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呵々 十六句

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『WEP俳句通信』2022年12月号に掲載されました、恩田侑布子の俳句16句を紹介いたします。           呵々          枯蘆にくすぐられゆく齢かな      尾けゆくは地に生ふる影大枯野      駿河湾茶の花凪と申すべう        山上に菩提寺  華やかに落葉砕きて母がりへ     極月の揚げせんべいは鯵の骨     黄昏の干菜湯いろの橋わたる      冬の夜柱鏡をトンネルに      隔たるや日々片々と敷松葉      青天や枯れたらきつと逢ひませう      葉隠や尽きぬ遊びを佛手柑      錠かけしチェロを背中に落葉道     コートの背「嘆きの壁」に曝したる      浮くもののなべて重たし冬運河      納豆の糸にこゑある冬日かな      淫り喰ふ酢なまこ死後の硬直を      一休の呵々大笑よ寒牡丹    【初出】『WEP俳句通信』二〇二二年十二月号 競詠十六句      呵々十六句鑑賞                  益田隆久 俳句から受けた第一印象です。 個人的解釈につき、まっとうかどうかはわかりませんが。 「呵々十六句」に共通して流れるもの。 「そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、 いづれの人か骸骨にあらざるべし。」   一休宗純 十六句は絵巻物。その展開の流れを味わうと飽きがこない。   起   枯蘆にくすぐられゆく齢かな     第一句目で全体の色調を示す。 枯蘆は自分を見ているもう一人の自分。 ああ、あたしってなんか理由はないけど可笑しいよね。 っていうか自分で笑うしかないじゃん。     尾けゆくは地に生ふる影大枯野    ああ、やっぱりまだ燻り続けているいろんなものがあるのかなあ。    駿河湾茶の花凪と申すべう   いままで色んなことがあったけど、少しは振り返る余裕が出来たのかなあ。    黄昏の干菜湯いろの橋わたる   歳を取るほど魅力的になる女でいたいよなあ。    冬の夜柱鏡をトンネルに   結局、人の死って、朝であり、春であり、トンネルを抜けるということなのかなあ。    隔たるや日々片々と敷松葉   人生ってさあ、斑模様だよね。密度の濃い時もあったし、薄い時もあったなあ。    青天や枯れたらきつと逢ひませう   死んだら好きなあの人とも逢えるよね。     ここから転調。      錠かけしチェロを背中に落葉道   今まで数え切れないほどたくさんの俳句を作ってきたよなあ。 それらは捨てるわけじゃないけど鍵をかけておこう。 そして、あたしにしか作れない新しい俳句を作ってやるぞ。    浮くもののなべて重たし冬運河   重くて流れていかないんだよなあ。いつまでも浮いてて嫌んなっちゃう。   納豆の糸にこゑある冬日かな   あの日のあの時の声がいつまでも耳に残ってるなあ。    ...

恩田侑布子第五句集『はだかむし』上梓のお知らせ

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 樸俳句会代表・恩田侑布子の第五句集『はだかむし』がこのほど、角川書店より刊行されました。奥付にある初版刊行日11月7日は久保田万太郎の誕生日、生誕133年の節目にあたります。この句集は、恩田が深く敬愛する万太郎へのオマージュでもあるのでしょう。  第四句集『夢洗ひ』(芸術選奨文部科学大臣賞受賞)から6年。2016年夏から2022年春までの作品から、371句を自選したものです。後半期のほとんどはコロナ禍ですが、恩田はこの間、自ら「天空の書斎」と呼ぶ自然豊かな自宅周辺を歩き、水音を聞きながら句作や選句にはげんだといいます。いくつもの川、石河原、小瀧、岩場。多くの俳句が「こうして水ほとりに生まれた」(あとがきより)のでした。  自然と一体化し、日本文学の美しさを潤いある言葉に溶かしこむ恩田の感性は、  足もとのどこも斜めよ野に遊ぶ  たましひの片割ならむ夜の桃  よく枯れてかがやく空となりにけり などの掲載句にも表れています。また、フランスや中国への旅を踏まえた  ブロンズの冬日セーヌに置いて去る  星屑に吊られてありぬハンモック などの海外詠、ロシアのウクライナ侵攻を受けた  筍であれよ砲弾保育所に といった戦争詠にも、その温かな人となりや、豊かで鋭い想像力がうかがえます。  句集名は、中国前漢の『大戴礼記(だたいらいき)』に拠りました。恩田によれば、はだかむしとは、毛も羽もない素っ裸の虫、それも陰陽のまじりけのない精を受けて生まれる人間のことだといいます。  うちよするするがのくにのはだかむし が末尾にあります。  恩田は今年4月、春秋社から『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』を出版し、各紙誌の書評で高い評価を受けました。それに続く今年2冊目の著書が、この第五句集です。句作に、指導に、講演に、著書出版にと、ますます旺盛なエネルギーをみせる恩田の魅力がいっぱい詰まった句集『はだかむし』。ぜひお手にとってお読みください。 (樸編集長 小松浩)

