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12月1日 句会報告と特選句

photo by 侑布子

 12月1回目の句会が行われました。 この日は句会終了後に樸俳句会の忘年会が開催されることもあってか、いつもに増して真面目な雰囲気の句会だったように感じました。今回の兼題は「落葉・霜・冬季雑詠」。久しぶりに特選句も出て、大いに盛り上がりました。 今回の入選句をご紹介します。                浮雲のどれも陰もつ一茶の忌              伊藤重之   合評では、 「俳句の形としてお手本のような句」 「一茶の幸福とは言えない人生が見えるよう」 「“陰もつ”を“陰もち”にした方が、切れが深くなるのではないか」 という意見が出ました。 恩田侑布子は、 「生涯辛酸を舐め続けながらも俳諧自由のこころを失わなかった俳人一茶への共感がある。浮雲は年中見られるけれど、“どれも陰もつ”という措辞に十一月の季感がただよい、肌寒さを感じさせる」 と講評しました。                 落葉踏む堤の端にひとりかな             藤田まゆみ 恩田は、 「堤の突端 まで落葉を踏んでゆく。つくづく誰も居ないなと思う。作者の背後には落葉が記憶のように降り積もっている。孤独感とさみしさをうたって、嫌味や押し付けがましさのないところがいいじゃありませんか」 と講評しました。               リヤカーの塀に倒立石蕗の雨              森田 薫 合評では、 「絵として美しく情景が見えるようだが、リヤカーが立てかけてある情景を“倒立”とするところに少し違和感を持った。“塀に立てかけ”のほうが自然ではないか」 という意見が出ました。 恩田は、 「一枚の絵に完全になっている。内塀でしょう。ほとんど使わないかすでに使い手のいなくなったリヤカーが、広い元農家の敷地片隅の塀に立てかけてある。しずかに降る雨が過ぎ去った時間を慰撫するよう。日のひかりの薄い初冬の情景として出色」 と講評しました。  下記に掲載する特選句は、今回、恩田を含む参加者の約半分が点を入れるという最高得点句となりました。この特選句に関しては「“霜雫”という季語が、どんな情景を描いているか」というところで議論を呼びました。植物に降りた霜から溶け出した雫なのか、屋根にできた霜が垂れ落ちる様子か。たった二文字の言葉に語りつくせぬ情景が詰まっている豊かさに、言葉の持つ面白さを改めて噛みしめる時間となりました。次回の兼題は「時雨・石」です。(山田とも恵)                特選        霜雫この世の時間使ひきる                 伊藤重之  霜雫は温かい静岡平野の市街地ではまず目にすることはない。わたしも四半世紀前にいまの山中に引っ越して、初めて厳寒の時期だけ見聞きするようになった。霜が降りる日は、明け方冷え込んでも日中はよく晴れる。冬晴れの下、山あいでは納屋などのトタン屋根から霜雫がかがやくように地に落ちる。それは朝霜の一面の厳しい白さとはまた別種の風情。どこかあの世の明るさもふくむ明るさ、ふしぎな時間である。すべてを昇華した末のような水滴が、寒気のゆるんだ日向に銀色のしずくを滴らせ、ときに水銀柱をおもわせる垂線を引く。静かで清らかな冬の真昼。愛するかけがえのないひとは、なすすべもなくこの世のいのちの火を使い切ってしまった。霜夜のような凍てつく時間、凍る思いの日 々のはてに、いま真っ青な冬晴れに見守られて大地にかえってゆく雫。泪のとけこんだ銀のかがやきがひとの一生に重なる。「霜雫」の季語の本意本情に一歩を付け加え得た俳句といえるのではなかろうか。      (選句/鑑賞   恩田侑布子)

