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『夢洗ひ』の4句

20200506 川面さん1

川面忠男様がブログの転載をご快諾くださいました。川面様、厚くお礼申し上げます。               『夢洗ひ』の4句  俳句結社「汀」の主宰、井上弘美さんの『読む力』(角川書店)は60人近い俳人の俳句について鑑賞している。第2章の「表現の力を読む」の「予定調和を超える」という文の後、「表記」の広げる世界、という見出しで恩田侑布子さんの句集『夢洗ひ』の中から以下の4句を挙げている。  まず  あきつしま祓へるさくらふぶきかな という句について井上さんはこう述べている。 「あきつしま」を「祓」うことのできる花は「桜」以外には考えられない。それも咲き満ちた爛漫の桜ではなく「さくらふぶき」であることも、日本という国が隈なく浄められるイメージをもたらす。桜前線の北上には一ケ月以上の時を要するから、その長い時間をも捉えることに成功している。  また、掲出句が成功したのは、平仮名表記の効果に負うところが大きい。「秋津洲祓へる桜吹雪かな」と比較すれば明らかだ。これでは日本列島も風に舞う桜吹雪も見えては来ない。  恩田さんは一年前、母校の静岡高校の生徒が聴き手の教育講演会の講師になったが、その中で「物を見る時は大きな視線、微細な視線という二つの視線が必要ではないか」と述べた。恩田さんは桜が好きなようだ。教育講演会は自作の俳句を朗読して締めたが、その中で〈吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜〉も読んだ。こちらは、どちらかと言えば微細な視線で詠んだ句と言えるだろうが、〈あきつしま祓へるさくらふぶきかな〉は大きな視線が捉えた句だ。  井上さんは『夢洗ひ』から    小さき臍濡らしやるなり花御堂 という句については以下のように評している。      「臍」は釈迦と摩耶夫人が臍の緒で繋がれていたことの証。「右脇から産まれた」と伝説は伝えるが、「臍」は釈迦が人の子として母の胎内で育ったことを語っている。人々を救済するために苦難の道を歩むことになる釈迦が、「臍」を持っているということで、釈迦の人間性がより近しいものに思える。  誕生仏を甘茶で濡らす場面は様々に詠まれているが、この句は「臍」を捉えたことで写生を超えたのである。  私は掲句を写生句だと思っていたが、井上さんは写生を超えたと言う。俳句には余白があり、掲句の余白は広いだけでなく深い。恩田さんは釈迦、ひいては仏教に通じている俳人だということを思い出した。  恩田さんは病気になった時、仏教に出会って救われた。そして、静岡高校の教育講演会で例えばこんな話をした。  仏法の核心は縁起である。土に種を蒔くだけでは育たない。雨がふりそそいで太陽の光も浴びるという縁があって植物は成長し実を結ぶ。すべての現象は複数の原因や縁が相互に関連し支え合っている。  掲句の〈臍〉は諸々の縁を象徴していると言ってよいだろう。 井上さんは『夢洗ひ』から    羊水の雨が降るなり涅槃寺 も挙げて「釈迦が死して母の胎内に還ってゆくかのような一句。釈迦の誕生も入滅も、母なるものの存在を通して描かれていることがわかる」と鑑賞している。  恩田さんが静岡高校の生徒であった頃、両親は不仲であり、恩田さんは心を痛めた。母への想いには格別なものがあろう。その後、恩田さんは病気になり、生きて45歳までだろうと思ったそうだ。〈羊水の雨〉は母の涙を見て再び生きる力を持とうという気持ちから詠んだ措辞であるような気がする。  『夢洗ひ』から井上さんが4番目に選んだのは  この亀裂白息をもて飛べといふ で鑑賞は以下の通りだ。  ここに描かれている「亀裂」が現実のものではなく、人生における決断の時を象徴していることは明らかである。しかし「亀裂」というような、平凡とも思える言葉を用いながら、教訓的で平板な句に陥らないのは、句に緊張感が漲っているからである。  第一に、「飛べ」と命じている「声」の主が明かされないことで、句にミステリアスな味わいが生まれた。第二に、「白息」に一途さや真摯な思いが感じられる。そして、上五に「この亀裂」と置いたことで、情景が映像化されて臨場感が生まれた。「亀裂」と「白息」だけで、これほどの切迫感を描いてみせたのである。  恩田さんは志戸呂焼の修行を積んで陶芸家になろうとしたが、28歳の時に慢性腎炎が見つかり医師から陶芸を断念するように言われた。そこで高校生の頃に出会った俳句の可能性にかけたという経歴がある。他にも人生に何度か亀裂が生じ、それを乗り越える場面があったのだろう。その時の気合を白息と表現したように思われる。  私が2年半前、句集『夢洗ひ』を求めた時、恩田さんが表紙裏にサインのサービスをした。その際、〈ころがりし桃の中から東歌〉と書いてくれた。井上さんの鑑賞には遥かに及ばないものの掲句について私なりに味わってみよう。  〈桃〉は古代から邪気を払うと信じられた植物だ。桃から産まれた桃太郎は鬼退治をしたという物語もある。万葉集の東歌は、東国の庶民が親を慕ったり恋人を想ったりして作ったものが多い。桃の霊力と庶民の生活力が結びつき〈ころがりし〉という措辞で音が出て響き合っている。 川面忠男(2020・5・6)     