恩田侑布子講演レポート

(第46回現代俳句講座 10/29 ゆいの森あらかわ)

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演題 『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き ◇主催:現代俳句協会 共催:荒川区 ◇日時:2022年10月29日(土)13:30~16:45 ◇会場:ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」 ◇講師:「軸」代表・秋尾 敏、「樸」代表・恩田侑布子  10月29日(土)、東京都荒川区のゆいの森あらかわ・ゆいの森ホールで現代俳句協会主催の第46回現代俳句講座が開かれ、樸俳句会代表・恩田侑布子が「『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き」と題して講演しました。 当初は9月24日の予定が、静岡にも大きな被害をもたらした台風で中止となり、延期されていた講演です。一転して素晴らしい秋晴れとなったこの日は、首都圏を中心に俳句愛好者や恩田ファンらがたくさん聴講し、「俳句は目に見えないもの、耳に聞こえないものに思いをはせる」という恩田のメッセージを心に留める1日となりました。 「興」と「入れ子」という説で日本文学に新たな地平を切り開いた恩田の近著『渾沌の恋人』は、各紙誌の書評で高く評価されていますが、開会挨拶に立った現代俳句協会の中村和弘会長も「日本文学をグローバルな視点で体系的に分析・集約した本であり、感動した。文体が素晴らしく、小説を読むようで思わず引き込まれた」と賛辞を送りました。恩田は、全身を揺さぶられた高校時代の名句との邂逅などに触れながら、「歳はとっても俳句はやまぬ、やまぬはずだよ先がない」の都々逸で会場を笑わせ、なごやかな空気の中で講演は進みました。 近著の内容に沿ったこの日の講演は、芭蕉、蕪村に始まり北斎の浮世絵、中国の詩経、フレーザーの金枝篇、タイラーのアニミズム、ピカソのキュビスムに至るまで、古今東西縦横無尽の視点から文学としての俳句の奥深さを再発見する旅、とでも言うべきものでした。聴き手にとってはまさに豊潤なひとときで、本を読んだ人は著者と俳句の魅力を再確認でき、未読の人は手にとってすぐ読んでみたくなったことでしょう。 とりわけ、恩田が「雲の峯幾つ崩(くづれ)て月の山」をはじめとする芭蕉や蕪村らの名句や若い時から心酔してきた蒲原の詩「茉莉花(まつりか)」を、ゆっくりと歌うように詠みあげる場面では、上質の朗読劇を聴くような心地よさが会場を包みました。俳句を始めて3年になるという聴衆の女性からは「ああ、俳句ってやっぱり詩なんだな、と感動しました」という声が寄せられました。あっという間の1時間余りでした。 恩田に先立って、「軸」主宰の秋尾敏氏が「桜井梅室の系譜—知られざる十九世紀俳句史」をテーマに講演し、軽妙な語り口で楽しませました。 (樸編集長 小松浩)      

思わず引き込まれる『渾沌の恋人ラマン』の読書案内です!

坂田昌一様(関西在住)のブログをどうぞ!

隣合ふとは薫風の中のこと

真剣に綿密に思考を重ねられた坂田様の本気にグイグイ引き込まれます。本書に登場する絵画のカラー図版が随所に添えられ、実感のこもった力作長編読書案内です。坂田様、ありがとうございます。 俳句の本質に向かって、時空を縦横に渉猟し−恩田侑布子『渾沌の恋人ラマン  北斎の波、芭蕉の興』備忘メモ− ◈2022.8.26   ワンクリックでご覧いただけます。↓ (1):http://bibou726-49.jugem.jp/?eid=401 (2):http://bibou726-49.jugem.jp/?eid=402 (3・完):http://bibou726-49.jugem.jp/?eid=403   

