本日はスペイン国王と妃殿下、天皇皇后両陛下がご来静。会場近くの静岡浅間神社では稚児舞楽をご覧になりました。通規制のため、少し遅れて句会が開かれました。 兼題は「古草」と「春障子」です。 (句頭の記号凡例) ◎ 特選 〇 入選 【原】原石賞 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ 高点句を紹介していきましょう。 ◎早退けの少女かくまふ春障子 山本正幸 ◎妻と子は動物園へ春障子 西垣 譲 (下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ) 〇古草や突つ込んでおく古バイク 西垣 譲 合評では、 「情景がよく分かる。懐かしく、温かい感じ」 「家庭の物置の日陰。倉庫に入らないから横っちょに。とり合わせが面白い。」 「バイクへの愛情を感じる」 「いや、もう乗らないので、その辺に突っ込んでおくのですよ」 「“古”が二回出てくるのが引っかかる」 「でも、それが逆にいいのでは。」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「“古”が味を出している。このふたつの“古”は違う。古草は去年の草だが、古バイクは10年も20年も乗ってきて愛着があり、その思い出を裏に潜めている。“古”に濃淡がある。“突つ込んでおく” というぶっきらぼうで勢いのある言葉が上五と下五を繋ぎ、血の通った俳句となった」 と講評しました。 〇約束を反故にし寝ねり春障子 佐藤宣雄 合評では、 「読めばすぐ分かる句。何か理由は知らないが出て行くのが嫌になったのだろう。“春障子”に温かさがあり、“反故にし”で滑稽味も出た」 「“寝ねり”という無責任さが男っぽい。“反故にし”に意志が感じられるが、逡巡もあるのでは。」 「居直ってますよ。反省していない!」 と感想、意見はまちまち。 恩田は、 「独特の身体感覚による春障子。すっぽかしておきながら明るさがまとわりつき、居心地が悪くて安らぐことができない。屈折した心理を春障子がうまく受け止めている」 と講評しました。 〇古草や鎌の手止める貫頭衣 松井誠司 「最近うちの菜園の手入れをした。古草は根を張っていてしぶとい。この句からはその生命力が感じられる」 「“貫頭衣”が分かりにくかったが、登呂遺跡での光景でしょうか。愛着を感じる句」 との感想。 恩田は、 「弥生人の生活の息吹が生々しく伝わってくる。作業のふと手を止めた瞬間を切り取っている。古草と貫頭衣の取り合わせが面白く、絵画的に決まった」 と講評しました。 ゝ庭石のみな角とれて草古し 杉山雅子 「昔は格式のあった古い家。その庭の石をいろんな人が踏んで通っていったのだろう。」 「日本風の落ち着いた住まい。住人は若い頃バリバリ働き、老いた今も矍鑠としている。住む人の息遣いや人物像まで投映している」 との感想が聞かれました。 恩田からは、 「落ち着いた日本の家の庭の様子を詠んでいるが、季感が薄い。“みな”はあいまいな形容であり、甘い。感じは分かるが焦点が定まらない。もう少し中七を工夫して、自分の観点で焦点を絞り直したら」 と厳しめの講評がありました。 ゝ古草やひそりと昭和閉ぢてゆく 伊藤重之 「“ひそりと”に心情的に共感する。哀惜の心」 と共鳴の声。 恩田は、 「その“ひそりと”が根付いていない。俳句は副詞や形容詞から古びていくので気をつけなければいけない。また、“閉ぢてゆく”という時間の経過表現があまりよろしくない」 と講評しました。 [後記] 今日の恩田侑布子の指導テーマは「観念から詩的真実(リアル)へ」。今回は観念に堕ちていく投句が目立ったとのこと。「意味や理屈を離れて、詩のリアルを獲得してほしい」といつもにも増して熱く語った恩田代表でした。 今回、私が「古草も新草もなく犬尿(いば)る」の句を採らせていただいたとき、恩田侑布子代表から「季重なりですが、いいのですか?」と問われました。「犬は古草と新草の区別もつかず、季語を知りませんから」と私が答えたところ、「それが理屈!そこから離れなければいけません。理屈を追い出すこと」と一刀両断されました。まさに今日のテーマ!(ちょっと堪えましたが納得です) 次回兼題は、「風光る」と「雲雀」です。(山本正幸) 特選 早退けの少女かくまふ春障子 山本正幸 頭が痛くなったのか、お腹が痛くなったのか。大した病気ではなさそうだが、思春期の危うさを感じる。桜の咲く前の柔らかいひかりが障子を明るい雪洞のようにしている部屋に引きこもる。