「石原あゆみ」タグアーカイブ

あらき歳時記 小春日

小春日3-1

20201126 SBS学苑パルシェ「楽しい俳句」講座 特選句  小春日やけんけんぱッの◯の中                   石原あゆみ  一年のうちで小春日和ほど空も日光も清雅な日はありません。冬の寒さが間近なのに春のようにほのぼのと暖かで、ひすいの空はどこまでも青く澄んでいます。音韻的にも華やかなA音五つに、回転するR音のハル、マルが愛らしい軽快なリズムをかもし出し、フリルのスカートの女の子が足を開いたり閉じたりして進む様が思い浮かびます。それは、けんけんぱの遊びさながらの小さな音楽です。作者は自身の少女時代を重ね、永遠だったような束の間だったような冬麗の一日を惜しみます。憂いを知らない一人の幼女が、いま◯のなかに片足立ちしています。漢字の丸や円ではなく、地面に描いた◯をそのまま句中に置いたことで、幾つもの◯がつながる空地が目の前に浮かび、そこに幻の少女が立ち現れます。一読忘れがたい愛誦性もあり、小春の屋外にはずむ可憐な少女の四肢は匂うばかり。小春日の季語は落ち着いた渋めの句が多いものです。その点でも特筆される秀句です。                (選 ・鑑賞   恩田侑布子)     

2月18日 句会報告

20190218 梅三分

平成31年2月18日 樸句会報【第65号】 二月第一回目の句会です。 兼題は「梅」と「下萌」。   ○入選2句、原石賞2句を紹介します。     ○入選  行き先も言はずに乗りし梅三分               石原あゆみ    「急に思い立って行ってみたくなった気分と下五の梅三分の咲き具合が合っている」という感想がありました。 「詩情のある、リリカルな句です。まだ風は肌寒いけれど、佐保姫(春の女神)に心誘われてどこかに行ってみたい気持ち、遠くではなくて、ちょっとした小さな旅に出かけずにいられないという気持ちが表現されています。日常茶飯とは何ら関係のない旅であるところに清らかさが感じられます。浅春のリリシズムですね」と恩田侑布子が評しました。 「どこということもなく、という思いを“三分”にのせました。賤機山(しずはたやま※)のふもとの梅から思いをひろげました」と作者は述べました。 ※ 静岡市民に親しまれている葵区にある標高170mほどの山。「しずおか」の名もここに由来し、南麓には静岡浅間神社がある。       ○入選  その人のうすき手のひら梅の径                山本正幸   合評では「梅を見ながら手をつないで一緒に歩いている状況。相手は華奢なひと。相手の手の薄さとこの季節の感じが合っている」「“その人の”というはじまりも想像をそそってよい」「年老いた母親かもしれない!?」などの意見がありました。果たして二人は手をつないでいるかいないか。で連衆間で句座はカンカンガクガク盛り上がりました。 恩田は 「感覚の優れた句です。私は手をつないでいないと読みたいです。その方が清らかです。谷間の人気のない弱い日射しの梅の径を、翳りのある関係の二人が歩いていると読みました」と述べました。       原石賞の二句について、恩田が次のように評し、添削しました。 【原】紅梅の香の蟠る夜の不眠                伊藤重之   「紅梅の香にはどこか動物的な生臭さがあり、“蟠る”の措辞はスバラシイです。ただ“夜の不眠”はくどいので“不眠かな”にしましょう」            ↓ 【改】紅梅の香の蟠る不眠かな 「このほうが切なさが出ませんか」       【原】草萌ゆる目で笑ひゐる緘黙児                猪狩みき 「素材がよく、鮮度があります。緘黙という難しさをもっている子を見守っているやさしさが出ていますね。“草萌や”と切り、“で”を“の”に変えてみましょう」           ↓ 【改】草萌や瞳の笑ひゐる緘黙児   「中七の動詞が生き、瞳の光が感じられるようになったのではありませんか」          合評の後は、第三十三回俳壇賞受賞作『白 中村遥 』の三十句を鑑賞しました。      糸を吐く夢に疲れし昼寝覚    音たてて畳を歩く夜の蜘蛛    蓮の花人の匂ひに崩れけり    が好まれていました。    「独自の視点があって、不安で不気味な感じを表現できるのが、この作者の持ち味ですね」と恩田が評しました。       [後記] 句会の数日前に会員のお一人が亡くなられました。病をもちながら句作に取り組まれていたとのこと。今回の句会には弔句がいくつか出されました。俳句での表現という場があったことが彼女の時間を充ちたものにしていたのではないか、そうだったらいいと思っています。(猪狩みき)                      「記」 2018年10月7日の特選句である  ひつじ雲治療はこれで終わります。 の作者、藤田まゆみさんが、2月16日胆のう癌のため65歳で逝去されました。12月2日の句会まで楽しく句座をともにし、最期まで愚痴一ついわなかった彼女の気丈な生き方に心からの敬意を捧げます。16年に及ぶ親交の歳月を銘記し感謝いたします。まゆみさん、ありがとう。貴女からいただいたエールをこれからも温めて参ります。                 恩田侑布子                         次回兼題は、「蕗の薹」と「春雷」です。 今回は、入選2句、原石賞3句、△1句、ゝシルシ9句でした。みなの高得点句と恩田の入選が重ならない会になりました。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