『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』書評陸続!②

渡辺先生候補2

『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社2022年4月19日刊) 刊行から数ヶ月、絶え間なく書評の栄に浴しています。心から厚くお礼申し上げます。    ◎井上康明氏「郭公」主宰 『俳句』2022年8月号 「交響の祝祭」  豊潤にして自在な俳句評論である。 やすやすと境界を越えるスリリングな論考は、日本文化から中国文化へ、海を越えウィーンのクリムトへと、一編の躍動する絵巻を眼前にするかのようだ。俳句の新しい豊かな可能性が開かれ、深く力づけられる。 ◎浅沼璞氏(俳人・連句人) 週刊読書人 2022年 8/5  「定説への叛逆」だが、しかし単なる「叛逆」ではなかった。芭蕉の杜国への留別吟〈白げしにはねもぐ蝶の形見哉〉を引き…、そこに芭蕉の恋句の真髄をみる。こうした連句と発句との区別なき批評は、俳ジャンルを超え、茶道・絵画・哲学などを往還する。そして歯に衣着せぬ「定説への叛逆」から新たな視点へと読者を誘う。          ※本書の詳細はこちらからどうぞ

図書新聞 (8/13)書評欄にて『渾沌の恋人ラマン』をご紹介いただきました

おほけなく身のうちにあり飛花の谷 恩田侑布子『夢洗ひ』 いつもより大きな字で 『夢洗ひ』は小さめに

神田ひろみ様、図書新聞2022年8月13日書評をありがとうございます。   図書新聞に俳人・文学博士の神田ひろみ様から書評を頂戴しました。 「消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間という、日本の美や文化の底を流れる思想の、最大の鉱脈を著者は手に入れたのだ。この一書を心から称えたい。」 このような最大の賛辞を頂戴し、執筆に費やした八年の歳月に改めて大きな意味をお与えいただいたと、あふれるような喜びを噛み締めております。心より御礼申し上げます。   恩田侑布子   消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間 神田ひろみ 絵巻の中に         本書には、これまで論理的に解明されてこなかった日本の芸術の風情や気配という目にみえぬものの姿が、明確に言葉によって示されている。その筆致は大らかで品位があり、私は読者の一人という立場を忘れる程に、共感した。 雑草とは    第一章。著者は和辻哲郎が渡欧の船上、京都帝大農学部の大槻教授が「「ヨーロッパには雑草がない」という驚くべき事実を教えてくれた」(『風土−人間学的考察』)という一節を引く。農学部生だった頃「雑草とは、許可なくして生えたる草」と教わったことを思い出した。そして、「雑草がない」という風土には「自然を人間が支配できるという西欧的思考」が生まれるであろうという、著者の主張に頷いた。  同じ章に、円覚寺塔頭での茶会の場面がある。著者は「茶室の中で、わたしたちはお道具というはるかな時代の人たちのいのちに囲まれていた」という。釜の前に座っているときの、不思議な心身の安定感はその見えない古人たちからの鼓舞、「過去や未来から切り離されてはいない」という感覚であったかも知れない。 止まれ お前は   同章「Ⅲ 二十世紀思想家の時間論」から「Ⅴ 日本の美と時間のパラドクス」にかけての、丸山眞男と加藤周一の時間論の検討は興味深かった。  丸山は日本の絵巻を「一方向的、、、、に無限進行してゆく姿(傍点恩田)」(「歴史意識の「古層」」)と捉える。一方、絵巻を加藤は「任意の時点(における世界)の自己完結性を強調する」(『日本文化における時間と空間』)ものと説く。また、   閑かさや岩にしみ入る蟬の声  芭蕉 の句について「そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、「今=ここ」に、全世界が集約される」(同前書)と加藤は述べていた。  著者はこれに対して、「日本人の時間観は、前者のいう「一方通行」でも、後者のいう「自己完結性」でもないのではないか」と反論、俳句の「切れ」を「時間が停まっている」とした加藤に、疑義を投げかける。  第四章「切れと余白」に、著者は「切れ」をこう述べる。「それは長大さや完璧さを尊ぶ美意識とは別次元から生まれた。途上のもの、小さいもの、忘れられたものに価値を置き、作り手と受け手が、その不満足な部分、謂いいおおせない部分で感情を通わせようとするはかなさに生い立った(中略)双方向」のものと。「切れ」は「けっして「時間が停まっている」場所ではない」のであった。  それにしても「そこでは時間が停まっている」は、似ている。『ファウスト』の中の、美しい時間に向って「止まれ お前は」と呼びかける言葉に、と私は思う。 誰も   第二章。著者は「日本語は人称や時制、単数複数があいまいな言語」といい、その例として   田一枚植ゑて立ち去る柳かな  芭蕉 をあげる。  これは「植ゑて」と「立ち去る」の「動詞の主語は誰か、長らく国文学者のあいだで侃々諤々かんかんがくがくの論争がくりひろげられてきた」句でもあった。著者は「掲句は、現実の芭蕉や早乙女を踏まえつつ、遊行上人や西行が柳を立ち去る幻影の多層構造をゆるやかに味わうように出来ている。主語は誰か、ではない。誰もだ。それでこそ遊行柳の風光は馥郁たる詩のふくらみをもつ」と解く。「人称や時制の乗換コレスポンダンスが呪力を帯びるときこそ、俳句は名句になる」と。主語はあなたでも、私でも、誰でもいいという著者の解釈に、人は励まされるのではなかろうか。 詩は「興きょう」   『詩経』の表現技法の一つである「興」を俳句の根源とみた著者は、古今の研究者の成果を第三章「季語と興」に、丁寧に取り上げる。 その一つ、「興に、草木をはじめとする自然のうちに人生を見、人生観の確立を求める後代の抒情詩の淵源をうかがうことは、興の未来に向かう生産性をも示す」という赤塚忠きよしの論に、俳句の足元を照らし出すような力を感じ、私は胸が打たれた。  抜いても抜いても生える地の雑草。時空を超えて茶席にやってくる見えない古人たち。  「始めも終わりもない絵巻の永遠の途上の時間」。切れてつながる芭蕉の俳句。  俯瞰すれば、北斎の『冨嶽三十六景』は絵巻の一景一景となって迫ってくる。  消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間という、日本の美や文化の底を流れる思想の、最大の鉱脈を著者は明らかにしたのだ。  この一書を心から称えたい。   