『よろ鼓舞』七句

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   恩田侑布子詞花集   『よろ鼓舞』七句   『俳壇』2020年1月号掲載の恩田侑布子作品7句と、連衆の選評です。   海山を股にかけたり初烏    家族一列初凪のまぶしさに   凧糸を引く張りつめし空を引く   甲板に狼乗れよ宝船   翠巒の照りまさりけり恵方道   皇后はキャリアウーマン女正月   梅花皮(かいらぎ)の糸底を撫で冬うらら       家族一列初凪のまぶしさに この家族風景はいいですね。穏やかな海からの光にみんな目を細めています。遠くを見るまなざしで。円くなっているのではなく一列に並んだ家族。新たな年を迎え、家族という集団の持つひとつの「意志」を感じさせます。下五の「まぶしさに」に余情があります。(山本正幸) 家族揃って迎える新年。家族一列がいいです。(樋口千鶴子) 一列、意図せざるも絵ができる。(安国楠也)    凧糸を引く張りつめし空を引く 手元にピンと張りきった凧糸の軋みがよみがえった。地上にあった頃はあんなに軽かった凧が上空に舞い上がった途端重くなるのを漫然と面白がっていた幼い頃。「そうか、初春の空と引っ張りあっていたのだ」とあの楽しさの理由に今さら出会えてうれしい。「引く」がリフレインすることで、糸が切れないよう慎重に操る様子が伝わる。(山田とも恵) 大宇宙とつながる。引きつ引かれつ宇宙と一体となる心持。(萩倉誠)   甲板に狼乗れよ宝船 世情に流されず孤独を恐れない狼の心を持つ者が歓迎される宝船。金銀珊瑚も七福神も見当たらないし、漕ぎ出す海は大時化、というイメージが浮かび、ここでの宝船は地球の比喩ではないかと思いました。果たして自分は地球号の乗船資格があるのか、問われている気がしました。(見原万智子) 夢始末。(林彰)    翠巒の照りまさりけり恵方道 新年、その年の神が来臨する方角にある寺社を参拝する道すがら、背後にある緑の連山に照りかえる光の束が、善男善女の行く手を祝福する鮮やかな景が目に浮かぶ。(金森三夢)    梅花皮(かいらぎ)の糸底を撫で冬うらら 井戸茶碗の高台に施された梅花皮。井戸茶碗の見所の一つとされている。その糸底を、穏やかな冬の日に撫でているのである。人目につかず茶碗を支える糸底を慈しむかのように撫でる作者の目は、冬の日差しのように穏やかで優しい。(島田淳) 「梅花皮」の感触はざらざらとしていかにも「冬」ですが、土の温かみと素朴な感じ、そして文字面の美しさから「冬うらら」がとても合うなと思いました。触覚と視覚の楽しさと文字面の全体のバランスが非常に調和していて素晴らしい句だと思いました。(古田秀) 発想の意外さと静けさがこころ穏やかにさせ他を圧倒する。冬うららとはこのことだった。(安国楠也)       

