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8月25日 句会報告

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2021年8月25日 樸句会報 【第107号】   8月20日から静岡にも緊急事態宣言が出され、急遽リモート句会となりました。COVID-19が世界中に広がってから1年半が過ぎ、実社会においてもリモートワークやオンライン授業などが当たり前に導入されています。技術革新に感謝したい一方、皆が一堂に会する場の空気や手触りが恋しくなるのはないものねだりでしょうか。 兼題は、「墓参」「花火」「芙蓉」です。   ◎ 特選  安倍川に異国に慰霊花火降る             鈴置昌裕   特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「花火」をご覧ください。             ↑         クリックしてください       ○入選  からだぢゆう孔ひらきだす虫の闇               古田秀           【恩田侑布子評】 「孔ひらきだす」になまなましさがあります。季語と相俟って、ねとつくような蒸し暑さが残る深い闇を感じさせます。生きているからこそ人間には孔があり、虫には翅音があるのに、地中深く黄泉の国へ引きずり込まれてゆくかの不安感は、生と死が溶け合うようです。やや不気味な読後感は、生きていること自体得体が知れない、という思いへ人を誘います。 【合評】 縁側に坐し、真っ暗な庭から響く虫の声に秋の到来を感じ、聴覚、視覚に加え全身の孔が研ぎ澄まされるように全開する肌の感覚を巧みに表現した秀句。 「全身を耳にして」とはよく聞きますが、「体中の孔が開く」という表現に驚きました。眼、耳、口、鼻、肛門…。汗腺まで入れれば本当に人間の身体は孔だらけ。孔は外界と交信する器官です。虫のすだく闇に呼応するように、全身の孔という孔が一斉に開いていくという感覚はとてもシュールで面白い。漢字は孔、虫、闇のみで、あとはひらがなという表記も効果的と思います。       ○入選  眼鏡つともち上げもどす夕芙蓉               見原万智子      【恩田侑布子評】 近視用ではなく老眼鏡ではよくこんなことをします。年配者が焦点距離を少し合わせるための仕草です。古希前後の余裕のある日常の感じと夕芙蓉との取り合わせが絶妙です。それといった意味もないのに、たゆたいの情が匂う感覚の優れた句です。 【合評】 読書に余念のない作者が、涼しい風と辺りが薄暗くなってきたことを感じ、眼鏡を持ち上げ庭に視線を移すと、酔芙蓉は白からピンクに色を変えています。花の色に目を休めた作者は、眼鏡の位置を戻し、再び本に視線を落とします。晩夏から初秋にかけての季節感を静かに感じさせ、今の先行きの見えない閉塞感を一瞬忘れさせてくれるとてもよい句だと感じました。       ○入選  墓参てきぱきと骨になりたし               見原万智子 【恩田侑布子評】 「てきぱきと」仕事をこなす作者が、「てきぱきと骨になりたし」と思っておられたとは。ただ、全国にぽっくり寺があるくらいなので、老耄の身を晒して長々と子や孫に下の世話にまでなりたくないという思いは、珍しいわけではありません。手柄は「てきぱきと骨になりたし墓参」をひっくり返した五五七の破調の工夫にあります。宙吊りの余白が斬新です。しかし、作者コメントによると、「自分の焼骨はあまりお待たせしたくない」という火葬場での即物的希望を詠んだものと発覚。バラさないで欲しかったと思うのは私一人ではないでしょう。 【合評】 まさに近頃の己が思いを代弁してくれているように思いました。 普段からてきぱきと物事を進める方なのでしょう。他人に迷惑をかけず。自分の最期の時にまでそうありたいという切実な思い。そして墓参の際にもそう考えてしまう「性分」の可笑しみ。「てきぱき」の音が、骨の音に聞こえてきます。 墓に参ると諦念に襲われます。もう存分に生きたから、いや、そんなに生きていないけど、そろそろオサラバしてもいいかな。「ホラホラ、これが僕の骨」(by中也)       【原】亡き人よ見えわたるやと問ふ花火               見原万智子 【恩田侑布子評】 「姑が最後に見た焼津海上花火大会のひとコマ。車椅子に座り亡き舅の写真をしっかり抱いていました。「お父さぁん、見えるかね〜?」という呼びかけが、空へ向けて何度も放たれるのでした。」 以上が作者の弁。体験の刻まれた胸を打つ光景です。なるほど、思いが余って「亡き人よ」と呼びかけ、さらに「見えわたるや」とせずにはいられなかった気持ちはわかります。でも俳句表現としてみるとどうでしょうか。お姑さんの行動を横から見ている描写にとどまり、作者との一体感がイマイチです。ここはお姑さんの気持ちになりかわりましょう。 【改】亡き人に見えわたるやと問ふ花火 一字の違いで、中七の「見えわたる」という措辞がいっそう生きて来ましょう。 【合評】 花火を観ることが好きだった故人を偲ぶ思いがよく伝わります。「見えわたる 」に、空に広がる花火の壮大さがよく表現されています。       【後記】 兼題のこともありますが、近しい人の死、自己の死を想う句が多く、リモートゆえ孤独な選句であってもどこか会員同士輪になってともに句を読み進めていくような感覚がありました。ともすれば分断を煽られがちな異なる社会属性や世代が、対等に何かについて話し、評することができる場は本当に貴重です。ワクチン接種が進み、COVID-19の早期収束を望む一方、次々と出現する変異型に社会はまだ振り回されています。疫禍がもたらした予期せぬ“ニューノーマル”な暮らしの中で、奔流に抗う一本の自己の根を下ろすことが、俳句、ひいては文学の役割かもしれません。                      (古田秀) 今回は、特選1句、入選3句、原石賞2句、△2句、ゝ14句、・12句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)     ============================= 2021年8月8日句会 入選句 ○入選  瓜揉や食卓に小ぶりの遺影               見原万智子 【恩田侑布子評】 暑い盛り。瓜揉が主役の簡素な昼餉でしょう。テーブルには遺影が置かれています。豪華な写真立ではなく、小ぶりのつつましい写真立に入っているいとしいひとの笑顔。「小ぶり」の措辞が素晴らしく働いています。生前もいつもここで一緒に食べていたが、亡くなっても一緒に食事をしているのです。仏壇のなかの位牌を拝むだけでは足りない親しさなつかしさ。瓜揉の翡翠色が、ひときわ涼しく哀しい。きっとひとり住いなのでしょう。清らかな故人への思いが、その亡き人のお人柄まで想像させる心打たれる俳句です。     ○入選  夏草を漕ぎ湿原の点となる               海野二美 【恩田侑布子評】 高地の湿原をゆくここちよさ。茅や蒲や、かやつり草、わたすげなどの群生する青々とした天上の草原で、いま私は、どこの誰でもない、男でも女でもない。もはや人間であることも忘れて、天地の間のただ一点になります。大自然に抱かれる夏の歓喜です。やぶこぎの「漕ぎ」と、座五の「点となる」によって、景が鮮やかに浮かぶ句になりました。