9月1日 句会報告

photo by 侑布子

9月1回目の句会。 入選1句、原石賞2句、△2句、シルシ8句。特選句なく、「夏枯れ」を引きずる?樸俳句会です。 兼題は「花火「稲の花」。 入選および原石賞の句を紹介します。 ( ◎ 特選  〇 入選  【原】 原石賞     △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ )                      〇手花火や背に張り付く夜の闇              荒巻信子 合評では、 「今の街の夜は真っ暗にならないが、かつて田舎の夜はとても暗かった。子どもの頃、家の庭で花火をして、それが消えると本当に真っ暗闇になった。“花火”と“闇”の対比が効いている」 「“背に張り付く”がうまい。手元の花火に夢中だったのが、消えると闇に気づく」 という共感の声の一方で、 「闇は薄っぺらではなく深さがあるもの。それを“張り付く”としているが、むしろ“纏い付く”ものではないか」 「“手花火”と“闇”を対比させた句は多い。何か空々しい気がする」 という辛口意見もありました。 恩田侑布子は、 「中七が生きている。線香花火を指先につまんでじいっとしているときの体性感覚がある。無防備な背中へ真っ黒な闇がべったり密着する感じ。 “張り付く”としたことで、よるべない不安感や夜のそぞろ寒さまで感じられる。秋への気配をうまく捉えている」 と講評しました。                       【原】はつ恋やぱりんとひらく揚花火              伊藤重之 合評では、 「“花火”と“恋”は結びきやすい。これは、あっけらかんとしてドライな恋だ。“ぱりんと”とすることによって爽やかさや軽い感じが出る」 「島崎藤村の“まだあげ初めし前髪の・・”の詩(「初恋」)を思い出した。藤村の時代に比して、現代の初恋は湿っぽくない。いつでも蹴飛ばせる。“ぱりんと”としたことで現代の“恋”と“花火”が生きた」 「恋も花火も“ぱりん”と開いたのでしょう。かな表記がいいと思う」 などの感想に対して、 「“ぱりん”なんてお煎餅みたい」 「共感できない。十代後半の人が詠んでいるようだが、初恋はもっと早く、小学校高学年くらいでしょう。年代にズレを感じ、内容と合わないのでは?」 「“ぱりん”は問題!作者がそこにいない。初恋の実がない。他人事のように感じる」 「恋に恋しているみたいだ」 などと議論沸騰。 恩田は、 「初恋にはオクテの人もいるでしょう。“ひらく”が問題。揚花火は開くものであり、わざわざ言う必要はない。幼い恋で、懊悩がないので浅い句になってしまった。ダブルイメージ、余情や余白がない」 と講評しました。                      【原】これきりの恋煙る空遠花火              萩倉 誠 合評では、 「これで終わりという恋が燻っている。恋が遠のくことと“遠花火”とかけたのだろう」 という感想がありました。 恩田は、 「“空”が気になった。惜しい」 と講評し、次のように添削しました。  これつきり恋煙らせて遠花火 [後記] 本日もタイムオーバーしての熱い句会でした。 句会終盤で、「作品と作者」について議論になりました。作者を知って読むのとそうでないのとは理解が違ってくるという問題です。作者が分かっていて読むとバイアスがかかるのは避け難いことですが、作者の境涯を背景に読めば、より鑑賞・理解が深まるのではないでしょうか。逆に作者を知らずに読む楽しみもあります。合評と講評のあと、作者の名乗りがあると「ほおーっ」という声(この句を詠まれたのは〇〇さんだったのね)が連衆から上がる瞬間が筆者は好きです・・。 次回兼題は、「秋の潮」と「瓢」です。 (山本正幸)

