平成30年2月11日 樸句会報【第42号】 如月第1回の句会。名古屋と市内から見学の男性お二人が見え、仲間のふえそうなうれしい春の予感です。 特選1句、入選3句、原石賞3句、シルシ5句でした。 兼題は「息白し」と「スケート」です。 特選句、入選句及び最高点句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎スケートの靴紐きりりすでに鳥 松井誠司 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇白息を残しランナースタートす 石原あゆみ 合評では、 「まさに冬のマラソンの情景。選手の意気込みが映し出されている。垢ぬけている句」 「息を残しておきながらランナーはスタートしている。対照の妙がある」 「句の中に短い時間的経過が感じられる。箱根駅伝の復路でしょうか。白息のある場所にもうランナーはいない」 との共感の声がきかれました。 恩田侑布子は、 「発見がある。白息だけがスタート地点に残った。白息を吐いた肉体の主はすでにレースの渦中に飲み込まれた。その瞬間のいのちのふしぎを表現しえた句。ただ句の後半すべてがカタカナになって、ランナーとスタートの境がなくなり緊張感がゆるむのが惜しまれる」 と講評しました。 〇群立ちてわれに飛礫や初雀 西垣 譲 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。 恩田は 「作者が歩いてゆくと前方の群れ雀がおどろいて一斉にぱあっと飛び立った。一瞬、つぶてのように感じた。着ぶくれてのんびり歩いている自分に対して「もっときびきび生きよ」という励ましのように感じたのだ。新年になって初めてみる雀たちからいのちのシャワーを浴びた八十路の作者である。このままでも悪くないが“群れ立つてわれに飛礫や初雀”とするとさらに勢が増し、いちだんと臨場感がでるでしょう」 と講評しました。 【原】湯たんぽや三葉虫に似て古し 久保田利昭 本日の最高点句でした。 合評では、 「西東三鬼の“水枕ガバリと寒い海がある”の句を思い浮かべました。気持ち良く夢の世界に入りこめそう」 「時間が止まったようだ。また人もいないような感じがする。“古し”にアルカイックなものを感じた」 「素直な句。こねくり回しておらず、何の気取りもない」 「湯たんぽを使っているという“自嘲”もあるのでは?」 などの感想、意見が述べられました。 恩田侑布子は、 「感性と把握が素晴らしい。太古の生命の面白さが出ていて、“場外ホームラン”級の発見。ただし“古し”はよくない。芭蕉の言葉“言ひおほせて何かある”(『去来抄』)ですよ。言い過ぎで、意味の世界に引き戻してしまった。感性の世界のままでいてほしいのです。句は形容詞からそれこそ“古びて”いくのです」 と講評し、次のように添削しました。 三葉虫めく湯たんぽと寝まりけり または 湯たんぽの三葉虫と共寝かな 〇重心の定まらぬ夜と鏡餅 芹沢雄太郎 合評では、 「定まらない心とどっしりした鏡餅との対比が面白い。“夜と”と並べず“夜や”と切ったらどうでしょう?」 「句から若さを感じました」 との感想がありました。 恩田侑布子は、 「自己の不安定さとどっしりと座った鏡餅との対比。“青春詠”のよさがある。“と”だから、揺れながら生きている実感がある。この不安感はみずみずしい。夜の闇のなかに鏡餅のほのぼのとした白さが浮き立つ。うつくしい頼りなさ。作者のこれからの可能性に期待するところ大です」 と講評しました。 投句の講評の中で、今回の兼題について例句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。 息白くはじまる源氏物語 恩田侑布子 この亀裂白息をもて飛べと云ふ 恩田侑布子 スケート場沃度丁幾の壜がある 山口誓子 スケートの濡れ刃携へ人妻よ 鷹羽狩行 [後記] 今年から始まった日曜句会の2回目です。新しい参加者を迎え、新鮮な解釈が聴かれました。 次回兼題は「春炬燵」と「寒明け」。春の季語です。(山本正幸) ※ 恩田侑布子は昨年の芸術選奨と現代俳句協会賞に続いて、この度第9回桂信子賞を受賞しました。1月28日の“柿衛文庫”における記念講演が好評を博し、4月8日に東京でアンコール講演が予定されています。 追ってHP上でお知らせします。 特選 スケートの靴紐きりりすでに鳥 松井誠司 フィギュアスケーターは氷上で鳥になる。まさに重力の桎梏を感じさせないジャンプと回転。それはスケート靴のひもをきりりと結んだ瞬間に約束されるという。白銀の世界にはばたく鳥の舞。その美しさを想像させてあますところがない。「すでに鳥」とした掉尾の着地が見事である。折しも冬季オリンピックの前夜。作者のふるさとは信州で、下駄スキーに励んだという。土俗的なスキー体験がかくもスマートな俳句になるとは驚かされる。体験の裏付けは句に力を与える。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