7月4日 句会報告

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2021年7月4日 樸句会報 【第106号】   ここ何年も記憶に無い七月上旬の大雨。 被害に遭われた皆様には謹んでお見舞い申し上げます。 雨もようやく小降りになった七月四日。リアル参加とリモート併せて16名の連衆が句座を囲みました。 兼題は「茅の輪」「雷」「半夏生(植物)」です。 特選3句、入選4句を紹介します。  ◎ 特選  八橋にかかるしらなみ半夏生             前島裕子   特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「半夏生」をご覧ください。             ↑         クリックしてください     ◎ 特選  一列に緋袴くぐる茅の輪かな             島田 淳   特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「茅の輪」をご覧ください。             ↑         クリックしてください     ◎ 特選  言はざるの見ひらくまなこ日雷             古田秀    特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「日雷」をご覧ください。             ↑         クリックしてください     ○入選  雷遠く接種の針の光りけり               山本正幸 【恩田侑布子評】 貴重な時事俳句。コロナワクチンの接種をする。明日、痛みや副反応は軽くすむだろうか。本当に効くか。遠雷のひびきとあいまって不安がよぎる。日本は、世界は、今後収束局面に入っていけるだろうか。このゆくえは誰にもわからない。針先のにぶいひかりと遠雷の聴覚のとりあわせが、さまざまな感情を呼び起こします。     ○入選  かへり路迷ひに迷ひ日雷               田村千春 【恩田侑布子評】 帰りたくない気持ち。どうしたらいいかだんだん自分でもわからなくなる切迫感。日雷が効いています。絵にも描けないおもしろさ。     ○入選  白き葉のゆかしく揺れて半夏生               猪狩みき 【恩田侑布子評】 平凡という批判もきこえますが、むずかしい一句一章の俳句が、いたって素直。「ゆかしく揺れて」が半夏生のしずかさを表して、しかも清涼感がある。句に清潔なかがやきがあります。     ○入選  躙口片白草へ灯を零し               田村千春 【恩田侑布子評】 草庵の茶室での夏の朝茶。そんなに本格的でなくても、夕涼みの趣向のお茶かもしれません。躙口のあたりの小窓から漏れる灯が、露地の脇に生えている半夏生の白い葉にかがよう繊細な光景。いかにも涼し気な日本の情緒。半夏生でも三白草でもなく「片白草」の選択が秀逸です。       本日の兼題の「茅の輪」「雷」「半夏生(植物)」の例句が恩田によって板書されました。 半夏生 今回の兼題の一つ「半夏生(植物)」について、恩田から補足説明がありました。ドクダミ科の多年草。半夏生(七月二日)の頃、てっぺんに反面だけ粉を吹いたような真っ白な葉を生ずる。半化粧の意味もある。片白草。三白(みつしろ)草ともいいます。ハンゲと呼ばれるのはカラスビシャクというサトイモ科の別の植物。これとは別に時候としての「半夏生」もあり、句作にも読解にも注意するようにと、それぞれの例句を挙げて恩田は説明しました。  同じこと母に問はるる半夏生               日下部宵三  亡き人の夫人に会ひぬ半夏生               岩田元子  いつまでも明るき野山半夏生               草間時彦        からすびしやくよ天帝に耳澄まし               大畑善昭 茅の輪  ありあまる黒髪くぐる茅の輪かな               川崎展宏  空青き方へとくぐる茅の輪かな               能村研三 雷  昇降機しづかに雷の夜を昇る               西東三鬼    遠雷や舞踏会場馬車集ふ              三島由紀夫       【後記】 今回の連衆の投句には、意図せず時候の半夏生になってしまっていた句が多かったと恩田は講評しました。そのうえで特選句と入選句について、「半夏生(植物)」を素直に丁寧に描写することで、それを見つめる自分の心のあり様を読者に伝えることが出来ていると評しました。 筆者の個人的見解ですが、恩田の出す「兼題」には、初学者が句作に頭を悩ますものが必ずと言っていいほど一つ含まれています。筆者にとっては今回であれば「半夏生(植物)」であり、次回では「甘酒」がそれに当たりました。それらはこの半世紀ほどで急速に身の回りから消えつつある環境であったり生活文化であったりするものです。筆者は東京近県の郊外に住んでいますが、こうした自然環境や文化的蓄積の残る静岡に羨望を禁じ得ません。 今回、連衆の投句から筆者が学んだのは、自分の感情や意識を殊更書こうとしなくても、対象をしっかりと描写することで読む者の共感を呼び起こすことができるということです。筆者の場合、「われ」と「季物」のうち「われ」が前に出過ぎているため、感覚的に描写しやすい「半夏生(時候)」の句になってしまっていたようです。 以前の樸俳句会で、芭蕉の言葉についてテキストを用いて恩田が解説するシリーズがありました。 「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」 「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」(いずれも「三冊子」) 初学者にとって、兼題に真正面から取り組むことが俳句の面白さを知る王道なのだと痛感した句会でした。筆者はずっとリモート投句が続いていますが、実際に句会に出られればさらに多くの薫陶と刺激を恩田と連衆から得られるのにと思う日々です。                 (島田 淳) 今回は、特選3句、入選4句、△7句、ゝ11句、・7句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   ============================  7月28日 樸俳句会 入選句を紹介します。     ○入選  向日葵や強情は隔世遺伝               海野二美   【恩田侑布子評】 向日葵のように明るく美しく、すっくりとお日様に向かって立っている作者。でも強情っぱりなの。この一本気は大好きだったおじいちゃん(あるいはおばあちゃん)譲りよ。へなへななんかしないわ。「隔世遺伝」という難しい四字熟語が盤石の安定感で結句に座っています。十七音詩があざやかな自画像になった勁さ。     【原】ドロシーの銀の靴音聞く夏野               山田とも恵 【恩田侑布子評】 「夏野」の兼題から「オズの魔法使い」を思った作者の想像力に感服します! 主人公の少女ドロシーは、カンザスから竜巻で愛犬のトトと飛ばされます。私も幼少時、大好きな童話でした。ブリキのきこりに藁の案山子、臆病なライオンとのちょっと知恵不足のあたたかい善意の支え合い。エメラルドの都へのあこがれと、故郷カンザスへの郷愁。それら一切合財を「銀の靴」に象徴させた作者の詩魂は非凡です。ただし、表現上は「靴音聞く」が惜しい。「靴音」といった時点で、俳句に音は聞こえています。 【改】ドロシーの銀の靴音大夏野 または 【改】ドロシーの銀の靴ゆく夏野かな など、「聞く」を消した案はいろいろと考えられましょう。       【原】いつからか夏野となりし田は静か               望月克郎   【恩田侑布子評】 地方都市の郊外のあちこちでみられる憂うべき光景です。無駄のない措辞に、本質だけを剔抉してくる素直な眼力が窺えます。それをいっそう際立たせるには、 【改】いつからか夏野となりし田しづか 字足らずが効果を上げることもあります。  