それを春障子が意思あるように「かくまう」といった。あえて不穏な言葉を使ったことで「異化効果」が生まれ、春障子が呼吸をし出す。少女との間にあたかも密事(みそかごと)がなるよう。清楚なエロティシズムまで感じられる。言語感覚のよろしい極めて繊細な句。 特選 妻と子は動物園へ春障子 西垣 譲 ぬけぬけとした長閑さがユニーク。ちょうど妻と子が動物園のゴリラを見ている間、一家の主人である作者は所在無く春障子の明るいふくらみの中にいる。ついていけばよかったかな。いやいや、騒がしいやつらのいない日曜の昼間はなんて貴重なんだ。一抹の寂しさの中に満足感があり、いかにも春昼の風情。「へ」は俳句では難しいが、うまく働いている。そこはかとない俳味がある。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
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2月3日 句会報告
節分の句会。兼題は「当季雑詠(冬、新年)」です。 今回は恩田侑布子の特選、入選、原石賞のいずれもなくフチョーでした。 なかから△印の高点句を紹介します。 冴ゆる夜の監視カメラの視線かな 久保田利昭 「“冴ゆる夜”と監視カメラという機械の冷たさが一致している」 「冷たいキーンとした感じが出ている。カメラの無表情な視線がある。自然と人工の対比」 「監視カメラが意志をもって視ていることの気持ち悪さが表されている」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「季語が効いている。“視“が重なってくどいようだが、こう言わないと句にならない。無機的なものが有機的なものに転化し、ぎょっとする瞬間をつかまえた。現代を詠んでいる。座五もよい」 と講評し、さらに、 「“花鳥諷詠”だけではなく、自然環境や社会環境など2017年の現代に生きていることを詠むのは大切。“複眼の思想”を持ちたい」 と述べました。 三センチ歩幅広げる古希の春 松井誠司 「“一歩”ではなく“三センチ”が現実的でいい。70歳を迎え、前向きに生きようとしている」 「共感します。街で女の子に追い抜かれたりするんでしょ」 「共感! 歩幅を広げて歩くのは体にいい。意識してやらないと」 「健康雑誌に載りそうな句。糸井重里さんのコピーみたい」 など共感の声が多く出ました。 恩田は、 「懐かしい、情の豊かな句。歩幅を広げて速歩きするのは老化防止にいいそうです。中七にやわらかい切れをつくりたい」 とし、次のように添削しました。 三センチ歩幅広げて古希の春 「“て”で切れが生じ、リズムもよくなりませんか。俳句は音楽性をもつ韻文であることをこころがけて」 とうながしました。 枯枝の先一寸の人類史 伊藤重之 「はかなさと危うさ。リズム感があり、言い切っているのがよい」 「よく分からないが、なんとなく捨て難い句。イメージを膨らめていったのだろう」 などの感想。 恩田は、 「裸木に生物進化の系統図を投映した句。人類は威張っているが、地球生命史の上では誕生して間がない。戦争と殺戮を繰り返している人類への批判もある。しかし、季感が薄い。進化の系統図そのままで飛躍がなく、知的操作の勝った句」 と講評しました。 [後記] 今回の投句がやや低調だったのは「正月疲れ」なのでしょうか。しかし、かえって口角沫を飛ばす議論が百出し、みんなホットになりました。 恩田の「今回は説明や報告の投句が多かったように思う。俳句は韻文。叙述してはいけない」との指摘にうなずきながら句会を後にしました。 次回の兼題は「紅梅」「若布」です。乞うご期待!(山本正幸)
1月20日 句会報告と特選句
新年2回目の句会が催されました。兼題は「枯野」「御降」「雑煮」です。 今回は力作揃い。高点句や話題句などを紹介していきましょう。 単線の地平に消えり大枯野 久保田利昭 恩田侑布子原石賞。 「景が大きい。単線に親しみを感じる」 「景色が見えるが、地平と大枯野が重なるように思う」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「“消えり”は日本語として間違い。終止形が‟消ゆ”であるので、ここは‟消ゆる”か‟消えし”が正しい。‟消ゆる”は現在形で含みが感じられ、‟消えし”は過去形となり調べはいいが少し弱くなる。‟消ゆる”にすれば、‟の”が切字として働く。鉄路と枕木のみが続いている眼前の光景。単純な映像に迫力がある。謎があり、それからどうなった?