
平成30年5月18日 樸句会報【第49号】 五月第2回の句会です。真夏日近い気温で、自転車で参加する会員は汗だくの様子。
入選2句、△3句、シルシ3句、・4句という結果でした。
兼題は「新緑」と「短夜」です。
入選句と△のうち1句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇新緑をみつむる瞳みつめけり
芹沢雄太郎 合評では、
「かわいいなと思った。少女の詠う句として受け止めた」
「こういう句は本能的にいただいてしまいます。青春の恋の真只中の句」
「新緑をきれいだなと見つめるような男に今まで会ったことがありません!(笑)」
「新緑の映っているその瞳を見ている。十代の瞳でしょう」
「田中英光の小説『オリンポスの果実』を思いました」
「吾子俳句ではないですか?身内のことを詠んだ」
などの感想・意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「清新な句です。黒い瞳に若葉がひかりとともに映っている情景は、相手が少女だろうが少年だろうが、あるいは赤ん坊だろうが、心惹かれるものがあります。ただ、“見る”という漢字が二回出てくるのがしつこくうるさいです」として、じつは原句が「見つめる瞳見つめけり」だったのを、上記のように直して入選句にしたのでした。
作者はお子さんが生まれたばかりの芹沢さん。赤ちゃんの瞳に新緑が映っているのを詠まれたのね、と納得し、「あらき」の仲間に新しい命が生まれたことを祝福し喜んだ連衆でした。
〇熱く読む兜太句集や明易し
山本正幸 合評では、
「“熱く”に共感した。俳句に通じている作者という感じがします」
「亡くなったばかりの金子兜太さんの句集を時間を忘れて読んだということ。句作に手馴れている」
という共感の声の一方で、
「訴えてくるものあまりない。今までもこういう感じの句はあったじゃないですか?」
「句だけみたときなぜ“金子兜太”なのか、よく分からない」
「“明易し”と“句集”の取り合わせはよくある。切り口が古臭い」
などの意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「“兜太句集”が動かない。南方戦線のトラック島で現場指揮を執った人。戦争末期で、餓死者が八割にのぼったという。すさまじい体験をしてきた。“私は聖人君子ではない”と自分でもおっしゃっています。金子兜太の句集に名句は少なく退屈なところがあるが、その本質は“熱さ”です。中村草田男も熱いが兜太の熱さとは違う。草田男にあるのは、炎天下のきらめき。中七を“草田男句集”とすると平凡になってしまいます。兜太は98歳まで枯淡とは無縁で、ふてぶてしく生き抜いた男。だが、やっぱり亡くなってしまった。“明易し”という感慨がある。それは平凡な人の死に覚える無常感よりも独特の濃厚さをもつのだろう」
と講評しました。
△万緑や我が笑へば母も笑ふ
天野智美 恩田侑布子は、
「実感があります。万緑の季語は、草田男の“吾子の歯”の赤ん坊のイメージが鮮烈ですが、ここでは我と老母の取り合わせがユニークです。素朴な親子の情愛が大自然に祝福されているよう。無心な笑顔に元気だった昔の母がよみがえるのですね」
と講評しました。
今年度からはじまった金曜日の「芭蕉の紀行文を読む」講義。『野ざらし紀行』を詳細に読み解いていきます。今日は富士川の辺まで。 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき この後につづく文章には『荘子』内篇と『論語』学而篇の引用がみられる。
また、芭蕉はすこぶる美しい富士を詠んでいない。富士の見えない日こそよいのだと。これは、吉田兼好の『徒然草』の「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」の美意識に通ずる。兼好も伝統的な美意識を転換させた。 猿をきく人すて子にあきのかぜいかに 芭蕉は捨子に対して、「露ばかりの命まつ間と捨置けむ」と、食べ物だけ与えてそのまま行ってしまう。死ぬことは必定。今の現代人の感覚とは違っているのである。