6月6日 句会報告

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2021年6月6日 樸句会報【第105号】   今朝は梅雨が戻ったような空模様。 でも句会が始まるころには小降りとなる。 そんな中うれしいことに、御二人の見学者がおみえになる。五月にお仲間になった御二人と、樸に新しい風を吹き込んでくれそう。 本日は新人の方が多いので、副教材はお休みし、投句の選評、それも高得点からではなく、無点句から始まりました。 兼題は「雪の下」「蝸牛(でで虫)」「青嵐」です。 入選1句、原石賞1句、△4句を紹介します。   ○入選  おんぶ紐要らなさうだね雪の下               田村千春 【恩田侑布子評】 「雪の下」の兼題からおんぶ紐を発想した詩的飛躍が非凡です。梅雨時の雪の下という植物の、日影っぽい静かさ。我が家の背戸にも竹山との境の低い石垣に雪の下が生えています。春先は天ぷらにしておいしい繊毛の密生した葉は、梅雨時になると赤紫の茎を伸ばし、鴨の足のようなちぐはぐな細い白い花びらを傾きがちに咲かせます。おんぶ紐は赤ん坊には必需品だが、使う時期は短いもの。捨てるに惜しく、そうかといって取っておいても使い道はありません。わずか一年ほどの母子密着の乳児期のやるせなさと懐かしさ、そして瞬く間に大きくなってゆく幼年時代との別れがしみじみとした抒情を醸します。目の前の子や孫を育てる日常生活を超えて、人の世に昔から繰り返されてきた子育てという懐かしくもはかないいとなみの感触が存分に描かれています。山の端に滲む薄墨がかった梅雨夕焼を見るような、不思議な味があります。 ただ、口語の面白さの半面、「だね」は雪の下の仄かさを打ち消さないでしょうか。 「おんぶ紐もう要らなさう雪の下」なら◎特選と考えてそう言うと、作者がまさにこの通りの句を考えて、その後「だね」に推敲してしまったとおっしゃいました。     【原】擂粉木に胡麻うめきたる暑さかな                 古田秀 【恩田侑布子評】 日常の中から詩をみつけた良さ。ごまをするときの実感があります。ただ「うめきたる」は「呻きたる」で、声が聞こえて、しつこすぎませんか。即物的に、たくさんあるという意味の「擂粉木に胡麻うごめける暑さかな」なら◯です。 【改】擂粉木に胡麻うごめける暑さかな 【合評】 感覚的な句。暑さを伝えるのに「胡麻のうめき」ととらえたのがなかなかいい。     △ 繰り返し傷舐める犬夏の闇                 萩倉 誠 【恩田侑布子評】 犬は傷を舐めてなおす。静かだと思ったらまた舐めている。犬にしかわからない傷の痛みがあるのだろう。内容はいい。弱点は、犬小屋なのか、座敷犬が電気を消した部屋の隅で舐めているのか、場所が特定できず、映像が浮かびにくいのが惜しい。 【合評】 読んだ瞬間、怖いと思った。野良犬が路地裏で傷を舐めている。そこを作者が通りかかった。 飼犬が釘かなにかでけがをし、それを舐めている。     △ でで虫や己が身幅に道を食み                 島田 淳 【恩田侑布子評】 「身幅に道をはむ」に素晴らしい詩の発見があります。頭の作ではなく、現場にいて蝸牛と会っている人の作品です。さらに調べをととのえて、 「かたつむり身幅に道を食みゆくも」 なら◯です。 【合評】 「身の丈にあった」はよくきくが、「身の幅に食んでいく」といっているのがおもしろい。     △ 月食のかげにさざめく雪の下                 前島裕子 【恩田侑布子評】 感性のすばらしい作品です。リズムを考慮し、 「ささめける月蝕のかげ雪の下」なら、さらに◯入選です。 【合評】 月蝕(5月26日)はみていた。雪の下は知らなかったが調べてみて、葉の緑が「さざめく」と合っているよう。     △ 坪庭の暮れて仄かに雪の下                 海野二美 【恩田侑布子評】 正攻法の「雪の下」の句。映像がはっきりと浮かぶ。陰翳ゆたかな品の良い坪庭が眼前する。「仄かに」はいかにも雪の下らしい。   本日の兼題の「青嵐」「かたつむり」「雪の下」の例句が恩田によって板書されました。 雪の下  歳月やはびこるものに鴨足草               安住敦    低く咲く雪の下にも風ある日               星野椿 蝸牛  かたつむり甲斐も信濃も雨のなか               飯田龍太    かたつむりつるめば肉の食ひ入るや               永田耕衣  かたつぶり角ふりわけよ須磨明石               芭蕉    でゞむしにをり/\松の雫かな               久保田万太郎 青嵐  猫ありく八ツ手の下も青あらし               前田普羅    面・籠手の中に少年青嵐                中尾寿美子   選句に入るまえに恩田より、特に初心者の方へ選句の仕方について次のようなコメントがありました。 ・俳句は水準で選ぶのが大事 ・好ききらいで選ばないこと ・そうした選句を重ねてゆくと句作も良くなってゆく つぎに、選評。いつもと違い無点句からで、 ・どこを直せばよくなるか ・どうすればいい句になるか ・本題季語で詠んだほうが句が広がる ・擬人化は詩的飛躍がないと卑俗になりがち ・奇をてらうよりは平凡の方がいい ・俳句という詩を詠む ・<平明で深い句>…高浜虚子のことば と、一句一句丁寧に指導いただきました。     【恩田より総論の感想として】 ・季語には本題がありますが、滅多に使われない珍しい傍題季語を使う句がこのごろよく目立ちます。絶対に悪いわけではありませんが、本題季語のほうが共感しやすく、連想もひろがるものです。 ・突飛なことばや思いつき、鬼面人を驚かす語を使ってカッコつけたくなるのは初心者の弊です。気をつけましょう。 ・上に関連しますが、田舎歌舞伎で大見得を切っているような、そこだけ悪目立ちするような力みかえったことばの使い方には気をつけましょう。     【後記】 本日は、新しい仲間も加わり、いつもに増して熱の入った句会でした。 無点句から始まった選評も一句一句、かみしめ聞き入りました。 そして本題季語で詠むことの大切さを知り改めて、季語と向きあってみようと思いました。 選句についても、「好みではなく俳句の水準で選ぶ」ことを肝に銘じたいと思いました。 コロナのワクチン接種が始まりました。 これで収束に向かい、みんながリアル句会に参加できますように。                       (前島裕子)                               今回は、入選1句、原石賞1句、△4句、ゝシルシ14句、・2句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   ============================    6月23日 樸俳句会 入選句を紹介します。 ○入選  鉄板の足場ひびけり梅雨夕焼               塩谷ひろの 【恩田侑布子評】 建設現場の鉄骨に渡した鉄板の足場でしょう。しかもこれは二階や三階ではなく、かなりの高層建築を思わせます。そこに梅雨夕焼を鉄板と同時に踏んでいるかの空中感覚と、黒ずんだ夕焼けが響き返してくる臨場感があります。油断すれば転落する厳しい建設現場の仕事です。緊張感と、まだ仕事の終わらない一抹の淋しさ、孤独感。都会のブルーワーカー同士、声を掛け合ういたわりも想像されます。視覚や聴覚にダイレクトに迫る訴求力が素晴らしい。労働俳句のソリッドさが梅雨夕焼に合っています。作者が初投句の塩谷ひろのさんと知って、びっくり仰天いたしました。     ○入選  照りかへす一円玉や夏燕               古田秀 【恩田侑布子評】 道路にきらっと白くひかるのは一円玉。誰も拾わない一円玉。夏つばめが急降下して地面すれすれに腹を擦り付けたかと思うや、あっという間に青空に吸い込まれる。その早さ、切れ味のよさ。なにもいわず、ただ一円玉と夏燕の詩が展開する空間の気持ちよさ。    

