「無音の滝」 ―芹沢銈介美術館を訪ねて― 田村千春 人は美に憧れ、芸術に触れたいと欲する動物です。時には感動を大勢で分かち合い、明日への活力に変えてきました。まさか新型コロナの蔓延を防ぐため、そうした欲求にまで制限がかかる事態となるとは、誰が予想したでしょう。それ以前に俳句という、限られた条件の下、美を見出す極意そのものに出会えていて、つくづく幸運だったと思います。 今、私の手に静岡市立芹沢銈介美術館からのリーフレットが。「日本のかたち」と銘打ち、芹沢の収集した膨大な工芸品の中から日本の絵馬、玩具、やきもの、漆器、木工、家具、染織品等250点を特集し、2021年3月21日まで展示するとの知らせです。こちらを睨んでいるのは「かまど面」の写真――目は真ん丸、胡坐をかいた鼻、きっと結んだ口、異様なインパクト。かまど面とは何? 調べたところ、家を守る神様を土や木でかたどり、竈近くの柱に祀るという風習が東北地方でみられたようです。初めて見たのに懐かしく感じるのは、頑固親父を連想するからかもしれません。 芹沢銈介といえば、紅型の技術をきわめた、親しみやすくも先進的な作風で知られる染色家。世界の工芸品の収集家としても有名です。素朴な土色のお面を好んだとは意外な気がし、興味をそそられました。これは行ってみなければ。なにしろ月に一度は「一人吟行」に出掛けている私です。 いよいよ2020年12月、車で出発。まず登呂公園にあるという立地の良さ。博物館には弥生時代の住居も復元されていて、機織りなど当時の暮らしぶりもしのべます。そこから脈々と受け継がれる名工の系譜に思いを馳せながら、美術館へ。 特筆すべきは白井晟一の設計した建物――「石水館」の名にふさわしく、自然を生かし精神性を重視した造りは、威容を誇るビルディングとは対極にあります。驚いたことに外からは全容が知れないのです。この不思議をぜひとも体験し、館内をめぐる際には指定された品の県名を書き込むクイズにも挑戦してみてください。出来上がった用紙と引き換えに、芹沢による型染の富士山の葉書をいただけます。 着物や漆絵の色彩の妙、木箱や酒樽の洗練ぶり、かまど面の凄まじいまでの表情。これらに囲まれ、潤いある生活を送ってきたのだと気づかされます。芹沢の物を見る目は温かく、誰よりも確かでした。 この慧眼が彼の美の礎となったのでしょう。芹沢自身の作品も60点、どれも明快にして親しみ深いものばかり。紅型のスタッカートが効いており、時代を超え、世界中の人々を元気にするに違いありません。例えば、屏風の考え抜かれたレタリング――「春夏秋冬」――なんと愛らしいこと、あたかもバレエを観るよう。それぞれ羽をすぼませたり、アラセゴンに広げてみせたり。 自然と一体化して産み出された作品には、明るさの中に何とも言えない静けさがあります。例えば1962年作の「御滝図のれん」。生きている滝に胸を打たれ、能狂言に通じる抑制された美にしばし見惚れました。1948年には既にアイディアがあったらしく、制作に取り掛かるのに長い年月を要し、さらに芹沢邸の訪問客で、図案がどんどん変わっていく様を目撃した方もいたのだとか。時間をとことんかけ、人の反応も参考にしながら完璧を求めるとは、謙虚な姿勢に頭が下がります。伝えられる「自分というものなどは、品物のかげにかくれてしまうような仕事をしたい」との言葉にも考えさせられました。これは無我の境地に至った作家だからこそ口にできるのではないでしょうか。幾多の線より正解を選び取れる芹沢でなければ、一条の滝に命を吹き込むという偉業は成し遂げられなかったのですから。 清新なる世界へといざなう暖簾からは、片時も離れたくなくなります。出口に近い特別室と展示室とを、何遍も行ったり来たりしてしまいました。特別室からは硝子越しに坪庭を眺められます。その坪庭は、まさに白井晟一の手による一幅の絵。枝垂梅が一身に日射しを浴び、何だかあたたかそう。身に余る体験をさせていただいた一日を振り返って、一句。 坪庭の枝におもたき冬日かな 住宅街を駐車場へ向かう途中、何軒も芹沢の暖簾を掛けているのを垣間見ました。愛される人間国宝、今も自らの願いを存分に叶えています。日々なにげなく使う品物に愛情を注ぎ、精魂込めてくれた芸術家がいたことに、心から感謝を。コロナ禍で舞台芸術などの開催が難しくなっても、無限の美を手に入れるための鍵ならば、ここに残されていると確信しました。 (たむらちはる 樸俳句会員) 静岡市立芹沢銈介美術館のホームページはこちらです ↑ クリックしてください
