
2021年9月5日 樸句会報 【第108号】
コロナ禍で客足が遠のき、惜しまれながら閉店したデパートの跡地は、ワクチン接種会場として利用されていました。街を歩くたび、そうした寒々しい変化に出会います。そのワクチンにしても、ブレイクスルー感染が散見されるなど絶対的とはいかず、引き続き行動に制限が加えられることに。患者数の増加をみた静岡県では、八月二十日からの緊急事態宣言が九月末まで延長となり、今回報告する九月五日の句会もリモートで行われました。 兼題は、「九月」「花野」「松虫」です。
二句を紹介します。なお、連衆の評は、選句した会員の文章より抽出したもので、原文のままではない旨、ここでおことわりします。
○入選
摩天楼崩れし九月青い空
林彰 【恩田侑布子評】 忘れられない九・一一の空。それは世界中の人々が画面で共有した痛烈な二十一世紀の幕開けでした。たしかに雲ひとつない青空でした。ゆえにニューヨークの超高層ビルに突っ込んでゆく機影と、直後の黒煙の拡がりが、悪夢の静止画像の堆積のように胸底ふかくに沈殿しました。米中枢同時多発テロ事件の規模の大きさと残虐性は、その後二十年に及ぶ米軍のアフガニスタン侵攻となり、先月末の米軍撤収に終わるまで、あまたの子らや民間人殺傷の痛ましい歴史を刻みました。掲出句は、ことばでは何も告発していません。しかし、高度資本主義社会の象徴たる「摩天楼」が自爆テロに崩れ、それが初秋を告げる「九月の青い空」であったところに、人類普遍の慟哭があります。 【合評】 911同時テロから20年。この「青い空」は何か? 実は、CO₂を排出しまくって取り返しがつかないほど空を大気を破壊したお前たちこそ、よほど恐ろしい環境テロリストだと罵っているのだ。上中12音と下5音は不可分で、よく読めば流れるような調べだ。私の読みはそうはずれてはいない。秀逸ではあるが、長生きしてもろくなことはないと思わせる句である。
○入選
踊場にひとり九月の登校日
鈴置昌裕 【恩田侑布子評】
新型コロナウィルスが猛威をふるい、新学期は通学日とリモート学習日が入り混じっているのでしょう。そのたまさかの登校日です。もともと学校嫌い集団嫌いの上に、長い夏休みじゅう家に居た身には、ざらつく九月の残暑です。「踊場」は廊下続きのそれではなく、外階段でしょう。と、すると大学生かも知れません。出席だけとって、ふらりと日陰の踊り場で、そよ風混じりに構内を見渡しているのかも。宙ぶらりんでどこにも行けない「踊場」と、夏が終わったばかりで不安定な「九月」の季語の間に、青春期のひりつく感覚がリアルにとらえられています。 【合評】 長い夏休みが終わり、始業式終了後の昼少し前、授業は無く、生徒たちは帰宅するか部活へ。ひっそりとした踊り場に佇み、ひとり夏の忘れ物を探しながら見つめる秋。季語も動かない。
中途半端な場所。明るくもあり暗くもある光が、孤独な心を照らす。
【後記】
たぎるような陽光の下、深い間隙を覗かせているのが「九月」。入選作は、声なき叫びにみちた光景をまざまざと浮かび上がらせました。2001年の同時多発テロでは救助活動に携わった方々を含め、あまりに多数の貴重な命が失われ、二十年を経た今でも、痛みとともに恐怖が甦ります。登校日を取り上げた作者も、学童の自殺が増えており、特に八月と九月に多発している件を知り、かつて、その日を迎えるのが憂鬱であった自分と重ね合わせて詠んだと述べていました。
私事ですが、九月の喪失といえば、今回の兼題の一つにまつわる子供の頃のつらい思い出があります。夏休みのほとんどを祖父母の家で過ごし、新学期、自宅からさほど遠くない「花野」を久しぶりに訪れたところ、なんと造成地となっていました。足しげく通っては草や鳥たちのさざめきに耳を傾けていたのに、コンクリートで囲われた、ただの土に変えられていたのです。湿地が多くを占め、宅地には向かない土地でした。かくのごとき暴挙は各地で振るわれたに違いなく、明らかに近年の土砂災害の頻発につながっています。
暗い話になりました。このままでは「長生きしてもろくなことはない」とうなだれてしまいそう。私たちにもできることがあるはずです。花野について考えるのは、たしかな一歩となり得るのではないでしょうか。例えば、草原を保存するため、そこから得られる資源を飼料とするなど、様々な試みが行われています。
恩田の第三句集である『空塵秘抄』を手に取ってみましょう。秋の作品を中心とした章――「賽」七十七句に浸るうち、秋は五行説の金に属し、色は白であると、体感できるのが不思議です。一句を引用します。
闇迫る花野の深井忘れめや 脆弱でありながら、あまたの輪廻を実現し、さびしさのある美しさが人々を魅了してきた花野。その本質を照らし出す作品に心を寄せ、命にかけがえのないこと、受け継がれてきたからこそ今ここにあることを、忘れないようにしたいと思います。
