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1月19日 句会報告  

20180119 句会報用1

平成30年1月19日 樸句会報【第41号】 新年2回目の句会です。入選4句、△1句、シルシ3句、・3句という結果でした。 兼題は「新年の季語を使って」です。 なお、1月7日分は特選、入選いずれもなかったため句会報はお休みさせていただきました。 今回の入選句を紹介します。(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)       〇初詣卯杖確たる師の歩み              杉山雅子 合評では、 「難しい言葉を使った、格調のある句」 「共感します。元気な師匠と一緒に初詣に来た。おめでたい情景」 「先生の人となりまで想像される。頑固な怖い先生だったのかな?でもそういう先生こそ慕われる」 「書道や技藝の先生でしょうか?」 「俳優の笠智衆を思いました」 などの共感の声がありました。 恩田侑布子は、 「うづゑは、卯の杖、初卯杖ともいう新年の季語。元は、正月初卯の日に地面をたたいて悪鬼をはらう呪術的なもので、大舎人寮から天皇へ献上した杖というが、今は初卯に魔除として用いる杖で、柊・棗・梅・桃などで作る。大阪の住吉大社、伊勢神宮、賀茂神社、太宰府天満宮の祭儀が有名です。静岡ではあまり馴染みがない難しい季語を使って、格調のある新年詠になった。正月の挨拶句として素晴らしい。こんな一句を弟子からもらえたら、先生はさぞかし嬉しいでしょう。確たるというところ、地面を叩く呪術的な祈りがリアルに感じられる。畳み掛けた季語も讃仰の気持ちと取ればいいのでは」 と講評しました。             〇初茜山呼応して立ち上がる              杉山雅子 この句は恩田侑布子のみ採りました。 恩田侑布子は、 「作者は元朝の幽暗に身を置いているのでしょう。初日の出を今かいまかと待っている。東の空がうす茜に染まり始めたと思うと、背後の山々がまるで呼び合うようにして、闇の中から初茜に立体感をもって浮き上がってくる。元朝の厳かな時間が捉えられている。二句とも杉山雅子さんの俳句で気迫がある。昭和四年生まれでいらっしゃるのに素晴らしい気力の充実です。今年も益々お健やかにいい俳句が生まれますね」 と評しました。 作者のお住まいは山に囲まれていて、そこから竜爪山(りゅうそうざん)(静岡市葵区にある標高1000m程の山)に登る人や下ってくる人をよく見かけるそうです。               〇光ごと口に含みし初手水             石原あゆみ 本日の最高点句でした。 合評では、 「上五から中七への措辞がうまい」 「情景がよく分かる。初日が射してきた。輝く水を口に含んだ。すらりと詠んで嫌味がない」 「新年のおめでたい感じがよく出ている」 「光ごと杓子で汲んだところを捉え、快感さえ感じます」 「素直にできているが、類句がないだろうか」 「うまいがゆえに既視感がある」 との感想が聞かれました。 恩田侑布子は、 「元旦に神社へ初詣したのだろう。御手洗で手をゆすいだあと、口に含む清らかな水が、ひかりと一体に感じられた。その一瞬を捉えて淑気あふれる句。過不足なく上手い。あまり巧みなので、類句類想がないかちょっと心配。なければいいですね」 と講評しました。 〇婿殿と赤子をあてに年酒酌む              萩倉 誠 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。 合評では、 「あまりにも幸せな光景。うらやましさが先に立ってしまって・・・(採れませんでした)」 「おめでたすぎるのでは?“孫俳句”の亜流のような気がする」 などの感想がありました。 恩田侑布子は、 「“あてに”が巧み。酒の肴、 つま(・・)にという意味。まことにめでたい光景。この世の春。“婿殿”の措辞にすこし照れがにじみかわいい。似た素材の句に、皆川盤水に〈年酒酌む赤子のつむり撫でながら〉がある。でも、こちらは婿殿と三者の関係なので違いますね。ちょっとごたついているので、“酌む”の動詞は省略したらどうでしょう。 →“婿殿と赤子をあてに年酒かな”でいいじゃないですか」 と評しました。 [後記] 本日配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。 「新年詠は、ふだんなかなか出来ない大らかな命や大地の讃歌を」 大方の連衆が納得する中で、「新年をおめでたく感じない人もいる。自分も強制されたくない」と異議が呈されました。このような“異論”が遠慮なく提出され、議論に発展していくのも樸句会の良いところではないでしょうか。 恩田は「『“新年詠”のない句集は物足りない』とある書店の社長さんがおっしゃっていました。人生は、悲しいこと、苦しいことのあることが常態ですが、“新年詠”が一句あると句集が豊かになり、拡がりを持ちます」と述べました。  次回兼題は、「息白し」「スケート」「新年雑詠」です。 ※ 今回の句会報から通し番号を記すことといたします。(山本正幸)

