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12月1日 句会報告と特選句

photo by 侑布子

 12月1回目の句会が行われました。 この日は句会終了後に樸俳句会の忘年会が開催されることもあってか、いつもに増して真面目な雰囲気の句会だったように感じました。今回の兼題は「落葉・霜・冬季雑詠」。久しぶりに特選句も出て、大いに盛り上がりました。 今回の入選句をご紹介します。                浮雲のどれも陰もつ一茶の忌              伊藤重之   合評では、 「俳句の形としてお手本のような句」 「一茶の幸福とは言えない人生が見えるよう」 「“陰もつ”を“陰もち”にした方が、切れが深くなるのではないか」 という意見が出ました。 恩田侑布子は、 「生涯辛酸を舐め続けながらも俳諧自由のこころを失わなかった俳人一茶への共感がある。浮雲は年中見られるけれど、“どれも陰もつ”という措辞に十一月の季感がただよい、肌寒さを感じさせる」 と講評しました。                 落葉踏む堤の端にひとりかな             藤田まゆみ 恩田は、 「堤の突端 まで落葉を踏んでゆく。つくづく誰も居ないなと思う。作者の背後には落葉が記憶のように降り積もっている。孤独感とさみしさをうたって、嫌味や押し付けがましさのないところがいいじゃありませんか」 と講評しました。               リヤカーの塀に倒立石蕗の雨              森田 薫 合評では、 「絵として美しく情景が見えるようだが、リヤカーが立てかけてある情景を“倒立”とするところに少し違和感を持った。“塀に立てかけ”のほうが自然ではないか」 という意見が出ました。 恩田は、 「一枚の絵に完全になっている。内塀でしょう。ほとんど使わないかすでに使い手のいなくなったリヤカーが、広い元農家の敷地片隅の塀に立てかけてある。しずかに降る雨が過ぎ去った時間を慰撫するよう。日のひかりの薄い初冬の情景として出色」 と講評しました。  下記に掲載する特選句は、今回、恩田を含む参加者の約半分が点を入れるという最高得点句となりました。この特選句に関しては「“霜雫”という季語が、どんな情景を描いているか」というところで議論を呼びました。植物に降りた霜から溶け出した雫なのか、屋根にできた霜が垂れ落ちる様子か。たった二文字の言葉に語りつくせぬ情景が詰まっている豊かさに、言葉の持つ面白さを改めて噛みしめる時間となりました。次回の兼題は「時雨・石」です。(山田とも恵)                特選        霜雫この世の時間使ひきる                 伊藤重之  霜雫は温かい静岡平野の市街地ではまず目にすることはない。わたしも四半世紀前にいまの山中に引っ越して、初めて厳寒の時期だけ見聞きするようになった。霜が降りる日は、明け方冷え込んでも日中はよく晴れる。冬晴れの下、山あいでは納屋などのトタン屋根から霜雫がかがやくように地に落ちる。それは朝霜の一面の厳しい白さとはまた別種の風情。どこかあの世の明るさもふくむ明るさ、ふしぎな時間である。すべてを昇華した末のような水滴が、寒気のゆるんだ日向に銀色のしずくを滴らせ、ときに水銀柱をおもわせる垂線を引く。静かで清らかな冬の真昼。愛するかけがえのないひとは、なすすべもなくこの世のいのちの火を使い切ってしまった。霜夜のような凍てつく時間、凍る思いの日 々のはてに、いま真っ青な冬晴れに見守られて大地にかえってゆく雫。泪のとけこんだ銀のかがやきがひとの一生に重なる。「霜雫」の季語の本意本情に一歩を付け加え得た俳句といえるのではなかろうか。      (選句/鑑賞   恩田侑布子)

