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あらき歳時記 冬

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2023年12月9日 樸句会特選句  テレビとは嵌め殺し窓ガザの冬                   古田秀  テレビはなんでも写す。親し気に見知らぬ人が出てくるものと思っていた。でも、今度ばかりは違った。ハマスの200人殺人に対して、イスラエルがガザの人々を16000人も早や殺戮してしまった。しかも封鎖された狭い空間に押し込められたパレスチナ人は、飢渇させられ、子どもまで数千人も殺されている。まさか、今世紀にこのような非人道的なことが、という切迫した思いが溢れる。テレビはなんでも見えるようで、1ミリも開かない窓だったのだ。「嵌め殺し」という詩の発見の措辞が、現実に起こっている殺戮現場につながり、心胆を寒からしめる。                               (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

12月1日 句会報告と特選句

photo by 侑布子

 12月1回目の句会が行われました。 この日は句会終了後に樸俳句会の忘年会が開催されることもあってか、いつもに増して真面目な雰囲気の句会だったように感じました。今回の兼題は「落葉・霜・冬季雑詠」。久しぶりに特選句も出て、大いに盛り上がりました。 今回の入選句をご紹介します。                浮雲のどれも陰もつ一茶の忌              伊藤重之   合評では、 「俳句の形としてお手本のような句」 「一茶の幸福とは言えない人生が見えるよう」 「“陰もつ”を“陰もち”にした方が、切れが深くなるのではないか」 という意見が出ました。 恩田侑布子は、 「生涯辛酸を舐め続けながらも俳諧自由のこころを失わなかった俳人一茶への共感がある。浮雲は年中見られるけれど、“どれも陰もつ”という措辞に十一月の季感がただよい、肌寒さを感じさせる」 と講評しました。                 落葉踏む堤の端にひとりかな             藤田まゆみ 恩田は、 「堤の突端 まで落葉を踏んでゆく。つくづく誰も居ないなと思う。作者の背後には落葉が記憶のように降り積もっている。孤独感とさみしさをうたって、嫌味や押し付けがましさのないところがいいじゃありませんか」 と講評しました。               リヤカーの塀に倒立石蕗の雨              森田 薫 合評では、 「絵として美しく情景が見えるようだが、リヤカーが立てかけてある情景を“倒立”とするところに少し違和感を持った。“塀に立てかけ”のほうが自然ではないか」 という意見が出ました。 恩田は、 「一枚の絵に完全になっている。内塀でしょう。ほとんど使わないかすでに使い手のいなくなったリヤカーが、広い元農家の敷地片隅の塀に立てかけてある。しずかに降る雨が過ぎ去った時間を慰撫するよう。日のひかりの薄い初冬の情景として出色」 と講評しました。  下記に掲載する特選句は、今回、恩田を含む参加者の約半分が点を入れるという最高得点句となりました。この特選句に関しては「“霜雫”という季語が、どんな情景を描いているか」というところで議論を呼びました。植物に降りた霜から溶け出した雫なのか、屋根にできた霜が垂れ落ちる様子か。たった二文字の言葉に語りつくせぬ情景が詰まっている豊かさに、言葉の持つ面白さを改めて噛みしめる時間となりました。次回の兼題は「時雨・石」です。(山田とも恵)                特選        霜雫この世の時間使ひきる                 伊藤重之  霜雫は温かい静岡平野の市街地ではまず目にすることはない。わたしも四半世紀前にいまの山中に引っ越して、初めて厳寒の時期だけ見聞きするようになった。霜が降りる日は、明け方冷え込んでも日中はよく晴れる。冬晴れの下、山あいでは納屋などのトタン屋根から霜雫がかがやくように地に落ちる。それは朝霜の一面の厳しい白さとはまた別種の風情。どこかあの世の明るさもふくむ明るさ、ふしぎな時間である。すべてを昇華した末のような水滴が、寒気のゆるんだ日向に銀色のしずくを滴らせ、ときに水銀柱をおもわせる垂線を引く。静かで清らかな冬の真昼。愛するかけがえのないひとは、なすすべもなくこの世のいのちの火を使い切ってしまった。霜夜のような凍てつく時間、凍る思いの日 々のはてに、いま真っ青な冬晴れに見守られて大地にかえってゆく雫。泪のとけこんだ銀のかがやきがひとの一生に重なる。「霜雫」の季語の本意本情に一歩を付け加え得た俳句といえるのではなかろうか。      (選句/鑑賞   恩田侑布子)