10月20日 句会報告と特選句

20171020 酒

10月2回目の句会が開催されました。雨続きの今秋ですが、静岡はこの日晴れ間が見え、暖かな日差しが差し込んでいました。 本日の兼題は「酒」。お酒を楽しまれる方が多い樸俳句会。実感のこもった俳句が多く盛り上がりました。高得点句を中心にご紹介してまいります。(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎一葉忌縦皺多き爪を切る              杉山雅子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                             ◯隣室は数学を吾は新酒を             藤田まゆみ 合評では、 「数学の難しい問題に挑むワクワク感と、新酒を飲むワクワク感。別々の部屋にいるのに静かなワクワク感が共通している」 「論理的な思考と、感情的な楽しみが隣り合わせになっている面白さのある句」 という感想が出ました。 恩田は、 「ユニークな内容に句またがりの破調が合っていて面白い。隣では数学の難問に取り組んでいる子ども、わたしはへっちゃらで新酒を傾ける。秋の夜長にそれぞれの楽しみがあっていい。型にはまらない個性的なのびのびとした俳句で楽しい」 と評しました。 ◯深酒を洗ひ流すや天の川             久保田利昭 合評では、 「酒飲みの心境がよく詠まれている。きれいな星空を見て、ちょっと反省することってあるよね」 「サラッとした句。ヒヤッとした夜の空気を感じる」 恩田は、 「酒豪はやることが大きい。深酔いして夜更け家路につくとき、天の川の下で酒気を洗い流すという。恩田は天の川で夢を洗う「夢洗ひ」でしたが久保田さんは酒を洗う「酒洗ひ」。してみると天の川はミルキーウェイじゃなく、どぶろくどくどくでしょうか」 と評しました。   ◯良寛のいろは一二三や草の花              伊藤重之  この句は恩田のみ入選で、ほかは誰も点を入れませんでした。 その理由として「あまりにも上手」「良寛にもたれかかってしまっていると感じた」というような意見が出されました。 恩田は、 「良寛に“いろは”“一二三”の双幅があって名高い。良寛の手跡のやわらかさと草の花が絶妙な配合で上手い句。欲をいうと技術力で書けてしまったような、どこか肉声から遠い感じのするうらみもある」 と講評しました。          [後記]  秋の季語には「酒」を含むものが多くこの兼題となりましたが、想像以上に幅広いお酒の種類が句に登場し、いつも以上に自由な明るい句会となりました。お酒は感情に直結する飲み物なので、句が思い浮かびやすいのかもしれません。飲めない筆者としては、羨ましい気持ちになりました。次回の兼題は「身に入む」「林檎」です。(山田とも恵)               特選       一葉忌縦皺多き爪を切る                     杉山雅子  縦皺の爪は老化現象といわれる。雨の降るような手足の爪を久しぶりに切る。気づけば今日は二十五歳で死んだ樋口一葉の命日十一月二三日。いつの間にか一葉の何倍も年を重ねてしまった。桜貝のような爪であった一葉のうら若い肉体を蝕んだ結核、病のなかではげしく才能を燃焼させて書き綴った不滅の文学作品、そして我が八十路の来し方をこもごも重ねみる。  一句の良さは対比された文学者一葉と私の命との等価性にある。どちらもずっしりと重く、その価値に軽重はない。冬の深まりにこの世に生きる悲しみを分かち合い人の世の不思議な運命を思う。 (選句 ・鑑賞 恩田侑布子)

