7月1回目の句会。本日は七夕。静岡市清水区の七夕祭も今年で65回目になります。 兼題は「バナナ」と「虹」。特選2句、入選2句、原石賞2句、シルシ9句という結果でした。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎虹の橋袂めざして走れ走れ 久保田利昭 ◎アリランの国まで架けよ虹の橋 杉山雅子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇置き去りのバナナ昭和の色となる 萩倉 誠 合評では、 「こういう発想は今までなかったのではないか。 “置き去り”が分かりにくいかもしれないが」 「古びていく昭和への哀感がある。高度成長した昭和の時代が去っていく寂しさ」 「バナナは昭和の象徴だろう。琥珀色の中に死んでいく昭和」 「“置き去り”のバナナと“昭和”の取り合わせに無理矢理感があるが、発想は面白い」 「“となる”が不自然」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「“意味”に還元していないところが良い。昭和の時代へのノスタルジア、ペーソスを感じ、説明できないニュアンスがある。それは良い句の条件でもある。季語が効いており、面白い感性だ。哀惜の情はあっても、昭和の時代への政治的な批判精神はない。哀惜の情を詠うとき批評は邪魔になる。昭和史の中に眠ろうとするあまたのエピソード。その人固有の体験を呼び覚まそうとしている」 と講評しました。 〇虹立つやミケランジェロの指の先 塚本敏正 「リズムがすがすがしい。気持ちのいい句」 「私は “ピエタ”が好き。ミケランジェロの指から虹が立っている。本物の虹との二重イメージの句」 「ミケランジェロその人の指ではなく、真っ白な大理石の彫刻の指。例えば、巨人ゴリアテへ投げる石を持ったダビデの手を想像させる。虹は希望の象徴」 「“ダビデの像の”と作品を特定すれば、特選でいただいたのに」 との感想、意見。 恩田は、 「そのままミケランジェロの指と読むべきだ。固有名詞が効いている。例えば“草間彌生の”とすると“虹”と相殺してしまう。ミケランジェロだからこそルネッサンスの時代精神を体現し、芸術賛歌になっているし人間賛歌にもなっている。ミケランジェロの作品名を載せるとそこに収斂してしまう。ここにはエコーのような多層構造がある」 と講評しました。 【原】スコール過ぎバナナの下に水平線 佐藤宣雄 恩田は、 「迫力のある句。景色に重量感と立体感があるが、上五を変えたい」 と講評し、次のように添削しました。 天霽(は)るるバナナの下に水平線 【原】バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日々 西垣 譲 合評では、 「まもなく命が尽きるとき、最後に“これを食べたい”という欲望が出てくる。昔バナナは風邪をひかないと食べられなかった。戦争体験が背景にある」 「五七五に収まりきらず、内容は短歌的のように感じた。“切れ”はないが、一気に読み共感した」 「“喰ひ”のほうが良いのでは?」 などの感想と意見が出ました。 恩田は、 「生きるという実感のある句。“喰ひて”の字余りは問題ない。“喰ひ”だと“死なむ”に繋がっていかない。むしろ“日々”を変えたい。このままだと長いある一定の期間となり、理屈に解消し思い出話になってしまう。“あの時”という切実感を出したい」 と講評し、次のように添削しました。 バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日 [後記] 恩田侑布子の句集『夢洗ひ』が、平成29年度の現代俳句協会賞(第72回)を受賞しました。芸術選奨文部科学大臣賞とのダブル受賞です。 句会冒頭、樸俳句会一同でお祝いを申し上げ、大きな拍手を送りました。連衆にとって励みになることです。 今回の兼題の「バナナ」について話が盛り上がりました。句会参加者の年齢層にあっては、当時のバナナは高級品。一日3本以上食べることもあるという人もいて、健康談義にまで広がりました。