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4月4日 句会報告

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2021年4月4日 樸句会報【第103号】 2021年卯月の句会は、久しぶりのリアル句会でした。本日は「静岡まつり」の最終日。祭りの終わりを告げる花火の音が開け放した窓から入ってきて、最初は春雷かと思いました。 兼題は「あたたか」「柳の芽」「物種蒔く」です。 入選3句、原石賞3句を紹介します。 ○入選  湖出づる川のさざめき柳の芽               猪狩みき 【恩田侑布子評】 湖のひとところから水が流れ出し、川になって流れるところです。たっぷりした湖から狭い川幅に入り込み、流速がまし、水音も高まるようすを「湖出づる川のさざめき」と端的に捉え、そこに柳の芽がしだれて、水につくかつかないかというところ。映像的センスが抜群です。みずほとりに生まれ出る春の清らかな勢いがまさにさざめいて。 あとから聞くと、琵琶湖を訪ねられたとのこと。吟行句がこんなに生き生きとまとめられるのは素晴らしい! 【合評】 湖から川になろうとしている。柳の芽と川のさざめきが響きます。 諏訪湖から天竜川に出るところを見たことがあります。よく見る風景かもしれない。 「湖」では大きすぎませんか? 一読、「きれいだね」で終わってしまいました。     ○入選  あたたかし肩揉む爪の短さよ               海野二美 【恩田侑布子評】 爪を伸ばしてあざやかなマニキュアを塗った指は女性ならではの美しさです。でも、そんな手で肩を揉んでほしいとは思いません。むしろ深爪なくらいの十指が肩揉みやマッサージにはふさわしい。指先のまるさと、指の腹から伝わる力に、あたたかな春光があふれます。座五の「短さよ」に、揉んでくれる人の日頃の家事の甲斐甲斐しさも偲ばれます。「俳句は旦暮の詩」といった岡本眸さんの名言を思い出しました。二段切れですが、もしも「あたたかに」とつなげたらこの句の実直さはこわれてしまいます。まさか、長年のマニキュアが美しく印象的だった二美さんの句とは思いませんでした。ご母堂の介護のために爪を短くされたそうです。心身も部屋の空気もみな暖か。     ○入選  職辞せる妻の小皺のあたたかし               金森三夢 【恩田侑布子評】 今月で、長らく働いてきたお勤めを辞める妻。世の中に出て働くのはなにかと摩擦が多く、心身ともに疲れるもの。お疲れ様。ご苦労さんでしたという、夫からの感謝と労いのやさしさがあふれています。大ジワや深い皺でなくてよかった。「小皺」が愛らしく素晴らしい。愛情がここに通っています。人生の記念になる一句です。 【合評】 「職辞せる妻」に爽やかさを感じました。二人で家計を支えてきた。妻の小皺が頼もしく宝物のように思っている作者がいます。 長年暮らした歳月が感じられる。妻に対するねぎらいの情があらわれています。 「職辞せる」で切れるのではないか?自分が仕事を辞めたと取れる。妻の小皺を羨ましく感じているのでは? 自分のことなら「職辞して」になると思います。     【原】物種撒く終の棲家と決めし日に                益田隆久 【恩田侑布子評】   「物種蒔く」と歳時記の本題にあり、私もそれに倣って出題しましたが、ふつう俳句にするときは、具体的な植物の名前を据えて「あさがほ蒔く」とか、「鶏頭蒔く」とか、「牛蒡蒔く」「花種を蒔く」とかするほうがいいです。また、「撒く」は「水を撒く」のマクです。十七音しかない俳句なので誤字脱字には十分注意しましょう。 【改】あさがほ蒔く終の棲家と決めし日に    なら、「終わりの始まり」が印象的な奥行きのある入選句になります。 【合評】 「種」が持っているのは「終わり」と「始まり」。ここが自分の終わりの家だという感慨がある一方、何かの始まりでもあるということを「種」に託しているのだと思います。     【原】春陰のブロック塀で消す煙草                芹沢雄太郎   【恩田侑布子評】 急速にマイナーな存在になりつつある愛煙家が、人の家を訪問する直前にタバコの火をブロック塀で消すとは、ありそうでなかなか気付かない面白い光景です。「春陰」の季語に、春の薄暗い物陰と心理的な陰翳がかさなって奥行きがあります。惜しいのは「で」です。   【改】春陰のブロック塀に消す煙草  こうすると一字の違いとはいえ、春陰の季語が生きて来ます。句格が上がり入選句になります。 【合評】 この方は紳士で、普段はこういうことはしないのですが、春で自律神経が乱れ、イライラが募ってついやってしまったのでしょう。 ドラマ性が感じられる怪しげな句。ブロック塀の陰で何かアクションをおこすタイミングをはかっているのではないか。 「春陰」「ブロック塀」「煙草」でアンモラルな感じが出ている。     【原】柳の芽くぐりくぐりて車椅子                山本正幸 【恩田侑布子評】 さみどりの柳の芽を空からのやさしいすだれのように思って、車椅子を押す人と乗る人が、ともに頰を輝かせている情景が目に浮かびます。このままでもなかなかの俳句ですが、「芽」と「て」で調べが小休止するのが惜しまれます。   【改】芽柳をくぐりくぐるや車椅子  こうされると一層リズミカルになって、かろやかな春のよろこびがにじみ出ませんか。 【合評】 外に出たかった気持ちがよくあらわれています。一人で乗っているのでしょうか。車椅子は案外安全な乗り物なんです。 いろいろな事を「くぐりくぐりて」ワタシは爺さんになっちゃいました。     句会冒頭、本日の兼題の例句が恩田によって板書されました。 物種蒔く  あさがほを蒔く日神より賜ひし日               久保田万太郎  子に蒔かせたる花種の名を忘れ               安住 敦  死なば入る大地に罌粟を蒔きにけり               野見山朱鳥 暖か  暖かや飴の中から桃太郎               川端茅舎  あたたかな二人の吾子を分け通る               中村草田男  あたたかに灰をふるへる手もとかな               久保田万太郎 柳の芽  退屈なガソリンガール柳の芽               富安風生  柳の芽雨また白きものまじへ               久保田万太郎     合評と講評の後、角川『俳句』4月号に掲載された恩田侑布子特別作品21句「天心」を読みました。 連衆の共感を集めたのは次の句です。下部に連衆の評の一部を掲載しました。    身のうちに炎(ほむら)立つこゑ寒牡丹  虚無僧の網目のなかも花あかり  ふらここの無垢板やせて春の月    やすらげる紙にのる文字春しぐれ    花の雲あの世の人ともやひつゝ 作者の今の心境や生き方を反映している句が多いように感じました。(全体) 私には何のことか分からず情景の浮かばない句もいくつかありましたが、全体的に調べやリズムがよく気持ちよく読めました。(全体) 感覚をはっきり的確に言葉に出している。寒牡丹のあざやかな色をフィルターから外へ取り出す手際のあざやかさ。(寒牡丹の句) 虚無僧すら幻惑されてしまう花なんですね。(虚無僧の句) ふらここに長い歳月を感じます。おおぜいの子どもたちが乗って遊んだのでしょう。静止している一枚の木の板をいま春の月が静かに照らしています。(ふらここの句) 地上にあるものと空の月。季語がふたつですが、逆にそれによって情景がよく見えます。季重なりに必然性があると思いました。(ふらここの句)  [後記] 本日の句会で、投句のひとつに顕われた「マイナス感情」をめぐって、句作のありかたについての議論になり、恩田は「あらゆる感情に付き合っていくのが文学です」と述べました。 たしかに、句を読んでいて今まで味わったことのないような感情に驚くことがあります。いや、本当は未知なのではなく、自分の中で忘れたり隠されたりしていたものが俳句の力によって呼び起こされたのでしょう。たった十七音でそれができるとは!  (山本正幸)   今回は、○入選3句、原石賞3句、△5句、ゝシルシ10句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ●樸俳句会ではリモート会員(若干名)を募集しています。ネット(夏雲システム)を利用して全国どこからでも、投句・選句・選評ができます。投句に対して恩田侑布子が講評・添削をいたします。 リモート会員として入会ご希望の方はこちら   ============================  4月28日 樸俳句会 入選句を紹介します。 ○入選  円陣解く野球少年春疾風               山本正幸    【恩田侑布子評】 五七五の展開の小気味好さ。とくに上五の「円陣解く」と下五の「春疾風」がよく響き合い、一句は大きな時空に開放されます。小学生の男の子たちでしょう。地域の名監督(・・・)が率いる野球団に入って休日の朝から練習に励んでいます。ときどき、よその学区の野球団と他流試合もあります。これはその草野球の開始前。グラウンド中央に全員集合!お揃いのユニフォームで不揃いの背丈が仲良くスクラムを組み、「行くぞ!」の一声で、かけ足でポジションへ散ってゆきます。場外には、下の子を遊ばせながら見守っている父や母や祖母がいます。誰もが青空にヒットの快音を期待しながら、そこは、なかなか。三振やファールが続いたり、たまに川原のやぶ草に飛込む場外ホームランが出たり。以後は春疾風。少年はたちまち青年になり、父になり、疾風怒濤の生涯が待ち構えています。〈竹馬やいろはにほへとちりぢりに〉の万太郎は、ひらがなのやさしさ。正幸さんの作品は、漢字のいさぎよさと言えそうです。