『息の根』七句

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   恩田侑布子詞花集   『息の根』七句    『俳句α』2020年冬号掲載の恩田侑布子作品7句と、連衆の選評です。   山川の風のすさびを神楽歌     恩田侑布子   太刀の舞農鳥岳の北風(きた)つよし   振る太刀に颪(おろし)迫れる神楽かな   神楽太鼓撥一拍は天のもの   雨垂れの珠と囃せる神楽かな   山一つ眠らんとして眠られず   深山の息の根神楽太鼓なる     山川の風のすさびを神楽歌 神を崇め神にささげる神楽はまた自然への畏敬の表現でもある。 「すさび」は「遊び」とも「進び」とも。「山川の風」は神そのもの。 「神楽歌」を歌う男たちは神のすさびを恐れ崇め遊び一体となっている。(村松なつを)   太刀の舞農鳥岳の北風(きた)つよし 山稜に残る雪形が農事の始まりを告げるとされる農鳥岳。あくまでも山の名前であるが、この措辞があるからこそ、春の到来を喜ぶ剣舞の激しさと、その太刀が切り裂く北風の冷たさが読む者の心に立ち上がってくる。(島田淳)農鳥岳に惹かれました。南アルプスは北アルプスに比べて人も少なくアプローチも長く山登りらしい山に思います。(樋口千鶴子)     振る太刀に颪(おろし)迫れる神楽かな 奉納する太刀の舞に北風が吹きおろし、自然そのものが憑依したような荒ぶる力が辺りを包み込んでいる。読み手もその人知を超えた力に震える。「振る」「迫れる」の畳みかけが見事。(天野智美)      神楽太鼓撥一拍は天のもの 静岡の山奥、清沢神楽の一句。「天のもの」が眼目と思います。その一拍は人間のものではない。神々のもの。神々の住む宇宙に響き渡ります。その宇宙の中の微小な存在として、われら人間もその音に体を貫かれています。 作者はそのときの様子(人も獣も草木も集う)を読売新聞夕刊のエッセイ「たしなみ」に書き留めておられます。 (山本正幸)気迫一魂。覚醒の一撃。神気が満ちる。(萩倉誠)   雨垂れの珠と囃せる神楽かな 「雨垂れの珠」の音さえも神楽の一要素としてしまう「神楽」というものの把握に凄味があると思いました。雨粒を「珠」という言い方にも神性が込められていて美しいです。(古田秀)     深山の息の根神楽太鼓なる 奥深い山と神楽の太鼓がまさに一体となり、その地の息遣いや生そのものの大きなうねりがこの十七音から生み出されることに感嘆。原始の神事とはこうであったのだろう。読み手までトランス状態に誘う一句。(天野智美)       

「何んの色」から五句

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     むき向きに三千世界柳の芽    恩田侑布子     毛氈の緋の底無しやひゝなの夜     何んの色ならん春愁うらがへす     星霜の密(しじ)なるしだれざくらかな     汽水湖や尻から春の風抜けて      恩田侑布子詞花集 「何んの色」 『俳句界』2020年4月号掲載の恩田侑布子特別作品21句から、連衆の高点句とその選評です。    むき向きに三千世界柳の芽 芽吹くときだけあちこちを向く柳の新芽。その先々に三千世界が広がっているという発想に惹かれました。芽のひとつひとつから三千世界に繋がる糸が垂れ下がり風に揺られているのを想像すると、柳の持つ幽玄さの理由を垣間見る気がします。成長すると柳の葉は「一世界」を向いていくように思います。無垢な姿のときにだけ見える景色への羨望のようにも感じました。(山田とも恵) それぞれにそれぞれの命。柳に芽吹いた無数の命。それぞれがそれぞれの生き様をさらしていく。(萩倉誠)        毛氈の緋の底無しやひ ゝなの夜 緋色が闇に閃いている。生命力に溢れ、魔除けとして使われる色。実は底知れぬ暗さをも孕んでいるのだと、この句に知らされました。そんな時空を超えた世界、濃密な「ひゝなの夜」へと、ひとり迷い込んだ心地に。(田村千春) 人形とはどこか暗さを秘めているもの。雛もまたそうだ。毛氈の緋色はその底に黒を秘めている。その色を「底無し」と表現する作者の感性に共鳴する。「ひゝなの夜」が一層この句に深さを与えている。(村松なつを) 「底無し」という把握が恐ろしくも惹かれるところです。子の健やかな成長を祈る雛人形は、形代として災厄を引き受ける役目もあるのでしょう。「底無し」の緋毛氈に沈んでいくような夜の感覚が鋭く、採らせていただきました。(古田秀)       何んの色ならん春愁うらがへす 齢重ねても答えられない複雑な問い。表現力の問題だけではない。(安国楠也) 「歓楽極まりて哀情多し」華やかに心浮き立つ春、ふと悲しみに襲われる時その哀愁の裏にある色は?心象風景を色彩感覚になぞらえる美に酔う。(金森三夢) この句を読むまで無感情に仕事をこなしていたのに、「うらがへす」まで読んだら、地平線から水平線まで、私の世界はすっかり物憂いヴェールで覆われてしまいました。一つひとつの感情に、まずはどっぷり浸からなくては、と思いました。(見原万智子) 春はすべてが眩しいけれど、愁いの影も落ちている。涙のフェイスペイントを施したピエロの笑顔にも似て。纏いつく生地の、本当の色を見極めたい。「うらがへす」という鮮やかな表現により、少女のような思いが伝わってきます。(田村千春)   星霜の密(しじ)なるしだれざくらかな 「星霜」という言葉によって、単なる桜の美しさだけでなく、作者を含むこの木を見てきた人たちの(そして桜の木が見おろしてきたであろう)長い年月の様々な思いや苦難まで想像させ読み手を共振させる一句。S音の繰り返しが密やかな息遣いまで感じさせる。(天野智美) しだれ桜には星霜(歳月・光陰)がひそかに充ちているという句意です。この句を読んでしだれ桜の見え方が一変しました。「ものを見る」というのはこういうことなのですね。口ずさんでみると、サ行音の連なりが実に心地よく響きます。(山本正幸)      汽水湖や尻から春の風抜けて 春の浜名湖(林彰) 浜名湖でしょうか。上五で広々した湖が浮かび、中七で作者のお尻にクローズアップして、その後また春の風が湖に広がっていきます。作者は湖に正対して、心がのびやかになる句です。(芹沢雄太郎)       