11月17日 句会報告

藁科川の上流、静岡市葵区坂本・清源寺大榧前で清澤神楽の話をお聞きして photo by 侑布子

11月2回目の句会が行われました。静岡市街は温暖な気候のせいか、ゆっくりと紅葉が進んでいるようです。 今回の兼題は「猪・鹿・柘榴」。人によっては食欲をそそる季語ですね。今回は色調豊かな入選句が4句出揃いました                〇秋夕焼文庫百冊売つて来し              山本正幸 合評では、 「サッパリした爽やかさと、淋しさが出ている。複雑な心理状況」 「百冊とは結構な量なので終活をイメージした。人生の過ぎゆく早さと秋の暮の早さを詠んでいるのでは」 「寺山修司の“売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき”の短歌を思い出した。百冊が効いている」 という意見の一方、「“秋夕焼”と“売って来し”が即きすぎではないか」という指摘も出ました。 恩田侑布子は 「百冊の文庫本に親しんだ思い出と未練が秋夕焼をさらに赤くする。スッキリしたようで切ない夕焼け。すこし墨色を帯びたさびしさ。はかなく色あせてゆく秋の夕日に、文庫本を一冊づつ買って読んだ長い歳月が反照される。青春性の火照りが残っていて、終活というよりも人生を更新したいという前向きさを感じる。古書との別れの季語として秋夕焼は動かないでしょう」 と講評しました。                  〇仁王門潜れば老いし柘榴の木              佐藤宣雄 合評では、 「自分の原風景に老いた柘榴の木があるので、柘榴にホッとする気持ちがよみがえった」 「景がよく、中七の調べがよい」 「ただの写生句で、スナップ写真のよう」 「老いた柘榴の木じゃなくても成立する」というように、意見が二手に分かれました。 恩田は、 「一瞬に景が立ち上がる重厚な句。朱塗りと赤、茶と緑の色彩も美しい。仁王門を見つめてきた柘榴の長い歳月が感じられます。「老いし」の措辞に、実はつけていても、木のやつれが浮かび、悟り済ませぬ人間の歳月が裏に重なるよう。二重構造の俳句といっていいでしょう」 と講評しました。 〇敬老席どんと座つて運動会              西垣 譲 「なんでもないけど、なるほどなと思うこういう句が好き」 「俳句じゃなくて川柳じゃないか」 「いや、これは川柳じゃなくて一流の句」 と、軽妙に意見が交わされました。 恩田は、 「連合町内会の運動会の敬老席はたいてい見晴らしのいい場所にある。“どんと”がのさばっている感じで滑稽。が、その裏に、もう花形の徒競走など、イキのいい競技に参加できない一抹の淋しさもあります。俳味ゆたかな句です」 と講評しました。               〇兄の如し月命日に台風来             樋口千鶴子 合評では、 「はじめに“兄の如し”と言い切った。スピード感があり、どんなお兄さんだったかイメージできる」 「追慕の心情が出ている」 と感想がでました。 恩田は、 「上五字余りの重量感のある切れが出色です。お兄さんの死に切れぬ情念が台風になって吹きすさぶように感じた。『嵐が丘』のヒースクリフを思い出します。巧まざる倒置法も効果的です。作者は上手い俳句を作ろうとしたわけではなく、亡き兄の気持ちを慰めたい一心なのだと思います。それが図らずもこういう表現をとった。そこに俳句の懐の広さがあります」 と講評しました。 [後記]  句会が始まる前、その日に鑑賞する句が並ぶプリントが配布されます。その冒頭にいつの頃からか、恩田侑布子の叱咤激励文が掲載されています。今回は「ただごと俳句や報告句からいかに抜け出すかに配慮し、感動のある一句を!」と書かれていました。毎回この一文を読むと、座禅中に背後から鋭く警策を食らうような痛みとともに、心地よい緊張感が身を貫きます。いかにダラリと座っていたか気づく瞬間です。次回の兼題は「霜・霜除け・落葉」です。(山田とも恵)