1月10日 句会報告

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2021年1月10日 樸句会報【第100号】        樸代表 恩田侑布子 第100号記念祝詞    このたびの初句会が樸句会報の100号記念になるとのこと、慶賀に存じます。これも連衆のみなさまの熱意のたまものです。心から感謝しおん礼申し上げます。  樸は一人ひとりが真剣に、「リアル・オンライン融合句会」の全俳句を選句し、口角泡を飛ばして合評し、笑い合う楽しい句会です。そこにぱらぱら振られる恩田のカプサイシンが心地よい緊張感をもたらすことを庶幾しております。もちろんコロナ禍とあって、だだっぴろい部屋には三方向から風が吹き込み、美男美女があたらマスクをしております。が、そこからはみだす頬のかがやかきは隠しようもございません。三時間余の句会を、「生きがいです」とも「ボケ防止です」とも言ってくださる連衆のイキイキした俳句に私自身が毎回励まされております。三役と編集委員のみなさまのたゆまぬご支援にもつねづね頭が下がります。  そうと教えられるまで夢にも知らなかった第100号記念、本当にありがとうございます。これからも一人ひとりの目標に向かって、互いに温かく見守りあい切磋琢磨して、一句でもいい俳句をつくってまいりましょう。       2021年の初句会は、新型コロナウイルス感染再拡大の影響もありネット句会となりましたが、新年に相応しい力作が寄せられました。 兼題は「初雀(初鴉、初鶏)」「去年今年」です。 特選1句、入選1句、原石賞6句を紹介します。 ◎ 特選  ししむらを水の貫く淑気かな              古田秀  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(淑気)をご覧ください。             ↑         クリックしてください       ○入選  初鴉燦々とくろ零しゆく               田村千春 【恩田侑布子評】   元日の淑気のなかをゆく鴉の濡れ羽色がきわやかです。黒い色はひかりを吸いますからふつうは「燦々と」は感じられません。ところがこの句では、「燦々と」にたしかな手応えがあります。「初鴉」を句頭に置き、「くろ」をひらがなにしたことでしなやかな羽根の動きが眼前し、「零しゆく」で、青空に散る水滴が墨痕淋漓としたたるのです。みどりの黒髪ならぬぬばたまの羽の躍動は斬新です。一句一章の句姿も新年のはりつめた空気さながら。       【原】終電ののちの風の音去年今年                猪狩みき   【恩田侑布子評】    終電の通り過ぎたあとの風に去年今年を感じるとは、まさにコロナ・パンデミックに襲われた昨年をふりかえる二〇二一年ならではの新年詠です。ただ「カゼノネ」という訓みかたはクルしくないですか。   【改】終電ののちの風音去年今年   あるいは都会の無機質な風の質感に迫って   【改】終電ののちのビル風去年今年     などにされると、コロナ禍に吹きすさぶ深夜の風がいっそうリアルに感じられるでしょう。   【合評】 終電を降り人がほとんどいないホームに立つと、私はまず「こんなこといつまで続けるんだろう」と思い、次に「今日はやり切った。そして続けるしかない」と気持ちを切り替え、さらに移動し始めます。気持ちの境目と去年・今年の境目という二重構造になっている点が優れていると思います。 終電を降りて深夜の家路を急いでいます。すでに年は改まりました。自分ではよく働き、よく生きてきたと思う…。耳元で風が囁きます。「あゝ、おまへはなにをして来たのだと…」(by中也)。作者の心情がよく伝わってくる句だと思いました。 コロナ禍で深夜の初詣も自粛。終電も早くなったことのむなしさと淋しさが後の風に良く響く。さりげない一句に、例年にない年明けの哀感が滲み出ている。       【原】胸に棲む獅子揺り起こす去年今年                金森三夢  【恩田侑布子評】   力強い新年の詠草です。ただ終止形の「す」だと一回きりの感じがしてもったいないです。「去年今年」の季語ですから、いくたびも揺りおこしつつという句にしたいです。そこで、   【改】胸に棲む獅子揺り起こし去年今年 一字の違いで秀句になります。   【合評】 作者の内にある獅子を起こす。今年の意気込みを感じる。       【原】今年こそ麒麟出でよと富士映ゆる                金森三夢  【恩田侑布子評】   ご存知のように中国の古典では麒麟は聖人がこの世に現れると出現するといわれ、才知の非常にすぐれた子どものことを麒麟児といいます。郷土の誇り富士山に、気宇壮大な幻想を力強くかぶせたところがすばらしい。惜しいのは最後の「映ゆる」。「麒麟出でよ」と富士山が身を乗り出しているようで俗に流れます。ここは作者自身の肚にどーんと引き受けたいところ。     【改】今年こそ麒麟出でよと富士仰ぐ 格調のある特選句◎になります。座五は大事。俳句の死命を制します。       【原】干涸びし甲虫の落つ煤払い                島田 淳  【恩田侑布子評】   「煤払い」のさなかに貴重な体験をしました。いえ、俳句の眼がはたらいていたからこそ、この瞬間を見逃さなかったのでしょう。「夏のカナブンがその姿を止めていた」と作者はコメントしています。その感動にたいして「落つ」はもったいない。正直なたんなる報告句になってしまいます。   【改】干凅びし甲虫と会ふ煤はらひ 詩的ドラマが生まれます。       【原】初雀しばし「じいじ」に浸りおり                萩倉 誠  まだ幼い孫におじいちゃんおじいちゃんと慕われ、まといつかれる作者。「初雀」と「じいじ」の取り合わせがなかなかです。そのぶん「浸りをり」でいわゆる「孫俳句」に転落しかかったのが惜しいです。 「孫が逗留中。「じいじ」「じいじ」の大洪水。溺死しそうな毎日が続く」の作者コメントを生かし、こんな案を考えてみました。   【改】初雀「じいじ」コールに溺死せり   浸るのではなく溺死。俳味を得ればもう「孫俳句」とはいわせません。       【原】レジとづれば大息つきぬ去年今年                益田隆久  【恩田侑布子評】   コロナ禍の日本で、いえ世界中の小売店でどれほどこのような光景が日々繰り返された去年今年であったことでしょう。「大息つきぬ」に理屈抜きの実感があります。ただ「レジとづれば」の字余りの已然形はいかがでしょうか。「…するときはいつも」は現実に忠実かもしれませんが俳句表現としては弛みます。ここはレジを閉じる一瞬に焦点を当て定形で調べを引き締めたいです。   【改】レジ閉ぢて大息つきぬ去年今年 これならすぐれた時代詠の入選句◯になります。   【合評】 年中無休が当たり前のようになった現代の小売業。サントムーンもららぽーとも大晦日元日関係ないかのように営業していました。掲句はずっと小規模な商店かもしれませんが、大晦日も営業していたのでしょう。「大息」に実感があり、レジを閉じる音とともに年が変わってしまったような錯覚が生きています。ああもう今年は「去年」に、来年は「今年」になってしまった…  [後記] 新年詠に際して連衆のそれぞれの思いを一部抜粋してみました。 昨年の初句会で恩田代表から、新年の季題は明るく、めでたしが良しと伺った。それを基に作句・選句しました。 「去年今年」が平べったく「去年と今年」「去年から今年」となってしまいとても難しい季語だと思いました。新年の明るさや喜びの句が少なかったのはやはりコロナ禍のせいでしょうか。 たった一語の違いで、つまらない句が活き活きと動き出すおもしろさ。日本語の素晴らしさ。 年始の慶びを実感できない、表現しづらい社会状況だった。きっといまの時代にしか作れない俳句があると思うので、喧騒ややるせなさを逆手にとって、したたかに頑張っていきましょう。 俳句という器のサイズと、季の中に私自身を往還させることの大切さを改めて認識出来ました。季語ともっと親しくなるために、机の上で作句するだけでなく、自然環境に身を置く事を大切にする一年としたい。 緊急事態宣言が再発令され、なかなかコロナ収束が見通せない年初です。 句座をフルメンバーで囲める日の来ることを心より願います。思う存分口角泡を飛ばしたい筆者です。    (山本正幸) 今回は、◎特選1句、○入選1句、原石賞6句、△4句、ゝシルシ9句、・5句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   ===================== 1月27日 樸俳句会 特選句と入選句を紹介します。   ◎ 特選  レコードのざらつき微か霜の夜              萩倉 誠  特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(霜夜)をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ○入選  風花舞へり六尺の額紙               萩倉 誠 【恩田侑布子評】   「額紙」は「葬式のときに棺を担いだり位牌を持ったりする血縁者が額につける三角形の紙」と、辞書にあります。私の経験したお葬式にはそうした風習はなく、初めて知った言葉です。知ってみるとなかなか迫力のある光景です。 六尺の大男の額に三角の白紙がひらひらして、そこに風花が舞うとは、きっと喪主なのでしょう。悲しみに寡黙に耐えて白木の仮位牌を胸に抱き出棺の儀式に歩むその瞬間でしょう。句またがりのリズムが効果的。 作者がわかってお聞きすると、御殿場市の田舎では1950年代まで土葬だったそうです。棺を担ぐ男たちを「六尺」といって、みな白い三角の額紙をつけて土葬の野辺まで歩いたそうです。帰りには浜降りといって、黄瀬川や千本松原で仮位牌に石をぶつけて流したそうです。日本の古い送葬の儀式の最後の証言ともいうべき大変貴重な俳句です。      