また、「猿をきく人」とは「哀猿断腸」の中国の旅愁を表現した詩書画のパターン。このようないわゆる風流からの脱却を指向した。ここにも古典文学に対する芭蕉の新し味への志向があらわれている。 [後記]
「野ざらし紀行」の二回目。冒頭をじっくり読みました。遅々とした歩みですが、そのゆっくりさには快感があります。
次回兼題は「ほととぎす」「梅雨入り」「走り梅雨」です。(山本正幸)

平成30年5月6日 樸句会報【第48号】 五月第1回の句会です。ゴールデンウイーク最終日とあって静岡市中心部にある駿府城公園にはどっと人出。今夜、公園内の特設会場で催される「ふじのくにせかい演劇祭2018『マハーバーラタ』」公演に参加される句会員もいるようです。
入選1句、原石賞3句、シルシ5句、・4句という結果でした。
兼題は「薄暑」「夏の飲料(ビール、ソーダ水等)」「香水」。
入選句及び原石賞の句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇サイダーの泡 生(あ)れやまず逢ひたかり
山本正幸 合評では、
「サイダーはまさに初夏。甘かったり、ちょっと酸っぱかったり。泡を見ているうちに恋人に逢いたい気持ちが募ってきたのでしょう」
「泡がどんどん生まれてくる動きの中に作者の気持ちが表現された。こちらも気持ちよく読めました」
「逢いたい気持ちがふつふつと湧いてくる。せつないですね」
「いいとは思うが、イマイチ強さが足りない。作ったような感じ」
「共感しませんでした。逢いたければ私はどんどん自分から行きます!」
などの感想・意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「サイダーをグラスに注いだ瞬間、透明な泡が無数に涌き上がってくる。ああ、逢いたいなという瞬時に涌き上がった切なさがいいです。学生時代の恋人でしょうか。なつかしさと一緒になった切ない思慕。中七の切れ“泡生れやまず”がうまいですね」
と講評しました。
【原】香水に閉じこめし街よみがえり
天野智美 合評では、
「匂いというのは忘れ難い。もう戻れない街だけれど・・」
「街がよみがえるって、記憶がよみがえるということですか?」
「匂いの記憶は言葉以上のものがありますね」
という感想や質問。
恩田は、
「“閉じこめし街”が分かりにくい。散文的な書き方です。しかし、内容は面白い。気持ちに共感できます」
と述べ、次のように添削しました。
香水や封じたる街よみがえり
または
香水に封じし街のよみがえる
「“閉じこめ”よりも“封じ”のほうが気持ちに近くないですか?」
と問いかけました。 投句の合評と講評のあと、注目の句集として、上野ちづこ処女復帰句集『 黄金郷(エルドラド)』(1990年10月深夜叢書社刊)が紹介されました。
“上野ちづこ”は社会学者で東大名誉教授の上野千鶴子さん(1948年生まれ)です。
合評では、
「地下にうごめくマグマのような人ではないか」
「私には難しすぎます」
「自己満足的で一般市民に届いていないのでは?」
「ひどい破調をこれだけ堂々と詠めるのはすごい」
「70年代だからこういう感覚なのだろう。少女っぽいところもある」
「難解句といいながらも、意外と分かります」
「“虫ピン”の句はマルセル・デュシャンをみるようです」
「俳句というよりも“短詩”ではないでしょうか」
などの感想が述べられました。 恩田は次のように解説しました。
「無季で自由律の句をこれだけ書ける人はめったにいません。俳句文芸の無限の可能性を感じてほしい。水準はとても高く、哲学と詩に隣接しています。異界を覗くような句、じつに抒情的な句、消費社会の飽くなき欲望を詠んだ句、哲学的に深く宇宙的なものに届く句があります。当時もしこの人の才能を見出す名伯楽がいたなら、上野千鶴子さんは俳人としても大成したのではないでしょうか。俳句史における一大損失といえるかもしれません。皆さんも従来の自分に凝り固まらずに、各々の表現方法を追求してほしいと思います」
連衆の点を集めた句は以下のとおりです。
わたしというミスキャスト 幕が降りるまで
虫ピンで止める時間の 標本箱(コレクション)
充溢する闇を彫っても彫っても
弱い人よ この蕩遥のバスに乗るな ※ 上野ちづこ『黄金郷(エルドラド)』についての恩田のレジュメはこちら [後記]