9月15日 句会報告

photo by 侑布子

9月2回目の句会が開催されました。近年は9月でも猛暑が続くことが多かったように思いますが、 今年はすっかり秋の空。静岡は秋晴れが広がっていました。 本日の兼題は「秋の潮」「瓢」。恩田の特選はありませんでしたが、8月の“夏枯れ”から息を吹き返したような句が並びました。 それでは入選句を取り上げていきたいと思います。 ( ◎ 特選  〇 入選  【原】 原石賞   △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ )                        〇馬追の雨戸を閉める時鳴けり             藤田まゆみ 合評では、 「馬追の鳴き声に聞き入っている様子が目に浮かぶ」 「現代的なスチールの雨戸ではなく、木製の雨戸を思い浮かべた。ものを、日常を丁寧に扱っている姿が描かれている」 というような感想が出た一方、 「雨戸を閉める音で、馬追は鳴き止んでしまうのではないか?」 というような意見も出ました。 恩田は、 「夏の時間に慣れたままで過ごしていると、気付くと外がとっぷり暮れている。慌てて雨戸を閉めようとすると、馬追が鳴く。馬追はコオロギと違ってのべつ鳴くわけではないし、金属質な鳴き声ではなくどこかもの悲しく、秋の訪れを感じる。“雨戸”としたところが良い。雨が降っているわけではないが、句中に“雨”という文字が入ることで深層心理に雨のイメージが加わり、詩情が濃くなる」、 と講評しました。                     〇原生林抜けて明るき秋の潮              杉山雅子 合評では、 「秋=もの悲しい、というようなイメージで句を作ってしまいがちだが、この句は初秋の明るさを詠んでいる」 「リズム感がよく原生林(暗)と秋の潮(明)の転換、遠近の転換もある。平易な言葉を選んでいるので、俳句に馴染んでいない人にも分かりやすく、平凡だが、じわっとした力強さや生命感がある」 という感想が出ました。 恩田は、 「初秋・中秋・晩秋を感じ分ける感性が大事。“秋の潮”という季語には“さみしい”というような本意があるが、それを理解した上で明るさを詠んでいる。原生林を抜け、はっと思いがけないパノラマに出会う。「優れた句とは風景を描きながら、心象風景も描けている句だ」と草田男も言っているが、作者の来し方も感じられるような、安定感があり、句柄が大きい」 と講評しました。                    鑑賞終了後は、現代俳句界で注目を集めている田島健一さんの第二句集『ただならぬぽ』から23句を恩田が選び、語らいました。独特の世界観、言葉の使い方に一同頭を抱えつつ、この難解さは世代のせいなのか、それとも個性なのか話は尽きませんでした。 “世代の差”といえば作品世界と対峙する際に都合の良い逃げ道になるような気もするし、“時代の子”と向き合えば自分の抱いた感想に正当性を求めてしまうような気がします。自分の句と向き合い直すいい機会となりました。 次回の兼題は「案山子」「コスモス」です。(山田とも恵) 