と連想が広がっていく」 と講評しました。 御降や一直線の下駄の跡 松井誠司 恩田侑布子入選。 「雨の後、下駄の跡だけ続いている光景で、詩的である」 「雪だと思う。年あらたな清浄な雰囲気が出ている」 「きれいでいいが、やや既視感がある」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「雪だろう。無垢な感じがよく出ており、一種のめでたさがある。歳旦詠はかくあるべきで、有難さがにじみ出ている」 と講評しました。 一生(ひとよ)とは牛の涎と雑煮喰ふ 萩倉 誠 「生活感が溢れている。面白い句。一生を涎のように気長に暮らす。若い頃はこういう気持ちにはならないのだろう。「と」ではなく、「か」「や」「ぞ」で切ったほうがいいか」 「人生は牛の涎と同じという発想が面白い」 「「商いは牛の涎」ということわざがある。それと同じで人間の一生は切れ目がないという見方に脱帽」 などの感想、意見の一方で、 「なんか臭ってきそう。お雑煮が美味しくなくなる」 との拒否的(?)な感想も。 恩田は、 「大胆な発想の飛躍がある。何十回と繰り返している正月、昨年も一昨年もこうだったなと。牛の反芻に結び付けたことが効いている。雑煮の神聖性を引っくり返した。俳味あり。自己戯画化が面白い」 と講評しました。 今回の句会では、「(ボブ)ディラン」を詠み込んだ句(特選句)への合評が引き金となり、「引用」の問題が話題に上がりました。 「固有名詞、地名等を詠むとその言葉の喚起力やイメージに頼りすぎてしまうのではないか」という疑問の声。また、「分かる引用と分からない引用がある。鑑賞者の立場も考慮すべきであろう」との意見もありました。 恩田は、「地名、人名、文学作品等を引用するのも表現の冒険である。イメージに頼るというのならば、まさに季語がそうであり、すべてが引用ともいえる。引用の句を否定したくない。可能性が広がる」と持論を述べました。 [後記] 「引用」をめぐる議論が白熱しました。引用した言葉に、思ってもみなかった角度から光を当て、新たないのちが蘇るような句を詠みたいなあ、と皆さんの発言を筆記しながら考えておりました。 次回の兼題は「春を待つ(待春)」「寒晴」です。(山本正幸) 特選 ディラン問ふ 「Hoどwdoんyouなfee気l」分と枯野道 萩倉誠 子どもの頃、ディランやビートルズの歌声は容赦なく耳に入った。団塊の世代は熱狂し、級友たちもコーラと同じように親しんでいた。あれから半世紀。 1965年ディランのヒットシングル「Like a Rolling Stone 」の歌詞を中七に引用し、日本語訳をルビとした異色作である。あの頃、深い気持ちや思想哲学はカッコ悪かった。フィーリングがすべてだった。時代は老い、高度経済成長の右肩上がりの日本は、少子高齢社会となった。 「どんな気分?だれにも知られず転がり落ちてゆく石は」が本歌と知れば、句意はいよいよ深い。青春前期だった作者は、いまディランより少し遅れて古稀に近づいた。作者は両親の墓参りに富士山の裾野の大野原を通ったそうな。枯野のむこうにこの世を転がってゆく石のイメージがある。地平線に仄みえる死の幻影は、「feel」という措辞によってあかるく軽くなる。現実感の希薄さは枯野をあてもなくただよう。 「作者が誰かに質問される句はみたことがない」という意見が合評で出た。そう、そこに新しみがある。不変のディランの歌詞。一変した作者と時代。枯野道には長い時がふり積もる。 俳句技法に熟達した人が「と」が気になるという意見を述べた。 「Hoどwdoんyouなfee気l」分 ディランの問へる枯野道 ルーチン通りならこう添削するが、原句の味は死んでしまう。座五の「と」のイージーさが、フィーリングの時代を生きて来た寄る辺なさに合っている。それを感じていたい。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
1月6日 句会報告