兼題によって投句内容の浮沈があるのでしょうか。今回はやや低調。「香水」には苦労したという声が多くきかれました。
上野さんの句については、1970~80年代の空気や、時代を牽引した思想家・文学者・芸術家などを背景に読むと実に興味深いものがあります。
次回兼題は「短夜」と「新緑」です。(山本正幸)

平成30年4月20日 樸句会報【第47号】 四月第2回の句会です。
特選1句、入選1句、原石賞3句、シルシ7句、
・1句という結果でした。
兼題は「藤」と「“水”を入れた一句」です。
特選句と入選句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎茎太き菜の花二本死者二万
松井誠司
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇妻の知らぬ恋長藤のけぶりたる
山本正幸
合評では、
「こういうの、許せません!」
「結婚前の昔の話じゃないんですか?」
「“恋”と“藤”はよく合いますね」
「昔の恋なら情緒があるし、今の恋とするなら危険な香りがある」
「“長藤のけぶりたる”が上手だと思う」
「上五の字余りが気になる」
などの感想が述べられました。
恩田侑布子は、
「字余りでリズムがもたつきます。このままでは入選句ではありません。“妻知らぬ恋”で十分です。“長藤がけぶる”のだから淡い初恋や十代の恋ではないでしょう。ちょっと危険な恋。成就した恋かどうかは知りませんが、秘めやかな心情の交歓があるのでは。満たされなかった思い。今もまだ心に揺らめくものが“けぶりたる”という連体止めにあらわれて効果的です」
と講評しました。 今日はほかにも原石賞が三句も出て、恩田の添削で見違える佳句になりました。原石は詩の核心を持っていることを再認識しました。 今年度から金曜日の「樸俳句会」では、句会に併せて芭蕉の紀行文に取り組むことになりました。これは古今東西のあらゆる芸術文化から俳句の滋養を取り入れようという恩田の一貫した姿勢のあらわれでもあります。そこで、芭蕉の最初の紀行『野ざらし紀行』から始め、数年計画で『おくのほそ道』に到ろうという息の長い講読が幕を開けました。冒頭部が取り上げられ、恩田から詳細な解説がありました。
『野ざらし紀行』の巻頭は、『荘子』「逍遥遊篇」や広聞和尚など、古典からの“引用のアラベスク”ともいえるもので、文が入れ子構造になっている。芭蕉は変革者であり、それまでの和歌のレールの上で作ったわけではないが、漢文と日本古典の伝統を十二分に背負っている。「むかしの人の杖にすがりて」、このタームが重要。近代の個人の旅ではない。いにしえ人と一緒に旅立つのである。 野ざらしを心に風のしむ身かな 「身にしむ」は、いまの『歳時記』では皮膚感覚に迫る即物的な秋の冷たさが主であるが、古典では、心理の深みを背負った言葉です、と恩田は述べました。
芭蕉は、古典と現代との結節点になった人なのだということで、古典の具体例として藤原定家の二首が紹介されました。 白妙の袖のわかれに露おちて
身にしむ色の秋風ぞ吹く
移香の身にしむばかりちぎるとて
あふぎの風のゆくへ尋ねむ この二首は歌人の塚本邦雄も賞賛しています。(塚本邦雄『定家百首』)
[後記]
今回の恩田による『野ざらし紀行』の講義は、大学~大学院レベルだったのではと思います。芭蕉の紀行文をじっくりと読み解くことが初めての筆者としてはこれから楽しみです。
句会の後調べましたら、定家の歌は、和泉式部の<秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ>を意識しているはず、と塚本邦雄は書いています。「身にしむ」という季語のなかに詩のこころが脈々と息づいているのを感ずることができます。
次回兼題は「薄暑」「夏の飲料(ビール、ソーダ水等)」「香水」です。(山本正幸) 特選 茎太き菜の花二本死者二万