8月25日 句会報告

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8月2回目の句会は猛暑日。樸俳句会も「夏枯れ」なのでしょうか? 特選句なく、入選1句、原石賞1句、シルシ11句、「・」(シルシまではいかないが、無印ではない)1句という惨状?でした。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                      〇漲(みなぎ)りし乳房の如く桃抱く              杉山雅子 恩田侑布子は、 「かつて“漲りし”乳房がわたしにもあった。そのときのようにいま、見事な白桃を胸に捧げ持つ。かつての若さをいとおしみ、目の前に生まれ出でた命を賛嘆する句。上五を過去形にしたことで、自分の身に引き付けた。母乳で子を育てたことの矜持もある。八〇代後半になられる雅子さんの作品とわかると、その若々しい感性にいっそう感動します」 と講評しました。                    【原】たなごころ居心地のよき桃一つ              松井誠司 「手のひらに置いた桃の重さが感じられる。桃は傷みやすいので持つのが難しい」 という感想がありました。 恩田は、 「“たなごころ”というひらがな表記がいい。実感をもって迫ってくる」 と講評し、次のように添削しました。  ゐごこちのよき桃一つたなごころ 「上五に“たなごころ”があると重量感が逃げていく。下五にもってくることによって、手に気持ちよくおさまっている桃の様子が浮かびませんか?」と問いかけました。 [後記] 本日の兼題の「桃」については、桃がお尻や乳房を連想させることもあって、オトナの議論がいろいろ広がりました。「深まった」かどうかは別ですが(笑)。やはり句会は楽しさが第一、と筆者は確信しております。  次回兼題は、「花火」と「稲の花」です。(山本正幸)

7月21日 句会報告

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7月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「空梅雨」「夏野菜」。 水不足が叫ばれつつある今日この頃。静岡市内の川も水の流れが途切れる瀬切れ現象が起きたと句会でも話題になりました。いつの時代も "空梅雨” は死活問題ですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ それでは高点句を中心に取り上げていきます。(特選句はありませんでした)                〇遣り水をとり合ふ桶の茄子トマト              松井誠司 「茄子トマトが“とり合ふ”という、擬人化が成功している句」 「擬人化は面白いが、採るどうか迷った句。 “とり合ふ”が良さでもあり、限界でもある」  と、俳句で成功するのは難しいといわれる擬人法について意見が交わされました。 恩田は、 「疎水から裏庭の桶に水を引き、その中で茄子とトマトが回転している様を擬人化している。擬人化だけでなく“茄子”“トマト” 季語が二つだが、茄子紺と赤の二色と形態が映発して美しい。しろがね色の水のひかりも勢いよく感じられる。夏の清涼感、取り立て野菜の生命感を感じ、擬人化が成功している」 と講評しました。                〇家なべて小橋を持てり誘蛾灯              杉山雅子 合評では、 「京都の貴船あたりが思い浮かんだ。景がよく見える」 「自分の家のためだけに橋を持つ、という豊さを感じた」 「三島辺りの風景か。うまい句と思う。水音も聴こえてくる。でもイメージがやや古いかなぁ」 恩田は、 「家々の生活の奥深さや、佇まいが感じられる句。誘蛾灯というやや薄気味悪い季語のなかに、それぞれの家のうかがい知れぬ妖しさがあり、そこには水生生物の蠢きも感じられる。疎水沿いの邸宅、上賀茂神社か、嵐山のあたりかもしれない。良い風景句」 と講評しました。                〇駅頭に布教のをみな旱梅雨              山本正幸 合評では、 「熱心に布教する人と、興味なく素通りする人、駅頭の決して交わらない風景をとらえた句で面白い」 「“旱梅雨”という季語を持ってくることによって “布教”を否定的(マイナスイメージ)にとらえているような気がする。句作の難しいところだ」 恩田侑布子は 「宗教に走る人、目の前の日常を生きるのが精いっぱいでそこに目もくれない人、まさに交わらない現代社会の人々を描いている。旱梅雨という季語が動かない 」 と講評しました。  句の鑑賞が終わった後は、恩田が静岡新聞夕刊に 毎週水曜日連載中のミニエッセイ「窓辺」について、感想を語り合いました。この連載を機に静岡県内の方々が俳句をより身近に感じたり、何気なくある風景にときめく機会が増えるといいなと思いました。筆者は県外在住ですが、静岡の豊かな風景に来るたび、ときめいています!次回の兼題は「金魚・汗」です。(山田とも恵)