毎日新聞 (8/6)書評欄にて『渾沌の恋人ラマン』をご紹介いただきました

蠟梅のひと待つは風きざむこと 恩田侑布子『はだかむし』 いつもより大きな字で 『はだかむし』は小さめに

渡辺保様、毎日新聞2022年8月6日大書評をありがとうございます。   毎日新聞に演劇評論の大家、渡辺保様から身に余る書評を頂戴しました。「雲の峯幾つ崩て月の山  芭蕉」の拙著鑑賞の心臓部を引用してくださり、句の根底をなす「入れ子構造」は「興」と「切れ」によって輝く、と本書の核心を射抜いてくださいました。僥倖と申すほかありません。 「著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた(中略)。 著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ」 ご高評を反芻し、まさに身の引き締まる思いです。今後の精進を誓い、衷心より御礼申し上げます。      恩田侑布子   入れ子構造から広がる多面的世界 渡辺保    斬新な日本文化論が現れた。  たとえばここに芭蕉の句がある。   雲の峯みね幾いくつ崩くづれて月の山  芭蕉四十六歳の、山形県の月山の景色の句である。著者自身がこの句の、一般的として引用した井本農一の解釈は次の通り。 「高い雲の峰が夕日に映えている。月山を仰ぎ見れば、空には淡い月がかかっている。この夕暮の月のさす月山になるまで、雲の峰は幾つ立っては崩れ、崩れては立ったことであろうか」(井本農一ほか校注・訳『芭蕉文集 去来抄』小学館刊)  ごく一般的な解釈だろう。ところが著者はこの解釈は「知性で捉えた表層の貌かおにすぎない」として独自の解釈を提案する。すなわちここには五つの「入れ子構造」がある。第一に現に登拝している月山、第二に秋の月に照らされた山、第三に麓ふもとの刀鍛冶かじの銘「月山」、第四に天台止観でいう真如の月、第五に女性原理の暗喩。この五つの「入子構造を踏まえて多層的な音楽ポリフォニーのダイナミズムを味わ」えば次の様になる。  「今朝もわたしは見た。炎暑の大空に峯雲が雄々しく聳そびえ立つのを。その隆々たる純白の柱を。柱廊は太古から月山をどれほど荘厳しょうごんしてきたことか。涯かぎりなく繰り返された雲の輪廻よ。すでに日は没し、潰ついえ去った積乱雲はあとかたもない。日中のふもとの炎暑が嘘うそのようだ。冷ややかな月光に洗われて横たわる寂寞しじまの山よ。あなたは知っているだろうか。雲の峯はわが煩悩、風狂の思いでもあったことを。万物の声をひかりのように孕んで、万物と放電を交わさずにはいられないこの男の祈りを。いつか真如の月のようにかがやくまで、わたしは歩き続けよう。弓なりに身を反らせる刃、十七音の詩という刀を、月の香になるまで鍛うち続けよう」  「入れ子構造」というのは、本体に全く別のものを重ねて入れ込む手法をいう。当然そこに二重三重の意味を生じる。その五つの意味を著者が奔放に、しかし細緻に逃さぬ名訳である。引用が長くなったが、それは入れ子構造による方法の重要性を知って欲しいからである。入れ子構造そのものが問題なのではない。それによってどのような読み方が可能になったかが問題なのである。    そこで著者のしたことには三つの意味がある。  第一に、一般的な解釈の世界とは全く違う世界を発見した。その世界は著者が指摘するように、さながら二十世紀のピカソのキュービズムにも似た多面的な世界であった。  第二に、この世界の発見によって十七文字の短詩は、時空を超えて歴史的かつ日本の他の分野の文芸、演劇、絵画を一貫する文化の本質に至ることになった。