7月7日 句会報と特選句

photo by 侑布子

7月1回目の句会。本日は七夕。静岡市清水区の七夕祭も今年で65回目になります。 兼題は「バナナ」と「虹」。特選2句、入選2句、原石賞2句、シルシ9句という結果でした。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ ◎虹の橋袂めざして走れ走れ             久保田利昭    ◎アリランの国まで架けよ虹の橋              杉山雅子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                                        〇置き去りのバナナ昭和の色となる              萩倉 誠 合評では、 「こういう発想は今までなかったのではないか。 “置き去り”が分かりにくいかもしれないが」 「古びていく昭和への哀感がある。高度成長した昭和の時代が去っていく寂しさ」 「バナナは昭和の象徴だろう。琥珀色の中に死んでいく昭和」 「“置き去り”のバナナと“昭和”の取り合わせに無理矢理感があるが、発想は面白い」 「“となる”が不自然」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「“意味”に還元していないところが良い。昭和の時代へのノスタルジア、ペーソスを感じ、説明できないニュアンスがある。それは良い句の条件でもある。季語が効いており、面白い感性だ。哀惜の情はあっても、昭和の時代への政治的な批判精神はない。哀惜の情を詠うとき批評は邪魔になる。昭和史の中に眠ろうとするあまたのエピソード。その人固有の体験を呼び覚まそうとしている」 と講評しました。                      〇虹立つやミケランジェロの指の先              塚本敏正 「リズムがすがすがしい。気持ちのいい句」 「私は “ピエタ”が好き。ミケランジェロの指から虹が立っている。本物の虹との二重イメージの句」 「ミケランジェロその人の指ではなく、真っ白な大理石の彫刻の指。例えば、巨人ゴリアテへ投げる石を持ったダビデの手を想像させる。虹は希望の象徴」 「“ダビデの像の”と作品を特定すれば、特選でいただいたのに」 との感想、意見。 恩田は、 「そのままミケランジェロの指と読むべきだ。固有名詞が効いている。例えば“草間彌生の”とすると“虹”と相殺してしまう。ミケランジェロだからこそルネッサンスの時代精神を体現し、芸術賛歌になっているし人間賛歌にもなっている。ミケランジェロの作品名を載せるとそこに収斂してしまう。ここにはエコーのような多層構造がある」 と講評しました。                     【原】スコール過ぎバナナの下に水平線              佐藤宣雄 恩田は、 「迫力のある句。景色に重量感と立体感があるが、上五を変えたい」 と講評し、次のように添削しました。  天霽(は)るるバナナの下に水平線                     【原】バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日々               西垣 譲 合評では、 「まもなく命が尽きるとき、最後に“これを食べたい”という欲望が出てくる。昔バナナは風邪をひかないと食べられなかった。戦争体験が背景にある」 「五七五に収まりきらず、内容は短歌的のように感じた。“切れ”はないが、一気に読み共感した」 「“喰ひ”のほうが良いのでは?」 などの感想と意見が出ました。 恩田は、 「生きるという実感のある句。“喰ひて”の字余りは問題ない。“喰ひ”だと“死なむ”に繋がっていかない。むしろ“日々”を変えたい。このままだと長いある一定の期間となり、理屈に解消し思い出話になってしまう。“あの時”という切実感を出したい」 と講評し、次のように添削しました。  バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日                   [後記] 恩田侑布子の句集『夢洗ひ』が、平成29年度の現代俳句協会賞(第72回)を受賞しました。芸術選奨文部科学大臣賞とのダブル受賞です。 句会冒頭、樸俳句会一同でお祝いを申し上げ、大きな拍手を送りました。連衆にとって励みになることです。 今回の兼題の「バナナ」について話が盛り上がりました。句会参加者の年齢層にあっては、当時のバナナは高級品。一日3本以上食べることもあるという人もいて、健康談義にまで広がりました。皆さんそれぞれ思い入れがあって句作に取り組んだようです。 次回兼題は、「空梅雨」と「トマト」です。 (山本正幸)                         特選                         虹の橋袂めざして走れ走れ                  久保田利昭  虹の脚や虹の根はよく俳句にされるが、「虹の橋の袂」は盲点かもしれない。しかも座五に「走れ走れ」と命令形を畳み掛けたところがユニーク。一読して、あまりにも楽天的な向日性を思う。が、一句の異様な無音に気付くや、世界は一転、不気味な悪夢のように思えてくる。走った末に行き着くところは虹の橋ではなく、袂にすぎない。しかも掴むことも登ることもできない幻かもしれない。それなのにひたむきに走る。もしかしたらこれは、底無しの虚無ではないか。楽天と虚無がメビウスの環のような階段になったエッシャーのだまし絵のような俳句。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)                                   特選                         アリランの国まで架けよ虹の橋                   杉山雅子  「アリランの国」という措辞がよく出たと感心した。何か他の国を象徴するもので代用できないか考えてみたが「サントゥールの国」では甘くなるし、「ウォッカの国」では虹が生きない。アリランは動かない。日本は韓国侵略の歴史をもち、近年は一部の人によるヘイトスピーチもある。また民族分断という悲劇の歴史も継続している。作者は隣国の庶民に深い共感を寄せ、幸せを祈る。それは自身が少女時代に戦争を体験したことも大きいだろう。アリランという哀調の民謡を唄う庶民に人間として共感を惜しまず、この虹を隣国まで架けようという心根は美しい。視覚的にもチマの鮮やかな遠い幻像に、大空の虹が濃淡をなして映発し合う。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