5月9日 句会報告

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2021年5月9日 樸句会報【第104号】   一部の地域で緊急事態宣言が発令され、行動に制約を受けたゴールデンウィークでしたが、その後の句会はリアルでの開催が叶いました。「換気をしてください」との放送に従い全開にした窓が、突風で次々に閉まってしまいます。それ以上に華々しい風が会を吹き抜け、特選三句という目の覚めるような結果となりました。 兼題は「薄暑」「菖蒲湯」「薫風」です。   ◎ 特選  めくるめく十七文字新樹光             前島裕子  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「新樹」をご覧ください。             ↑         クリックしてください ‎ ◎ 特選  腕白が薫風となる滑り台             前島裕子  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「薫風」をご覧ください。             ↑         クリックしてください ‎   ◎ 特選  ぷしゆるしゆるプルトップ開く街薄暑             萩倉 誠  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「薄暑」をご覧ください。             ↑         クリックしてください     侑布子余話   こんなことがありました。   原句  菖蒲湯や人の涙で泣けと父     一読、意味がつかめず点を入れませんでした。「人の涙で泣け」とは、「人を泣かせてから泣け」っていうの?まさか。作者が三夢さんとわかって、本当は「人の涙を自分の涙にしなさい」という、情の厚いお父さまの教えでは、と気づきました。 添削  菖蒲湯や人の涙を泣けと父     「で」を「を」に変えるだけで、菖蒲湯の香り高い俳句になることに驚かされました。わたしまで、三夢さんの亡き父上の芳しい薫陶を受けたような気がしたのです。       本日の兼題はいずれも五月の季語です。例句が恩田によって板書されました。 薄暑  三枚におろされている薄暑かな               橋閒石    岩群れてひたすら群れて薄暑かな             久保田万太郎  ジーンズに腰骨入るる薄暑かな              恩田侑布子 菖蒲湯  さうぶ湯やさうぶ寄りくる乳のあたり               白雄    幸さながら青年の尻菖蒲湯に              秋元不死男  たをやかに湯舟に待てり菖蒲の刃              恩田侑布子 薫風  其人の足跡ふめば風かをる               正岡子規    薫風やいと大いなる岩一つ             久保田万太郎  薫風の鰭ふれあひし他生かな              恩田侑布子    薫風は書を読み吾は漫歩せり              恩田侑布子    隣合ふとは薫風の中のこと              恩田侑布子 これらの瑞々しい季語をいかに生かすか、そのためには観念で句を作ってはいけない、感性を働かせるようにと、恩田より注意がありました。 季語の中には特に服飾などの用語で、例えば「セル」など、ふつうには既に通じないものもあります。行事に関しては元々の趣旨からかけ離れたり、すっかり廃れてしまったものも。今回の「菖蒲湯」にもジェンダー論的に揺れが生じているが、現在の状況をどの程度反映させるべきかと、連衆から質問が出ました。これに対し、長年人々が寄せてきた思いを尊び、「生木」ではない言葉を使うのが肝要であると恩田は強調し、例として次の句をあげました。  海蠃(ばい)の子の廓(くるわ)ともりてわかれけり            久保田万太郎      [後記] 晩秋に「海蠃廻(ばいまはし)」というバイ貝の独楽で遊ぶ風習が江戸時代から大正期まであり、べいごまとなって昭和期にも続いていました。恩田は、夕刻に帰宅を急ぐ少年達の影が「海蠃打」も「廓」も知らぬ読者の目に鮮やかに浮かぶのは、かつて多くの人々が馴染んできたものを題材としていることが大きいと述べました。 現代を詠みあげるのも俳句の使命ですが、数年後には捨て去られる運命の流行り言葉を安易に使うのは厳に慎まねば。薫り高い数々の作品に浸りながら、しみじみ思いました。 (田村千春) 今回は、◎特選3句、△1句、ゝシルシ12句、・4句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