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恩田侑布子詞花集 冬
恩田侑布子代表の句を季節に合わせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。今回は句座をともに囲む松井誠司による冬の句の鑑賞です。 冬の詞花集 白足袋の重心ひくく闇に在り 恩田侑布子 白足袋の重心ひくく闇に在り (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版) 句を味わう 俳句と出会って間もないころのことです。ラジオからこんなことが聞こえてきました。司会者の「この俳句は、どういう意味なんですか?」との問いに、作者は「こういうものは、あれこれ説明しないで、感じ取ってくれればいいんです」とのこと。その会話を聞いていた私は、「ふーん、そういうものか・・」と漠然と思っていました。しかし、よくよく考えてみると「感じてくれればいい」ということは、実に厄介なことのように思いました。というのは、物事の感じ方は十人十色なので、他人と完全に一致することはないからです。では、その人なりの感じ方でいいのかというと、これもまた妥協と背中合わせなので曲者なのです。 感性は、生来のものと今までにどれくらいそれを磨いてきたかによって、広さや深さが生まれてくるのだろうと思います。多くは生来のものでしょうが、私のような感性の乏しいものにとっては、ふだんから「感覚を磨く」ということを意図的にやっていかなければ、「味わう」広さや深さを深化できないのではないかと感じています。 こんなことを思いながら、恩田侑布子の句集『夢洗ひ』を読んでみました。が、句に内包されていたり句から醸成されていく世界を、残念ながらイメージできないものがいくつもあります。ですから、「どれがいい句か」と問われても答えられません。しかし、「どの句が好きか」と問われたなら、いくつかの句を挙げることはできます。 白足袋の重心ひくく闇に在り この句は平泉の延年舞に寄せる一連の作品として登場しますが、句を眼にした私には、田舎の粗末な舞台での奉納舞が浮かんできました。年に一度の祭りです。村人たちが何かへの祈りを込めて見入っています。舞人の膝と腰を少しまげて柔らかく、順応力を持った姿勢には、美しさがにじみ出ています。この日のための白足袋と装束が舞う姿は、人と神とをつなぎ、夕闇の中に描かれる「幽玄の世界」です。 恩田侑布子の句には「品のいいすごさ」があるように感じています。広範な知識を身に包んで、俳句という表現に昇華してしまう「すごさ」です。 幸い俳句には「定年制」はないので、これからもより豊かな味わい方ができるように、感じ取る心を磨いていきたいと思っています。 (鑑賞文・松井誠司)
10月6日 句会報告
10月1回目の句会。この時期、句会の催される「アイセル」から北方向にある「城北公園」(旧制静岡高校跡地)は金木犀の香りで満たされます。 入選2句、原石賞1句、△4句、シルシ4句、・2句。特選句はありませんでした。 兼題は「コスモス」と「案山子」です。 入選句および話題句を紹介します。 〇案山子立てん母の帽子に父のシャツ 山本正幸 合評では、 「案山子は句作に苦労する兼題だった。過去の風物であり、昔と違ってそんなに立っていない。“母の帽子に父のシャツ”というのが具体的で俳味もある。両親の仲睦まじさも思われる」 「作者はお茶目な人なのでは?面白い発想だ。ほのぼのとした作者の人柄が匂う」 という共感の声の一方で、 「“立てん”が気になった。むしろ“古案山子”などとしたほうが良かったのでは?」 「作者の“意志”は俳句にならないのではないかと思う。これだと標語になってしまう。“案山子立つ”で良いのでは?」 という意見もありました。 