松井誠司 「茎太き菜の花」で、真っ先に菜の花のはつらつとした緑と黄色のビビッドな映像が立ち現れます。それが、座五で一挙に「死者二万」と衝撃をもって暗転します。東日本大震で亡くなった人の数です。俳句の数詞は使い方が難しい。ややもすると恣意的に流れやすいです。でも、この句の二本と二万には必然性があります。眼前のあどけない菜の花二本は、大切なかけがえのない父と母であり、二人の子どもであり、親友でもあるかもしれない。たしかにこの世に生きたその人にとって大好きな二人です。その二人の奥に、数としてカウントされてしまう二万の失われたいのちが重なってきます。二つの畳み掛けられた数詞の必然性はどこにあるか。悲しみを引き立たせる戦慄をもつことです。菜の花が無心にひかりを弾いて咲くほど、中断されたひとりひとりのいのちが実感される。「茎太き」が素晴らしい。死者二万を詠んだ震災詠はたくさんありますが、こんなにいのちの実感が吹き込まれた二万はめずらしい。
あとから作者に聞けば、ボランティアとして二度に渡り現地で活動したという。「母の手を引いて逃げる階段の途中で津波に襲われ、すがる母の手を放してしまった、その感触が今も体内に残る」とつぶやいた男性との出会い。そこでもらった菜の花の種が、なぜか今年、自庭にたくましく二本だけが並んで咲いたという。「一句のなかで生き切る」ことができ、普遍に到達した作者の進境に敬意を表したい。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)

平成30年4月1日 樸句会報【第46号】 四月第1回の句会。「静岡まつり」のメイン会場である駿府城公園は桜が満開です。今日は祭の最終日で、恒例の大御所花見行列の大御所に扮したのは歌手の泉谷しげるさん。
今回から三人の女性会員(お二人は市外)を迎え、心弾む新年度のはじまりです。
入選2句、シルシ5句、・5句という結果でした。
兼題は「当季雑詠」と「“音”を入れた一句」です。
入選句のうち一句および話題句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇雨は地に椿落つ音聞きに来し
石原あゆみ 合評では、
「読んではっとさせられた。雨をこういうふうに表現できるんだと」
「雨が上から落ちてくる。椿のボタッと落ちる音を聞きに来たということでしょうか?」
「“音”を聞きに来たのは雨なんですか?」
「切れがないような・・。ズルズルしている感がありますね」
などの感想が述べられました。
恩田侑布子は、
「上五の“雨は地に”のあとにかすかな切れを読み取りたい。雨は地をしめやかに音もなく濡らし静まり返っている。作者はこぬか雨の中、一人傘をさして椿の落ちる音を聞きに来た。すでに落椿は足もとにおびただしく転がっている。黄色の列柱のような蕊に雨粒を溜めて地に落ちたばかりの大きな花弁。花びらの傷みかけたもの。茶色に焦げて地に帰らんとするもの。でも作者は、この樹上の真紅の椿が雨の大地に着地するその瞬間の音が聞きたい。傘のなかで薄い肩をすぼめ、闇を曳いて咲き誇る椿をじっとみている。逝く春の懈怠の情趣が濃く、作者も読者も、紅椿が命を全うするさまを春雨とともにいつまでもみつめて立ち尽くす。
が、こうした鑑賞はやや好意的にすぎるかもしれない。“地に”に小さな切れがあるとは気づかないひとも多いだろう。誰も間違いようのない伝達力のある俳句にするためには、さらに次のような省略が必要だろう。
雨は地に椿の落つる音聞きに
こうすると余白がさらに縹渺と広がらないでしょうか」
と講評しました。 ・春昼の岸壁ポルシェから演歌
山本正幸 本日の最高点句でした。
合評では、
「私も“春昼”で作ろうとしたができなかった。“春昼”のけだるさと“岸壁”という緊張感のある場所を一句に取り入れた発想が面白い」
「現代俳句として優れている。まとまっていて魅力的」
「“ポルシェ”と“演歌”の取り合わせがいい。ポルシェって金持ちの息子やヤクザが乗ってるんでしょ?」
「春昼=のどか、岸壁=危険なところという対比の面白さ」
「いや、“ポルシェ”と“演歌”はどうみてもあざといですよ!」
「青空と黄色いポルシェの安っぽさがいいのでは?」
など反応は様々。
恩田侑布子からは、
「うまく作ってある。俳句に上手く仕立てましたという俳句。俗な即きかたで、いかにもという風景。この書き方がすでに流行歌です。緊張感はなく、逆にけだるさや放恣な感じがある。港の持っている卑猥さ、成金趣味の俗悪な光景についての消化度は低い。キッチュでもない。キッチュなら徹底的にキッチュを突き詰めてほしい。樸がこういう方向に行くと、先行きが危ういです!」