7月7日 句会報と特選句

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7月1回目の句会。本日は七夕。静岡市清水区の七夕祭も今年で65回目になります。 兼題は「バナナ」と「虹」。特選2句、入選2句、原石賞2句、シルシ9句という結果でした。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ ◎虹の橋袂めざして走れ走れ             久保田利昭    ◎アリランの国まで架けよ虹の橋              杉山雅子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                                        〇置き去りのバナナ昭和の色となる              萩倉 誠 合評では、 「こういう発想は今までなかったのではないか。 “置き去り”が分かりにくいかもしれないが」 「古びていく昭和への哀感がある。高度成長した昭和の時代が去っていく寂しさ」 「バナナは昭和の象徴だろう。琥珀色の中に死んでいく昭和」 「“置き去り”のバナナと“昭和”の取り合わせに無理矢理感があるが、発想は面白い」 「“となる”が不自然」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「“意味”に還元していないところが良い。昭和の時代へのノスタルジア、ペーソスを感じ、説明できないニュアンスがある。それは良い句の条件でもある。季語が効いており、面白い感性だ。哀惜の情はあっても、昭和の時代への政治的な批判精神はない。哀惜の情を詠うとき批評は邪魔になる。昭和史の中に眠ろうとするあまたのエピソード。その人固有の体験を呼び覚まそうとしている」 と講評しました。                      〇虹立つやミケランジェロの指の先              塚本敏正 「リズムがすがすがしい。気持ちのいい句」 「私は “ピエタ”が好き。ミケランジェロの指から虹が立っている。本物の虹との二重イメージの句」 「ミケランジェロその人の指ではなく、真っ白な大理石の彫刻の指。例えば、巨人ゴリアテへ投げる石を持ったダビデの手を想像させる。虹は希望の象徴」 「“ダビデの像の”と作品を特定すれば、特選でいただいたのに」 との感想、意見。 恩田は、 「そのままミケランジェロの指と読むべきだ。固有名詞が効いている。例えば“草間彌生の”とすると“虹”と相殺してしまう。ミケランジェロだからこそルネッサンスの時代精神を体現し、芸術賛歌になっているし人間賛歌にもなっている。ミケランジェロの作品名を載せるとそこに収斂してしまう。ここにはエコーのような多層構造がある」 と講評しました。                     【原】スコール過ぎバナナの下に水平線              佐藤宣雄 恩田は、 「迫力のある句。景色に重量感と立体感があるが、上五を変えたい」 と講評し、次のように添削しました。  天霽(は)るるバナナの下に水平線                     【原】バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日々               西垣 譲 合評では、 「まもなく命が尽きるとき、最後に“これを食べたい”という欲望が出てくる。昔バナナは風邪をひかないと食べられなかった。戦争体験が背景にある」 「五七五に収まりきらず、内容は短歌的のように感じた。“切れ”はないが、一気に読み共感した」 「“喰ひ”のほうが良いのでは?」 などの感想と意見が出ました。 恩田は、 「生きるという実感のある句。“喰ひて”の字余りは問題ない。“喰ひ”だと“死なむ”に繋がっていかない。むしろ“日々”を変えたい。このままだと長いある一定の期間となり、理屈に解消し思い出話になってしまう。“あの時”という切実感を出したい」 と講評し、次のように添削しました。  バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日                   [後記] 恩田侑布子の句集『夢洗ひ』が、平成29年度の現代俳句協会賞(第72回)を受賞しました。芸術選奨文部科学大臣賞とのダブル受賞です。 句会冒頭、樸俳句会一同でお祝いを申し上げ、大きな拍手を送りました。連衆にとって励みになることです。 今回の兼題の「バナナ」について話が盛り上がりました。句会参加者の年齢層にあっては、当時のバナナは高級品。一日3本以上食べることもあるという人もいて、健康談義にまで広がりました。皆さんそれぞれ思い入れがあって句作に取り組んだようです。 次回兼題は、「空梅雨」と「トマト」です。 (山本正幸)                         特選                         虹の橋袂めざして走れ走れ                  久保田利昭  虹の脚や虹の根はよく俳句にされるが、「虹の橋の袂」は盲点かもしれない。しかも座五に「走れ走れ」と命令形を畳み掛けたところがユニーク。一読して、あまりにも楽天的な向日性を思う。が、一句の異様な無音に気付くや、世界は一転、不気味な悪夢のように思えてくる。走った末に行き着くところは虹の橋ではなく、袂にすぎない。しかも掴むことも登ることもできない幻かもしれない。それなのにひたむきに走る。もしかしたらこれは、底無しの虚無ではないか。楽天と虚無がメビウスの環のような階段になったエッシャーのだまし絵のような俳句。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)                                   特選                         アリランの国まで架けよ虹の橋                   杉山雅子  「アリランの国」という措辞がよく出たと感心した。何か他の国を象徴するもので代用できないか考えてみたが「サントゥールの国」では甘くなるし、「ウォッカの国」では虹が生きない。アリランは動かない。日本は韓国侵略の歴史をもち、近年は一部の人によるヘイトスピーチもある。また民族分断という悲劇の歴史も継続している。作者は隣国の庶民に深い共感を寄せ、幸せを祈る。それは自身が少女時代に戦争を体験したことも大きいだろう。アリランという哀調の民謡を唄う庶民に人間として共感を惜しまず、この虹を隣国まで架けようという心根は美しい。視覚的にもチマの鮮やかな遠い幻像に、大空の虹が濃淡をなして映発し合う。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