6月16日 句会報告と特選句

yurri

6月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「麦秋」「鮎」。 夏の季語なのに「麦の“秋”」これ如何に!?日本語の季節をあらわす言葉は実に面白いですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                          ◎日表に阿弥陀を拝す麦の秋             荒巻信子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                     〇麦の秋ことさら夜は香りけり             西垣 譲 「見た目でなく香りに着眼した所が良い」 「湿気ているような香りで季節感を表現している」 というような感想がでました。 恩田侑布子は 「麦秋は一年で一番美しい季節だと思っている。その夜の美しさがサラッと描けている一物仕立ての句」 と講評しました。                   〇カーブを左突き当たる店囮鮎            藤田まゆみ 「なんとも不思議な句。理屈はいらない。囮鮎のお店へ向かうワクワク感が詠み込まれている」 という意見が出ました。 恩田侑布子は 「見たことのない個性的な句。運転手と助手席の人との会話の口語俳句。可笑しさがあるだけでなく、“カーブ”という言葉から川の流れに沿って蛇行した道を車が走っていることが分かる。沿道には緑の茂みがあり、季節感まで詠みこまれている」 と講評しました。                   〇巨大なる仏陀の如し朴の花             塚本敏正 恩田侑布子は 「“巨大なる仏陀”と先に言うことで、作者の驚きが出ている。山を歩いているとき、谷を覗くと朴の花がその谷の王者のように咲き誇っているところに出会う。その姿を想像すると“巨大なる仏陀”は決してこけおどしでなく、朴の花の本意に届き、その気高さを捉えている。直喩はこれくらい大胆なほうが良い。誰もが思いつくようなものはだめ。直喩には発想の飛躍が必要」 と講評し、直喩を使った名句を紹介しました。  死を遠き祭のごとく蝉しぐれ               正木ゆう子  やませ来るいたちのやうにしなやかに                佐藤鬼房  雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし                飯田龍太                          〇駄犬どち鼻こすり合ふ春の土手             西垣 譲 「やさしい句。“駄犬”と“春の土手”が合っている。あまり美しくない犬でしょ」 という感想がでました。 恩田侑布子からは、 「散歩している人と犬同士が出くわし、はしゃぎあっている様子が分かる。“どち”の措辞がうまい。“駄犬らの”にするとダメ。作者も犬と同化していて、動物同士の温もりと春の土手の温もりが感じられる」 との講評がありました。  今回の句会では点がばらけたこともあり、たくさんの句を鑑賞しあうことができました。が、それゆえ終了時間間際はかなり駆け足になってしまいました。それぞれ思い入れのある句を持ち寄るものですから、致し方ないですね。作者から句の製作過程を直接伺えるのも句会の楽しみの一つです。  次回の兼題は「バナナ・虹」です。 (山田とも恵) 特選    日表に阿弥陀を拝す麦の秋                  荒巻信子  日光のさす場所が日表。田舎の小さなお堂に安置された阿弥陀三尊像だろう。もしかしたら露座仏。磨崖仏かもしれない。阿弥陀様は西方浄土を向いておられるから、まさにはつなつの日は中天にあるのだろう。背後はよく熟れた刈り取り寸前の麦畑、さやさやとそよぐ風音も清らかである。阿弥陀様のまどやかなお顔、やさしく微笑む口元までも見えてくる。「拝す」という動詞一語が一句を引き締め、瞬間の感動を伝える。日表と麦秋という光に満ちた措辞が、この世の浄土を現出している。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