と激辛の評がありました。
本日恩田侑布子が副教材として用意したのは、恩田が書いたふたつの新聞記事です。
① 2018年3月16日(金) 讀賣新聞夕刊
「俳句 五七五 七七 短歌」 3月の題「芽」
② 2018年3月19日(月) 朝日新聞朝刊
「俳句時評 破格の高校生」
句会では点盛はできたものの、残念ながら合評の時間は取れませんでした。
① に掲載された句
山かけてたばしる水や花わさび
恩田侑布子
仙薬は梅干一つ芽吹山
恩田侑布子
いつの世かともに流れん春の川
恩田侑布子
天つ日をちりめん皺に春の水
恩田侑布子
遠足の大空に突きあたりけり
恩田侑布子
(花わさびの句が最高点)
② に取り上げられた句
ぼうたんのまはりの闇の湿りたる
渡辺 光(東京・開成高)
母の乳房豊満なりし早苗月
白井千智(金沢錦丘高)
採石場ジュラ紀白亜紀草田男忌
渡邉一輝(愛知・幸田高)
性別を暴く制服百合白し
西村陽菜(山口・徳山高)
性という製造番号七変化
西村陽菜
風鈴やスカートを脱ぎ捨てる部屋
西村陽菜
(風鈴の句が最高点) [後記]
本日、恩田の紹介した高校生の句の新鮮な切り口とその感性には瞠目させられました。
これらの句は『17音の青春 2018 五七五で綴る高校生のメッセージ』(神奈川大学広報委員会 編 KADOKAWA発行)に収められています。
所収の入選作品にはそれぞれ恩田の寸評が付けられており、筆者はこれらの寸評こそこの新書の白眉と思います。かくも深くかつ温かく鑑賞し、句の世界をさらに拡げてくれる恩田の評を読んで作者の高校生たちはどんなに励まされることでしょう。
次回兼題は「藤」と「“水”を入れた春の句」です。(山本正幸)

平成29年12月22日 樸句会報 本年最後の句会会場はいつもと違って小ぶりな会議室。至近距離での親密な熱い議論がかわされました。投句の評価は、特選1句あったものの、入選なし、原石賞1句、△1句、シルシ9句という結果でした。一年の疲れが出たのでしょうか?
兼題は「時雨」と「“石”を入れた句」です。
話題句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎「AI」と「考える人」漱石忌
久保田利昭
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
【原】石垣の滑らなりしや水洟や
藤田まゆみ
この句を採ったのは恩田侑布子のみでした。
恩田は、
「発想は面白く、表現が未だしの句。語順を変え切字を一つにすると、水洟を垂らす作者の今と、駿府城の四〇〇年の濠の歴史が対比され、作者のユニークな感性が生きるのでは」
と評し、次のように添削しました。
水洟や濠の石垣滑らなる
△しぐるるやマドンナを待つ同期会
山本正幸
この句を採ったのは男性ばかり。
合評では、
「情景が浮かぶ。ホテルの受付。気が付けば外は雨。そういえばあの〇〇ちゃんはどうしているだろう?今日は来るのか?雨の持つしっとり感と同期の女性への想いが一致した」
「同感!“しっとり感”ですよ」
「“しぐるる”は心の中のざわつきでもある。急に降ってくるのが時雨。彼女は昔のイメージと変わっているかなぁ。もしかしたら・・」
「待つときのもどかしさ、複雑な感情を詠った」
という感想の一方で、
「なんだか、全然ピンときません」
と女性の声(複数)もありました。
恩田侑布子は、
「まだ来ない人を待つ心情のしっとりとした感じはある。小さな喫茶店での会を思った。“同期会”が行われる百人単位の大きなホテルには“しぐるるや”は合わないのでは。きっと会場はビルの中でもう同期会は始まっているのだろう」
と講評しました。
ゝ石橋を冬日と渡り八雲の碑
森田 薫
本日の最高点句でした。
合評では、
「目に浮かぶ光景。“八雲館”のある焼津だろうか。詠われた自然と人名が合っている」
「中七の“冬日と渡り”の措辞がとてもいい」
との共感の一方で、
「句としてはよくできていると思う。しかし、八雲の碑と冬日が少しそぐわないのでは?」
「“あなたと渡り”ではいかが。私は“叩いて渡り”ますが(笑)」
「石橋と碑(いしぶみ)がくどいのではないか」