恩田侑布子は、 「古着で案山子の衣装を間に合わせるのだが、“母の帽子に父のシャツ”とはっきり特定したことで情景が鮮明に浮かび上がった。案山子を立てる人の両親が存命かどうかはわからないけれど、家中の古着を探して案山子によそおわせる気持ちが温かい。“案山子立てん”という意思表示で始まる元気のよさに、豊作への明るい祈りもこもっている」 と講評しました。 〇原子炉は草木を残し秋夕焼 松井誠司 「福島の原発事故を想起させる。人は退去させられて、残ったのは草木だけ。夕焼けを見る人もおらず、淋しい風景である。原発問題へのメッセージもこもる」 との感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「福島第一原発の風下になった汚染区域は今も人が住めず村落が消失、もしくは崩壊してしまった。当原子炉の直近は万年の単位で人が住めないだろう。草木だけは無心に生えひろがり、夕焼けはいつにも増してすごく美しい。地を覆う草木と夕焼けだけの風景は、人間の罪業ということを考えさせずにはおかない」 と講評しました。 ゝ遠く案山子そのまた遠く磐梯山 佐藤宣雄 本日の話題句。 合評では、「昔何回か行った裏磐梯を思い出した。なつかしい情景。郷愁を感じる」という共感の声。 投句の合評と講評のあと、鈴木太郎氏の俳句(句集『花朝』より21句抄出)を読みました。 恩田侑布子が朝日新聞紙面の「俳句時評」に取り上げた俳人です。 前回の句会で読んだ田島健一氏の句と違って、多くの連衆に共感を持たれました。作者と連衆の年齢が比較的近いことも関係しているのでしょうか。 特に点が集まった共鳴句は次の二句でした。 亡きものに手のひらみせて盆踊 鈴木太郎 母死にき寒中の息使ひきり 鈴木太郎 [後記] 本日の句会で配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。 「日常そのマンマや観念や雰囲気ではなく、一歩踏み込んだ具象化、詩の結晶化を!」 日頃見慣れた風景でも一歩踏み込むことや視点を変えることによって、見え方が違ってくるのでしょう。その昔読んだリルケの一行「僕は見ることを学んでいる」(『マルテの手記』)にも通ずるところがあるように思われます。 次回兼題は、「酒」です。燗酒が心身に沁みる季節となってまいりました。(山本正幸)
8月25日 句会報告
8月2回目の句会は猛暑日。樸俳句会も「夏枯れ」なのでしょうか? 特選句なく、入選1句、原石賞1句、シルシ11句、「・」(シルシまではいかないが、無印ではない)1句という惨状?でした。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ 〇漲(みなぎ)りし乳房の如く桃抱く 杉山雅子 恩田侑布子は、 「かつて“漲りし”乳房がわたしにもあった。そのときのようにいま、見事な白桃を胸に捧げ持つ。かつての若さをいとおしみ、目の前に生まれ出でた命を賛嘆する句。上五を過去形にしたことで、自分の身に引き付けた。母乳で子を育てたことの矜持もある。八〇代後半になられる雅子さんの作品とわかると、その若々しい感性にいっそう感動します」 と講評しました。 【原】たなごころ居心地のよき桃一つ 松井誠司 「手のひらに置いた桃の重さが感じられる。桃は傷みやすいので持つのが難しい」 という感想がありました。 恩田は、 「“たなごころ”というひらがな表記がいい。実感をもって迫ってくる」 と講評し、次のように添削しました。 ゐごこちのよき桃一つたなごころ 「上五に“たなごころ”があると重量感が逃げていく。下五にもってくることによって、手に気持ちよくおさまっている桃の様子が浮かびませんか?」と問いかけました。 [後記] 本日の兼題の「桃」については、桃がお尻や乳房を連想させることもあって、オトナの議論がいろいろ広がりました。「深まった」かどうかは別ですが(笑)。やはり句会は楽しさが第一、と筆者は確信しております。 次回兼題は、「花火」と「稲の花」です。(山本正幸)
7月21日 句会報告