(田村千春) 今回は、〇入選2句、△5句、ゝ11句、・13句でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ============================= 2021年9月22日句会 入選句 ○入選
鶏頭に触るるゆびさき獺祭忌
猪狩みき 【恩田侑布子評】
子規の代表句の一つ〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉を踏まえる句です。今回、衒学趣味の臭みが目立つ典拠の句がいくつかあるなかで、これはすこしもペダントリーではありません。まごころがこもっています。植物とは思えない鶏頭の硬い重量感のある実質を目の前にして、たじろぐ作者がいます。「触るるゆびさき」に、子規の三十五歳という短い、それゆえに常人の成し遂げ得ぬことを病床で成し遂げた赫奕たる生涯に対する畏怖の念がこもっています。
○入選
芋煮るや投票はがきならそこに
古田秀 【恩田侑布子評】
里芋の煮ころがしをつくりながら、あれこれにいそがしく追われながら、なんとなく誰に投票しようか、どうしようか、と選挙のことも考えています。
「投票用紙はそこにあるんだっけ。今度の日曜日だな」
庶民のよりよい生活に政治が直結していてほしいという思いが、口語のさりげなさに感じられます。里芋と投票はがきの取り合わせがよく響き、手垢がついていません。句の下半分を平仮名にして脱力したところも神経細やかです。

平成30年12月21日 樸句会報【第62号】 平成三〇年の年忘れ句会は、ゴージャスそのもの。連衆の一年ぶんの頑張りが結晶し、ゆたかな果実が並びました。どの果実も、作者のしっかりした足場、その人ならではの深い根っこをもっていることが「あらき俳句会」の誇りです。なんと特選二句、入選四句!ほかにも胸を打つ句や、作者の暮らしに立ち会うかの肌合いが迫る句が多かったです。この一年間、あらきのHPをご愛読いただきました皆様にもこころから感謝を捧げます。ありがとうございます。どうぞお健やかに、佳い年をお迎え遊ばされますよう。
(樸代表 恩田侑布子)
特選
婚姻は刑のひとつか冬薔薇
山本正幸
「結婚は人生の墓場」とはよくいわれる。筆者も同感する一人だが、作者はさらにきわどい。刑の一つではないかと、自己と他者に問いかけるのである。しかも「結婚」ではなく、性的結合の継続をより含意する「婚姻」である。時の流れか若気の至りかで結婚してしまったものの、その後の長い他人との共同生活は、苦役を通り越して刑罰にさえ感じられる。座五の「冬薔薇」がまた暗示的。一見美しいフォルムは、よくみれば霜枯れて花弁は無残に黒ずみ、小さな花冠に比して、鋭い鋼の棘はびっしりと茎を覆っている。逃げられない牢獄のように。鉄の門扉が威圧するかのように。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)
特選
セーターに着られまんまる母の背
石原あゆみ
人が服を着ているのではなく、服に着られている。そういうことがママある。ここにはふくふくした真新しいセーターの中に、すっかり縮んで小さくなってしまった母がいる。漢字わずか三つの平明な表現だが、特に「まんまる」という口語表現がいい。苦労と心配をかけて来た母の背なをみつめる娘のまなざしが透きとおっている。「お母さん、新品のセーター、自分では似合っているつもりなんでしょ」と言いさして、いつの間にか背のまるまった母に、じっと心からの感謝を捧げている。「背(せな)」という開放音Aの体言止めに余韻がある。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)
◯柚子百果草間彌生と混浴す
村松なつを 「俳句の一字おそるべし」とは、この句のためにあることばだと思った。一字違えば超ド級の特選句だったから。しかし、ひとまずは原句を解釈しよう。異色の柚子湯の光景であることは間違いない。「百果」だから、柚子のみならず林檎やかりんや蜜柑など、多彩な果物を浮かべた湯のごちゃごちゃの中、天下の異才との混浴図になる。すでにおわかりのように、果が「顆」なら最高の俳句になる。柚子を百個ほど浮かべた湯は、草間彌生の代表作、あのドット模様のかぼちゃシリーズ一連の作品に見紛う、この世ならぬ湯舟になるのである。黄色のはじけるような色彩と球形と相まって、かぐわしい香りに満ちた空間は迷宮的でさえある。その水玉の只中に、赤いウィッグのおかっぱ頭に色白で豊満な草間彌生が浸かっている。「あなた、だあれ」と振り向いた刹那である。柚子湯という古典的な家庭行事、冬夜の秘めやかなよろこびの季語を、摩訶不思議な現代アートに変容させた作者の力技には脱帽するほかなかった。「顆」であったなら!