4月21日 句会報告

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駿府城石垣の躑躅が咲き始めています。 兼題は「風光る」と「雲雀」です。 入選句、高点句を紹介していきましょう。恩田侑布子特選はありませんでした。 (今後、掲載句についての恩田侑布子の評価は以下の表記とします。) ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石賞  △ 入選とシルシの中間   ゝ シルシ      〇給食の残され組や揚雲雀            藤田まゆみ 合評では、 「なつかしさがある。給食を食べるのが遅くて教室に残された子たちへの作者の優しさを感じる」 「私も“残され組”だったので気持ちがわかる。外から雲雀の声が聞こえる。早く出てこいと」 という感想の一方で、 「私の頃は給食がなかったので、残念ながら理解できませんでした」 「今ではこれは体罰になってしまう。不登校になったらどう責任を取るのか、と親からクレームがくるだろう」 など世代間格差?を感じさせる発言もありました。 恩田は、 「田舎の野原の中の小学校を思う。雲雀は励ましているようでもあるし、からかっているようでもある。いずれにしてもかつての体感のこもったユニークな句」 と評しました。     〇風光るにつぽん丸の操舵室            山本正幸 合評では、 「清水港に子どもを連れて日本丸を見学に行ったことがあり、よく分かる句」 との感想。 恩田は、 「句としてできてはいる。その一面、ややステレオタイプで面白みに欠ける。絵葉書俳句」 と講評しました。     〇天空に声残してや落雲雀            松井誠司 恩田の講評。 「雄雲雀の哀れが出ている。自分の声の限界まで鳴いて、墜落のような落ち方をする。落雲雀にもはや声はないのに天空には残っているというところに詩がある。シンプルだが、忘れ難い句」     〇県境の尾根緩やかに風光る            佐藤宣雄 合評では、 「景が平凡」 との指摘。 恩田は、 「季語が生きていて、本意が捉えられている。気持ちがよく健やかな句である。“国境”だと月並みになるところだ」 と講評しました。 作者は、 「平凡な句になっちゃった。はじめは“尾根の石仏”だったが、それだとホントに月並みでした」 と句作を振り返りました。     【原】陽を乗せし富士傾くや落雲雀             杉山雅子 恩田は、 「過去形と現在形が混在しているので、ひとつの時制にすべきである。語呂もよくない。ただ、雲雀になりきっている作者の視点は面白く、身体感覚と一致した表現が素晴らしい」 と講評し、次のように添削しました。  日を載せて富嶽かたむく落雲雀   「こうすると落ちてゆく雲雀に乗り移った眩暈のような大景が見え、蛇笏ばりの格調が出ませんか?“富士”より“富嶽”にする方がダイナミックでしょう」 と解説。     スマホ繰るネールアートに風光る             萩倉 誠 これが本日の最高点句でした。議論が沸騰。 「素材の新しさ。そこに惹かれて採った」 「上五~中七ときて“風光る”という季語で締める。指先に光が集中していく面白さ」 「具体性があり、景がよく見える。ただ、細かく焦点を当てていくことと風景が合わないかも」 「電車で乗客の半分くらいがスマホに触っている風景かな」 「しゃれているが、季語とズレを感じる」 「“に”ではなく“や”で切ったほうがいい」 恩田は、 「シルシにしようか無点にしようか悩んだ。ありふれた光景であり、またカタカナだらけの句だ。風俗の新素材から句は古びていく。鮮度は感じない。動詞が多く煩雑で、散文的。季語の本意である清潔感が感じられず残念。スマホとそれを繰るネールアート自体がキラキラしていて、同じものが並んだ“お団子俳句”です」 と厳しい講評がありました。 [後記]  今回、恩田侑布子の無点二句が連衆の高点句になり、「選句眼」について考えさせられました。目新しい素材の句、季語の本意を踏まえていない句、知識だけで作った句などの見極めが大事なことを痛感しました。  次回兼題は、「春昼」と「蝶」です。     (山本正幸)