恩田侑布子詞花集  冬

能面

恩田侑布子代表の句を季節に合わせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。今回は句座をともに囲む松井誠司による冬の句の鑑賞です。       冬の詞花集                 白足袋の重心ひくく闇に在り                           恩田侑布子 白足袋の重心ひくく闇に在り      (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版) 句を味わう 俳句と出会って間もないころのことです。ラジオからこんなことが聞こえてきました。司会者の「この俳句は、どういう意味なんですか?」との問いに、作者は「こういうものは、あれこれ説明しないで、感じ取ってくれればいいんです」とのこと。その会話を聞いていた私は、「ふーん、そういうものか・・」と漠然と思っていました。しかし、よくよく考えてみると「感じてくれればいい」ということは、実に厄介なことのように思いました。というのは、物事の感じ方は十人十色なので、他人と完全に一致することはないからです。では、その人なりの感じ方でいいのかというと、これもまた妥協と背中合わせなので曲者なのです。 感性は、生来のものと今までにどれくらいそれを磨いてきたかによって、広さや深さが生まれてくるのだろうと思います。多くは生来のものでしょうが、私のような感性の乏しいものにとっては、ふだんから「感覚を磨く」ということを意図的にやっていかなければ、「味わう」広さや深さを深化できないのではないかと感じています。 こんなことを思いながら、恩田侑布子の句集『夢洗ひ』を読んでみました。が、句に内包されていたり句から醸成されていく世界を、残念ながらイメージできないものがいくつもあります。ですから、「どれがいい句か」と問われても答えられません。しかし、「どの句が好きか」と問われたなら、いくつかの句を挙げることはできます。 白足袋の重心ひくく闇に在り この句は平泉の延年舞に寄せる一連の作品として登場しますが、句を眼にした私には、田舎の粗末な舞台での奉納舞が浮かんできました。年に一度の祭りです。村人たちが何かへの祈りを込めて見入っています。舞人の膝と腰を少しまげて柔らかく、順応力を持った姿勢には、美しさがにじみ出ています。この日のための白足袋と装束が舞う姿は、人と神とをつなぎ、夕闇の中に描かれる「幽玄の世界」です。 恩田侑布子の句には「品のいいすごさ」があるように感じています。広範な知識を身に包んで、俳句という表現に昇華してしまう「すごさ」です。 幸い俳句には「定年制」はないので、これからもより豊かな味わい方ができるように、感じ取る心を磨いていきたいと思っています。 (鑑賞文・松井誠司)

