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『星を見る人』(恩田侑布子著)が毎日新聞9月23日書評に掲載されます!

『星を見る人』(恩田侑布子著)が毎日新聞9月23日書評に掲載されます!   9月23日毎日新聞書評欄「今週の本棚」のラインナップはこちらから 評者は、渡辺保先生です。ご高覧いただければ幸いです。

毎日新聞 (8/6)書評欄にて『渾沌の恋人ラマン』をご紹介いただきました

蠟梅のひと待つは風きざむこと 恩田侑布子『はだかむし』 いつもより大きな字で 『はだかむし』は小さめに

渡辺保様、毎日新聞2022年8月6日大書評をありがとうございます。   毎日新聞に演劇評論の大家、渡辺保様から身に余る書評を頂戴しました。「雲の峯幾つ崩て月の山  芭蕉」の拙著鑑賞の心臓部を引用してくださり、句の根底をなす「入れ子構造」は「興」と「切れ」によって輝く、と本書の核心を射抜いてくださいました。僥倖と申すほかありません。 「著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた(中略)。 著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ」 ご高評を反芻し、まさに身の引き締まる思いです。今後の精進を誓い、衷心より御礼申し上げます。      恩田侑布子   入れ子構造から広がる多面的世界 渡辺保    斬新な日本文化論が現れた。  たとえばここに芭蕉の句がある。   雲の峯みね幾いくつ崩くづれて月の山  芭蕉四十六歳の、山形県の月山の景色の句である。著者自身がこの句の、一般的として引用した井本農一の解釈は次の通り。 「高い雲の峰が夕日に映えている。月山を仰ぎ見れば、空には淡い月がかかっている。この夕暮の月のさす月山になるまで、雲の峰は幾つ立っては崩れ、崩れては立ったことであろうか」(井本農一ほか校注・訳『芭蕉文集 去来抄』小学館刊)  ごく一般的な解釈だろう。ところが著者はこの解釈は「知性で捉えた表層の貌かおにすぎない」として独自の解釈を提案する。すなわちここには五つの「入れ子構造」がある。第一に現に登拝している月山、第二に秋の月に照らされた山、第三に麓ふもとの刀鍛冶かじの銘「月山」、第四に天台止観でいう真如の月、第五に女性原理の暗喩。この五つの「入子構造を踏まえて多層的な音楽ポリフォニーのダイナミズムを味わ」えば次の様になる。  「今朝もわたしは見た。炎暑の大空に峯雲が雄々しく聳そびえ立つのを。その隆々たる純白の柱を。柱廊は太古から月山をどれほど荘厳しょうごんしてきたことか。涯かぎりなく繰り返された雲の輪廻よ。すでに日は没し、潰ついえ去った積乱雲はあとかたもない。日中のふもとの炎暑が嘘うそのようだ。冷ややかな月光に洗われて横たわる寂寞しじまの山よ。あなたは知っているだろうか。雲の峯はわが煩悩、風狂の思いでもあったことを。万物の声をひかりのように孕んで、万物と放電を交わさずにはいられないこの男の祈りを。いつか真如の月のようにかがやくまで、わたしは歩き続けよう。弓なりに身を反らせる刃、十七音の詩という刀を、月の香になるまで鍛うち続けよう」  「入れ子構造」というのは、本体に全く別のものを重ねて入れ込む手法をいう。当然そこに二重三重の意味を生じる。その五つの意味を著者が奔放に、しかし細緻に逃さぬ名訳である。引用が長くなったが、それは入れ子構造による方法の重要性を知って欲しいからである。入れ子構造そのものが問題なのではない。それによってどのような読み方が可能になったかが問題なのである。    そこで著者のしたことには三つの意味がある。  第一に、一般的な解釈の世界とは全く違う世界を発見した。その世界は著者が指摘するように、さながら二十世紀のピカソのキュービズムにも似た多面的な世界であった。  第二に、この世界の発見によって十七文字の短詩は、時空を超えて歴史的かつ日本の他の分野の文芸、演劇、絵画を一貫する文化の本質に至ることになった。それだけこの世界が日本文化の本質を含んでいたからである。  そして第三に、これがもっとも重要なことであるが、近代的な合理主義が切り捨てて来たもの、目に見えず、耳に聞こえず、その心だけが見、聞くことができるものを捉えることが可能になった。たとえば「月山」という銘の刀はあの雲の峯とどう対峙たいじしているのか。それが鮮明になったのである。    以上三点。著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた。それは大きく宇宙を目にすることを可能にしたばかりか、その宇宙の特質である細部の繊細な輝きも発見した。たとえば次の宇佐美魚目の一句    空蝉うつせみをのせて銀扇くもりけり  「空蝉」は蝉の抜け殻で、それを拾って銀扇に乗せた。著者の解は、 「やや古びて淡墨うすずみを帯びた扇の山と谷には、夏木立のひかりがうつろい、空の青さも溶け入っていよう。そのいぶし銀の空間に、蝉の空はしずかな位置を占める。瞬時、長く地中に生きていた息と体温がやどったのである。わずかばかり前、生身を満たしていた殻から水蒸気が投網とあみをひろげ、生と死がゆらぐ。それは白昼のほのかな幻影である」  なんという美しい幻影か。それは細部に宿ってなおかつ大きな空間に広がる幻影でもある。その感触は、喜多川歌麿から葛飾北斎に及び、さらに絵巻物の時空から、千利休の茶の湯、世阿弥の能楽に及んで一貫している。    さらにその広い空間から、著者は「興」と「切れ」という二つの概念に行きつく。「興」とは興趣、興味、興がるという言葉の示す通り、その作品の周辺に起き、作品の中から湧き上がって、それを享受する側の想像力を含めての、不可視のイメージの広がりを示すものである。  その一方「切れ」は俳句の短い詩形の中で作られて、場景、人格、道具の転換を可能にする、いわばブラック・ホールをいう。「興」はその作品を包む空気であり、それを蓄え、あるいは転換を可能にする仕掛けが「切れ」である。その「興」と「切れ」によってはじめて冒頭の「月山」の句の解釈による五つの入れ子構造のポイントが生きて働く。  この分析が新しい日本文化の視点になると私が思うのは、著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ。