「勝目梓」タグアーカイブ

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (二) 勝目 梓

イワン-3

          隠喩(いんゆ)――――――恩田(おんだ)侑布子(ゆうこ)                    勝目 梓  単なる俳句ファンに過ぎない私のような者にまで、自作句集を贈ってくださる方々がときにいらして、恐縮しています。  恩田侑布子句集『イワンの馬鹿の恋』(平成十二年 ふらんす堂)もそうした中の一冊です。著者の初句集とのことですが、十八歳で飯田龍太選の「毎日俳壇」で特選を重ねた後に、十年近い中断をはさんで句作を再開、という句歴の紹介が巻末にあります。      死にかはり逢ふ白梅の日と翳と         死に真似をさせられてゐる春の夢        会釈して腰かける死者夕桜       亡き人と摺足で逢ふ日の盛      深い思索と豊かな身体的な感性とを入念に練り上げた末の、見事な結実と言うべき作と思います。一つの情景を捉(とら)えて、それを現実世界と夢幻の領域の間(あわい)に漂わせた上で再度見直す、という手法がこの俳人のきわ立った特性であり、また大きな魅力と思えます。  従って恩田侑布子の句は、写実的に見える作にもどこか現実の地平を越えていくことばのひびきが感じ取れるし、夢幻の中の情景と思える作には逆に一種の現実的なリアリティが生じるのだろうと思うのです。  そうした二重の構造を備えた詩心と手法があればこそ、掲句のような、死者があたかも形あるものの如(ごと)くに生者と混在している句想が自在に生れるのではないでしょうか。  そのように考えると私は、〈死に真似を――〉の句に触れて、死者そのものにも春の夢の訪れがあるのかもしれない、などといった不思議な思いに導かれたり、〈死にかはり――〉という聞き馴(な)れないことばが、「生まれかわり」とほとんど同義語のように使われていることに、目から鱗(うろこ)が落ちるような思いを味わったりするのです。      蹴り初めは母のおなかや夕桜      砂いつか巌にかへらむ夕河鹿      寒紅を引きなつかしやわが死顔    生は即ち死であり、死は新たな生であると捉えれば、時間というものにもまた、現在から未来へ進む一方に、過去に向っていく流れのあることが視(み)えてくる道理です。  生れて初めて蹴(け)ったものの記憶を辿(たど)って胎児期まで遡(さかのぼ)り、河原の砂がかつての巌(いわお)の姿を取り戻すまでの厖大(ぼうだい)な時の経過を軽やかな夢想の裡(うち)に捉え、かと思うと鏡に映る紅を引いた自身の顔をデスマスクに見立てて、それを懐かしいと詠(よ)む作者の、時間というものに対する姿勢、思索が、不思議に心地よい自在な感じの場所に私を立たせてくれる気がします。      手をひかれ冥府地つづき花の山      春嵐千里にべつの吾おりぬ      彼岸より此岸がとほし花の闇      身をよせて日焼子死後を問ひにけり     これらの作も、あの世とこの世を自在に行き来しながら、たゆたうような時の流れの中に軽やかに身と心をあそばせているかのような、この作者ならではの佳句です。      擁きあふ肌といふ牢花ひひらぎ      接吻(くちづけ)はわたつみの黙(もだ)夕牡丹      骨壺の隙間おそろし夕桜      翡翠(かはせみ)や水のみ知れる水の創(きず)    この句集には、印象が明るくて、ことばのひびきも軽快な作が数多く収められています。それでいながらそれらの句にはいずれも、人間の生にまつわるさまざまな切ない真実の相が、あるときは官能的な、またあるときは思念的な巧みな隠喩が用いられていて、それが句に奥行きと底の深さを与えています。恩田侑布子は隠喩の俳人と呼びたいほどです。     《出典》   『俳句の森を散歩する』   (株式会社小学館 二〇〇四年一月一日発行)       『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)