4月7日 句会報告と特選句

sakura

 本日はスペイン国王と妃殿下、天皇皇后両陛下がご来静。会場近くの静岡浅間神社では稚児舞楽をご覧になりました。通規制のため、少し遅れて句会が開かれました。 兼題は「古草」と「春障子」です。 (句頭の記号凡例) ◎ 特選 〇 入選 【原】原石賞 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ 高点句を紹介していきましょう。 ◎早退けの少女かくまふ春障子             山本正幸     ◎妻と子は動物園へ春障子             西垣 譲 (下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)         〇古草や突つ込んでおく古バイク             西垣 譲 合評では、 「情景がよく分かる。懐かしく、温かい感じ」 「家庭の物置の日陰。倉庫に入らないから横っちょに。とり合わせが面白い。」 「バイクへの愛情を感じる」 「いや、もう乗らないので、その辺に突っ込んでおくのですよ」 「“古”が二回出てくるのが引っかかる」 「でも、それが逆にいいのでは。」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「“古”が味を出している。このふたつの“古”は違う。古草は去年の草だが、古バイクは10年も20年も乗ってきて愛着があり、その思い出を裏に潜めている。“古”に濃淡がある。“突つ込んでおく” というぶっきらぼうで勢いのある言葉が上五と下五を繋ぎ、血の通った俳句となった」 と講評しました。     〇約束を反故にし寝ねり春障子             佐藤宣雄 合評では、 「読めばすぐ分かる句。何か理由は知らないが出て行くのが嫌になったのだろう。“春障子”に温かさがあり、“反故にし”で滑稽味も出た」 「“寝ねり”という無責任さが男っぽい。“反故にし”に意志が感じられるが、逡巡もあるのでは。」 「居直ってますよ。反省していない!」 と感想、意見はまちまち。 恩田は、 「独特の身体感覚による春障子。すっぽかしておきながら明るさがまとわりつき、居心地が悪くて安らぐことができない。屈折した心理を春障子がうまく受け止めている」 と講評しました。     〇古草や鎌の手止める貫頭衣             松井誠司   「最近うちの菜園の手入れをした。古草は根を張っていてしぶとい。この句からはその生命力が感じられる」 「“貫頭衣”が分かりにくかったが、登呂遺跡での光景でしょうか。愛着を感じる句」 との感想。 恩田は、 「弥生人の生活の息吹が生々しく伝わってくる。作業のふと手を止めた瞬間を切り取っている。古草と貫頭衣の取り合わせが面白く、絵画的に決まった」 と講評しました。     ゝ庭石のみな角とれて草古し             杉山雅子 「昔は格式のあった古い家。その庭の石をいろんな人が踏んで通っていったのだろう。」 「日本風の落ち着いた住まい。住人は若い頃バリバリ働き、老いた今も矍鑠としている。住む人の息遣いや人物像まで投映している」 との感想が聞かれました。 恩田からは、 「落ち着いた日本の家の庭の様子を詠んでいるが、季感が薄い。“みな”はあいまいな形容であり、甘い。感じは分かるが焦点が定まらない。もう少し中七を工夫して、自分の観点で焦点を絞り直したら」 と厳しめの講評がありました。     ゝ古草やひそりと昭和閉ぢてゆく             伊藤重之 「“ひそりと”に心情的に共感する。哀惜の心」 と共鳴の声。 恩田は、 「その“ひそりと”が根付いていない。俳句は副詞や形容詞から古びていくので気をつけなければいけない。また、“閉ぢてゆく”という時間の経過表現があまりよろしくない」 と講評しました。     [後記]  今日の恩田侑布子の指導テーマは「観念から詩的真実(リアル)へ」。今回は観念に堕ちていく投句が目立ったとのこと。「意味や理屈を離れて、詩のリアルを獲得してほしい」といつもにも増して熱く語った恩田代表でした。 今回、私が「古草も新草もなく犬尿(いば)る」の句を採らせていただいたとき、恩田侑布子代表から「季重なりですが、いいのですか?」と問われました。「犬は古草と新草の区別もつかず、季語を知りませんから」と私が答えたところ、「それが理屈!そこから離れなければいけません。理屈を追い出すこと」と一刀両断されました。まさに今日のテーマ!(ちょっと堪えましたが納得です) 次回兼題は、「風光る」と「雲雀」です。(山本正幸)     特選     早退けの少女かくまふ春障子                 山本正幸  頭が痛くなったのか、お腹が痛くなったのか。大した病気ではなさそうだが、思春期の危うさを感じる。桜の咲く前の柔らかいひかりが障子を明るい雪洞のようにしている部屋に引きこもる。それを春障子が意思あるように「かくまう」といった。あえて不穏な言葉を使ったことで「異化効果」が生まれ、春障子が呼吸をし出す。少女との間にあたかも密事(みそかごと)がなるよう。清楚なエロティシズムまで感じられる。言語感覚のよろしい極めて繊細な句。 特選   妻と子は動物園へ春障子                  西垣 譲    ぬけぬけとした長閑さがユニーク。ちょうど妻と子が動物園のゴリラを見ている間、一家の主人である作者は所在無く春障子の明るいふくらみの中にいる。ついていけばよかったかな。いやいや、騒がしいやつらのいない日曜の昼間はなんて貴重なんだ。一抹の寂しさの中に満足感があり、いかにも春昼の風情。「へ」は俳句では難しいが、うまく働いている。そこはかとない俳味がある。        (選句・鑑賞 恩田侑布子)