皆さんそれぞれ思い入れがあって句作に取り組んだようです。 次回兼題は、「空梅雨」と「トマト」です。 (山本正幸) 特選 虹の橋袂めざして走れ走れ 久保田利昭 虹の脚や虹の根はよく俳句にされるが、「虹の橋の袂」は盲点かもしれない。しかも座五に「走れ走れ」と命令形を畳み掛けたところがユニーク。一読して、あまりにも楽天的な向日性を思う。が、一句の異様な無音に気付くや、世界は一転、不気味な悪夢のように思えてくる。走った末に行き着くところは虹の橋ではなく、袂にすぎない。しかも掴むことも登ることもできない幻かもしれない。それなのにひたむきに走る。もしかしたらこれは、底無しの虚無ではないか。楽天と虚無がメビウスの環のような階段になったエッシャーのだまし絵のような俳句。 (選句・鑑賞 恩田侑布子) 特選 アリランの国まで架けよ虹の橋 杉山雅子 「アリランの国」という措辞がよく出たと感心した。何か他の国を象徴するもので代用できないか考えてみたが「サントゥールの国」では甘くなるし、「ウォッカの国」では虹が生きない。アリランは動かない。日本は韓国侵略の歴史をもち、近年は一部の人によるヘイトスピーチもある。また民族分断という悲劇の歴史も継続している。作者は隣国の庶民に深い共感を寄せ、幸せを祈る。それは自身が少女時代に戦争を体験したことも大きいだろう。アリランという哀調の民謡を唄う庶民に人間として共感を惜しまず、この虹を隣国まで架けようという心根は美しい。視覚的にもチマの鮮やかな遠い幻像に、大空の虹が濃淡をなして映発し合う。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
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6月16日 句会報告と特選句
6月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「麦秋」「鮎」。 夏の季語なのに「麦の“秋”」これ如何に!?日本語の季節をあらわす言葉は実に面白いですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎日表に阿弥陀を拝す麦の秋 荒巻信子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇麦の秋ことさら夜は香りけり 西垣 譲 「見た目でなく香りに着眼した所が良い」 「湿気ているような香りで季節感を表現している」 というような感想がでました。 恩田侑布子は 「麦秋は一年で一番美しい季節だと思っている。その夜の美しさがサラッと描けている一物仕立ての句」 と講評しました。 〇カーブを左突き当たる店囮鮎 藤田まゆみ 「なんとも不思議な句。理屈はいらない。囮鮎のお店へ向かうワクワク感が詠み込まれている」 という意見が出ました。 恩田侑布子は 「見たことのない個性的な句。運転手と助手席の人との会話の口語俳句。可笑しさがあるだけでなく、“カーブ”という言葉から川の流れに沿って蛇行した道を車が走っていることが分かる。沿道には緑の茂みがあり、季節感まで詠みこまれている」 と講評しました。 〇巨大なる仏陀の如し朴の花 塚本敏正 恩田侑布子は 「“巨大なる仏陀”と先に言うことで、作者の驚きが出ている。山を歩いているとき、谷を覗くと朴の花がその谷の王者のように咲き誇っているところに出会う。その姿を想像すると“巨大なる仏陀”は決してこけおどしでなく、朴の花の本意に届き、その気高さを捉えている。直喩はこれくらい大胆なほうが良い。誰もが思いつくようなものはだめ。直喩には発想の飛躍が必要」 と講評し、直喩を使った名句を紹介しました。 死を遠き祭のごとく蝉しぐれ 正木ゆう子 やませ来るいたちのやうにしなやかに 佐藤鬼房 雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし 飯田龍太 〇駄犬どち鼻こすり合ふ春の土手 西垣 譲 「やさしい句。“駄犬”と“春の土手”が合っている。あまり美しくない犬でしょ」 という感想がでました。 