7月22日 句会報告

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令和2年7月22日 樸句会報【第94号】 梅雨明けの好天にいよいよ夏らしさが増してきました。コロナ対策のため窓を開け放ち、大暑の熱気に包まれた句会でした。 兼題は「緑蔭」「木下闇」「瀧」です。 原石賞6句を紹介します。      【原】瀧どどど手話のくちびる濡らしをり               村松なつを 「瀧」の季語に「手話のくちびる濡らしをり」は素晴らしいフレーズ。でも、擬音語の「どどど」は内容にふさわしいオノマトペでしょうか。しかもたいへん目立っています。オノマトペは、詩なら中原中也の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」、萩原朔太郎の「とをてくう、とをるもう、とをるもう」、俳句なら松本たかしの「チチポポと鼓打たうよ花月夜」のように、鮮度とオリジナリティがもとめられます。逆にいうと、オノマトペは斬新な手応えがあったときのみ使えるもので、安易に使うものではありません。そこで一例として、こんな添削案もあります。 【改】朝の瀧手話のくちびる濡らしをり (恩田侑布子) 【合評】 爆音と無音のコントラスト       【原】泡と消ゆ瀧くゞれども潜れども               見原万智子 瀧行というわけではありませんが、瀧遊びをした体験をお持ちの作者でしょう。中七以下に実感があってリズムも夏の太陽にふさわしい健康感です。ただしこのままではせっかくの実感が「泡と消」えてしまいそう。もったいないです。素直に次のようにすると、もっともっと潜っていたくなりませんか。 【改】泡真白瀧くゞれども潜れども (恩田侑布子)   【合評】 「くゞれども潜れども」のリズムが、瀧の中でもみくちゃにされている身体感覚を表現してとても面白い。ただ「泡と消ゆ」という外側からの視点とのつながりがよくわからなかった。        【原】果てなむ渇きくちなしの花崩る               山田とも恵 くちなしの花は散る前に黄変して錆びたようになります。そこに心象が重なってくる大変面白い句です。いい得ない女の情念が匂い立ちます。ただ表現上の「なむ」と「崩る」がもんだいです。「崩る」は散るを意味し、地に落ちたら渇きは終わります。そこでまだ終わらない果てしない渇きを出すために次の添削例を考えてみました。でもお若い作者です。じっくり推敲を重ね、ご自身でさらに句を磨きあげていってください。 【改】果てなき渇きくちなしの花尽(すが)れ (恩田侑布子) 【合評】 七七五のリズムと下五の「崩る」が合っていると感じました。         【原】木下闇的外したる天使の矢                金森三夢 キューピッドの番えた恋の矢が的を外れてしまったようです。うっそうとした木下闇に墜ちた矢はそのまま拾う人もいません。原句は中七の「外したる」がもんだいです。的を故意に外した主体が失恋した作者とは別にいるようです。恋の矢が木下闇に墜落したことだけをいいましょう。印象が鮮明になりますよ。 【改】木下闇的はづれたる天使の矢 (恩田侑布子) 【合評】 外れた矢は闇に吸い込まれて見つかりそうもないし、恋の顛末も気になるし、とってもファンタスティックです! キューピッドを思わせる天使が的を外すというコミカルな感じが良い。       【原】木下闇結界のごと香り満ち                猪狩みき ものの感受に詩人の感性があります。野山に木下闇が出現したばかりの五月下旬は、たしかに何の花の香ともしれず芳しい匂いが立ち込めています。それを「結界」と捉える感性に脱帽しました。ただ一つ惜しいのは句末の「満ち」です。これこそ蛇足。俳句は説明過多になると弱くなり、省略が効くと勁くなります。把握が非凡なのです。自信をもっていい切りましょう。 【改】結界のごとくに薫り木下闇 (恩田侑布子) 【合評】 「木下闇」が香るという発想に惹かれました。足を踏み入れることを拒む「結界」のようだと。その香りには甘美にして危険なものが潜んでいるのかもしれません。       【原】口紅の一入紅し木下闇                田村千春 日を暗むまで枝々の茂る木陰で、口紅の色彩がひとしお強く感じられたという把握に感覚の冴えがあります。ただ耳で聞けば気になりませんが、視覚的には「口紅」「紅し」の文字の重なりが気になります。次のようにされると「ひとしお」の措辞が生きて、不気味な情念まで感じられませんか。 【改】口紅の色の一入木下闇 (恩田侑布子) 【合評】 木下闇を舞台装置とした愛欲を感じさせる措辞が良い。 「木下闇」によって紅さに不気味ささえ感じる。       披講・合評に入る前に「野ざらし紀行」を最後まで読み進めました。次の二句について恩田の丁寧な解説がありました。    ゆく駒の麥に慰むやどりかな    なつ衣いまだ虱(しらみ)をとりつくさず  一句目は甲州を経由して江戸に帰る道中、宿のもてなしに対する感謝を馬のよろこびに託した句。馬が麦畑の穂麦を食む情景を詠いつつ、宿にありつけた自らの姿も重ねている。二句目は「野ざらし紀行」最後の句。長い旅路を終えて深川の芭蕉庵に帰ってはきたものの、旅の余韻に浸りただぼんやりと日々を過ごしているさまを詠っている。旅の衣さえいまだに洗わず放っておいているような、快い虚脱感。 巻末には挨拶句の名手であった芭蕉の、様々な人との交流で生まれた応酬句や、芭蕉を風雅の友として称揚した山口素堂の跋文も寄せられているが、本文中では省略。「野ざらし紀行」は芭蕉が芭蕉になっていく成長段階が濃縮された紀行文であり、「風雅と俳諧の一体化」という芭蕉の文学史上の功績をつぶさに見ることができる。       [後記] アイセルが使えるようになってから3回目の句会でしたが、県外の方はまだ参加できず人数は少なめでした。会場も句会の議論も風通しがよく、自由闊達な意見が飛び交います。今回は複数の句について恩田から「修飾が多いほど句は弱くなる」と指摘がありました。言葉の修飾によって格調や巧さを演出するのではなく、季語との体験を通して身の内に湧き上がる詩情をいかに掬いとるかが大切なのだと痛感しました。小説さえも自動生成できるAI時代にあって問われるものは表現技法ではなく動機です。私たちの心を動かし句を詠ましむるものは何か、今一度振り返るべきだと思いました。(古田秀) 次回の兼題は「裸」「髪洗ふ」です。   今回は、原石賞7句、△1句、ゝシルシ7句、・13句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) 