7月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「空梅雨」「夏野菜」。 水不足が叫ばれつつある今日この頃。静岡市内の川も水の流れが途切れる瀬切れ現象が起きたと句会でも話題になりました。いつの時代も "空梅雨” は死活問題ですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ それでは高点句を中心に取り上げていきます。(特選句はありませんでした) 〇遣り水をとり合ふ桶の茄子トマト 松井誠司 「茄子トマトが“とり合ふ”という、擬人化が成功している句」 「擬人化は面白いが、採るどうか迷った句。 “とり合ふ”が良さでもあり、限界でもある」 と、俳句で成功するのは難しいといわれる擬人法について意見が交わされました。 恩田は、 「疎水から裏庭の桶に水を引き、その中で茄子とトマトが回転している様を擬人化している。擬人化だけでなく“茄子”“トマト” 季語が二つだが、茄子紺と赤の二色と形態が映発して美しい。しろがね色の水のひかりも勢いよく感じられる。夏の清涼感、取り立て野菜の生命感を感じ、擬人化が成功している」 と講評しました。 〇家なべて小橋を持てり誘蛾灯 杉山雅子 合評では、 「京都の貴船あたりが思い浮かんだ。景がよく見える」 「自分の家のためだけに橋を持つ、という豊さを感じた」 「三島辺りの風景か。うまい句と思う。水音も聴こえてくる。でもイメージがやや古いかなぁ」 恩田は、 「家々の生活の奥深さや、佇まいが感じられる句。誘蛾灯というやや薄気味悪い季語のなかに、それぞれの家のうかがい知れぬ妖しさがあり、そこには水生生物の蠢きも感じられる。疎水沿いの邸宅、上賀茂神社か、嵐山のあたりかもしれない。良い風景句」 と講評しました。 〇駅頭に布教のをみな旱梅雨 山本正幸 合評では、 「熱心に布教する人と、興味なく素通りする人、駅頭の決して交わらない風景をとらえた句で面白い」 「“旱梅雨”という季語を持ってくることによって “布教”を否定的(マイナスイメージ)にとらえているような気がする。句作の難しいところだ」 恩田侑布子は 「宗教に走る人、目の前の日常を生きるのが精いっぱいでそこに目もくれない人、まさに交わらない現代社会の人々を描いている。旱梅雨という季語が動かない 」 と講評しました。 句の鑑賞が終わった後は、恩田が静岡新聞夕刊に 毎週水曜日連載中のミニエッセイ「窓辺」について、感想を語り合いました。この連載を機に静岡県内の方々が俳句をより身近に感じたり、何気なくある風景にときめく機会が増えるといいなと思いました。筆者は県外在住ですが、静岡の豊かな風景に来るたび、ときめいています!次回の兼題は「金魚・汗」です。(山田とも恵)
6月2日 句会報告と特選句
6月1回目の句会。兼題は「夏の日」と「更衣」です。 特選2句、入選2句、原石賞1句、シルシ10句。粒揃いの句が多かった前回と比べると今回は不調気味。 兼題にもよるのでしょうか。浮き沈みの激しい?樸俳句会です。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎風立ちて竹林にはか夏日影 松井誠司 ◎先生の自転車疾し更衣 山本正幸 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇膝小僧抱きて見る君夜光虫 山田とも恵 合評では、 「幻想的な句。ロマンティシズムも感じられる。夜光虫の青白い光が“君”という人間のかたちになってくる」 「発想が面白い」 「膝小僧を抱くのが誰なのか分かりにくい」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「膝小僧を抱いて遠くから好きな人を見ている。海辺には大勢の仲間がいる。あの人が好きなのに傍に行けないもどかしさ。夜光虫のブルーの光が幻想的に渚を彩る」 と講評しました。 〇吹き抜けに大の字でいる夏日かな 久保田利昭 「こういう光景にあこがれる。誰もいないお寺かな」 という感想。 恩田は、 「天井の高い吹き抜けのフロアーに大の字で寝ころがる。高窓から午前の陽が射しており、まだ涼しい時間である。いまにもストレッチ体操でも始まりそうな健康的な感覚に溢れている」 と講評しました。 【原】立ちこぎて夏を頬ばる男子かな 萩倉 誠 合評では、 「自転車に乗って、頬ばった夏の風はどんな味がするのだろう?」 「風を受けて爽やかな感じが伝わってくる」 「“夏を頬ばる”の措辞で採った」 などの感想。 恩田は、 「“立ちこぎて”が耳慣れない。また“男子(だんし)”がそぐわないかな」 と講評し、次のように添削しました。 立ち漕ぎの夏を頬ばる男の子かな ===== 投句の合評と講評のあと、いつも恩田が現俳壇から注目の句集を紹介し鑑賞するコーナーがあります。 