1月6日 句会報告

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平成31年1月6日 樸句会報【第63号】 新年第一回目の句会は、まだ松の内の6日に行われました。埼玉からも名古屋からも、遠距離をものともせず集う仲間がいてホットで楽しい初句会になりました。 兼題は「初景色」と「宝船」。   ○入選1句、原石賞2句を紹介します。       ○入選  宝船帆の遠のくなとほのくな               石原あゆみ    「夢の世界に入る様子、意識が遠のいていく感じが表現されていてよい」  「明恵上人の“夢日記”を想いました」  「遠のくなとほのくな、のリフレインが快い。ひらがなの眠気を誘うような言葉もいい」という感想がありました。    「夜の夢の中で宝船が遠くに行ってしまうのを惜しんで遠のかないで欲しい、と言っている句。人間の欲を相対化している俳味があります。客観化したことで句柄が大きくなりました。夢の中の宝船を実感で書いているところもおもしろい。また、リズムがとても良い。駘蕩たるリズムですね。しかも、座五のリフレインをひらがなに開いたことで、意識が眠りに吸い込まれてゆくリアルな感じがします。景色も初凪のさざ波まで見えてくるようです」と恩田侑布子が評しました。        今回の原石賞の二句は、季語や語順を変えるだけで格段に変わると恩田が評し添削しました。     【原】初化粧とは名ばかりの薄化粧               樋口千鶴子           ↓ 【改】初鏡とは名ばかりの薄化粧    「“化粧”を二つ重ねずに“初鏡”に変えると、楚々とした薄化粧の様子が表されて、ハッとするようなみずみずしい句になります。清潔な色気、美しさが出てくると思いませんか。散文的でなくなって、俳句という詩になります。千鶴子さんの飾らない本質が出たいい句ですね」とのことでした。       【原】大漁旗の群れ抜けて富士初景色               見原万智子           ↓ 【改】初富士や大漁旗の群れを抜け    「“富士”と“初景色”が重なっているのを解消すると見違えるような佳い句になります。カラフルな旗の奥に白雪の富士が見えてきます。情景が鮮やかになると思いませんか」と問いかけました。          合評の後は、『俳壇』2019年1月号に掲載された恩田の「青女」30句(季 新年)を鑑賞しました。    絶壁の寒晴どんと来いと云ふ    よく枯れて小判の色になりゐたり    淡交をあの世この世に年暮るる           が多くの連衆に好まれました。       [後記]  新年の句会。「いのちを喜び合うのが新年の句である」と聞きました。その時々の季を十分に受けとめ味わい日々を喜びの深いものにすることを俳句を通して実現できたら、と思った時間でした。  次回兼題は、「水仙」と“寒”の付く季語です。(猪狩みき)   今回は、○入選1句、原石賞2句、△5句、ゝシルシ10句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