(恩田侑布子)
◯編み進むほどセーターは君になる
海野二美 マフラーやミトンを編んで好きな人にプレゼントする女性は多かった。しかし、セーターとなると難易度が格段に高い。半端な気持ちでは編めない。だいたい小学校のリリアンしかやったことのない筆者には夢のまた夢。この句の作者は本気だ。「編み進むほど」という措辞に、たしかな手応えを感じる。両手から生き物のように細糸の華麗なセーターが編み出されてゆく。結句の「君になる」に、セーターを編みながら幻想する恋人の胸や肩のリアルな量感が出現する。その若々しいエロスの火照りを味わいたい俳句である。
(恩田侑布子)
◯輪郭を光らせて猫冬至る
石原あゆみ 逆光の路地の猫であろう。それも三毛のような和猫ではなく、ロシアンブルーのような毛足の長く細いしなやかな猫を思う。シャープに切り取られた寡黙な画面は、ただ一匹の美猫のもの。凡手ならば下五を「冬至かな」としてしまったかもしれない。「冬至る」の措辞は鮮度が高い。猫の逆光の毛足の繊細さに、冬そのものの本質を感受した断定の見事さ。 (恩田侑布子)
◯あの頃のセーターさがす鬱金いろ
林 彰 詩情あふれる俳句である。「あの頃のセーターさがす」というユーミン調の十二音を、座五の「鬱金いろ」が見事に受けとめている。まさに動かしようのない帰着といっていい。麦穂色ともいいたくなる深いカームイエローのふっくらとしたセーターが眼に浮かぶ。作者は納戸の奥に眠っている昔のセーターをなぜか無性に着たくなって引っ張り出してみたのだろう。そこに現れたのはすでに色相を超えた「鬱金いろ」としかいいえない魅惑を秘めた柔らかなある時間だった。それは青春のかがやかしい日々。いや、よく読むと作者はまだそのセーターに再会していない。さがしている途中らしい。母の遺品のシュミーズで有名な写真家の石内都を思うまでもなく、衣服は思いのほか年をとらない。古びない。鬱金いろのセーターに詰まった鬱金いろの日々。もう一度その洞(うろ)にもぐりこんでみたい。 (恩田侑布子)
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句の合評と講評のあとは、芭蕉の『野ざらし紀行』を読み進めました。 蔦(つた)植(うゑ)て竹四五ほんのあらしかな 手にとらば消(きえ)んなみだぞあつき秋の霜 わた弓や琵琶(びは)に慰(なぐさ)む竹のおく それぞれの句の解釈と背景の説明が恩田からありました。晩年の「軽み(蕉風)」とは違い、ここには「悲愴激越」の芭蕉の姿がある。芭蕉という人間は本質的に激情の人であった。芭蕉は自己変革をし続けた人。また、王維など中国の古典をしっかり踏まえていることなども述べられました。
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[後記]
恩田が冒頭に書いているとおり、今回の句会は平成30年の納めに相応しい豊穣な会となりました。
一年を通していつも熱い樸でした。また、今年から始まった金曜句会での『野ざらし紀行』の講読は芭蕉の文学への良い導きとなっています。
句会報を納めるにあたって筆者の個人的な事柄を書き記すことをお許しください。
今年、悲しかったことは石牟礼道子さんのご逝去です。
1969年、出版されたばかりの『苦海浄土』に二十歳の筆者は震撼させられました。1972年に大阪で開催された水俣病関係の集会でお姿に接しました。「こんなに小さな方がこの闘いを!」と、そのときの印象は強く心に残っています。その後、折にふれて石牟礼さんの作品に接し、水俣病にとどまらず近代における<加害>と<被害>の関係とその意味を自分なりに問うてきました。生と死のあわいを往還するような、また地霊が宿るような石牟礼さんの詩歌や散文は筆者の中でこれからも息づき続けることと思います。
4月15日には東京・朝日ホールで催された「石牟礼道子さんを送る」集まりに参加しお別れさせていただきました。石牟礼さん、ありがとうございました。