今回は5月29日の朝日新聞紙面の「俳句時評」で恩田侑布子が取り上げた上田玄氏の俳句(『月光口碑』より20句抄出)を読みました。 はじめに恩田から、作者を取材して知り得た来歴、時代背景などの紹介がありました。 連衆からは、 「挫折していった仲間たちを想って詠っていると思う」 「同世代として共感できる句がある」 「生きていくことへの決意を感じる。自分をスカラベに擬した句に共感」 「イメージが追いついていかない」 「いちいち辞書を引かないと理解がおぼつかない」 「戦争体験者としてはやや違和感がある」 「この世代の“戦争”とは“ベトナム戦争”を指すのではないか」 「謎めいている。謎解きを読者に強いる」 「深刻すぎないか? ナルシシズムを感じる」 「やはり万人に分かる俳句であるべきだろう」 「俳句というより“詩”に近いと思う。 『現代詩手帖』に出てきそう」 「この内容を読者に媒介する人、訳す人が必要」 など様々な感想や意見がありました。 恩田は、 「多行形式という表現技法は措いて、実に深い世界である。古典の素養も背景にある。こういう句を埋もれたままにしておいてはいけない、と思った。今、俳壇が軽く淡白になってゆく中で貴重だ」 と語りました。 一番票を集めた句は次の二句です。 人間辞めて 何になる 水切り石の 跳ねの旅 塩漬けの 魂魄を 荷に 驢馬の列 [後記] 上田玄氏の俳句について、同じ時代の空気を吸ってきた筆者としては俄かには評価しがたい感じに襲われました。まさに、おのれの来歴と現在の在り方を問うものであるからです。どの句にも “祈り”(家族への、友人たちへの、時代への、そして・・)がこめられていると思います。 次回兼題は、「麦秋」と「鮎」です。(山本正幸) 特選 風立ちて竹林にはか夏日影 松井誠司 夏日影は陰ではなく、夏の日のひかりをいう。純然たる叙景句は難しいが、技巧の跡をとどめない自然な句である。カタワカナカと6音のA音が主調をなす明るい調べも内容にマッチして心地よい。一陣の風に竹幹がしない、いっせいに大空に竹若葉がそよぎわたる。はつなつの光が放たれる里山の光景である。竹の琅玕、若竹のみずみずしさ、きらきらと透き通る日差しのなかに、読み手もいつしらず誘われてゆく。 藤枝市在の白藤の瀧への吟行と、あとから聞く。地霊も味方してくれたのだと納得。 特選 先生の自転車疾し更衣 山本正幸 更衣の朝、通学路は一斉にまばゆいワイシャツの群れとなる。「おはよう」。背中からさあっと風のように追い越してゆくひと。あ、先生だ。作者の憧れの先生は女性だが、読み手が女性なら男の先生を想像するだろう。初夏の風を切ってゆく背中が鮮やかである。更衣の季語から朝の外景に飛躍し、はちきれんばかりの若さにあふれる。疾しと、中七を形容詞の終止形で切り、座五を季語で止めた句姿も美しい。一句そのものに涼しいスピード感がある。 (選句 ・鑑賞 恩田侑布子)
5月19日 句会報告と特選句
風薫る5月2回目の句会。兼題は「木蓮」と「夏近し」です。 特選1句、入選8句、シルシ7句。恩田侑布子の言によれば「今回は粒選りでしたね」。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎仏間にも母の面影大牡丹 塚本敏正 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇蝶や蝶おいてけぼりの地球人 山田とも恵 合評では、 「蝶は地球人を超越し、生命サイクルを繰り返している。蝶には平和も戦争もなく、また進歩も退歩もない」 「奇抜な表現の句。自然界の代表としての蝶から見たら人間は無様だ」 「“蝶や蝶”という呼びかけがいい。でも何から“おいてけぼり”なのだろう」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「蝶はのどかに飛びめぐり、人間だけが戦乱、差別、対立の中にいる。多義性があり、独特のリズム感があって面白い。特選にしようかと思ったが、やや意味が露わかな。芭蕉のいう、腸(はらわた)の厚き所より詠んでいるのかなと、ちょっと迷ったので」 と講評しました。 〇夏近き突堤の風職退けり 山本正幸 合評では、 「定年退職した人の気持ちをよく表している。これからの人生への期待と不安」 「退職しても前向きの気持ちを持っている。突堤の風はきつい。そこに立って、決意をこめている」 「三段切れではないか? 