12月21日 句会報告と特選句

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平成30年12月21日 樸句会報【第62号】  平成三〇年の年忘れ句会は、ゴージャスそのもの。連衆の一年ぶんの頑張りが結晶し、ゆたかな果実が並びました。どの果実も、作者のしっかりした足場、その人ならではの深い根っこをもっていることが「あらき俳句会」の誇りです。なんと特選二句、入選四句!ほかにも胸を打つ句や、作者の暮らしに立ち会うかの肌合いが迫る句が多かったです。この一年間、あらきのHPをご愛読いただきました皆様にもこころから感謝を捧げます。ありがとうございます。どうぞお健やかに、佳い年をお迎え遊ばされますよう。            (樸代表 恩田侑布子)   特選                         婚姻は刑のひとつか冬薔薇                  山本正幸    「結婚は人生の墓場」とはよくいわれる。筆者も同感する一人だが、作者はさらにきわどい。刑の一つではないかと、自己と他者に問いかけるのである。しかも「結婚」ではなく、性的結合の継続をより含意する「婚姻」である。時の流れか若気の至りかで結婚してしまったものの、その後の長い他人との共同生活は、苦役を通り越して刑罰にさえ感じられる。座五の「冬薔薇」がまた暗示的。一見美しいフォルムは、よくみれば霜枯れて花弁は無残に黒ずみ、小さな花冠に比して、鋭い鋼の棘はびっしりと茎を覆っている。逃げられない牢獄のように。鉄の門扉が威圧するかのように。          (選 ・鑑賞   恩田侑布子)     特選                         セーターに着られまんまる母の背                  石原あゆみ    人が服を着ているのではなく、服に着られている。そういうことがママある。ここにはふくふくした真新しいセーターの中に、すっかり縮んで小さくなってしまった母がいる。漢字わずか三つの平明な表現だが、特に「まんまる」という口語表現がいい。苦労と心配をかけて来た母の背なをみつめる娘のまなざしが透きとおっている。「お母さん、新品のセーター、自分では似合っているつもりなんでしょ」と言いさして、いつの間にか背のまるまった母に、じっと心からの感謝を捧げている。「背(せな)」という開放音Aの体言止めに余韻がある。           (選 ・鑑賞   恩田侑布子)    ◯柚子百果草間彌生と混浴す             村松なつを  「俳句の一字おそるべし」とは、この句のためにあることばだと思った。一字違えば超ド級の特選句だったから。しかし、ひとまずは原句を解釈しよう。異色の柚子湯の光景であることは間違いない。「百果」だから、柚子のみならず林檎やかりんや蜜柑など、多彩な果物を浮かべた湯のごちゃごちゃの中、天下の異才との混浴図になる。すでにおわかりのように、果が「顆」なら最高の俳句になる。柚子を百個ほど浮かべた湯は、草間彌生の代表作、あのドット模様のかぼちゃシリーズ一連の作品に見紛う、この世ならぬ湯舟になるのである。黄色のはじけるような色彩と球形と相まって、かぐわしい香りに満ちた空間は迷宮的でさえある。その水玉の只中に、赤いウィッグのおかっぱ頭に色白で豊満な草間彌生が浸かっている。「あなた、だあれ」と振り向いた刹那である。柚子湯という古典的な家庭行事、冬夜の秘めやかなよろこびの季語を、摩訶不思議な現代アートに変容させた作者の力技には脱帽するほかなかった。「顆」であったなら!                (恩田侑布子)   ◯編み進むほどセーターは君になる              海野二美  マフラーやミトンを編んで好きな人にプレゼントする女性は多かった。しかし、セーターとなると難易度が格段に高い。半端な気持ちでは編めない。だいたい小学校のリリアンしかやったことのない筆者には夢のまた夢。この句の作者は本気だ。「編み進むほど」という措辞に、たしかな手応えを感じる。両手から生き物のように細糸の華麗なセーターが編み出されてゆく。結句の「君になる」に、セーターを編みながら幻想する恋人の胸や肩のリアルな量感が出現する。その若々しいエロスの火照りを味わいたい俳句である。                (恩田侑布子)                                ◯輪郭を光らせて猫冬至る             石原あゆみ  逆光の路地の猫であろう。それも三毛のような和猫ではなく、ロシアンブルーのような毛足の長く細いしなやかな猫を思う。シャープに切り取られた寡黙な画面は、ただ一匹の美猫のもの。凡手ならば下五を「冬至かな」としてしまったかもしれない。「冬至る」の措辞は鮮度が高い。猫の逆光の毛足の繊細さに、冬そのものの本質を感受した断定の見事さ。   (恩田侑布子)                                  ◯あの頃のセーターさがす鬱金いろ               林 彰  詩情あふれる俳句である。「あの頃のセーターさがす」というユーミン調の十二音を、座五の「鬱金いろ」が見事に受けとめている。まさに動かしようのない帰着といっていい。麦穂色ともいいたくなる深いカームイエローのふっくらとしたセーターが眼に浮かぶ。作者は納戸の奥に眠っている昔のセーターをなぜか無性に着たくなって引っ張り出してみたのだろう。そこに現れたのはすでに色相を超えた「鬱金いろ」としかいいえない魅惑を秘めた柔らかなある時間だった。それは青春のかがやかしい日々。いや、よく読むと作者はまだそのセーターに再会していない。さがしている途中らしい。母の遺品のシュミーズで有名な写真家の石内都を思うまでもなく、衣服は思いのほか年をとらない。古びない。鬱金いろのセーターに詰まった鬱金いろの日々。もう一度その洞(うろ)にもぐりこんでみたい。      (恩田侑布子)       ===== 句の合評と講評のあとは、芭蕉の『野ざらし紀行』を読み進めました。 蔦(つた)植(うゑ)て竹四五ほんのあらしかな 手にとらば消(きえ)んなみだぞあつき秋の霜 わた弓や琵琶(びは)に慰(なぐさ)む竹のおく それぞれの句の解釈と背景の説明が恩田からありました。晩年の「軽み(蕉風)」とは違い、ここには「悲愴激越」の芭蕉の姿がある。芭蕉という人間は本質的に激情の人であった。芭蕉は自己変革をし続けた人。また、王維など中国の古典をしっかり踏まえていることなども述べられました。 =====                     [後記]  恩田が冒頭に書いているとおり、今回の句会は平成30年の納めに相応しい豊穣な会となりました。  一年を通していつも熱い樸でした。また、今年から始まった金曜句会での『野ざらし紀行』の講読は芭蕉の文学への良い導きとなっています。  句会報を納めるにあたって筆者の個人的な事柄を書き記すことをお許しください。  今年、悲しかったことは石牟礼道子さんのご逝去です。  1969年、出版されたばかりの『苦海浄土』に二十歳の筆者は震撼させられました。1972年に大阪で開催された水俣病関係の集会でお姿に接しました。「こんなに小さな方がこの闘いを!」と、そのときの印象は強く心に残っています。その後、折にふれて石牟礼さんの作品に接し、水俣病にとどまらず近代における<加害>と<被害>の関係とその意味を自分なりに問うてきました。生と死のあわいを往還するような、また地霊が宿るような石牟礼さんの詩歌や散文は筆者の中でこれからも息づき続けることと思います。  4月15日には東京・朝日ホールで催された「石牟礼道子さんを送る」集まりに参加しお別れさせていただきました。石牟礼さん、ありがとうございました。  樸俳句会でも今年は二回にわたり石牟礼さんの句集を鑑賞し、その俳句は連衆の間に静かな感動を呼びました。恩田は、石牟礼さんの句を「等類がない俳句」と評し、『藍生』2019年2月号追悼号に「石牟礼道子全句集」について評論を寄せています。   『石牟礼道子全句集 泣きなが原』についてはこちら           さようなら、石牟礼道子さん 2018.4.15               うれしかったこと。句会でも取り上げられた句集『黄金郷(エルドラド)』の著者上野ちづこ(上野千鶴子)さんの講演を拝聴する機会がありました。『黄金郷』にご署名を頂戴するとともに少しく言葉を交わしていただけたのです。恩田に師事していることを伝えると、「そうなんですか。恩田さんは静岡にお住まいでしたね。どうぞよろしくお伝えください」と微笑まれました。   上野ちづこ『黄金郷(エルドラド)』についてはこちら  樸HPの読者の皆様、明年もよろしくお願い申し上げます。(山本正幸)