樸俳句会でも今年は二回にわたり石牟礼さんの句集を鑑賞し、その俳句は連衆の間に静かな感動を呼びました。恩田は、石牟礼さんの句を「等類がない俳句」と評し、『藍生』2019年2月号追悼号に「石牟礼道子全句集」について評論を寄せています。
『石牟礼道子全句集 泣きなが原』についてはこちら さようなら、石牟礼道子さん 2018.4.15
うれしかったこと。句会でも取り上げられた句集『黄金郷(エルドラド)』の著者上野ちづこ(上野千鶴子)さんの講演を拝聴する機会がありました。『黄金郷』にご署名を頂戴するとともに少しく言葉を交わしていただけたのです。恩田に師事していることを伝えると、「そうなんですか。恩田さんは静岡にお住まいでしたね。どうぞよろしくお伝えください」と微笑まれました。
上野ちづこ『黄金郷(エルドラド)』についてはこちら 樸HPの読者の皆様、明年もよろしくお願い申し上げます。(山本正幸)

平成30年8月5日 樸句会報【第54号】 八月第1回の句会です。
特選1句、入選2句、原石賞1句、シルシ5句、・4句という結果。前回の不調から一気に好調に転じた樸俳句会です。
兼題は「鬼灯」と「海(を使った夏の句)」です。
特選1句と入選2句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
◎海月踏む眠れぬ夜に二度も踏む
芹沢雄太郎
(下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)
〇大の字に寝て炎昼を睨みつけ
松井誠司 合評では、
「今年は猛暑。ホントこんな気持ちです。響いてくるものがあります」
「“睨みつけ”の視線の強さがいい」
「座五で炎昼を押し返すパワーを感じました」
「“大の字”と“睨みつけ”で炎昼のつらさを表現した」
「下五を連用形にしたのがよい」
など共感の一方で、
「“睨みつけ”でなければいいのに・・。よけい暑くなってしまうじゃないですか!」
「“睨みつけ”の理由と意味が分かりづらい」
などの感想も述べられました。
恩田侑布子は、
「まさに家の中で大の字になって寝ているところ。部屋の窓から燃え盛る炎昼がみえる。それを横目で睨んでいるのです。こんくらいの炎天に負けてたまるか!という気概ですね。寝ながら見栄を切っているような滑稽感もある。作者のいのちの勢いが感じられます。合評にもありましたが、連用形で終わったところがいい。ここに切れ字を使ったら型にはまってしまいますものね」
と講評しました。
〇横たわるかなかなと明け暮れてゆく
林 彰 合評では、
「“横たわるかなかな”とは絶命間近の蝉のことですか?それとも“横たわる”で切れるのでしょうか?両方の読みができるような・・」
「夕闇が近づいてくる実感がありますね」
「夏バテ気味。がんばりたいけどがんばれない。さびしい蝉の声・・。今日も一日過ぎていくのだなぁという感慨がある」
「子規っぽい。病床にある感じがよく出ており、内実がこもっている」
との感想のほか、
「それでどうした?というような句じゃないですか。“と”って何ですか?」
との辛口評も。
恩田侑布子は、
「“横たわる”でしっかり切れています。山頭火のようですね。または、放哉に代表句がもう一つ加わったような感じさえします。破調感が強いが、句跨りの十七音です。実感がこもっています。リアルな息遣いのある口語調です。蜩には他の蝉にはない初秋のさびしさがあります。社会の片隅で生きる弱者の気持ちになり切って、作者はそれを肉体化している。まさかお医者さんの林さんの作とは思いませんでした。長足の進歩ですね!」
と講評しました。ちなみに、林さんは名古屋の職場には自転車通勤、句会には新幹線通勤?です。 ...
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。