8月28日 句会報告と特選句

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令和元年 8月28日 樸句会報【第75号】   8月2回目の句会。夏の終わりの豪雨をついて連衆が集いました。なかには神奈川県から1年半ぶりに馳せ参じた方も。 兼題は、「夜食」と「盆」です。   特選句、入選句及び原石賞のうち2句を紹介します。   ◎特選    みな死んでをはる戯曲や夜食喰ふ                 山本正幸  登場人物がことごとく死んで終わる戯曲は、ギリシャ悲劇やシェークスピアなど、純文学に多い。人類最古の文学ギルガメシュ叙事詩も、英雄の不死への希求は叶わず、死を以て終る。作者は秋の夜長、重厚な戯曲に引きずり込まれ、こころを騒がせ共感する。はるかまで旅した劇のおわり、主人公のみならず全員が死んでしまった。なぜかいつもは食べない夜食を食べたくなるのである。  するどい感性の句である。理屈上の関係はない「みな死んでをはる戯曲」と「夜食」に、詩のゆたかな橋が架かった。みな死ぬのは戯曲ばかりじゃない。ここにいるものは一人残らず死ぬのだ。死の入れ子ともいうべきマトリョーシカが夜の闇に広がりだす。おれは元気だ。寝腹を肥やそう。熱 々のカップ麺をすすったにちがいない。「喰ふ」という身体性に着地したそこはかとない滑稽がいい。         (選 ・鑑賞   恩田侑布子)      ○入選  夜食とるまだ読点の心地して                猪狩みき    やりかけの仕事がまだまだ残っている。でもひとまずここで小休憩をかねた夜食としよう。サンドイッチなどの軽食をつまみながら、こころは落ち着かない。それを「読点の心地」と表現した巧みさ。壮年期のしなやかな働きぶりが伺われる。      (恩田侑布子)  合評では 「作者の自分の仕事への誠実さを感じます」 「勉強なのか仕事なのか、やり残しがある。その中途半端な気持ち悪さが“読点の心地”という措辞に出ている」 「“読点の心地”が素晴らしいと思います。まだまだ仕事が終わらず気がかりだったとき、上司がピザを取ってくれて、軽くササっと食べたことを思い出しました」 「“読点”をどう評価するか。クサいような気も・・・」 「何かが中断されたことのメタファーじゃないんですか?」  など様々な感想・意見が飛び交いました。  (山本正幸)        【原】晩夏光機影ひとつを残しをり                田村千春 【改】晩夏光機影一つを地に残し  原句では、飛行機の機体が晩夏の空中にとどまっているようで、心に浮かんだ幻想にすぎなくなる。ひとつを「一つ」と漢字表記にし、「地」という措辞一字を新たに入れるだけで、機体の影はくっきりと黒く、大地のみならず胸にも刻印される。   (恩田侑布子)    合評では 「夏の終わりのものさびしさがよく出ています」 「ロシアかどこかの軍用機が領空侵犯して飛び去ったとか…」 などの感想が述べられました。    (山本正幸)     【原】荷台より足垂らしてやいざ夜食                島田 淳 【改】荷台より足を垂らしていざ夜食   原句では、中七の「や」の切字と、下五の「いざ」というさそいかけの感動詞とが混線している。トラックの荷台に足を垂らして夜食を摂る働く仲間同士の労働歌なので、「いざ」だけにしてすっきりさせれば、やっと夜食と休憩にありつけたつつましやかな安堵とよろこびがにじむ自然ないい句になる。(恩田侑布子)       投句の合評に入る前に芭蕉の『野ざらし紀行』を少し読みすすめました。 取りあげられた三句と恩田の解説の要点は次のとおりです。      市人(いちびと)よこの笠うらう雪の傘    客気(かっき)の句。昂揚感があらわれている。風狂精神あり。      馬をさへながむる雪の旦(あした)かな    古典の中でうまれたのではなく、眼前の句。茶色の馬体と雪の朝とが釣りあっている。省略がよく効いており、暗誦性に富む。      海くれて鴨の聲ほのかに白し    余白に富んだ名句。波間から鴨の声が聞こえてくる。「ほのかに白し」にいのちのほの白さが宿る。芭蕉の中の「白」のイメージには清浄たるものへの憧れがある。「淡いかなしみの安堵感」と捉えた高橋庄次説も紹介して、連衆それぞれの感受を問うた。聴覚(声)が視覚(白)として捉えられているところに時代を超えた新しみがある。(「共感覚」に関するテキストとして中村雄二郎『共通感覚論』(岩波現代文庫)が恩田から紹介されました)        合評・講評の後は、最近出版された  行方克巳句集『晩緑』(2019年8月) から恩田が抽出した句を鑑賞しました。 連衆の共感を集めたのは次の句です。    冬空のその一碧を嵌め殺す  地下モールにも木枯の出入口  尋ね当てたれば障子を貼つてをる  雪螢しんそこ好きになればいい      行方克巳『晩緑』のページへ   [後記]  本日の特選句について、「西鶴の女みな死ぬ夜の秋」(長谷川かな女)の等類ではないかとの指摘がありました。恩田は、「かな女の句は浮世草子のなかの女の人生に終始しますが、正幸さんの句は、最後に自身の身体性に引きつけて終るのがいいです。詠まれている世界が異なるので、類句とは言えないでしょう」とこれを退けましたが、講師の評価に対しても疑義を呈し、闊達に議論できる樸俳句会の自由さ、風通しの良さをあらためて実感した次第です。 筆者としてはかな女の句をそもそも知らなかったおのれの不勉強が身に沁みましたが・・。   次回の兼題は「月」「爽やか」です。     (山本正幸) 今回は、特選1句、入選1句、原石3句、△2句、 ゝシルシ4句、・8句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)     