3月7日 句会報告

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2021年3月7日 樸句会報【第102号】   2021年弥生の句会は、コロナの影響などにより今回もリモート句会となりました。 兼題は「目刺」「踏青」「春の月」です。 特選1句、入選2句を紹介します。   ◎ 特選  目刺焼くうからやからを遠ざかり              見原万智子  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(目刺)をご覧ください。             ↑         クリックしてください       ○入選  可惜夜の添寝をつつむ春の雨               萩倉 誠 【恩田侑布子評】   「添寝」からすぐ赤ん坊の添い寝を思いましたが、そうではないようです。 男女、しかも夫婦ではない恋人同士のようです。それでなければ「可惜夜の」措辞が生きてきません。久々に逢えた愛しい人のとなりで、ただしめやかな春の雨音につつまれてそのひとの眠りを見守っています。春雨とはちがう「春の雨」の微妙な情調が一句全体をひたしています。 【合評】 しっとり感。 詩情あふれる句。最初はなぜ「可惜夜や」としなかったのかと思いましたが、ここに切れを入れると上五の存在感が強くなりすぎ、季語の影が薄くなってしまうのかも知れません。そう考えると、掲句の方がより良い形だと思えました。       ○入選  春の月財布も軽き家路かな               島田 淳 【恩田侑布子評】   省略の効いた句です。さらに、ふつうは失敗しやすい「も」がこの句ではめざましく活きています。「財布も」の「も」に感心しきりです。「財布の」とした場合と比較してみると違いは歴然です。「も」の一字によって作者の足取りも心も軽いことが余白にうかがえます。ほろ酔いの一杯機嫌で家路につく軽やかな満足感。何より素晴らしいのは、おおらかな春の月にみあう恬淡な心境が垣間みえることです。 【合評】 分かりやすい句だが、思わず頬が緩む。長い冬が去り、やっと訪れた春の宵は何となく心が浮き立ち、思わず衝動買いに走る楽しさ。気が付けば散財により軽くなってしまった財布にも溢れる満足感。       学びの庭                      恩田侑布子  リズムは俳句のいのちです。なぜなら俳句は韻文だからです。事務文や日記や小説や評論などの散文は、意味の伝達をなによりも第一に考えます。いっぽう、韻文では、内容と調べは不即不離です。ことに、現代短歌が昭和後期から趨勢として口語散文化へ傾斜してゆき、いまや俳句が日本の韻文の最後の砦ともいうべき状況になりつつあります。わたしたち俳人は韻文としての俳句の固有性と可能性にこれからも果敢に挑戦しつづけて参りましょう。  『去来抄』の名言のひとつに「句においては身上を出づべからず」があります。頭だけの句、想像だけの句、教養にものをいわせた句ほど弱いものはありません。自然、社会、人間という現場のただなかで全人的な俳句を志していきたいものです。       [後記]  個人的な感覚ですが、どこかへ出かけて吟行したとき、その場で句を詠むよりも数日経過してそのときのことを思い出しながらの方が、俳句としての言葉が出てくるような気がします。目の前のものを俳句という型に当てはめてどう詠むかという技術論・形式論ではなく、自分の心に何が引っかかり、本当は何を詠みたいのか、いわば感動の芯のようなものを見つめ返す契機になるからかもしれません。恩田代表の「学びの庭」にもあるように、「自然、社会、人間という現場のただなか」に立ち、本当に詠みたいものは何なのかを問うことから、感動やそれを伝える言葉が生じるのかもしれません。(古田秀) 今回は、◎特選1句、〇入選2句、△8句、ゝシルシ15句、・6句という結果でした (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)     