恩田侑布子からは、 「散歩している人と犬同士が出くわし、はしゃぎあっている様子が分かる。“どち”の措辞がうまい。“駄犬らの”にするとダメ。作者も犬と同化していて、動物同士の温もりと春の土手の温もりが感じられる」 との講評がありました。 今回の句会では点がばらけたこともあり、たくさんの句を鑑賞しあうことができました。が、それゆえ終了時間間際はかなり駆け足になってしまいました。それぞれ思い入れのある句を持ち寄るものですから、致し方ないですね。作者から句の製作過程を直接伺えるのも句会の楽しみの一つです。 次回の兼題は「バナナ・虹」です。 (山田とも恵) 特選 日表に阿弥陀を拝す麦の秋 荒巻信子 日光のさす場所が日表。田舎の小さなお堂に安置された阿弥陀三尊像だろう。もしかしたら露座仏。磨崖仏かもしれない。阿弥陀様は西方浄土を向いておられるから、まさにはつなつの日は中天にあるのだろう。背後はよく熟れた刈り取り寸前の麦畑、さやさやとそよぐ風音も清らかである。阿弥陀様のまどやかなお顔、やさしく微笑む口元までも見えてくる。「拝す」という動詞一語が一句を引き締め、瞬間の感動を伝える。日表と麦秋という光に満ちた措辞が、この世の浄土を現出している。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
5月19日 句会報告と特選句
風薫る5月2回目の句会。兼題は「木蓮」と「夏近し」です。 特選1句、入選8句、シルシ7句。恩田侑布子の言によれば「今回は粒選りでしたね」。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎仏間にも母の面影大牡丹 塚本敏正 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇蝶や蝶おいてけぼりの地球人 山田とも恵 合評では、 「蝶は地球人を超越し、生命サイクルを繰り返している。蝶には平和も戦争もなく、また進歩も退歩もない」 「奇抜な表現の句。自然界の代表としての蝶から見たら人間は無様だ」 「“蝶や蝶”という呼びかけがいい。でも何から“おいてけぼり”なのだろう」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「蝶はのどかに飛びめぐり、人間だけが戦乱、差別、対立の中にいる。多義性があり、独特のリズム感があって面白い。特選にしようかと思ったが、やや意味が露わかな。芭蕉のいう、腸(はらわた)の厚き所より詠んでいるのかなと、ちょっと迷ったので」 と講評しました。 〇夏近き突堤の風職退けり 山本正幸 合評では、 「定年退職した人の気持ちをよく表している。これからの人生への期待と不安」 「退職しても前向きの気持ちを持っている。突堤の風はきつい。そこに立って、決意をこめている」 「三段切れではないか? 三つのうち何を言いたいのかはっきりしない」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「やや措辞がごちゃついている。“夏が近い”“突堤の風”“退職”の三つが等価で、言葉がそれぞれ強さを持ってしまっている」 と講評し、次のように添削しました。 はつなつの突堤の風職退けり 「季語を変えることによって、突堤の風に爽やかさが出ませんか?」 と問いかけました。 〇若冲の白い象来る夏近し 杉山雅子 「白い象は幻想だと思う。覆いかぶさるように、ふっくらした肉体の形が白象になってやって来る」 「静岡県立美術館にある若冲の絵の白象。それがこちらに向かってくる様子と季語が合っている」 などの感想が述べられました。 恩田は、 「ただの白象だと仏教を思わせる。若冲と限定したことによって屏風絵や画だとわかる。 “来る” と “近し” と意味的に近い動詞と形容詞の並びがやや気になるが、感性はとてもいい」 と講評しました。 〇紫木蓮塀巡りたり人の荘 杉山雅子 恩田の講評。 「“人”とは“想い人”でしょう。山里の森閑とした山荘の塀を巡っている。玄関の戸を叩いたのか、鍵がかかっていてそのまま帰ったのか想像させる。