5月15日 句会報告と特選句

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 令和元年5月15日 樸句会報【第71号】  五月第二回目の句会。まさに五月晴れの中を連衆が集ってきました。  兼題は「鰹」と「“水”という字を使って」。                       ◎特選    緑降る飽かず色水作る子へ                見原万智子    「緑さす」は夏の季語。「緑降る」は季語と認められていないかもしれません。でも、朝顔の花などで色水をつくっている子の周りに、ゆたかな緑の木立があって、一心に色を溶かし出している腕や手や、しろがねの水に「緑が降る」とは、なんという美しい発見でしょう。ピンクや紫色の色水に、青葉を透かして陽の光の緑がモザイクのように降り注ぎます。色彩の祝福に満ちた夏の日の情景。誰の胸の底にもある原体験をあざやかに呼び覚ますうつくしい俳句です。  見原さんはこの句で、「緑降る」という新造季語の作者にもなりました。          (選 ・鑑賞   恩田侑布子)         ◯入選  皮のままおろす生姜や初鰹                天野智美  句の勢いがそのまま初鰹の活きのよさ。ふつうはヒネ生姜の皮を剥くが、ここでは晒し木綿でキュキュッと洗って、すかさず下ろし、大皿に目にもとまらぬ早さで盛り付ける。透き通る鋭い切り口に、銀色の薄皮が細くのこり、生姜や葱や新玉ねぎの薬味も香り高い。初鰹の野生を活かすスピード感が卓抜。(恩田侑布子)  この句を採ったのは恩田のほか女性一人。 「美味しそう!」との共感の声があがりました。(山本正幸)                      ◯入選  藁焼きの鰹ちよい塩でと漢                海野二美  ワイルドな料理を得意とするかっこいい男を思ってしまった。港で揚がった鰹を、藁でくるんでさっとあぶり、締めた冷やしたてを供してくれる時、「ちょい塩で行こうぜ」なんて言ったのかと思いきや、これは作者の弁によれば、御前崎の「なぶら市場」のカウンターでのこと。隣に座ったウンチク漢のセリフという。やっぱり体験がないと、俳句は読み解けないことを痛感した次第。(恩田侑布子)  選句したのは恩田以外一人だけでしたが、合評は盛り上がりました。 「“漢”で終わっている体言止めがいい。暮らしが見えてきます」 「“漢”がイヤ。“女”ではダメですか? ジェンダー的にいかがなものか」 「ジェンダー云々というのではなく、文学的にどうかということなのでは?」 「お客さんがお店のカウンターで注文したところじゃないでしょうか?」 「男の料理と思いました」  など議論沸騰。 (山本正幸)                       ◯入選  水滸伝読み継ぐ午后のラムネかな                山本正幸  上手い俳句。明代の伝奇小説の滔々たる筋に惹き込まれてゆく痛快さに、夏の昼下がりをすかっとさせるラムネはぴったり。ラムネ玉の澄んだ音まで聞こえてきそう。この水滸伝は原文の読み下しの古典ではなくて、日本人作家の翻案本か、ダイジェストか、あるいは漫画かもしれない。という意見もあったが、たしかに長椅子に寝転がって読んでいる気楽さがある。夏の読書に水滸伝はうってつけかも。(恩田侑布子)    合評では 「“水滸伝”に惹かれました。複合動詞がぴったり。ラムネも好き」 「上手いけど、ありそうな句。手に汗を握ってラムネを飲んでいる」 「“水滸伝”は昔少年版で読みましたよ」 「“水滸伝”の“水”と“ラムネ”の取合せがどうでしょうね?」 などの感想、意見が聞かれました。(山本正幸)       【原】まだ距離をはかりかねゐて水羊羹                猪狩みき  知り合って間もないふたりが対座する。なれなれし過ぎないか。よそよそし過ぎないか。どんな態度が自然なのか。どぎまぎする気持ちが、水羊羹の震えるような切り口に託される。が、このままでは調べがわるい。「ゐて」でつっかえ、水羊羹に砂粒があるよう。 【改】まだ距離をはかりかねをり水羊羹  「はかりかねをり」とすれば、スッキリした切れがうまれ、水羊羹の半透明の肌が、ぷるんとなめらかな質感に変化する。「り・り・り」の三音のリフレインも涼しく響きます。       【原】はがね色目力のこる鰹裂く                萩倉 誠    詩の把握力は素晴らしい。でもこのままだと、「のこる」のモッタリ感と「裂く」のシャープ感が分裂してしまう。   【改】鰹裂くはがね色なる眼力を    こうすれば、鰹に包丁を入れる作者と、鰹の生けるが如き黒目とが、見事に張り合う。拮抗する。そこに「はがね色」の措辞が力強く立ち上がって来るのでは。       【原】水中に風のそよぎや三島梅花藻                天野智美    柿田川の湧水に自生している三島梅花藻は、源兵衛川でも最近はよくみられるという。清水に小さな梅の花に似た白い花が、緑の藻の上になびくさまはじつに涼しげ。それを「水中にも風のそよぎがある」と捉えた感性は素晴らしい。しかし、残念なのはリズムの悪さ。下五が七音で、おもったるくもたついている。   【改】みしま梅花藻水中に風そよぐ    上下を入れ替え、漢字を中央に寄せて、上下にひらがなをなびかせる。「風のそよぎや」で切っていたのを、かろやかに「風そよぐ」と止めれば、言外に余白が生まれ涼しさが感じられよう。           (以上講評・恩田侑布子)                        第53回蛇笏賞を受賞した大牧広(惜しくも本年4月20日に逝去)の第八句集から第十句集の中から恩田が抄出した句をプリントで配布しました。 連衆の共感を呼んだのは次の句です。    枯葉枯葉その中のひとりごと    凩や石積むやうに薬嚥む    外套の重さは余命告ぐる重さ  落鮎のために真青な空があり    ひたすらに鉄路灼けゐて晩年へ    春帽子大きな海の顕れし    人の名をかくも忘れて雲の峰    秋の金魚ひらりひらりと貧富の差    仏壇にころがり易き桃を置く         本日句会に入る前に『野ざらし紀行』を読みすすめました。    あけぼのやしら魚白き事一寸(いつすん)    漢詩には「白」を主題に詠む伝統があり、芭蕉の句もこれを継いでいるという説がある(杜甫の“天然二寸魚”)。しかし、典拠はあるものの芭蕉の句は杜甫の詩にがんじがらめになっていない。古典の知識だけで書いているのではない、遠く春を兆した冬の朝のはかない清冽な美しさがここにある。新しい文学の誕生を告げる句のひとつである。と恩田が解説しました。     [後記]  句会の終わり際に読んだ大牧広の句には筆者も共感しました。80歳を超えても、「老成」せず、枯れず、あたかも北斎やピカソのように「自己更新」してやまない俳人の姿に多くの連衆がうたれたのです。  恩田も5月10日の静岡高校教育講演会において、「きのふの我に飽くべし」との芭蕉の言葉を援用し「自己更新」の喜びを語っていました。  ※講演会についてはこちら  次回兼題は、「五月・皐月」と「“手”という字を使って」です。             (山本正幸)  今回は特選1句、入選3句、原石3句、△3句、シルシ6句、・11句と盛会でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