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「砂漠と俳句」
砂漠と俳句 8月下旬、中国の「内モンゴル自治区」という所へ行き「植林活動」を体験してきました。砂漠に1mの穴を掘り2メートルのポプラの苗木を植えるのです。炎天下での作業なので、汗まみれ・砂だらけ・・・。 この緑化活動は30年前に日本の一人の学者が取組み初めたのが最初ということでした。鳥取砂丘を農地に変えた経験をもとにして、この地の「緑化」に挑んだのです。葛を植えては羊に食べられ、苗木を植えては幹をかじられ、水の確保に奔走し、苦難の連続を乗り越えて、砂漠を緑の地に変えたのです。もちろん、その過程には多くの日本人の手がありました。 起伏にとんだ砂漠なので、丘の上に立つとさながら「天下人」であり、谷の中に立つと、まさにアリジゴクの様です。ほんの一時訪れる人には「自然の偉大さ」を感じさせますが、ひとたび風や雨になると、すべてを呑み込んでしまう恐ろしさを内包しているのです。砂漠は、そんなところでした。 360度砂に囲まれた地に立って、瑞々しい日本の自然を思いました。寒い冬を耐えた後にやってくる、あの春のうれしさ、沈む夕日を眺め、次第に回りがシルエットになってくもの悲しさ・・ でも、ここでは「みかんの花咲く丘」や「ふるさと」のような曲想は生まれてこないだろうし、俳句のような文化にも縁が無いように感じました。だから、句も「無季」になってしまうのではと思っていました。 〇ポプラ植ゑ流砂止めむと倭人の手 〇人影にジェットエンジンもつトカゲ 〇晩餐のモンゴルの唄白酒干す ・夕食時に、地元の顔役に促されて通訳の人がモンゴルの唄を歌ってくれたのです。 「素晴らしい歌声でした。なんのお礼も出来ませんが、日本の俳句は聞いたことがありますか」 「・・詩のことですか」 「ええ、最も短い詩です」 ・・・ノートに書いて彼に渡したもの・・ でも、ここには砂漠としての自然があるのではないか。少なくも、時候や天文あるいは地理の季語は成立するのではないか・・。 〇秋風や砂地を直に駱駝の背 〇モンゴルの唄に色なき風砂漠 置き去りにされて帰れなくなるのではと心配しながら眺めた星空は魅力的でした。 〇羊追ふ砂漠の民や天の川 〇モンゴルの唄は砂漠へ天の川 貴重な体験の中で思ったことの一端をしたためてみました。 令和元年9月 松井誠司
俳句野あそび 句をつくるということ ・・・安定から不安定へ・・・
藤村の「初恋」の詩を愛唱したのは、いつのころだっただろうか。農作業の合間に三本鍬を傍らにおいて父がこの詩を口ずさむのを聞いたことがきっかけだった。七五調の調べは、心地よさを感じさせてくれる。幼少期を決して豊かでない農村で、少しだけ文学に興味を持っていた父のもとで育った私にとっては、七五調は、まさにゆりかごのようなものだった。口にして心地よく、気持ちが「安定」し全身が落ち着くのである。 しかし、数年前に「俳句」に出会い、初めて句を作ってみると、出来たものは安定の中にあり、切れや余白がまったくないものばかりなのである。つまり、説明的になってしまっているのだ。理屈ではなんとなくわかっているように感じてはいるが、いざ句を作ってみると散文調なものになってしまうのである。無意識のうちに俳句の持つ「不安定さ」にしり込みし、ブレーキをかける自分がいるのである。 たとえば、こんな句を作ったことがある。「菅笠や花野の中に見え隠れ」・・先生のご指摘は、菅笠と花野の中に、という言葉の中に「見え隠れ」する様子はふくまれているのだから、これは必要ない言葉である。このように説明的になるのは「心の中に渦まくような思い」がないからである・・とのこと。しかし、当の私にとっては「見え隠れ」としないと、なんともおぼつかなく、気持ちが安定しないのである。 俳句を学ぼうとしたのは、その道の専門家になろうとしたのでは勿論ない。これからの人生を少しでも心豊かに過ごしたいと思ってのことである。やや大げさに言うなら精神の高みを求めてのことである。しかし、自分のある部分を変えるということは、人間の「本性」に属するだけに、ややこしいことなのだ。野球のバットの振り方とか陸上の走り方とかいう「属性」に関することなら、練習次第で改善はできるが、その人そのものに関することは難しいものだ。 わずかでも安定さを打破し、自分自身のものの見方や感じ方などの「ささやかな変化」を求めて、俳句に向き合っていきたいと思う。それが、これからの時間を豊かにしてくれそうだから・・・。(文・松井誠司)