などの意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「皆さんの鑑賞に同感です。石橋と碑がくどいという指摘はそのとおり。上五~中七はいい。しかし、下五が“八雲の碑”の必然性があるか?吟行の嘱目詠ならいいですが」
と評しました。 今回の兼題の「時雨」について、恩田侑布子は下記の句を紹介し、それぞれ解説をしました。 水にまだあをぞらのこるしぐれかな
久保田万太郎
一句一章の句。万太郎の和文脈です。「かな」の切れが実に美しい。 翠黛の時雨いよいよはなやかに
高野素十
しぐれの持つ“艶”を引き出した句です。京の翠黛山に降る時雨を詠ったものですが、王朝人の翠のまゆずみで描いた眉も奥に幻想され、下五の“はなやかに”が効いて名句になりました。 投句の合評と講評のあと、桂信子の俳句(『桂信子全句集』(1914~2004年) 60歳以降の作品から)を読みました。
共感の声が多くあがりました。「若い頃の“女性性”を前面に出した句よりも格段に良い」との評価も。「忘年や・・」の句に対する「モノではなく、ひとは心の中にいるのですね」との最年長会員の感想に一同大きくうなずきました。
特に点の集まったのは次の句でした。 たてよこに富士伸びてゐる夏野かな 大寒のここはなんにも置かぬ部屋 忘年や身ほとりのものすべて塵 闇のなか髪ふり乱す雛もあれ 冬滝の真上日のあと月通る 恩田侑布子は第一句集を出版した際、桂信子から評価の葉書をもらい、俳句のパーティーでもやさしく声をかけてもらったことがあるそうです。 [後記]
句会の冒頭、恩田侑布子から「このたび“桂信子賞”をいただくことになりました。句集『夢洗ひ』だけでなく、これまでの俳人としての歩みを評価されたことがとても嬉しいです。来月伊丹市の“柿衛文庫”での授賞式に出席し、記念講演を行います」との報告がありました。芸術選奨文部科学大臣賞、現代俳句協会賞に続く受賞で、実に喜ばしいことです。連衆から心よりのお祝いの言葉が述べられました。
(授賞式のご案内はこちらをご覧ください) 本日配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。
「見たマンマを詠むと説明的で即きすぎの句になります。月並ではない新しみある俳句を!」
どうしても発想が月並になってしまう筆者ですが、一気に新しさの高みにのぼる王道がない以上、コツコツ句作を続けようと思います。
次回兼題は、「“寒”を入れた句」「コート」です。
(山本正幸)
特選 「AI」と「考える人」漱石忌
久保田利昭 AI、考える人、漱石忌、三つの名詞が並列や直列の関係にないところが新しい。これはトライアングル構造の句である。もし〈AIと「考える人」漱石忌〉なら、三角構造は崩れて弱くなる。カギカッコで括られた「AI」は「考える人」同様、すでに存在として受けとめられている。ブロンズの「考える人」が覗き込むロダン(1840〜1917)の「地獄の門」は1900年前後の作という。漱石(1867〜1916)は ロダンより二十七も歳下だが、ロダンより一年早く四十九歳で卒した。ロダンの生存期間にすっぽり入るから、同時代の近代を象徴する彫刻家と文豪といえる。そう思うと切れは、〈「AI」と/「考える人」漱石忌〉になり、漱石のみ実在者と思えば、切れは、〈「AI」と「考える人」/漱石忌〉となる。人工知能とロダンの考える人を対比させ、漱石忌でうけとめた後者ととるのが自然だろう。とはいえ、切れの位置の変幻は読者を思弁に誘い込む。人工知能が近未来にかけて猛威を振るい世界の活動を根底から変えようとしている。その「AI」 と「考える人」を、漱石が双肩に受けて真面目な顔で考えて居る。漱石の胃に穴が空いたのは我執のもんだいであったが、今やartificial intelligenceが加わった。山本健吉は、俳句は認識を刻印する芸術であるといった。刻印というより認識の迷宮をそぞろ歩きし、あ、もういいやと、漱石の口髭を撫でたくなる句ではないか。
(選句/鑑賞 恩田侑布子)

恩田侑布子詞花集。今回は「もう居らず月光をさへぎりし父母」の句の鑑賞を柱として、折節に恩田が父母を詠った句を取り上げました。あわせて句作の背景にも言及しています。
...

