「現代俳句」タグアーカイブ

わが恩田侑布子 一句鑑賞3

        前島裕子

photo by 侑布子    三光鳥月日はづんでなんぼなる 恩田侑布子   (『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)    百景共吟の五句で 三光鳥月日はづんでなんぼなる の「三光鳥」にひかれた。  何年か前に岡部町の玉露の里で、その尾だけを見た。残念ながら全身は見えず、鳴き声も聞けなかったと記憶している。先日、今はどうなっているのか行ってみたが、それらしき気配はみうけられなかった。  それでは電子辞書でこえだけでもと思い、聞いてみた。 『ツキヒホシ ホイホイホイ』 何度か聞いているうちに、何か楽しく、明るい気持ちになってきた。  そんななか、句を読み返してみた。すると、「月日」は人生、「はづむ(ん)」は思いきって何かをする、「なんぼなる」はすることに価値がある。『人生、思い切って何かすることに価値があるんだよ』と「三光鳥」が励ましてくれている、などとかってな考えが浮かんできた。この句は、そんな一つの生き方をさし示してくれているように思えてきた。  久しぶりの一句鑑賞。一語一語かみしめ、恩田の意図するところは?と、深く考えることができた。

わが恩田侑布子 一句鑑賞2        活洲みな子

photo by 侑布子    サシでゆく波の昂さや夏の川 恩田侑布子   (『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)    海と比べて気がつきにくいが、川辺を歩くと川も波立っているのが見える。中・上流ならなおさらだ。流れの速いところ、川の曲がるところ、岩や堰など障害物のあるところでは、どう動くのか予想もつかない荒々しい波を目にする。川波には生き物の様相がある。恩田にとって、川辺を歩くことは日常の営みだろう。うきうきしたとき、つらいとき、想いを受け止めてくれるのも、その川波に違いない。  この句で着目すべきは、中七の「波の昂さ」だ。一般的な「高さ」に置き換えて句を並べると違いは一目瞭然だ。   サシでゆく波の昂さや夏の川   サシでゆく波の高さや夏の川 川波の変幻自在な姿は、「高さ」では表しきれない。併せて「昂」の文字は、川と向き合う者の心の昂りをも感じさせる。  「サシでゆく」は、流れと対峙するように遡って歩いてゆく意であろうが、サシで語る、サシで勝負する…とも読み取れる。カタカナ表記の勇ましさが、「夏の川」の季語とも相まって、作者の内面にある青春性をも感じさせる一句だ。

わが恩田侑布子 一句鑑賞1

        益田隆久

photo by 侑布子    逢はで死ぬる心筋の闇ほとゝぎす 恩田侑布子   (『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)    なぜ「心臓」でなく「心筋」なのか?「心臓」、それは身体から取り出した物体のイメージ。「心筋」ならば、今現在鼓動している「生命」そのもの。生命の躍動を強く感じさせる「心筋」という措辞。「逢はで死ぬる」、大切なものは目に見えない。「闇」は生命の根源。生命を、宇宙を創造した根源こそ「闇」。そして「ほとゝぎす」は、心筋の如く命の限り啼き続ける。その口の中は血のように赤いという。  恩田侑布子は、若い頃大病を経験したと聞く。私も子供の頃、長く入院し体育の時間は小中9年間教室で過ごした。そのような経験をすると自分の身体というものを意識する。心筋を詠った俳句は見たことが無い。目に見えないものが実は大切なものであることを人は知らない。  子供の頃、吉展ちゃん事件というものがあった。何年に一度あるかというような大事件だった。それが、今ではほとんど毎日のように残酷な事件が起こる。戦争は無人爆撃機をパソコン画面で操る。罪悪感無しに命を弄ぶ。昭和30年代に比べたら物質だけは溢れているが、社会が病み、心が病んでいる。こういう時代だからこそ、闇の中で休むことなく鼓動する「心筋」を、命というものを深く考える。  

青苔 5句 恩田侑布子

現代俳句 青苔

『現代俳句 』 二〇一九年六月号 五句  青苔       恩田侑布子 『現代俳句』2019年6月号に掲載された恩田侑布子の「青苔」5句をここに転載させていただきます。   青苔      恩田侑布子     淵まつ青生きて忘れしものは何     青苔にはづむや盲蜘蛛の恋     息継ぎのなき狂鴬となりゆくも     立ち入れぬ男心や真菰原     白い便箋ふちは螢にまかせやる