5月19日 句会報告と特選句

bara-park

風薫る5月2回目の句会。兼題は「木蓮」と「夏近し」です。 特選1句、入選8句、シルシ7句。恩田侑布子の言によれば「今回は粒選りでしたね」。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                                      ◎仏間にも母の面影大牡丹             塚本敏正 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                                         〇蝶や蝶おいてけぼりの地球人            山田とも恵              合評では、 「蝶は地球人を超越し、生命サイクルを繰り返している。蝶には平和も戦争もなく、また進歩も退歩もない」 「奇抜な表現の句。自然界の代表としての蝶から見たら人間は無様だ」 「“蝶や蝶”という呼びかけがいい。でも何から“おいてけぼり”なのだろう」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「蝶はのどかに飛びめぐり、人間だけが戦乱、差別、対立の中にいる。多義性があり、独特のリズム感があって面白い。特選にしようかと思ったが、やや意味が露わかな。芭蕉のいう、腸(はらわた)の厚き所より詠んでいるのかなと、ちょっと迷ったので」 と講評しました。                           〇夏近き突堤の風職退けり             山本正幸 合評では、 「定年退職した人の気持ちをよく表している。これからの人生への期待と不安」 「退職しても前向きの気持ちを持っている。突堤の風はきつい。そこに立って、決意をこめている」 「三段切れではないか? 三つのうち何を言いたいのかはっきりしない」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「やや措辞がごちゃついている。“夏が近い”“突堤の風”“退職”の三つが等価で、言葉がそれぞれ強さを持ってしまっている」 と講評し、次のように添削しました。  はつなつの突堤の風職退けり 「季語を変えることによって、突堤の風に爽やかさが出ませんか?」 と問いかけました。              〇若冲の白い象来る夏近し             杉山雅子                  「白い象は幻想だと思う。覆いかぶさるように、ふっくらした肉体の形が白象になってやって来る」 「静岡県立美術館にある若冲の絵の白象。それがこちらに向かってくる様子と季語が合っている」 などの感想が述べられました。 恩田は、 「ただの白象だと仏教を思わせる。若冲と限定したことによって屏風絵や画だとわかる。 “来る” と “近し” と意味的に近い動詞と形容詞の並びがやや気になるが、感性はとてもいい」 と講評しました。                         〇紫木蓮塀巡りたり人の荘             杉山雅子 恩田の講評。 「“人”とは“想い人”でしょう。山里の森閑とした山荘の塀を巡っている。玄関の戸を叩いたのか、鍵がかかっていてそのまま帰ったのか想像させる。「人の荘」という格調のある措辞によって塀の長さが出、自分とその人の間の距離を感じさせる。逡巡の気持ちと心理の陰影が、紫木蓮にこもった」                     〇短髪になりし少女や夏近し             松井誠司 「読めばそのとおりである。恋も愛もないけれど」 「“短髪”と“夏近し”が近いような気がする」 などの感想。 恩田の講評。 「うなじの抜き出た少女のユニセックスの感じに、さっぱりした夏の到来の間近さが表現された」                       〇主なきも咲きめぐりてや紫木蓮            久保田利昭 「まさに私の父が住んでいた家の様子そのもの。毎年紫木蓮が咲いていました」 との感想。 恩田は、 「短歌的だが、調べが美しい。「咲きめぐりてや」に、かつての主が知り得ない幾年ものめぐりが感じられる。上五のゆったりした字余りが内容に合っていて、紫木蓮が目に浮かぶよう」と講評しました。                      〇日溜りに猫の影なし夏隣            久保田利昭 恩田の講評。 「“不在”を句にした独特の面白い捉え方。猫のいない空白感によって、夏の近さを知った。 “夏隣”がいい。日常の気付きが自然な一句になった例」                       〇気まぐれにドーナツ揚げて夏近し             森田 薫 「夏が近づくというワクワク感がある」 との感想。 恩田の講評。 「“気まぐれに”の措辞は一読粗いようだが、この句の感覚に合っている。普段からまめに料理を楽しむ女性の弾むような五月の到来」                      ゝ 紫木蓮歳とらぬ子の一人いて             伊藤重之   本日の最高点の中の一句であり、話題になった句。 「“歳とらぬ子”とは夭逝されたお子さんなのか、結婚せずにまだ一人でいる子か。親の気持ちが感じられる。子どもの頃から変わらない可愛さ。 愛情の深さとせつなさが紫木蓮に表れている」 との解釈に対して、恩田は、 「分裂した解釈なので、どちらかにすべきです。両方を共に味わうことはできない」 と指摘しました。 「不思議な句。年齢はいっているが、精神的に歳をとらない子どものことでしょうか?それに対比される紫木蓮は大人びた感じを持つ」 「嫁き遅れた子のことか。心配だけれど手放したくないという気持ちでは」 「もっと深刻。精神的に病んで大人になったのではないか?」 「“紫木蓮”だからきっと大人のことなのでしょう」 など議論が沸きました。 恩田は、 「季語が動く。素直に読めば夭逝した子と考えるが、そうすると紫木蓮は合わない」 と講評し、次のように添削しました。  はくれんや歳とらぬ子の一人ゐて 「“はくれん”とすることによって無垢、あどけなさとあわれが出ませんか。幼くして死んだ子を想っている。また、春先の初々しさも出る。“紫木蓮”だから意味が分裂してしまうのでは?」 と解説しました。 [後記]  「歳とらぬ子」の句を巡る議論は句作の本質に触れるものではなかったでしょうか。個人的なことをどこまで詠むのか。「文学的真実」があればどんな内容であってもよいのか。そもそも、「文学的真実」とは?・・大きな問いを抱いて句会を後にした筆者でした。  次回兼題は、「夏の日」と「更衣」です。  (山本正幸)                                  特選   仏間にも母の面影大牡丹                 塚本敏正                  居間にも台所にも玄関にも、そして仏間にも亡き母の面影があらわれる。母は莞爾とほほえんで牡丹の花のようにひろがる。「大牡丹」の措辞から、母の存在がどんなに大きかったかがわかる。ふくよかにゆたかに慈愛に満ちていた母。幻の大きな牡丹の影が家じゅうに満ちて、どこに身を置こうと包まれる。仏壇に御線香をあげていると「お前、しっかりご飯食べているかい」と案ずる母の声がうしろから聞こえる。窓に若葉が揺れる。緑さす庭をもう一度手を引いて歩きたかった。牡丹という季語の本意に、中有の気配が新たに加えられた。      (選句・鑑賞 恩田侑布子)