謹賀新年。静岡は上天気の正月となりました。句会の行われる「アイセル」からほど近い静岡浅間神社には三が日で50万人の人出があったようです。 今回の兼題は「師走」と「暖房」です。 高点句や話題句などを紹介していきましょう。 恩田侑布子特選句はありませんでした。 宅配の路地をすり抜け十二月 久保田利昭 恩田侑布子入選句 「なにげない風景だが、届ける先の人がどんな人か想像させる。路地という言葉から、そんなに裕福ではない暮らしなのだろう。高齢者かもしれないが、たくましく生きている」 「“すり抜け”のスピード感がいい」 「季語の本意、本情を買った」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「季感が横溢している。働く人の実感が中七にこもり、届けられて喜ぶ人の顔が見える。“すり抜けて”でなく“すり抜け”でスピード感が出た。“路地を”の‟を”が効いていて弛みがない」と講評しました。 嘘ばれるように暖房消えにけり 佐藤宣雄 「エアコンのことだと思った。消すと室外機が変な音を立てて止まるような」 「石油ストーブと思う。比喩が面白い。暖房が消えた寒さと心の寒さが重なる」 「ストーブが消えたことにふと気づく。ウソがばれた冷たさ」 と感想、意見が出ました。 恩田は、 「レトロなストーブを連想した。可愛い嘘、悪質ではなく愛らしい嘘なのだろう」と講評しました。 呆けたる身を素通りす師走かな 佐藤宣雄 恩田侑布子原石賞 「最近このようなことを身をもって感じる。歳月を経てきた気持ちを代弁している」 「師走で忙しい他人の雑事とは関係なくボケている。自虐的な句で皮肉と滑稽さがある」 「自身の加齢を客観的にみている」 など感想、意見。 恩田は、 「‟呆ける”をほうけると訓ませるのはどうか。‟惚ける”か‟耄ける”であろう。また、句形に誤りがある。‟かな”で終わるときは、上五~中七で圧力を高めていって、一挙に‟かな”でひびかせる。「また、この句は‟素通りす”と、終止形で切れてしまっている」と述べ、次のように添削しました。 ぼけし身を素通りしゆく師走かな 「立句になり、自己客観化による自嘲の句になりませんか」と解説しました。 米を研ぐ指の透き間に十二月 松井誠司 恩田侑布子原石賞 「指の透き間から時間が通り過ぎていってしまう。中七がいい」 「十二月にこのような中七を持ってきた。白魚のような女性の指を思う」 「きれいな指と水の冷たさを想像できるきれいな句」 と感想、意見。 恩田は、 「行間に寂しさが感じられる。365日、誰にも評価されずに指の透き間を流れていった日々。こうやって研いできて、今、十二月にたどり着いた感慨がある」と講評しました。 [後記] 今年の初句会。年賀の挨拶もそこそこに、皆それぞれ早速選句に没頭します。沈黙に支配され、張り詰めたこの時間が筆者は好きです。今回も句の合評からさまざまな話題に飛びました。言葉の持つ喚起力を感じます。 次回の兼題は「当季雑詠(冬、新年)」です。(山本正幸)
俳句野あそび 句をつくるということ ・・・安定から不安定へ・・・
藤村の「初恋」の詩を愛唱したのは、いつのころだっただろうか。農作業の合間に三本鍬を傍らにおいて父がこの詩を口ずさむのを聞いたことがきっかけだった。七五調の調べは、心地よさを感じさせてくれる。幼少期を決して豊かでない農村で、少しだけ文学に興味を持っていた父のもとで育った私にとっては、七五調は、まさにゆりかごのようなものだった。口にして心地よく、気持ちが「安定」し全身が落ち着くのである。 しかし、数年前に「俳句」に出会い、初めて句を作ってみると、出来たものは安定の中にあり、切れや余白がまったくないものばかりなのである。つまり、説明的になってしまっているのだ。理屈ではなんとなくわかっているように感じてはいるが、いざ句を作ってみると散文調なものになってしまうのである。無意識のうちに俳句の持つ「不安定さ」にしり込みし、ブレーキをかける自分がいるのである。 たとえば、こんな句を作ったことがある。「菅笠や花野の中に見え隠れ」・・先生のご指摘は、菅笠と花野の中に、という言葉の中に「見え隠れ」する様子はふくまれているのだから、これは必要ない言葉である。このように説明的になるのは「心の中に渦まくような思い」がないからである・・とのこと。しかし、当の私にとっては「見え隠れ」としないと、なんともおぼつかなく、気持ちが安定しないのである。 俳句を学ぼうとしたのは、その道の専門家になろうとしたのでは勿論ない。これからの人生を少しでも心豊かに過ごしたいと思ってのことである。やや大げさに言うなら精神の高みを求めてのことである。しかし、自分のある部分を変えるということは、人間の「本性」に属するだけに、ややこしいことなのだ。野球のバットの振り方とか陸上の走り方とかいう「属性」に関することなら、練習次第で改善はできるが、その人そのものに関することは難しいものだ。 わずかでも安定さを打破し、自分自身のものの見方や感じ方などの「ささやかな変化」を求めて、俳句に向き合っていきたいと思う。それが、これからの時間を豊かにしてくれそうだから・・・。(文・松井誠司)