追悼 澤好摩さん 生前のご厚誼に深く感謝し、ここに謹んで 追悼の意を献げます。 恩田侑布子 澤さんとの最後の歓談は昨秋の田端であった。春に上梓した拙著『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』から、名句そぞろ歩きの講演にお運びいただき、二次会もご一緒してくださった。切子グラスに冷酒をきこし召す姿は静かな安心感に満ちておられた。 最後のお電話は六月二四日。不思議なことに、いつにも増して長い時間、腹蔵なく俳句を語り合った。まさか半月後には、もうこの世の人ではなくなるなどと誰が想像できただろう。闊達で明るいお声が今も耳元に聞こえる。 俳人と交流の乏しい私が、俳壇人にへこまされたとき、弱音をこぼして頼りにさせてもらうのが澤さんだった。いつもピシッと澤さんは正論を吐く。いくじなしはたちまち元気づけられたものだ。その最初を思えば一九九六年。攝津幸彦さんに急逝されたときであった。 「これからなのに、まさか夢にも思いませんでした。攝津さんに代わる人はいません。どんなに努力したってあんな俳句、一句も書けやしません。無力感が酷くて」 「攝津は攝津です。そこまで落ち込まなくたっていい。いいものを持っているのだから大丈夫、これからも頑張って書いていけばいいだけですよ」 兄でも先生でもなく同人誌も別なのに心底励まされた。 またある時は遠望し尊敬していた俳壇の某氏が、 「清らかなんてのはだめ。清濁併せ飲むことができないようじゃ、大した人間ではない」と壇上で話されたのに痛くショックを受け、澤さんはどう思うか電話でお訊きした。 「そんな奴の書く俳句こそダメだ。お前はずっと濁り水を飲んでいろと言ってやれ」 キッパリと青天の答えが返ってきた。 攝津さんのことを「会った日に負けたと思った。その日から弟分になった」とよく言っていた長岡裕一郎は、澤さんのことは「高柳重信の懐刀。すごい人だよ」と誇らしげに紹介してくれた。攝津幸彦、澤好摩、長岡裕一郎の三俳人は、わたしの胸の中で銀色のトライアングルとなって澄んだ音楽を響きかわす。その三人がなんと揃って高柳重信個人撰による「俳句研究」第一回五十句競作で第一席だったとは驚かされる。重信の名伯楽ぶりを証明する逸話だ。 「円錐」の表紙を長岡さんが毎号薔薇の絵で飾っていた頃はことに懐かしい。同人の句評に粒立つ温もりが弾けていた。山田耕司、今泉康弘の論客を育てた功績も大きい。 茅屋も毎月寄贈本誌の波に、たちまち畳が埋まってしまう。が、「円錐」は捨てられない。創刊号から書架の最上段で存在感を放つ。「検証昭和俳句史ⅠⅡ」「昭和の俳人」など、澤さんは闇夜に真珠の言葉を吐き続けた。 (※俳句の)レベルの差を厳密に問うというしんどさを内に持たぬそれ(※批評)が、しばしば目につきます。(中略)〈読み〉を伴走させつつ時代を判定していく力、そう言うものの不在こそが、一層、今日を「混沌と停滞」そのものとして印象づけているのではないかーと。 (「円錐」創刊号1991・5※恩田注) (※俳句の)無意味性とは、無意味だから逆に気になる、忘れ難いというかたちで、日常的、社会的な価値規範に捕らわれた我々の存在そのものに照り返してくる原初的、根源的な感情のことである。 (「円錐」第22号2004・7) 無季俳句は、季題・季語が果たす役割を、何か別のものを以て保証しなければならない。(「円錐」第47号2010・冬) 現代俳句史、昭和三八年以降の生き証人であった澤好摩は重信から俳句を「書き」つつ「見る」鋭意を受け継いだ。さらに俳句の言葉を澄み切った小刀で「彫る」人となり、「照らす」人となっていった。重信の多行形式による飛躍のある造型世界を澤好摩はストイックな一行句に収斂した。底にあるのは名聞利養に曇ることのない透徹した眼だった。 ものかげの永き授乳や日本海 崖の上にひねもす箒の音すなり 日とどかぬ雪庇の内の幼戀 蘆刈ると天が重荷となるかなあ 夏深し釣られて空を飛ぶ魚 「円錐」七月号の一句は天の授けた辞世であろうか。 椿落つ月夜の汀に浮くために 春と秋を一首に畳み込んだ古歌が自ずと浮かんでくる。 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 業平は春、定家は秋に着地した。まるで己がふるさとはそこにあるとでもいうかのように。好摩は春の夜に揺蕩いつつ、春秋を超えた未踏の汀に朱を灯そうとする。琅玕の人の落椿は永遠に着地を拒み続けるかのようだ。