2月3日 句会報告

irumi

節分の句会。兼題は「当季雑詠(冬、新年)」です。 今回は恩田侑布子の特選、入選、原石賞のいずれもなくフチョーでした。 なかから△印の高点句を紹介します。 冴ゆる夜の監視カメラの視線かな            久保田利昭 「“冴ゆる夜”と監視カメラという機械の冷たさが一致している」 「冷たいキーンとした感じが出ている。カメラの無表情な視線がある。自然と人工の対比」 「監視カメラが意志をもって視ていることの気持ち悪さが表されている」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「季語が効いている。“視“が重なってくどいようだが、こう言わないと句にならない。無機的なものが有機的なものに転化し、ぎょっとする瞬間をつかまえた。現代を詠んでいる。座五もよい」 と講評し、さらに、 「“花鳥諷詠”だけではなく、自然環境や社会環境など2017年の現代に生きていることを詠むのは大切。“複眼の思想”を持ちたい」 と述べました。     三センチ歩幅広げる古希の春             松井誠司 「“一歩”ではなく“三センチ”が現実的でいい。70歳を迎え、前向きに生きようとしている」 「共感します。街で女の子に追い抜かれたりするんでしょ」 「共感! 歩幅を広げて歩くのは体にいい。意識してやらないと」 「健康雑誌に載りそうな句。糸井重里さんのコピーみたい」 など共感の声が多く出ました。 恩田は、 「懐かしい、情の豊かな句。歩幅を広げて速歩きするのは老化防止にいいそうです。中七にやわらかい切れをつくりたい」 とし、次のように添削しました。  三センチ歩幅広げて古希の春 「“て”で切れが生じ、リズムもよくなりませんか。俳句は音楽性をもつ韻文であることをこころがけて」 とうながしました。     枯枝の先一寸の人類史             伊藤重之   「はかなさと危うさ。リズム感があり、言い切っているのがよい」 「よく分からないが、なんとなく捨て難い句。イメージを膨らめていったのだろう」 などの感想。 恩田は、 「裸木に生物進化の系統図を投映した句。人類は威張っているが、地球生命史の上では誕生して間がない。戦争と殺戮を繰り返している人類への批判もある。しかし、季感が薄い。進化の系統図そのままで飛躍がなく、知的操作の勝った句」 と講評しました。     [後記]  今回の投句がやや低調だったのは「正月疲れ」なのでしょうか。しかし、かえって口角沫を飛ばす議論が百出し、みんなホットになりました。 恩田の「今回は説明や報告の投句が多かったように思う。俳句は韻文。叙述してはいけない」との指摘にうなずきながら句会を後にしました。 次回の兼題は「紅梅」「若布」です。乞うご期待!(山本正幸)

1月20日 句会報告と特選句

koubaiyuki

新年2回目の句会が催されました。兼題は「枯野」「御降」「雑煮」です。 今回は力作揃い。高点句や話題句などを紹介していきましょう。 単線の地平に消えり大枯野            久保田利昭 恩田侑布子原石賞。 「景が大きい。単線に親しみを感じる」 「景色が見えるが、地平と大枯野が重なるように思う」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「“消えり”は日本語として間違い。終止形が‟消ゆ”であるので、ここは‟消ゆる”か‟消えし”が正しい。‟消ゆる”は現在形で含みが感じられ、‟消えし”は過去形となり調べはいいが少し弱くなる。‟消ゆる”にすれば、‟の”が切字として働く。鉄路と枕木のみが続いている眼前の光景。単純な映像に迫力がある。謎があり、それからどうなった?と連想が広がっていく」 と講評しました。     御降や一直線の下駄の跡             松井誠司 恩田侑布子入選。 「雨の後、下駄の跡だけ続いている光景で、詩的である」 「雪だと思う。年あらたな清浄な雰囲気が出ている」 「きれいでいいが、やや既視感がある」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「雪だろう。無垢な感じがよく出ており、一種のめでたさがある。歳旦詠はかくあるべきで、有難さがにじみ出ている」 と講評しました。     一生(ひとよ)とは牛の涎と雑煮喰ふ             萩倉 誠   「生活感が溢れている。面白い句。一生を涎のように気長に暮らす。若い頃はこういう気持ちにはならないのだろう。「と」ではなく、「か」「や」「ぞ」で切ったほうがいいか」 「人生は牛の涎と同じという発想が面白い」 「「商いは牛の涎」ということわざがある。それと同じで人間の一生は切れ目がないという見方に脱帽」 などの感想、意見の一方で、 「なんか臭ってきそう。お雑煮が美味しくなくなる」 との拒否的(?)な感想も。 恩田は、 「大胆な発想の飛躍がある。何十回と繰り返している正月、昨年も一昨年もこうだったなと。牛の反芻に結び付けたことが効いている。雑煮の神聖性を引っくり返した。俳味あり。自己戯画化が面白い」 と講評しました。 今回の句会では、「(ボブ)ディラン」を詠み込んだ句(特選句)への合評が引き金となり、「引用」の問題が話題に上がりました。 「固有名詞、地名等を詠むとその言葉の喚起力やイメージに頼りすぎてしまうのではないか」という疑問の声。また、「分かる引用と分からない引用がある。鑑賞者の立場も考慮すべきであろう」との意見もありました。 恩田は、「地名、人名、文学作品等を引用するのも表現の冒険である。イメージに頼るというのならば、まさに季語がそうであり、すべてが引用ともいえる。引用の句を否定したくない。可能性が広がる」と持論を述べました。     [後記]  「引用」をめぐる議論が白熱しました。引用した言葉に、思ってもみなかった角度から光を当て、新たないのちが蘇るような句を詠みたいなあ、と皆さんの発言を筆記しながら考えておりました。 次回の兼題は「春を待つ(待春)」「寒晴」です。(山本正幸) 特選 ディラン問ふ 「Hoどwdoんyouなfee気l」分と枯野道                                           萩倉誠  子どもの頃、ディランやビートルズの歌声は容赦なく耳に入った。団塊の世代は熱狂し、級友たちもコーラと同じように親しんでいた。あれから半世紀。 1965年ディランのヒットシングル「Like a Rolling Stone 」の歌詞を中七に引用し、日本語訳をルビとした異色作である。あの頃、深い気持ちや思想哲学はカッコ悪かった。フィーリングがすべてだった。時代は老い、高度経済成長の右肩上がりの日本は、少子高齢社会となった。 「どんな気分?だれにも知られず転がり落ちてゆく石は」が本歌と知れば、句意はいよいよ深い。青春前期だった作者は、いまディランより少し遅れて古稀に近づいた。作者は両親の墓参りに富士山の裾野の大野原を通ったそうな。枯野のむこうにこの世を転がってゆく石のイメージがある。地平線に仄みえる死の幻影は、「feel」という措辞によってあかるく軽くなる。現実感の希薄さは枯野をあてもなくただよう。 「作者が誰かに質問される句はみたことがない」という意見が合評で出た。そう、そこに新しみがある。不変のディランの歌詞。一変した作者と時代。枯野道には長い時がふり積もる。 俳句技法に熟達した人が「と」が気になるという意見を述べた。 「Hoどwdoんyouなfee気l」分 ディランの問へる枯野道 ルーチン通りならこう添削するが、原句の味は死んでしまう。座五の「と」のイージーさが、フィーリングの時代を生きて来た寄る辺なさに合っている。それを感じていたい。          (選句・鑑賞 恩田侑布子)