2月24日 句会報告

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2021年2月24日 樸句会報【第101号】 2021年如月の句会は、コロナウイルス第3波を考慮しリモート句会となりました。 兼題は当季雑詠、または「探梅」「寒肥」(前回、急遽休会となったぶん)です。 入選4句を紹介します。     ○入選  探梅や独り上手の万歩計               海野二美 【恩田侑布子評】 ひとり歩きは探梅にこそふさわしい。冬の梅はおもいがけない山かげに真っ白な空間をつくり清香をただよわせています。そのつつしみ深さは独歩のひとの胸にかようもので、複数でおしゃべりしていたら雲散します。この句のよさは、「探梅や」と上五で冬の梅の空間を響かせ、ひとり歩きの人の万歩計に焦点がさだまることです。万歩計にカウントされる歩数を頼りとし、楽しみともして健康を気遣いながらそぞろ歩きする年配者の思いに、冬の梅を探る空気が感じられます。孤独が社会問題の現代にあって、「独り上手」という措辞も気が利いています。          ○入選  風上は南アルプス寒肥す               村松なつを 【恩田侑布子評】 大井川のほとりに山荘をもつ作者は、茶畑や菜園に寒肥をほどこしています。川風もさることながら、吹き下ろす北風はなにより南アルプスの神々の座からやってきます。雪の降らない静岡県中部は冬青空が美しいところです。「南アルプス」の措辞によって、青天の高さはるけさと足元の寒肥との対比が、いちやく勇壮の気を帯びました。 【合評】 大景と手元の作業の対比があざやか。 気持ちのいい句です。吹き来る風は南アルプスから。広い空、遠い山脈を背景にして寒肥作業に精を出す人の姿が見えてきます。 黒い地を耕す小さな人間が白いアルプスを背にした広大な景。       ○入選  探梅や杖に拾ひし棒を振り               村松なつを 【恩田侑布子評】 山坂がちの探梅行です。もっと足元が悪くなると困るから、予備にこの棒でも拾っておこうか。そう思って杖にしたはずの細い木の棒でしたが、気がつけばいつのまにか調子良く振り回して歩いていました。一人の気楽でしずかな梅を探る時間が活写されています。どちらかというと〈風上は南アルプス寒肥す〉の優等生的俳句より、こちらの野趣あふれる無欲な俳句に惹かれます。また、こうしたところにこそ、作者の本来の個性が今後ますますひかり出るのではないかと期待しております。         ○入選  紅梅や晶子の歌碑は海へ向き               山本正幸 【恩田侑布子評】 同じ梅でも白梅とはちがって、紅梅は春浅い空にくっきりと濃厚な輪郭をきざみます。そのあでやかさはまさに近代短歌の女王、与謝野晶子のもの。しかも、大海原にむかう歌碑は晶子という歌人の肺腑の大きさを象徴するようです。「清水へ祗園をよぎる花月夜こよひ逢ふ人みな美くしき」の『乱れ髪』から、晩年の「初めより命と云へる悩ましきものをもたざる霧の消え行く」の『白桜集』まで、旺盛な作歌と評論活動を展開した表現者は終生自己更新をしつづけました。清見寺にある歌碑「龍臥して法の教へを聞くほどに梅花の開く身となりにけり」に触発されたという掲句は、K音の点綴も歯切れよく、高らかな晶子賛歌、紅梅賛歌になっています。 【合評】 輝く才能と、意志を貫く強さの持ち主である与謝野晶子には、狭くて暗い場所は似合わない。今も、広々した美しい世界へ眸を向けている気がします。まだ寒い春先に紅色をほこる梅を思わせるような、凛とした香気を放ちながら。       学びの庭  表現の苦しみとよろこび                     恩田侑布子 今回はリモート句会が続いたせいか、表面的にいいすぎてしまっている句が目立ちました。すべて言ってしまうと大事な詩の余白がうまれません。日常生活はりくつと因果関係からなり立っています。俳句という詩は日常や事実をふまえつつも、そこから自由にはばたいてふたたび着地する文芸です。日常べったりでも、絵空ごとでもない「虚実皮膜(ひにく)」を目指しましょう。 芭蕉の名言、「心の作はよし。詞(ことば)の作は好むべからず」はどんな場合にも肝要です。ことばの上の作意をよしとすれば、器用さでいくらでも七、八〇点の句をならべられるようになるでしょう。となると、将来の俳句宗匠の座はAIが占めることになりかねません。 ソツのないよく出来た句より、破綻をおそれず切実な足元から破行句を!と申し上げて次回を期します。俳句を表現する苦しみこそ、よろこびであり楽しみだと、だんだん思うようになってきます。これは何ものにもおかされないこころの財産になります。         [後記] 今回もリモート句会の後、恩田先生より全句講評と「学びの庭」を送付して頂きました。 連衆の句それぞれに、全人格を持って向き合った先生の講評を読むことは、筆者にとってかけがえのない時間となっています。 講評に散りばめられた箴言を反芻しながら、次回の句会に向けて句作していくことは、独りでは決して設定することの出来ないハードルを、先生や連衆の力を借りて、一つ一つ越えていくような充実感があります。 そして今日もまた、句作をしながら「表現の苦しみとよろこび(恩田)」について思いをめぐらせています。                        (芹沢雄太郎) 今回は、〇入選4句、△5句、ゝシルシ8句、・4句という結果でした (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)    