11月2回目の句会が行われました。静岡市街は温暖な気候のせいか、ゆっくりと紅葉が進んでいるようです。
今回の兼題は「猪・鹿・柘榴」。人によっては食欲をそそる季語ですね。今回は色調豊かな入選句が4句出揃いました
〇秋夕焼文庫百冊売つて来し
山本正幸 合評では、
「サッパリした爽やかさと、淋しさが出ている。複雑な心理状況」
「百冊とは結構な量なので終活をイメージした。人生の過ぎゆく早さと秋の暮の早さを詠んでいるのでは」
「寺山修司の“売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき”の短歌を思い出した。百冊が効いている」
という意見の一方、「“秋夕焼”と“売って来し”が即きすぎではないか」という指摘も出ました。
恩田侑布子は
「百冊の文庫本に親しんだ思い出と未練が秋夕焼をさらに赤くする。スッキリしたようで切ない夕焼け。すこし墨色を帯びたさびしさ。はかなく色あせてゆく秋の夕日に、文庫本を一冊づつ買って読んだ長い歳月が反照される。青春性の火照りが残っていて、終活というよりも人生を更新したいという前向きさを感じる。古書との別れの季語として秋夕焼は動かないでしょう」
と講評しました。
〇仁王門潜れば老いし柘榴の木
佐藤宣雄 合評では、
「自分の原風景に老いた柘榴の木があるので、柘榴にホッとする気持ちがよみがえった」
「景がよく、中七の調べがよい」
「ただの写生句で、スナップ写真のよう」
「老いた柘榴の木じゃなくても成立する」というように、意見が二手に分かれました。
恩田は、
「一瞬に景が立ち上がる重厚な句。朱塗りと赤、茶と緑の色彩も美しい。仁王門を見つめてきた柘榴の長い歳月が感じられます。「老いし」の措辞に、実はつけていても、木のやつれが浮かび、悟り済ませぬ人間の歳月が裏に重なるよう。二重構造の俳句といっていいでしょう」
と講評しました。 〇敬老席どんと座つて運動会
西垣 譲 「なんでもないけど、なるほどなと思うこういう句が好き」
「俳句じゃなくて川柳じゃないか」
「いや、これは川柳じゃなくて一流の句」
と、軽妙に意見が交わされました。
恩田は、
「連合町内会の運動会の敬老席はたいてい見晴らしのいい場所にある。“どんと”がのさばっている感じで滑稽。が、その裏に、もう花形の徒競走など、イキのいい競技に参加できない一抹の淋しさもあります。俳味ゆたかな句です」
と講評しました。
〇兄の如し月命日に台風来
樋口千鶴子 合評では、
「はじめに“兄の如し”と言い切った。スピード感があり、どんなお兄さんだったかイメージできる」
「追慕の心情が出ている」
と感想がでました。
恩田は、
「上五字余りの重量感のある切れが出色です。お兄さんの死に切れぬ情念が台風になって吹きすさぶように感じた。『嵐が丘』のヒースクリフを思い出します。巧まざる倒置法も効果的です。作者は上手い俳句を作ろうとしたわけではなく、亡き兄の気持ちを慰めたい一心なのだと思います。それが図らずもこういう表現をとった。そこに俳句の懐の広さがあります」
と講評しました。 [後記]
句会が始まる前、その日に鑑賞する句が並ぶプリントが配布されます。その冒頭にいつの頃からか、恩田侑布子の叱咤激励文が掲載されています。今回は「ただごと俳句や報告句からいかに抜け出すかに配慮し、感動のある一句を!」と書かれていました。毎回この一文を読むと、座禅中に背後から鋭く警策を食らうような痛みとともに、心地よい緊張感が身を貫きます。いかにダラリと座っていたか気づく瞬間です。次回の兼題は「霜・霜除け・落葉」です。(山田とも恵)

11月1回目の句会。小春日和の一日。「大道芸ワールドカップin 静岡 2017」で街は大賑わい。丸く赤い鼻をつけた「市民クラウン」があちこちに出没しイベントを盛り上げています。 兼題は「身に入む」と「林檎」です。入選2句、△1句、シルシ8句、・1句。特選句はありませんでした。