「人の荘」という格調のある措辞によって塀の長さが出、自分とその人の間の距離を感じさせる。逡巡の気持ちと心理の陰影が、紫木蓮にこもった」 〇短髪になりし少女や夏近し 松井誠司 「読めばそのとおりである。恋も愛もないけれど」 「“短髪”と“夏近し”が近いような気がする」 などの感想。 恩田の講評。 「うなじの抜き出た少女のユニセックスの感じに、さっぱりした夏の到来の間近さが表現された」 〇主なきも咲きめぐりてや紫木蓮 久保田利昭 「まさに私の父が住んでいた家の様子そのもの。毎年紫木蓮が咲いていました」 との感想。 恩田は、 「短歌的だが、調べが美しい。「咲きめぐりてや」に、かつての主が知り得ない幾年ものめぐりが感じられる。上五のゆったりした字余りが内容に合っていて、紫木蓮が目に浮かぶよう」と講評しました。 〇日溜りに猫の影なし夏隣 久保田利昭 恩田の講評。 「“不在”を句にした独特の面白い捉え方。猫のいない空白感によって、夏の近さを知った。 “夏隣”がいい。日常の気付きが自然な一句になった例」 〇気まぐれにドーナツ揚げて夏近し 森田 薫 「夏が近づくというワクワク感がある」 との感想。 恩田の講評。 「“気まぐれに”の措辞は一読粗いようだが、この句の感覚に合っている。普段からまめに料理を楽しむ女性の弾むような五月の到来」 ゝ 紫木蓮歳とらぬ子の一人いて 伊藤重之 本日の最高点の中の一句であり、話題になった句。 「“歳とらぬ子”とは夭逝されたお子さんなのか、結婚せずにまだ一人でいる子か。親の気持ちが感じられる。子どもの頃から変わらない可愛さ。 愛情の深さとせつなさが紫木蓮に表れている」 との解釈に対して、恩田は、 「分裂した解釈なので、どちらかにすべきです。両方を共に味わうことはできない」 と指摘しました。 「不思議な句。年齢はいっているが、精神的に歳をとらない子どものことでしょうか?それに対比される紫木蓮は大人びた感じを持つ」 「嫁き遅れた子のことか。心配だけれど手放したくないという気持ちでは」 「もっと深刻。精神的に病んで大人になったのではないか?」 「“紫木蓮”だからきっと大人のことなのでしょう」 など議論が沸きました。 恩田は、 「季語が動く。素直に読めば夭逝した子と考えるが、そうすると紫木蓮は合わない」 と講評し、次のように添削しました。 はくれんや歳とらぬ子の一人ゐて 「“はくれん”とすることによって無垢、あどけなさとあわれが出ませんか。幼くして死んだ子を想っている。また、春先の初々しさも出る。“紫木蓮”だから意味が分裂してしまうのでは?」 と解説しました。 [後記] 「歳とらぬ子」の句を巡る議論は句作の本質に触れるものではなかったでしょうか。個人的なことをどこまで詠むのか。「文学的真実」があればどんな内容であってもよいのか。そもそも、「文学的真実」とは?・・大きな問いを抱いて句会を後にした筆者でした。 次回兼題は、「夏の日」と「更衣」です。 (山本正幸) 特選 仏間にも母の面影大牡丹 塚本敏正 居間にも台所にも玄関にも、そして仏間にも亡き母の面影があらわれる。母は莞爾とほほえんで牡丹の花のようにひろがる。「大牡丹」の措辞から、母の存在がどんなに大きかったかがわかる。ふくよかにゆたかに慈愛に満ちていた母。幻の大きな牡丹の影が家じゅうに満ちて、どこに身を置こうと包まれる。仏壇に御線香をあげていると「お前、しっかりご飯食べているかい」と案ずる母の声がうしろから聞こえる。窓に若葉が揺れる。緑さす庭をもう一度手を引いて歩きたかった。牡丹という季語の本意に、中有の気配が新たに加えられた。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
3月17日 句会報告