1月10日 句会報告

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2021年1月10日 樸句会報【第100号】        樸代表 恩田侑布子 第100号記念祝詞    このたびの初句会が樸句会報の100号記念になるとのこと、慶賀に存じます。これも連衆のみなさまの熱意のたまものです。心から感謝しおん礼申し上げます。  樸は一人ひとりが真剣に、「リアル・オンライン融合句会」の全俳句を選句し、口角泡を飛ばして合評し、笑い合う楽しい句会です。そこにぱらぱら振られる恩田のカプサイシンが心地よい緊張感をもたらすことを庶幾しております。もちろんコロナ禍とあって、だだっぴろい部屋には三方向から風が吹き込み、美男美女があたらマスクをしております。が、そこからはみだす頬のかがやかきは隠しようもございません。三時間余の句会を、「生きがいです」とも「ボケ防止です」とも言ってくださる連衆のイキイキした俳句に私自身が毎回励まされております。三役と編集委員のみなさまのたゆまぬご支援にもつねづね頭が下がります。  そうと教えられるまで夢にも知らなかった第100号記念、本当にありがとうございます。これからも一人ひとりの目標に向かって、互いに温かく見守りあい切磋琢磨して、一句でもいい俳句をつくってまいりましょう。       2021年の初句会は、新型コロナウイルス感染再拡大の影響もありネット句会となりましたが、新年に相応しい力作が寄せられました。 兼題は「初雀(初鴉、初鶏)」「去年今年」です。 特選1句、入選1句、原石賞6句を紹介します。 ◎ 特選  ししむらを水の貫く淑気かな              古田秀  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(淑気)をご覧ください。             ↑         クリックしてください       ○入選  初鴉燦々とくろ零しゆく               田村千春 【恩田侑布子評】   元日の淑気のなかをゆく鴉の濡れ羽色がきわやかです。黒い色はひかりを吸いますからふつうは「燦々と」は感じられません。ところがこの句では、「燦々と」にたしかな手応えがあります。「初鴉」を句頭に置き、「くろ」をひらがなにしたことでしなやかな羽根の動きが眼前し、「零しゆく」で、青空に散る水滴が墨痕淋漓としたたるのです。みどりの黒髪ならぬぬばたまの羽の躍動は斬新です。一句一章の句姿も新年のはりつめた空気さながら。       【原】終電ののちの風の音去年今年                猪狩みき   【恩田侑布子評】    終電の通り過ぎたあとの風に去年今年を感じるとは、まさにコロナ・パンデミックに襲われた昨年をふりかえる二〇二一年ならではの新年詠です。ただ「カゼノネ」という訓みかたはクルしくないですか。   【改】終電ののちの風音去年今年   あるいは都会の無機質な風の質感に迫って   【改】終電ののちのビル風去年今年     などにされると、コロナ禍に吹きすさぶ深夜の風がいっそうリアルに感じられるでしょう。   【合評】 終電を降り人がほとんどいないホームに立つと、私はまず「こんなこといつまで続けるんだろう」と思い、次に「今日はやり切った。そして続けるしかない」と気持ちを切り替え、さらに移動し始めます。気持ちの境目と去年・今年の境目という二重構造になっている点が優れていると思います。 終電を降りて深夜の家路を急いでいます。すでに年は改まりました。自分ではよく働き、よく生きてきたと思う…。耳元で風が囁きます。「あゝ、おまへはなにをして来たのだと…」(by中也)。作者の心情がよく伝わってくる句だと思いました。 コロナ禍で深夜の初詣も自粛。終電も早くなったことのむなしさと淋しさが後の風に良く響く。さりげない一句に、例年にない年明けの哀感が滲み出ている。       【原】胸に棲む獅子揺り起こす去年今年                金森三夢  【恩田侑布子評】   力強い新年の詠草です。ただ終止形の「す」だと一回きりの感じがしてもったいないです。「去年今年」の季語ですから、いくたびも揺りおこしつつという句にしたいです。そこで、   【改】胸に棲む獅子揺り起こし去年今年 一字の違いで秀句になります。   【合評】 作者の内にある獅子を起こす。今年の意気込みを感じる。       【原】今年こそ麒麟出でよと富士映ゆる                金森三夢  【恩田侑布子評】   ご存知のように中国の古典では麒麟は聖人がこの世に現れると出現するといわれ、才知の非常にすぐれた子どものことを麒麟児といいます。郷土の誇り富士山に、気宇壮大な幻想を力強くかぶせたところがすばらしい。惜しいのは最後の「映ゆる」。「麒麟出でよ」と富士山が身を乗り出しているようで俗に流れます。ここは作者自身の肚にどーんと引き受けたいところ。     【改】今年こそ麒麟出でよと富士仰ぐ 格調のある特選句◎になります。座五は大事。俳句の死命を制します。       【原】干涸びし甲虫の落つ煤払い                島田 淳  【恩田侑布子評】   「煤払い」のさなかに貴重な体験をしました。いえ、俳句の眼がはたらいていたからこそ、この瞬間を見逃さなかったのでしょう。「夏のカナブンがその姿を止めていた」と作者はコメントしています。その感動にたいして「落つ」はもったいない。正直なたんなる報告句になってしまいます。   【改】干凅びし甲虫と会ふ煤はらひ 詩的ドラマが生まれます。       【原】初雀しばし「じいじ」に浸りおり                萩倉 誠  まだ幼い孫におじいちゃんおじいちゃんと慕われ、まといつかれる作者。「初雀」と「じいじ」の取り合わせがなかなかです。そのぶん「浸りをり」でいわゆる「孫俳句」に転落しかかったのが惜しいです。 「孫が逗留中。「じいじ」「じいじ」の大洪水。溺死しそうな毎日が続く」の作者コメントを生かし、こんな案を考えてみました。   【改】初雀「じいじ」コールに溺死せり   浸るのではなく溺死。俳味を得ればもう「孫俳句」とはいわせません。       【原】レジとづれば大息つきぬ去年今年                益田隆久  【恩田侑布子評】   コロナ禍の日本で、いえ世界中の小売店でどれほどこのような光景が日々繰り返された去年今年であったことでしょう。「大息つきぬ」に理屈抜きの実感があります。ただ「レジとづれば」の字余りの已然形はいかがでしょうか。「…するときはいつも」は現実に忠実かもしれませんが俳句表現としては弛みます。ここはレジを閉じる一瞬に焦点を当て定形で調べを引き締めたいです。   【改】レジ閉ぢて大息つきぬ去年今年 これならすぐれた時代詠の入選句◯になります。   【合評】 年中無休が当たり前のようになった現代の小売業。サントムーンもららぽーとも大晦日元日関係ないかのように営業していました。掲句はずっと小規模な商店かもしれませんが、大晦日も営業していたのでしょう。「大息」に実感があり、レジを閉じる音とともに年が変わってしまったような錯覚が生きています。ああもう今年は「去年」に、来年は「今年」になってしまった…  [後記] 新年詠に際して連衆のそれぞれの思いを一部抜粋してみました。 昨年の初句会で恩田代表から、新年の季題は明るく、めでたしが良しと伺った。それを基に作句・選句しました。 「去年今年」が平べったく「去年と今年」「去年から今年」となってしまいとても難しい季語だと思いました。新年の明るさや喜びの句が少なかったのはやはりコロナ禍のせいでしょうか。 たった一語の違いで、つまらない句が活き活きと動き出すおもしろさ。日本語の素晴らしさ。 年始の慶びを実感できない、表現しづらい社会状況だった。きっといまの時代にしか作れない俳句があると思うので、喧騒ややるせなさを逆手にとって、したたかに頑張っていきましょう。 俳句という器のサイズと、季の中に私自身を往還させることの大切さを改めて認識出来ました。季語ともっと親しくなるために、机の上で作句するだけでなく、自然環境に身を置く事を大切にする一年としたい。 緊急事態宣言が再発令され、なかなかコロナ収束が見通せない年初です。 句座をフルメンバーで囲める日の来ることを心より願います。思う存分口角泡を飛ばしたい筆者です。    (山本正幸) 今回は、◎特選1句、○入選1句、原石賞6句、△4句、ゝシルシ9句、・5句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   ===================== 1月27日 樸俳句会 特選句と入選句を紹介します。   ◎ 特選  レコードのざらつき微か霜の夜              萩倉 誠  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(霜夜)をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ○入選  風花舞へり六尺の額紙               萩倉 誠 【恩田侑布子評】   「額紙」は「葬式のときに棺を担いだり位牌を持ったりする血縁者が額につける三角形の紙」と、辞書にあります。私の経験したお葬式にはそうした風習はなく、初めて知った言葉です。知ってみるとなかなか迫力のある光景です。 六尺の大男の額に三角の白紙がひらひらして、そこに風花が舞うとは、きっと喪主なのでしょう。悲しみに寡黙に耐えて白木の仮位牌を胸に抱き出棺の儀式に歩むその瞬間でしょう。句またがりのリズムが効果的。 作者がわかってお聞きすると、御殿場市の田舎では1950年代まで土葬だったそうです。棺を担ぐ男たちを「六尺」といって、みな白い三角の額紙をつけて土葬の野辺まで歩いたそうです。帰りには浜降りといって、黄瀬川や千本松原で仮位牌に石をぶつけて流したそうです。日本の古い送葬の儀式の最後の証言ともいうべき大変貴重な俳句です。      