入選句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇林檎剥く相愛のとき過ぎたるも
山本正幸 本日の最高点句。
合評では、
「夫婦を長くやっていると、こういうもんだろうなと共感する」
「愛情を感じる句。愛は冷めてきているのではなく、“愛情の種類”が変わってきているのではないでしょうか」
「“相愛”とはお互いに愛し合うこと。一方が愛さなくなったときは・・ひとしお身に沁みます」
「それでも妻は夫の好みに合わせて林檎を剥くのかしら?」
「いや夫が剥いているのでは?」
「“も”の使い方が上手。共感します」
「“相愛”という言葉に引っかかる。甘すぎるというか浮いている」
「奥さんが林檎を剥いている日本の家庭の日常的な生活風景を描き、心に沁みる」
などさまざまな感想、意見が飛び交いました。
恩田侑布子は、
「絵に描いたような相思相愛の熱い時期は過ぎたのかもしれない。でも、そう言いつつ一緒に食べる林檎を剥いているのだから、安定した平和な夫婦関係を想像させる。それこそ長年連れ添った夫婦の理想形というべきではないか。句末の“過ぎたるも”の“も”に、句頭に帰っていくはたらきがあり、ナイフから白くあらわれ出る林檎に生き生きとした芳香が添う。“過ぎたるも”という措辞は反語なのに反語のあざとさがない」
と講評しました。
〇林檎消ゆあなたとよびし人の部屋
萩倉 誠 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。
恩田は、
「いなくなった恋人の部屋なのだろう。“あなた”と呼び合ってふたり仲睦まじい時を過ごした。気づけば、いとしいひとも芳しい赤い林檎もなにもない殺風景な部屋になってしまった。上五に置かれた動詞終止形“林檎消ゆ”の切れが新鮮。忽然と消えた真っ赤な林檎の残像が、一句を読み下したあと哀しみに変わり、からっぽの白い部屋だけがイメージされる、そのスピード感に俳句のセンスを感じる」
と講評しました。 今回の兼題の「身に入む」については、恩田侑布子から次のような解説がありました。
「皆さんの中でこの季語を間違って捉えている方が少なからずいました。本来は、秋も深まって寒気や冷気を身体に感じるその感覚が先ずくるのです。国語の辞書に出てくる意味、深くしみじみと感ずるという、人生のいろいろな場面で遭遇する身に沁みる思いは、季語の本意としては次にくるのです」 投句の合評と講評のあと、注目の句集として『真実の帆』(21句抄出 「天荒」合同句集七集 沖縄県)を読みました。
恩田侑布子が朝日新聞紙面の「俳句時評」で取り上げた句集です。
連衆の感想としては、
「俳句と川柳の違いを考えさせられた。これらの句は川柳に近いのではないか。切れがなく、定型でもない」
「読んで疲れます」
「季語の季節感が沖縄とこちらとは全然違う」
「『沖縄歳時記』というものが出たようですよ」
「一言で言うと“反戦”。こういう内容を詠むには、字余りやゴツゴツした表現しかないのだろうか」
「福島の問題を沖縄の人たちは自分の身に引き付けて考えている」
「時事詠は甘い言葉ではダメなのだろうか」
「無季の句が多いけれど、社会性俳句だからいいのでしょうか」
などが述べられました。 特に点が集まったのは次の二句でした。
反戦デモ先頭をゆく乳母車
牧野信子
線量計狂ったままの花野かな
おおしろ房 [後記]
句会の日が迫ってくると苦吟する筆者です。
今回の句会で、「なかなか句ができないときどうしたらいいのか」「スランプからどうしたら脱出できるのか」が話題となりました。
恩田の助言は、「スランプのときこそ、句をどんどん作ることです。駄句でもいいんです。とにかく句作を続けること。そうすると開けてきます」とのことでした。
次回兼題は、「猪」「鹿」「石榴」です。(山本正幸)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。