4月24日 句会報告

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平成31年4月24日 樸句会報【第69号】 四月第二回目、平成最後の句会です。 兼題は「雉」と「櫟の花」。 入選2句、原石賞1句、△3句、ゝシルシ1句を紹介します。   ○入選  口紅で書き置くメモや花くぬぎ               村松なつを  エロティシズムあふれる句。山荘のテーブルの上、もしくは富士山の裾野のような林縁に停めた車中のメモを思う。筆記用具がみつからなかったから、女性は化粧ポーチからルージュを出して、急いで一言メモした。居場所を告げる暗号かも。男性は女性を切ないほど愛している。あたりに櫟の花の鬱陶しいほどの匂いがたちこめる。昂ぶる官能。こういうとき男は「オレの女」って思うのかな。 (恩田侑布子)   合評では 「口紅の鮮やかさと散り際の少しよごれたような花くぬぎとの対比が衝撃的です。口紅でメモを書くなんて何か怨みでも?」 「せっぱつまった気持ちなのだろうが、口紅で書くなんて勿体ない」 「カッコいい句と思いますが、花くぬぎとの繋がりがよくわからない」 「櫟を染料にする話を聞いたことがあります」 「もし私が若くて口紅で書くなら、男を捨てるとき。でも好意のない男には口紅は使えない・・」 「カトリーヌ・ドヌーヴがルージュで書き残す映画ありましたね」 「歌謡曲的ではある」 など盛り上がりました。  (山本正幸)              ○入選  暗闇に若冲の雉うごきたる                前島裕子   「若冲の雉」は絵だから季語ではない。無季句はだめと、排斥する考えがある。わたしはそんな偏狭な俳句観に与したくはない。詩的真実が息づいているかどうか。それだけが問われる。  この句は、まったりとした闇の中に、雉が身じろぎをし、空気までうごくのが感じられる。動植綵絵の《雪中錦鶏図》を思うのがふつうかもしれない。でも、永年秘蔵され、誰の目にも触れられてこなかった雉ならなおいい。暗闇は若冲が寝起きしていた京の町家、それも春の闇の濃さを思わせる。燭の火にあやしい色彩の狂熱がかがようのである。 (恩田侑布子)  合評では 「絵を観るのはすきで、本当に動くようにみえるときがある。そのとき絵が生きているのを感じます」 「季語が効いていないのでは?」 「暗闇でものが見えるんでしょうか」 「いや、蝋燭の灯に浮かび上がるのですよ」 「暗闇に何かが動くというのはよくある句ではないか。“若冲の雉”と指定していいのかな?若冲のイメージにすがっている」 と辛口気味の感想、意見が聞かれました。 (山本正幸)             故宮博物院にて        【原】春深し水より青き青磁かな                海野二美  「水より青きは平凡ではないか」という声が合評では多かった。しかし俳句は変わったことをいえばいいと言うものではない。平明にして深い表現というものがある。一字ミスしなければ、この句はまさにそれだった。「し」で切ってしまったのが惜しまれる。 【改】春深く水より青き青磁かな  春の深さが、水のしずけさを思わせる青磁の肌にそのまま吸い込まれてゆく。雨過天青の色を恋う皇帝達によって、中国の青磁は歴史を重ねた。作者が見た青磁は、みずからの思いの中にまどろむ幾春を溶かし込んで水輪をつぎつぎに広げただろう。それを「春深し」という季語に受け止め得た感性はスバラシイ。        △ 君にキス立入禁止芝青む               見原万智子    三段切れがかえってモダン。若さと恋の火照りが、立入禁止の小さな看板を跨いだ二人の足元の青芝に形象化された句。        △ 渇愛や草の海ゆく雉の頸                伊藤重之  緑の若草に雉のピーコックブルーの首と真っ赤な顔。あざやかな色彩の躍動に「渇愛や」と、仏教語をかぶせた大胆さやよし。        △ ぬうと出て櫟の花を食む草魚               芹沢雄太郎        ゝ ノートルダム大聖堂の春の夢               樋口千鶴子    4月16日に焼け落ちた大聖堂の屋根を詠んだ時事俳句。火事もそうだが、大聖堂で何百年間繰り返された祈りも、いまは「春の夢」という大掴みな把握がいい。 (以上講評は恩田侑布子)       今回の兼題の例句が恩田からプリントで配布されました。 多くの連衆の共感を集めたのは次の句です。  雉子の眸のかうかうとして売られけり               加藤楸邨  東京の空歪みをり花くぬぎ              山田みづえ         [後記]  本日は句会の前に、『野ざらし紀行』を読み進めました。 「秋風や藪も畠も不破の関」の句ほかをとおして、芭蕉が平安貴族以来の美意識から脱し、新生局面を打ち開いていくさまを恩田は解説しました。 じっくり古典を読むのは高校時代以来の筆者にとって、テクストに集中できる得難い時間です。  句会の帰途、咲き始めた駿府城址の躑躅が雨にうたれていました。句会でアタマをフル回転させたあとの眼に新鮮。  次回兼題は、「夏の山」と「袋掛」です。(山本正幸) 今回は、入選2句、原石1句、△7句、ゝシルシ11句でした。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △入選とシルシの中間 ゝシルシ ・シルシと無印の中間)