それだけこの世界が日本文化の本質を含んでいたからである。  そして第三に、これがもっとも重要なことであるが、近代的な合理主義が切り捨てて来たもの、目に見えず、耳に聞こえず、その心だけが見、聞くことができるものを捉えることが可能になった。たとえば「月山」という銘の刀はあの雲の峯とどう対峙たいじしているのか。それが鮮明になったのである。    以上三点。著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた。それは大きく宇宙を目にすることを可能にしたばかりか、その宇宙の特質である細部の繊細な輝きも発見した。たとえば次の宇佐美魚目の一句    空蝉うつせみをのせて銀扇くもりけり  「空蝉」は蝉の抜け殻で、それを拾って銀扇に乗せた。著者の解は、 「やや古びて淡墨うすずみを帯びた扇の山と谷には、夏木立のひかりがうつろい、空の青さも溶け入っていよう。そのいぶし銀の空間に、蝉の空はしずかな位置を占める。瞬時、長く地中に生きていた息と体温がやどったのである。わずかばかり前、生身を満たしていた殻から水蒸気が投網とあみをひろげ、生と死がゆらぐ。それは白昼のほのかな幻影である」  なんという美しい幻影か。それは細部に宿ってなおかつ大きな空間に広がる幻影でもある。その感触は、喜多川歌麿から葛飾北斎に及び、さらに絵巻物の時空から、千利休の茶の湯、世阿弥の能楽に及んで一貫している。    さらにその広い空間から、著者は「興」と「切れ」という二つの概念に行きつく。「興」とは興趣、興味、興がるという言葉の示す通り、その作品の周辺に起き、作品の中から湧き上がって、それを享受する側の想像力を含めての、不可視のイメージの広がりを示すものである。  その一方「切れ」は俳句の短い詩形の中で作られて、場景、人格、道具の転換を可能にする、いわばブラック・ホールをいう。「興」はその作品を包む空気であり、それを蓄え、あるいは転換を可能にする仕掛けが「切れ」である。その「興」と「切れ」によってはじめて冒頭の「月山」の句の解釈による五つの入れ子構造のポイントが生きて働く。  この分析が新しい日本文化の視点になると私が思うのは、著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ。   

恩田侑布子の講演‼第46回現代俳句講座 聴講者募集中

第46回現代俳句講座のお知らせ 恩田侑布子が「『渾沌の恋人ラマン北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き」をテーマに講演‼ ゆいの森あらかわにおいて、もうお一方の講師は「軸」主宰の秋尾 敏氏です。現代俳句協会・現代俳句講座係に事前のお申込みが必要です。「興」と「入れ子」という新たな説を打ち立てた近著より、恩田が北斎画や茶の湯など日本文化の伝統と絡めながら、芭蕉の恋の句や綺羅星のような名句を解き明かす濃密な時間をおたのしみください。お一人でも多くの方にお聴きいただければ光栄に存じます。             恩田侑布子 日時  2022年9月24日(土)         13:30~16:45 会場  ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」 東京都荒川区二丁目50番1号 電話03-3891-4349 主催:現代俳句協会 共催:荒川区       ※ 詳細はこちらからどうぞ