彼岸の入りの句会。兼題は「ものの芽」と「春の闇」です。 句会の行われるアイセルから徒歩5分の熊野神社の鳥居をくぐると「ものの芽」に包まれるような気がします。 高点句を紹介していきましょう。今回、恩田侑布子特選はありませんでした。 (今後、掲載句についての恩田侑布子の評価は以下の表記とします。)◎ 特選 〇 入選 【原】原石賞 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ 高点句を紹介していきましょう。 ○ 昼酒の蕎麦屋に長居柳の芽 伊藤重之 合評では、 「リタイアした老人の一日のひとコマ。こういう身分になりたいな」 「昼酒のまったりした気分が出ている。蕎麦屋の入り口に柳の木があるのだろう」 「漢字の表記が作者の気分を表していて良い」 「ワタシもこれから“昼酒”にしようかな」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「のどかな春の雰囲気が出ており、季語が効いている。お客も少なくて、馴染みの店で遠慮なく吞んでいる。窓には柳がしな垂れかかっている情景」 と講評しました。 ○ 春の闇来る人の来ぬ喫茶店 久保田利昭 合評では、 「異性を待つ切ない心とマッチしている春の闇」 「生温かく濃密な春の闇の向うから現れるであろう恋人を待ち焦がれている。ここは夏でも秋でもなく“春の闇”でなければダメ」 「異性を待っているのではなく、いつもの喫茶店のそこに座っている人が来ない。どうしたのだろうという、心配の気持ちではないでしょうか」 「“待つ人の”だと散文的になるので、“来る人の” と推敲したのではないか」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「恋がひそんでいる。来るはずのを省略しているので含みがあり、気を揉んでいる感じが出た。 “春の闇”に体性感覚がある。闇が震えている。デリケートな質感をもった闇。季語が効いている、いのちを持っている」 と講評しました。 △渡し場の水のふくらみ蘆の角 塚本敏正 「この情景は水彩画を見るようだ。蘆が新芽を出す、いささか古めかしい渡し場の光景」 との感想。 恩田からは、 「映像再現性がある。うまくまとめてあって絵葉書的なのがやや惜しまれるが、「ふくらみ」の措辞がいい手堅い句。これからさらに新味の獲得と着眼点の飛躍に挑戦されれば塚本さんは素晴らしくなる」 との講評と励ましの言葉がありました。 ゝものの芽にかこまれて妻退院す 山本正幸 「わかりやすく、いい句だ。愛する奥さんが無事退院した。ちょうど木々の芽が盛んに出てくる時節。奥さんを寿ぐ句」 「いかにも退院おめでとうという気持ちになる」 との感想が聞かれました。 恩田は、 「季語が効いている句。やわらかな空、やさしい作者の奥様を思う心が溢れ、一物仕立てで祝意を表している。“存問”の句としては良質だが、文芸としての奥行きや多層構造はない」 と講評しました。 ゝひそめたる息ほつと吐く春の闇 西垣 譲 「若い女性の気持ちを詠っている。異性と付き合って間がなく、何かを迫られるかなと期待したが何もなかった。残念なような、安心したような気持ちが出ている」 「何のことかよく分からなかった。深くはないが、緊張感のある句。春の闇だからそれほど深刻ではないのでしょう」 などの感想。 恩田は、 「“ひそめたる”が思わせぶり。感じは分かり、雰囲気もある。しかし、正体がつかめず、根のない句と言わざるを得ない」 と講評しました。 [後記] 樸俳句会代表の恩田侑布子は、句集『夢洗ひ』の成果により平成28年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。本日の句会の冒頭、句会の連衆から熱い祝福の拍手が送られました。ホワイトボードには大きくお祝いの言葉と花マルがいっぱい。「今回の句集が一番好きです」「日本語の美しさを堪能」との声もあがりました。連衆にとっても嬉しく励みになることです。 (恩田の受賞コメント及び、講座生からの祝詞は本HPの「お知らせ」をご覧ください。また文部科学省の芸術選奨のURLも掲載しました) 今回の句会で感じたのは、自分の感情をいかにして詩の言葉に結晶できるかということです。恩田は、“モノに託す”“潜める”“転じる”などにより、感情をストレートに出さないで句にしていくことを強調しました。「短歌ならそれ(ストレートな感情表現)ができる」とも。 次回句会の兼題は「古草」「春障子」です。 (山本正幸)