3月31日 句会報告と特選句

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平成31年3月31日 樸句会報【第67号】 駿府城址公園の花が四分咲きの弥生尽。静岡にはめずらしい春疾風に「自転車を漕いで来るのたーいへん」といいながら集まったら、ちょっとドラマチックな句会になりました。 兼題は「花」と‟色名‟を入れた句でした。 ◎特選1句、○入選2句、原石賞1句を紹介します。                         ◎特選    花の世へ公衆電話が鳴つてゐる                村松なつを    一読、凶々しい句です。「花の世へ」という大胆で巨視的な掴みにインパクトがあります。対比的に「公衆電話が鳴つてゐる」という小さな個人的な緊急事態の逼迫感は切実です。「悲鳴が上がつてゐる」と書かれるよりずっとナマナマしい存在感です。警察からの電話でしょうか。それとも消防署からの折返しなのか。いずれにしろ直面したくない非日常の事態が、血を噴くように、花の世と対置されています。事実だけを投げ出している口語調が効果的です。無表情の恐ろしさといっていいでしょう。わたしたちが安閑と過ごしているこの俗世間の日常の危うさ、脆さをけたたましくあぶり出しています。心ここに切なるものがあり、表現技法上も間然するところのない一句です。          (選 ・鑑賞   恩田侑布子)       ○入選  色抜きのジーンズ洗ふ花の昼                萩倉 誠    合評では、「‟色抜きのジーンズ‟と‟花の昼‟がとてもよく合っている」「色の組み合わせにさわやかさを感じる」「若さを感じる気持ちのいい句」などの感想がありました。  恩田侑布子は 「ブリーチアウトジーンズを、“色抜きのジーンズ”と言い換えただけで、見違えるような含蓄と含羞が生まれたことに驚かされます。いろはうたに始まって、色どり、色好み、色気、色欲などなど、“色”の一文字がひろげる連想はかぎりないものがあります。日本語に熏習されたそれこそいろつや(❜ ❜ ❜ ❜)でしょう。灰味がかったうすい水色のジーンズの向こうに、かがやかしい薄桃色の花の枝が見えて来ます」 と評しました。       ○入選  花予報線量数値一画面                猪狩みき    恩田だけが採った句でした。  「桜の開花情報と地域別の放射線量の数値が、同じ画面に並んでいます。福島県のテレビは、今も天気予報の時に放射線量の数値を知らせるのでしょう。極めて現代的な日常風景を情緒のつけ入る隙なく、すべて漢字で表現しています。除染水も汚染袋も累々と遺跡を築きつつある重苦しく、行き詰まった状況のそばで生活をしていかなければならない現実の重みがあります」 と評しました。       【原】茶色の斑浮きて安堵も白木蓮                天野智美    恩田は 「無傷のはくれんの清らかさ、美しさを謳う俳句はたくさんありますが、茶色の斑に安堵するはくれんの句は初めて見ました。着眼に詩があります。ただ、このままではリズムが悪いですし、“も”がネバリます。せっかくの作者の独自な感受性を活かしてみましょう」 と評し、次のように添削しました。   【改】安堵せりはくれんに斑の浮き立ちて       今回の兼題の例句として、恩田が以下の句を紹介しました。   <花>  火を仕舞ひ水を仕舞ひし夜の桜               山尾玉藻  古稀といふ発心のとき花あらし               野沢節子  さくらさくらわが不知火はひかり凪              石牟礼道子  西行忌花と死の文字相似たり               中嶋鬼谷  紙の桜黒人悲歌は地に沈む               西東三鬼  老眼や埃のごとく桜ちる               西東三鬼 <色を使った句>  赤き火事哄笑せしが今日黒し               西東三鬼  元日を白く寒しと昼寝たり               西東三鬼       合評の後は、現代詩で色をテーマとした作品として、石牟礼道子の『紅葉 』を読みました。さらに、石牟礼道子の研究家でもある岩岡中正氏(「阿蘇」主宰)の「心の種をのこすことの葉」という題のエッセイと近詠句を皆で味わいました。                 次回は、駿府城公園や浅間神社、谷津山など、市内中心地の緑ゆたかな場所で自由に俳句をつくる吟行句会です。静岡駅から徒歩十分の「もくせい会館」(静岡県職員会館)が句会場です。           (恩田侑布子・猪狩みき) [後記] 「花」と「色」という大きなお題の今回。それぞれの視点のおもしろさを感じることができた句会でした。「色」からイメージできることの大きさ、広さ、深みを表現に活かしていくようなことを意識して句を作りたいと思わされました。(猪狩みき) 今回は、◎特選1句、○入選2句、原石賞1句、△2句、ゝシルシ9句、でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) なお、3月8日の句会報は、特選、入選がなくお休みしました。