12月6日 句会報告

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令和2年12月6日 樸句会報【第99号】 師走一回目の句会。マスクを着けている鬱憤を晴らすかのように、侃侃諤諤の議論が繰り広げられました。 兼題は「木の葉」「紅葉散る」です。 入選2句を紹介します。 ○入選  「おもかげ」は羊羹の銘漱石忌               前島裕子 【恩田侑布子評】   十二月九日が漱石の命日です。漱石は甘党で「草枕」にもみどり色の羊羹が出て来ます。「おもかげ」の銘といえば虎屋の黒砂糖羊羹です。その黒い表面に漱石が小説で造形したさまざまな人物の面影が映ると見たのでしょう。いろんな人間のおもかげを追い求め、自己を投影した書斎のひと漱石にふさわしい忌日の句です。ふと、「俳句」十二月号の拙文「不可能の恋、その成就」の想い人を「おもかげ」とした唱和かしら、とも思いましたが、たんなるうぬぼれであったようです。 【合評】 漱石は甘いものに目がなかったようで、奥さんが隠すんですよ。そのエピソードと「漱石忌」が響きます。 季語の斡旋が効いている。 下手をすると安っぽくなる句だが、漱石の背景をかぶせて読むととてもいい。「おもかげ」がぴったり。 菓子の名前に頼ってしまうのはいかがなものか。 「おもかげ」の名が作者の琴線に触れたのではないか。一連の心の動きを想像すると味わい深い。       ○入選  灯されてひとりの湯船冬紅葉               古田秀 【恩田侑布子評】   「灯されて」に旅館の露天湯を思います。鬱蒼とした裏山が迫るひとけのない温泉。真っ暗な闇に冬紅葉の黒ずんだ紅が白っぽい灯を浴び、孤独感が迫ります。調べも落ち着いた大人の句の作者が三〇になったばかりの古田秀さんの作品とは驚きました。 【合評】 自分の家ではなく、温泉宿の檜風呂でしょうか。屋内にいる作者から外の冬紅葉が見えて心がほぐれていく。 「灯されて」という受動態がいいですね。一人ということが際立ちます。心象と実際に見えているものが一致している。 寂寥感がある。 強羅温泉に行ったときちょうどこのような感じでした。        「枯葉」「紅葉散る」の例句が恩田によって板書されました。   一ひらの枯葉に雪のくぼみをり              高野素十  枯葉のため小鳥のために石の椅子              西東三鬼  こやし積む夕山畠や散る紅葉              一茶   散るのみの紅葉となりぬ嵐山              日野草城     注目の句集として、宮坂静生 第十三句集 『草魂』(20200901角川書店刊)から恩田が抽出した十二句を読みました。 連衆の共感をあつめたのは次の句です。  冬林檎窓へ子どもの張りつきて    あたたかや半人半(はん)蛙(あ)土器の貌    中村(カカ)の(・)を(ム)じさん(ラド)わつさわつさと大根葉    草を擂りつぶし草魂沖縄忌    わが縄文月下にあそぶ貫頭衣       [後記] コロナに明け、コロナに暮れていく2020年。この疫病は俳句という詩の世界にどんな影響を及ぼすのでしょうか。虚子は「俳句はこの戦争(第二次大戦)に何の影響も受けなかった」と言い放ったそうですが、これはアイロニーではないでしょうか。我らみな「時代の子」たることを免れることはできません。「何の影響も受けな」ければ、それはもはや「詩」ではあり得ないと筆者は思います。 本年、WEBでの投句システムを併用しながら樸俳句会が継続できたのは連衆の熱心な取り組みのおかげです。今年の成果をアンソロジーとしてHPに掲載しました。 「2020・樸・珠玉集」はこちらです                     (山本正幸)   今回は、○入選2句、△2句、ゝシルシ9句、・6句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)