2月17日 句会報告

撮影 侑布子・安倍川より

2月2回目の句会が行われました。 今回の兼題は「寒晴」「春を待つ」。 静岡から望む富士山はすでにあたたかさを帯びているようで、春の訪れを感じました。 まずは今回の高得点句から。 春を待つテトラポットの隙間かな             佐藤宣雄 恩田侑布子入選句。 「テトラポットとは危険なところに積まれていると聞いていたので、怖いイメージを持っていた。その隙間に春を感じた作者の着眼点が面白い」 「恋の予感を感じる。テトラポットの上に若い人が佇んでいるイメージ」 というような、砂浜などではなく“テトラポットの隙間”に着眼点を置いたところに面白さを感じた方が多かったようです。 恩田侑布子からは 「“テトラポット”という語呂は愛らしい。ただ、情景を思い浮かべると寒々しい。そこに意外性はある。が、下五の“隙間かな”が宙づりになってしまっている。無機物のなかにどんな有機物が隠れているのかがわかれば、さらに面白くなる」と講評しました。     初富士や絹麻木綿翻り            藤田まゆみ 恩田侑布子入選句。 「正月の空の色が見えてくる」 「織物工場でも作者は見たのかな?富士山の雪の白さと、その前で翻る反物の色彩が鮮やかに見えるよう」という意見が出ました。 恩田侑布子は 「富士山の雪を絹・麻・木綿に見立てたのだと思った。天候によって同じ雪でも姿は変わる。その姿を布の種類で表現したことが良いと思った」と講評しました。     寒晴や婦唱夫随の土手歩き             西垣 譲 恩田侑布子入選句。 恩田侑布子は 「本来は“夫唱婦随”。夫と妻の位置が逆ですね。この季語が“秋晴”だったら甘くなりすぎてしまうが、“寒晴”としたところが良い。また、“土手歩き”というところも年配のご夫妻のぶっきらぼうさが出ていてこれまた面白い。」と講評しました。 寒晴れやダブルバーガーがぶり食い             萩倉 誠 恩田侑布子入選句。 「母と娘がハンバーガーを食べている風景が思い浮かんだ。幸せな親子のちょっと特別なひと時を感じた」 「中七から下五への濁音の連打がとっても効いている」 という感想が出ました。 恩田侑布子は 「一見無内容で行儀が悪い。しかも現代仮名遣いでドライに書かれている。読み下すと、なんだか空しいような、嗚咽が潜んでいるような感じだ。ポールオースターの小説のような虚無の底知れなさをちょっと思った。一人でがぶり食いする視線の先にある冬の青空の虚無感。濁音が続き、ストリートミュージシャンの音楽のような個性的な句」と講評しました。    今回の句会では難読漢字の句が多く、非常に興味深かったです。例えば「蕪穢(ぶあい)」や「蛾眉(がび)」「漫ろ(そぞろ)」などです。普段あまり目にしない言葉を知るのはとても勉強になります。が、難読漢字の力に引っ張られて句の世界観が狭くなってしまう、という意見もありました。  気に入った言葉を使う際には、その言葉の力を最大限生かせる寝床を調えて句作したいと思いました。  次回の兼題は「春の闇」「ものの芽」です。兼題の季語も春へと移りますよ!(山田とも恵)

2月3日 句会報告

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節分の句会。兼題は「当季雑詠(冬、新年)」です。 今回は恩田侑布子の特選、入選、原石賞のいずれもなくフチョーでした。 なかから△印の高点句を紹介します。 冴ゆる夜の監視カメラの視線かな            久保田利昭 「“冴ゆる夜”と監視カメラという機械の冷たさが一致している」 「冷たいキーンとした感じが出ている。カメラの無表情な視線がある。自然と人工の対比」 「監視カメラが意志をもって視ていることの気持ち悪さが表されている」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「季語が効いている。“視“が重なってくどいようだが、こう言わないと句にならない。無機的なものが有機的なものに転化し、ぎょっとする瞬間をつかまえた。現代を詠んでいる。座五もよい」 と講評し、さらに、 「“花鳥諷詠”だけではなく、自然環境や社会環境など2017年の現代に生きていることを詠むのは大切。“複眼の思想”を持ちたい」 と述べました。     三センチ歩幅広げる古希の春             松井誠司 「“一歩”ではなく“三センチ”が現実的でいい。70歳を迎え、前向きに生きようとしている」 「共感します。街で女の子に追い抜かれたりするんでしょ」 「共感! 歩幅を広げて歩くのは体にいい。意識してやらないと」 「健康雑誌に載りそうな句。糸井重里さんのコピーみたい」 など共感の声が多く出ました。 恩田は、 「懐かしい、情の豊かな句。歩幅を広げて速歩きするのは老化防止にいいそうです。中七にやわらかい切れをつくりたい」 とし、次のように添削しました。  三センチ歩幅広げて古希の春 「“て”で切れが生じ、リズムもよくなりませんか。俳句は音楽性をもつ韻文であることをこころがけて」 とうながしました。     枯枝の先一寸の人類史             伊藤重之   「はかなさと危うさ。リズム感があり、言い切っているのがよい」 「よく分からないが、なんとなく捨て難い句。イメージを膨らめていったのだろう」 などの感想。 恩田は、 「裸木に生物進化の系統図を投映した句。人類は威張っているが、地球生命史の上では誕生して間がない。戦争と殺戮を繰り返している人類への批判もある。しかし、季感が薄い。進化の系統図そのままで飛躍がなく、知的操作の勝った句」 と講評しました。     [後記]  今回の投句がやや低調だったのは「正月疲れ」なのでしょうか。しかし、かえって口角沫を飛ばす議論が百出し、みんなホットになりました。 恩田の「今回は説明や報告の投句が多かったように思う。俳句は韻文。叙述してはいけない」との指摘にうなずきながら句会を後にしました。 次回の兼題は「紅梅」「若布」です。乞うご期待!(山本正幸)