恩田侑布子寄稿 『俳壇年鑑2020年版』巻頭言「星を見る人」・  4月号『俳句』阿波野青畝・『俳句界』21句「何の色」 ご高覧いただければ幸甚です。

恩田侑布子が下記俳句総合誌に寄稿しております。  『俳壇年鑑2020年版』巻頭言「星を見る人」 『俳句』4月号 「偏愛俳人館 阿波野青畝」 『俳句界』4月号 21句「何の色」 ご高覧いただければ幸甚です。

偏愛俳人館「竹久夢二」(角川『俳句』3月号)にうれしいお便りをいただきました。

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恩田侑布子が連載しております角川『俳句』の「偏愛俳人館」にうれしいお便りをいただきました。     偏愛俳人館「竹久夢二」何度も読ませて頂きました。文章には詩のように凝縮され正鵠を射た言葉が散りばめられており正に感嘆と感動でした。 そして、俳句の鑑賞では、自分には思いもよらない着想、分析の深さ、優しさ、説得力にぐんぐん引き込まれました。俳句は鑑賞によって輝くということが、面白いように解り、楽しくなりました。有り難うございました。 堤 保徳      堤 保徳様 拙文への身に余るご感想をありがとうございます。 すぐれた実作者でいらっしゃる堤さまにこころのおもむくままの自由な鑑賞を認めていただきうれしくありがたく存じます。 これからも偏愛、求愛の旅にはげみます。ご同行をよろしくお願いいたします。  恩田侑布子 

恩田侑布子の新連載『俳句』「偏愛俳人館」に 嬉しいお便りをいただきました

2020 濱田さん

恩田侑布子の連載『俳句』3月号「偏愛俳人館」の第二回竹久夢二に心のこもったお便りをいただきました。     月刊『俳句』3月号の、「淡雪の肌合い――竹久夢二」、拝読致しました。 今回も、新たな啓示を頂き、ありがとうございました。竹久夢二が俳句とかくも深い関わりがあったこと、驚きました。 特に最期の二句、   木枯や隣の室の鍵の音   魚になりて眠りさめには雪明り に胸を打たれます。恩田様の評論、 《輪廻転生をこれほど清らかに表象した例を知りません。その原初のたましいは男でも女でもなく水中の流体でした。だれも傷つけないやさしい一匹のいろくずだったのです》 一句から、人間存在の輪廻転生に及ぶここまでの深さと広がりのある鑑賞にしみじみと浸りました。私も魚になったようにしばしまどろんでいたい思いになりました。本当に名鑑賞です。また、次号の偏愛俳人館も楽しみにしています。 濱田さだこ  濱田さだこさま それこそ深いご感想をありがとうございます。 夢二の絵は少女時代から大好きで、雪のなかで手袋を外すロマンチックなハンカチなど、色褪せるまで使い古しました。 私自身、夢二がこんなに素晴らしい俳句を作っていたことは平成6年、夢二句集が出るまで何も存じませんでした。 濱田さだこさまのように、俳句でも夢二の理解者が増えてくだされば、著者冥利に尽きます。 夢二のこころのプリミティブな優しさを共感し合えて幸せです。ありがとうございます。 恩田侑布子       濱田様からは、『俳句』2月号「偏愛俳人館」の第一回飯田蛇笏にもこんな嬉しいお便りをいただいております。   『俳句』二月号の、偏愛俳人館を拝読しました。 蛇笏の俳句の凄さを再認識するとともに、生の円環運動、という言葉に集約する恩田氏の感性の深淵な広がりに感銘を受けました。 月刊俳句において、近来に無い面白い連載です。次号もとても期待し楽しみにしています。 濱田さだこ     濵田様ありがとうございました。 今後とも「偏愛俳人館」をご愛読いただき、ご批評等賜りたくよろしくお願い申し上げます。 恩田侑布子