5月19日 句会報告と特選句

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風薫る5月2回目の句会。兼題は「木蓮」と「夏近し」です。 特選1句、入選8句、シルシ7句。恩田侑布子の言によれば「今回は粒選りでしたね」。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                                      ◎仏間にも母の面影大牡丹             塚本敏正 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                                         〇蝶や蝶おいてけぼりの地球人            山田とも恵              合評では、 「蝶は地球人を超越し、生命サイクルを繰り返している。蝶には平和も戦争もなく、また進歩も退歩もない」 「奇抜な表現の句。自然界の代表としての蝶から見たら人間は無様だ」 「“蝶や蝶”という呼びかけがいい。でも何から“おいてけぼり”なのだろう」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「蝶はのどかに飛びめぐり、人間だけが戦乱、差別、対立の中にいる。多義性があり、独特のリズム感があって面白い。特選にしようかと思ったが、やや意味が露わかな。芭蕉のいう、腸(はらわた)の厚き所より詠んでいるのかなと、ちょっと迷ったので」 と講評しました。                           〇夏近き突堤の風職退けり             山本正幸 合評では、 「定年退職した人の気持ちをよく表している。これからの人生への期待と不安」 「退職しても前向きの気持ちを持っている。突堤の風はきつい。そこに立って、決意をこめている」 「三段切れではないか? 三つのうち何を言いたいのかはっきりしない」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「やや措辞がごちゃついている。“夏が近い”“突堤の風”“退職”の三つが等価で、言葉がそれぞれ強さを持ってしまっている」 と講評し、次のように添削しました。  はつなつの突堤の風職退けり 「季語を変えることによって、突堤の風に爽やかさが出ませんか?」 と問いかけました。              〇若冲の白い象来る夏近し             杉山雅子                  「白い象は幻想だと思う。覆いかぶさるように、ふっくらした肉体の形が白象になってやって来る」 「静岡県立美術館にある若冲の絵の白象。それがこちらに向かってくる様子と季語が合っている」 などの感想が述べられました。 恩田は、 「ただの白象だと仏教を思わせる。若冲と限定したことによって屏風絵や画だとわかる。 “来る” と “近し” と意味的に近い動詞と形容詞の並びがやや気になるが、感性はとてもいい」 と講評しました。                         〇紫木蓮塀巡りたり人の荘             杉山雅子 恩田の講評。 「“人”とは“想い人”でしょう。山里の森閑とした山荘の塀を巡っている。玄関の戸を叩いたのか、鍵がかかっていてそのまま帰ったのか想像させる。「人の荘」という格調のある措辞によって塀の長さが出、自分とその人の間の距離を感じさせる。逡巡の気持ちと心理の陰影が、紫木蓮にこもった」                     〇短髪になりし少女や夏近し             松井誠司 「読めばそのとおりである。恋も愛もないけれど」 「“短髪”と“夏近し”が近いような気がする」 などの感想。 