三つのうち何を言いたいのかはっきりしない」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「やや措辞がごちゃついている。“夏が近い”“突堤の風”“退職”の三つが等価で、言葉がそれぞれ強さを持ってしまっている」 と講評し、次のように添削しました。 はつなつの突堤の風職退けり 「季語を変えることによって、突堤の風に爽やかさが出ませんか?」 と問いかけました。 〇若冲の白い象来る夏近し 杉山雅子 「白い象は幻想だと思う。覆いかぶさるように、ふっくらした肉体の形が白象になってやって来る」 「静岡県立美術館にある若冲の絵の白象。それがこちらに向かってくる様子と季語が合っている」 などの感想が述べられました。 恩田は、 「ただの白象だと仏教を思わせる。若冲と限定したことによって屏風絵や画だとわかる。 “来る” と “近し” と意味的に近い動詞と形容詞の並びがやや気になるが、感性はとてもいい」 と講評しました。 〇紫木蓮塀巡りたり人の荘 杉山雅子 恩田の講評。 「“人”とは“想い人”でしょう。山里の森閑とした山荘の塀を巡っている。玄関の戸を叩いたのか、鍵がかかっていてそのまま帰ったのか想像させる。「人の荘」という格調のある措辞によって塀の長さが出、自分とその人の間の距離を感じさせる。逡巡の気持ちと心理の陰影が、紫木蓮にこもった」 〇短髪になりし少女や夏近し 松井誠司 「読めばそのとおりである。恋も愛もないけれど」 「“短髪”と“夏近し”が近いような気がする」 などの感想。 恩田の講評。 「うなじの抜き出た少女のユニセックスの感じに、さっぱりした夏の到来の間近さが表現された」 〇主なきも咲きめぐりてや紫木蓮 久保田利昭 「まさに私の父が住んでいた家の様子そのもの。毎年紫木蓮が咲いていました」 との感想。 恩田は、 「短歌的だが、調べが美しい。「咲きめぐりてや」に、かつての主が知り得ない幾年ものめぐりが感じられる。上五のゆったりした字余りが内容に合っていて、紫木蓮が目に浮かぶよう」と講評しました。 〇日溜りに猫の影なし夏隣 久保田利昭 恩田の講評。 「“不在”を句にした独特の面白い捉え方。猫のいない空白感によって、夏の近さを知った。 “夏隣”がいい。日常の気付きが自然な一句になった例」 〇気まぐれにドーナツ揚げて夏近し 森田 薫 「夏が近づくというワクワク感がある」 との感想。 恩田の講評。 「“気まぐれに”の措辞は一読粗いようだが、この句の感覚に合っている。普段からまめに料理を楽しむ女性の弾むような五月の到来」 ゝ 紫木蓮歳とらぬ子の一人いて 伊藤重之 本日の最高点の中の一句であり、話題になった句。 「“歳とらぬ子”とは夭逝されたお子さんなのか、結婚せずにまだ一人でいる子か。親の気持ちが感じられる。子どもの頃から変わらない可愛さ。 愛情の深さとせつなさが紫木蓮に表れている」 との解釈に対して、恩田は、 「分裂した解釈なので、どちらかにすべきです。両方を共に味わうことはできない」 と指摘しました。 「不思議な句。年齢はいっているが、精神的に歳をとらない子どものことでしょうか?それに対比される紫木蓮は大人びた感じを持つ」 「嫁き遅れた子のことか。心配だけれど手放したくないという気持ちでは」 「もっと深刻。精神的に病んで大人になったのではないか?」 「“紫木蓮”だからきっと大人のことなのでしょう」 など議論が沸きました。 恩田は、 「季語が動く。素直に読めば夭逝した子と考えるが、そうすると紫木蓮は合わない」 と講評し、次のように添削しました。 はくれんや歳とらぬ子の一人ゐて 「“はくれん”とすることによって無垢、あどけなさとあわれが出ませんか。幼くして死んだ子を想っている。また、春先の初々しさも出る。“紫木蓮”だから意味が分裂してしまうのでは?」 と解説しました。 [後記] 「歳とらぬ子」の句を巡る議論は句作の本質に触れるものではなかったでしょうか。個人的なことをどこまで詠むのか。「文学的真実」があればどんな内容であってもよいのか。そもそも、「文学的真実」とは?・・大きな問いを抱いて句会を後にした筆者でした。 次回兼題は、「夏の日」と「更衣」です。 (山本正幸) 特選 仏間にも母の面影大牡丹 塚本敏正 居間にも台所にも玄関にも、そして仏間にも亡き母の面影があらわれる。母は莞爾とほほえんで牡丹の花のようにひろがる。「大牡丹」の措辞から、母の存在がどんなに大きかったかがわかる。ふくよかにゆたかに慈愛に満ちていた母。幻の大きな牡丹の影が家じゅうに満ちて、どこに身を置こうと包まれる。仏壇に御線香をあげていると「お前、しっかりご飯食べているかい」と案ずる母の声がうしろから聞こえる。窓に若葉が揺れる。緑さす庭をもう一度手を引いて歩きたかった。牡丹という季語の本意に、中有の気配が新たに加えられた。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