1月20日 句会報告と特選句

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新年2回目の句会が催されました。兼題は「枯野」「御降」「雑煮」です。 今回は力作揃い。高点句や話題句などを紹介していきましょう。 単線の地平に消えり大枯野            久保田利昭 恩田侑布子原石賞。 「景が大きい。単線に親しみを感じる」 「景色が見えるが、地平と大枯野が重なるように思う」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「“消えり”は日本語として間違い。終止形が‟消ゆ”であるので、ここは‟消ゆる”か‟消えし”が正しい。‟消ゆる”は現在形で含みが感じられ、‟消えし”は過去形となり調べはいいが少し弱くなる。‟消ゆる”にすれば、‟の”が切字として働く。鉄路と枕木のみが続いている眼前の光景。単純な映像に迫力がある。謎があり、それからどうなった?と連想が広がっていく」 と講評しました。     御降や一直線の下駄の跡             松井誠司 恩田侑布子入選。 「雨の後、下駄の跡だけ続いている光景で、詩的である」 「雪だと思う。年あらたな清浄な雰囲気が出ている」 「きれいでいいが、やや既視感がある」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「雪だろう。無垢な感じがよく出ており、一種のめでたさがある。歳旦詠はかくあるべきで、有難さがにじみ出ている」 と講評しました。     一生(ひとよ)とは牛の涎と雑煮喰ふ             萩倉 誠   「生活感が溢れている。面白い句。一生を涎のように気長に暮らす。若い頃はこういう気持ちにはならないのだろう。「と」ではなく、「か」「や」「ぞ」で切ったほうがいいか」 「人生は牛の涎と同じという発想が面白い」 「「商いは牛の涎」ということわざがある。それと同じで人間の一生は切れ目がないという見方に脱帽」 などの感想、意見の一方で、 「なんか臭ってきそう。お雑煮が美味しくなくなる」 との拒否的(?)な感想も。 恩田は、 「大胆な発想の飛躍がある。何十回と繰り返している正月、昨年も一昨年もこうだったなと。牛の反芻に結び付けたことが効いている。雑煮の神聖性を引っくり返した。俳味あり。自己戯画化が面白い」 と講評しました。 今回の句会では、「(ボブ)ディラン」を詠み込んだ句(特選句)への合評が引き金となり、「引用」の問題が話題に上がりました。 「固有名詞、地名等を詠むとその言葉の喚起力やイメージに頼りすぎてしまうのではないか」という疑問の声。また、「分かる引用と分からない引用がある。鑑賞者の立場も考慮すべきであろう」との意見もありました。 恩田は、「地名、人名、文学作品等を引用するのも表現の冒険である。イメージに頼るというのならば、まさに季語がそうであり、すべてが引用ともいえる。引用の句を否定したくない。可能性が広がる」と持論を述べました。     [後記]  「引用」をめぐる議論が白熱しました。引用した言葉に、思ってもみなかった角度から光を当て、新たないのちが蘇るような句を詠みたいなあ、と皆さんの発言を筆記しながら考えておりました。 次回の兼題は「春を待つ(待春)」「寒晴」です。(山本正幸) 特選 ディラン問ふ 「Hoどwdoんyouなfee気l」分と枯野道                                           萩倉誠  子どもの頃、ディランやビートルズの歌声は容赦なく耳に入った。団塊の世代は熱狂し、級友たちもコーラと同じように親しんでいた。あれから半世紀。 1965年ディランのヒットシングル「Like a Rolling Stone 」の歌詞を中七に引用し、日本語訳をルビとした異色作である。あの頃、深い気持ちや思想哲学はカッコ悪かった。フィーリングがすべてだった。時代は老い、高度経済成長の右肩上がりの日本は、少子高齢社会となった。 「どんな気分?だれにも知られず転がり落ちてゆく石は」が本歌と知れば、句意はいよいよ深い。青春前期だった作者は、いまディランより少し遅れて古稀に近づいた。作者は両親の墓参りに富士山の裾野の大野原を通ったそうな。枯野のむこうにこの世を転がってゆく石のイメージがある。地平線に仄みえる死の幻影は、「feel」という措辞によってあかるく軽くなる。現実感の希薄さは枯野をあてもなくただよう。 「作者が誰かに質問される句はみたことがない」という意見が合評で出た。そう、そこに新しみがある。不変のディランの歌詞。一変した作者と時代。枯野道には長い時がふり積もる。 俳句技法に熟達した人が「と」が気になるという意見を述べた。 「Hoどwdoんyouなfee気l」分 ディランの問へる枯野道 ルーチン通りならこう添削するが、原句の味は死んでしまう。座五の「と」のイージーさが、フィーリングの時代を生きて来た寄る辺なさに合っている。それを感じていたい。          (選句・鑑賞 恩田侑布子)