恩田の講評。 「うなじの抜き出た少女のユニセックスの感じに、さっぱりした夏の到来の間近さが表現された」                       〇主なきも咲きめぐりてや紫木蓮            久保田利昭 「まさに私の父が住んでいた家の様子そのもの。毎年紫木蓮が咲いていました」 との感想。 恩田は、 「短歌的だが、調べが美しい。「咲きめぐりてや」に、かつての主が知り得ない幾年ものめぐりが感じられる。上五のゆったりした字余りが内容に合っていて、紫木蓮が目に浮かぶよう」と講評しました。                      〇日溜りに猫の影なし夏隣            久保田利昭 恩田の講評。 「“不在”を句にした独特の面白い捉え方。猫のいない空白感によって、夏の近さを知った。 “夏隣”がいい。日常の気付きが自然な一句になった例」                       〇気まぐれにドーナツ揚げて夏近し             森田 薫 「夏が近づくというワクワク感がある」 との感想。 恩田の講評。 「“気まぐれに”の措辞は一読粗いようだが、この句の感覚に合っている。普段からまめに料理を楽しむ女性の弾むような五月の到来」                      ゝ 紫木蓮歳とらぬ子の一人いて             伊藤重之   本日の最高点の中の一句であり、話題になった句。 「“歳とらぬ子”とは夭逝されたお子さんなのか、結婚せずにまだ一人でいる子か。親の気持ちが感じられる。子どもの頃から変わらない可愛さ。 愛情の深さとせつなさが紫木蓮に表れている」 との解釈に対して、恩田は、 「分裂した解釈なので、どちらかにすべきです。両方を共に味わうことはできない」 と指摘しました。 「不思議な句。年齢はいっているが、精神的に歳をとらない子どものことでしょうか?それに対比される紫木蓮は大人びた感じを持つ」 「嫁き遅れた子のことか。心配だけれど手放したくないという気持ちでは」 「もっと深刻。精神的に病んで大人になったのではないか?」 「“紫木蓮”だからきっと大人のことなのでしょう」 など議論が沸きました。 恩田は、 「季語が動く。素直に読めば夭逝した子と考えるが、そうすると紫木蓮は合わない」 と講評し、次のように添削しました。  はくれんや歳とらぬ子の一人ゐて 「“はくれん”とすることによって無垢、あどけなさとあわれが出ませんか。幼くして死んだ子を想っている。また、春先の初々しさも出る。“紫木蓮”だから意味が分裂してしまうのでは?」 と解説しました。 [後記]  「歳とらぬ子」の句を巡る議論は句作の本質に触れるものではなかったでしょうか。個人的なことをどこまで詠むのか。「文学的真実」があればどんな内容であってもよいのか。そもそも、「文学的真実」とは?・・大きな問いを抱いて句会を後にした筆者でした。  次回兼題は、「夏の日」と「更衣」です。  (山本正幸)                                  特選   仏間にも母の面影大牡丹                 塚本敏正                  居間にも台所にも玄関にも、そして仏間にも亡き母の面影があらわれる。母は莞爾とほほえんで牡丹の花のようにひろがる。「大牡丹」の措辞から、母の存在がどんなに大きかったかがわかる。ふくよかにゆたかに慈愛に満ちていた母。幻の大きな牡丹の影が家じゅうに満ちて、どこに身を置こうと包まれる。仏壇に御線香をあげていると「お前、しっかりご飯食べているかい」と案ずる母の声がうしろから聞こえる。窓に若葉が揺れる。緑さす庭をもう一度手を引いて歩きたかった。牡丹という季語の本意に、中有の気配が新たに加えられた。      (選句・鑑賞 恩田侑布子)