4月21日 句会報告
駿府城石垣の躑躅が咲き始めています。 兼題は「風光る」と「雲雀」です。 入選句、高点句を紹介していきましょう。恩田侑布子特選はありませんでした。 (今後、掲載句についての恩田侑布子の評価は以下の表記とします。) ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石賞 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ 〇給食の残され組や揚雲雀 藤田まゆみ 合評では、 「なつかしさがある。給食を食べるのが遅くて教室に残された子たちへの作者の優しさを感じる」 「私も“残され組”だったので気持ちがわかる。外から雲雀の声が聞こえる。早く出てこいと」 という感想の一方で、 「私の頃は給食がなかったので、残念ながら理解できませんでした」 「今ではこれは体罰になってしまう。不登校になったらどう責任を取るのか、と親からクレームがくるだろう」 など世代間格差?を感じさせる発言もありました。 恩田は、 「田舎の野原の中の小学校を思う。雲雀は励ましているようでもあるし、からかっているようでもある。いずれにしてもかつての体感のこもったユニークな句」 と評しました。 〇風光るにつぽん丸の操舵室 山本正幸 合評では、 「清水港に子どもを連れて日本丸を見学に行ったことがあり、よく分かる句」 との感想。 恩田は、 「句としてできてはいる。その一面、ややステレオタイプで面白みに欠ける。絵葉書俳句」 と講評しました。 〇天空に声残してや落雲雀 松井誠司 恩田の講評。 「雄雲雀の哀れが出ている。自分の声の限界まで鳴いて、墜落のような落ち方をする。落雲雀にもはや声はないのに天空には残っているというところに詩がある。シンプルだが、忘れ難い句」 〇県境の尾根緩やかに風光る 佐藤宣雄 合評では、 「景が平凡」 との指摘。 恩田は、 「季語が生きていて、本意が捉えられている。気持ちがよく健やかな句である。“国境”だと月並みになるところだ」 と講評しました。 作者は、 「平凡な句になっちゃった。はじめは“尾根の石仏”だったが、それだとホントに月並みでした」 と句作を振り返りました。 【原】陽を乗せし富士傾くや落雲雀 杉山雅子 恩田は、 「過去形と現在形が混在しているので、ひとつの時制にすべきである。語呂もよくない。ただ、雲雀になりきっている作者の視点は面白く、身体感覚と一致した表現が素晴らしい」 と講評し、次のように添削しました。 日を載せて富嶽かたむく落雲雀 「こうすると落ちてゆく雲雀に乗り移った眩暈のような大景が見え、蛇笏ばりの格調が出ませんか?“富士”より“富嶽”にする方がダイナミックでしょう」 と解説。 スマホ繰るネールアートに風光る 萩倉 誠 これが本日の最高点句でした。議論が沸騰。 「素材の新しさ。そこに惹かれて採った」 「上五~中七ときて“風光る”という季語で締める。指先に光が集中していく面白さ」 「具体性があり、景がよく見える。ただ、細かく焦点を当てていくことと風景が合わないかも」 「電車で乗客の半分くらいがスマホに触っている風景かな」 「しゃれているが、季語とズレを感じる」 「“に”ではなく“や”で切ったほうがいい」 恩田は、 「シルシにしようか無点にしようか悩んだ。ありふれた光景であり、またカタカナだらけの句だ。風俗の新素材から句は古びていく。鮮度は感じない。動詞が多く煩雑で、散文的。季語の本意である清潔感が感じられず残念。スマホとそれを繰るネールアート自体がキラキラしていて、同じものが並んだ“お団子俳句”です」 と厳しい講評がありました。 [後記] 今回、恩田侑布子の無点二句が連衆の高点句になり、「選句眼」について考えさせられました。目新しい素材の句、季語の本意を踏まえていない句、知識だけで作った句などの見極めが大事なことを痛感しました。 次回兼題は、「春昼」と「蝶」です。 (山本正幸)