1月6日 句会報告

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謹賀新年。静岡は上天気の正月となりました。句会の行われる「アイセル」からほど近い静岡浅間神社には三が日で50万人の人出があったようです。 今回の兼題は「師走」と「暖房」です。 高点句や話題句などを紹介していきましょう。 恩田侑布子特選句はありませんでした。     宅配の路地をすり抜け十二月            久保田利昭 恩田侑布子入選句 「なにげない風景だが、届ける先の人がどんな人か想像させる。路地という言葉から、そんなに裕福ではない暮らしなのだろう。高齢者かもしれないが、たくましく生きている」 「“すり抜け”のスピード感がいい」 「季語の本意、本情を買った」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「季感が横溢している。働く人の実感が中七にこもり、届けられて喜ぶ人の顔が見える。“すり抜けて”でなく“すり抜け”でスピード感が出た。“路地を”の‟を”が効いていて弛みがない」と講評しました。     嘘ばれるように暖房消えにけり             佐藤宣雄 「エアコンのことだと思った。消すと室外機が変な音を立てて止まるような」 「石油ストーブと思う。比喩が面白い。暖房が消えた寒さと心の寒さが重なる」 「ストーブが消えたことにふと気づく。ウソがばれた冷たさ」 と感想、意見が出ました。 恩田は、 「レトロなストーブを連想した。可愛い嘘、悪質ではなく愛らしい嘘なのだろう」と講評しました。     呆けたる身を素通りす師走かな             佐藤宣雄   恩田侑布子原石賞 「最近このようなことを身をもって感じる。歳月を経てきた気持ちを代弁している」 「師走で忙しい他人の雑事とは関係なくボケている。自虐的な句で皮肉と滑稽さがある」 「自身の加齢を客観的にみている」 など感想、意見。 恩田は、 「‟呆ける”をほうけると訓ませるのはどうか。‟惚ける”か‟耄ける”であろう。また、句形に誤りがある。‟かな”で終わるときは、上五~中七で圧力を高めていって、一挙に‟かな”でひびかせる。「また、この句は‟素通りす”と、終止形で切れてしまっている」と述べ、次のように添削しました。  ぼけし身を素通りしゆく師走かな   「立句になり、自己客観化による自嘲の句になりませんか」と解説しました。     米を研ぐ指の透き間に十二月             松井誠司 恩田侑布子原石賞 「指の透き間から時間が通り過ぎていってしまう。中七がいい」 「十二月にこのような中七を持ってきた。白魚のような女性の指を思う」 「きれいな指と水の冷たさを想像できるきれいな句」 と感想、意見。 恩田は、 「行間に寂しさが感じられる。365日、誰にも評価されずに指の透き間を流れていった日々。こうやって研いできて、今、十二月にたどり着いた感慨がある」と講評しました。     [後記] 今年の初句会。年賀の挨拶もそこそこに、皆それぞれ早速選句に没頭します。沈黙に支配され、張り詰めたこの時間が筆者は好きです。今回も句の合評からさまざまな話題に飛びました。言葉の持つ喚起力を感じます。 次回の兼題は「当季雑詠(冬、新年)」です。(山本正幸)