会へのアンチテーゼ、たとえばポストコロナで少し紹介した広井良典の「成熟社会」論的な社会のありよう(「分散型システム」への転換もその一つ)へのメッセージを感じたりもしました(2020.7.3「手がかりはどこに-コロナ後の社会のありようをめぐって-」)。 つまり、それは恩田のいう「分断と格差の現代」へ放つ「新たなひかり」の基軸のようなものを、私はこんなことにも感じているということにほかならないのでしょう。 さらに最近のブログと絡めていえば、福岡伸一のいう「ロゴス的に走りすぎたことが破綻して、ピュシスの逆襲を受けた」という事態を前にした私たちのあるべき態度に通じるものであり、恩田は万太郎の「人は落ちめが大事」から「国は落ちめが大事」へと想像を飛ばしたと理解することもできそうです。 2020.09.07 S.S恩田侑布子「けはいの文学-久保田万太郎の俳句」(岩波『図書』2020・9月号)をブログに取り上げてくださった兵庫県在住のS.S様から転載許可をいただきました。ここに厚くお礼申し上げます。 S.S様のブログ『思泳雑記』はこちらです