2月24日 句会報告

20190224 句会報用

平成31年2月24日 樸句会報【第66号】 如月第二回目の句会です。 兼題は「春雷」と「蕗の薹」。 ○入選2句、原石賞1句を紹介します。 ○入選  春雷や午後の微熱をもてあまし                猪狩みき 合評では 「ありそうな句。流行のインフルエンザからの快復期の人でしょうか。ことしの時事俳句?」 「春の物憂い感じが出ている」 「微熱くらいなら、ワタシはもて余しません!」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は 「入選でいただきました。治りそうなのにまた午後になって上がってきた熱。“また今日も”という気だるさが春の午後の物憂い感じとよくつり合っています。第二義的には、心象を詠んだ恋の句とみることもできます。相手にぶつけられない内心の懊悩が“午後の微熱”という措辞にこめられていて、そこに春雷がかすかに轟きます。やや技巧的ですが詩のある俳句ですし、愛誦性もありますね」 と講評しました。        ○入選  天地の睦むにほひや春の雷               村松なつを 合評では 「萌え出す春の色っぽさを感じる。春の雷を聴くとギリシャ神話のゼウスを思います」 「“睦む”と“にほひ”の結びつきがよく分からないけど、何かが生まれるような感じがある」 「激しく成長をうながす夏の雷と春雷は違いますね」 「雷が鳴って、雨が降って、それで匂いがするというだけの句ではないですか?」 など感想や辛口意見も。   恩田は 「秋の雷光は稲を孕ませるものとされ、稲妻ともいなつるびとも言われてきました。ですから季節はちがっても、春雷に天地の睦み合いを感じるのは自然です。冬の間は、天も地もカキーンと凍りついて、地平線や水平線に画然と対峙していたのに、“春の雷”が轟くと、まるで天の男神、地の女神が睦み合うようにつややかに交歓を始めます。“にほひ”は嗅覚つまりsmellではなく、色合いや情趣、余情であり、ゆたかで生き生きした美しさです。源氏物語の“匂宮”を想起しますね。天地有情ともいうべき句柄の大きな句です」 と評しました。       【原】蕗の薹逢へぬ時間の知らぬ顔                海野二美   合評では 「“逢へぬ時間”に切なさを感じます。ただ“知らぬ顔”って何? 恋の相手が知らぬ顔をしているのか、知らぬ顔をしているのは蕗の薹? いろいろ考えられて面白い」 「作者である自分の知らない顔を相手が持っているということなのでは?」 などの感想がありました。   恩田は 「推敲すれば特選クラスです。“知らぬ顔”の主体が三つにブレるのです。つまり、蕗の薹、相手、自分です。また、“逢へぬ時間”は“逢へぬ日”にしたほうがより切なさが増します。“時間”は短いので切実感がなくなってしまいます。上下を変えると品のいい切ない恋の句になるのでは」 と評し、次のように添削しました。 【改】逢へぬ日の知らん顔なり蕗の薹   「蕗の薹は震えるような葉っぱ、恥じらっているようなちぢれ方をしています。こうすると透明感のある萌黄色の姿が際立つ清冽な恋の句になりませんか」       今回の兼題の例句が恩田によって板書されました。 特に中村汀女の句については、「万人受けのする句です。この句を嫌いな人はいないのでは?失われた日々への愛惜、清らかな淡々とした抒情があります」との解説がありました。  蕗の薹おもひおもひの夕汽笛               中村汀女  蕗の薹古ハモニカのうすぐもり              恩田侑布子            (『イワンの馬鹿の恋』)  春の雷鯉は苔被て老いにけり               芝不器男  あえかなる薔薇撰りをれば春の雷               石田波郷        投句の合評・講評のあと、去る2月5日にパリで開催されたポール・クローデルをめぐる俳句討論会(恩田もシンポジストとして登壇)のレジュメが配布され、恩田から解説がありました。 クローデルは、 「日本人の詩や美術は(中略)もっとも大切な部分は、つねに空白のままにしておく」 「俳句は中心イメージを取り囲む精神的な暈(かさ)によって本質が作られる」 と述べています。 想像力の反響作用によって本質が作られるという俳句論は、恩田の「俳句拝殿説」に重なります。恩田は「俳人が造れるのは拝殿まで。作者は読者に拝殿の前に一緒に立ってくださいと誘う。短歌は本殿を造りそこに読者を招じて座らせることができる。しかし、俳句は本殿は造れない。拝殿の向う、時空が畳みこまれた余白に、読者は自己を開いて他者と交感する」と『余白の祭』に書いています。  俳句討論会についてはこちら       [後記] 今回の句会で筆者が触発されたのは、「類句」「類想」についての恩田の指摘です。 「類句」「類想」の問題とは他人の俳句と似ていることではなく、自分の昔の句に似ているのがダメということ。すなわち、戦う相手はおのれの中にある。自分の固定観念を打ち破ることが必要。クローデルと姉のカミーユが師と仰いだ北斎も、死ぬまで脱皮していったことを恩田は強調しました。筆者も「自己模倣」に陥らぬよう句作に取り組みたいと思います。 次回兼題は、「朧」と「雛」です。(山本正幸) 今回は、○入選2句、原石賞1句、△2句、ゝシルシ5句、・1句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)