4月21日 句会報告

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駿府城石垣の躑躅が咲き始めています。 兼題は「風光る」と「雲雀」です。 入選句、高点句を紹介していきましょう。恩田侑布子特選はありませんでした。 (今後、掲載句についての恩田侑布子の評価は以下の表記とします。) ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石賞  △ 入選とシルシの中間   ゝ シルシ      〇給食の残され組や揚雲雀            藤田まゆみ 合評では、 「なつかしさがある。給食を食べるのが遅くて教室に残された子たちへの作者の優しさを感じる」 「私も“残され組”だったので気持ちがわかる。外から雲雀の声が聞こえる。早く出てこいと」 という感想の一方で、 「私の頃は給食がなかったので、残念ながら理解できませんでした」 「今ではこれは体罰になってしまう。不登校になったらどう責任を取るのか、と親からクレームがくるだろう」 など世代間格差?を感じさせる発言もありました。 恩田は、 「田舎の野原の中の小学校を思う。雲雀は励ましているようでもあるし、からかっているようでもある。いずれにしてもかつての体感のこもったユニークな句」 と評しました。     〇風光るにつぽん丸の操舵室            山本正幸 合評では、 「清水港に子どもを連れて日本丸を見学に行ったことがあり、よく分かる句」 との感想。 恩田は、 「句としてできてはいる。その一面、ややステレオタイプで面白みに欠ける。絵葉書俳句」 と講評しました。     〇天空に声残してや落雲雀            松井誠司 恩田の講評。 「雄雲雀の哀れが出ている。自分の声の限界まで鳴いて、墜落のような落ち方をする。落雲雀にもはや声はないのに天空には残っているというところに詩がある。シンプルだが、忘れ難い句」     〇県境の尾根緩やかに風光る            佐藤宣雄 合評では、 「景が平凡」 との指摘。 恩田は、 「季語が生きていて、本意が捉えられている。気持ちがよく健やかな句である。“国境”だと月並みになるところだ」 と講評しました。 作者は、 「平凡な句になっちゃった。はじめは“尾根の石仏”だったが、それだとホントに月並みでした」 と句作を振り返りました。     【原】陽を乗せし富士傾くや落雲雀             杉山雅子 恩田は、 「過去形と現在形が混在しているので、ひとつの時制にすべきである。語呂もよくない。ただ、雲雀になりきっている作者の視点は面白く、身体感覚と一致した表現が素晴らしい」 と講評し、次のように添削しました。  日を載せて富嶽かたむく落雲雀   「こうすると落ちてゆく雲雀に乗り移った眩暈のような大景が見え、蛇笏ばりの格調が出ませんか?“富士”より“富嶽”にする方がダイナミックでしょう」 と解説。     スマホ繰るネールアートに風光る             萩倉 誠 これが本日の最高点句でした。議論が沸騰。 「素材の新しさ。そこに惹かれて採った」 「上五~中七ときて“風光る”という季語で締める。指先に光が集中していく面白さ」 「具体性があり、景がよく見える。ただ、細かく焦点を当てていくことと風景が合わないかも」 「電車で乗客の半分くらいがスマホに触っている風景かな」 「しゃれているが、季語とズレを感じる」 「“に”ではなく“や”で切ったほうがいい」 恩田は、 「シルシにしようか無点にしようか悩んだ。ありふれた光景であり、またカタカナだらけの句だ。風俗の新素材から句は古びていく。鮮度は感じない。動詞が多く煩雑で、散文的。季語の本意である清潔感が感じられず残念。スマホとそれを繰るネールアート自体がキラキラしていて、同じものが並んだ“お団子俳句”です」 と厳しい講評がありました。 [後記]  今回、恩田侑布子の無点二句が連衆の高点句になり、「選句眼」について考えさせられました。目新しい素材の句、季語の本意を踏まえていない句、知識だけで作った句などの見極めが大事なことを痛感しました。  次回兼題は、「春昼」と「蝶」です。     (山本正幸)