11月4日 句会報告

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平成30年11月4日 樸句会報【第59号】 11月第1回。「大道芸ワールドカップin静岡」の喧噪を抜けると、句会場のアイセルに着きます。 兼題は「芋」「鹿」「猫」です。 入選◯1句、△6句、シルシ8句という結果でした。入選句を紹介します。 なお、10月19日の句会報は、特選、入選ともになかったためお休みしました。                     〇卓袱台の主役は芋茎雨の夜              松井誠司 恩田侑布子だけが採りました。 「芋茎、なんというレトロな食べ物。今日のメイン料理というわけではなさそうです。肴にして夜更けにひとりちびちび飲んでいる。外はしめやかな雨。静かなさびしさが句の底から湧きあがってきます。形容詞がなくても伝わってくるわびしい孤独感があります。座五の“雨の夜”がいいですね。 でも作者の自解によると、信州で育った幼いころの体験だったのですね。戦後間もない頃で、晩秋になると農家に米はあっても、彩りのあるおかずは買えなかったと。この句のいうに言えない冬隣の雨に包まれる気配は、農耕民族のわたしたちが二千年間聞いてきた雨音だと思います。DNAに深く染み込んだものを呼び醒ます俳句といったらいいでしょうか」 と講評しました。 本日投句された中の一句を例に、俳句における「直喩」について恩田から解説がありました。     大道芸ワールドカップin静岡  秋の日の幾何学のごとジャグリング  恩田は、「発想はいいが、“のごと”がもんだい。直喩にするなら思い切って斬新な比喩にしたい。“のごと”は取って“幾何学”で切り、替わりに“◯◯の”と作者の発見を入れたいです」と評しました。 ======= 去る10月21日に静岡市駿河区丸子で開催された「恩田侑布子俳句朗読&講演会」(詩人大使クローデルの『百扇帖』から)には連衆の何人かが参加し、欠席投句者からも挨拶句が寄せられました。 そのなかでも石原あゆみさんの俳句と自註は、恩田をして「誰のこと?穴があったら入りたい」と大いに照れさせました。  バレリーナ指先に呼ぶ秋の虹      朗読パフォーマンスの鈴の音で世界が変わりました。 また木々の借景も加わり、一人のバレリーナを見るようでした。 一つ一つの言葉と一つ一つの動きが相まって、更に世界が変わっていき吸い込まれていきました。指のさきから秋の虹が句とともに伸びているのです。(石原あゆみ)                                講演会の句は、ほかに二句あり、思い出に浸りつつひとしきり話題になりました。 「恩田侑布子俳句朗読&講演会」についてはこちら   [後記] 丸子待月楼の講演では、詩人ポール・クローデルの像がくっきりと立ちあがり、その短唱の「気息」まで伝わってきました。 恩田は「『百扇帖』にはありとあらゆるものがある。ないものといえば、ボードレールがその批評『笑いの本質について』のなかで述べた、グロテスクな笑い、絶対的滑稽といったものだけかもしれない」と、この二人のフランス詩人の資質の違いを端的に述べました。 また、俳句朗読パフォーマンスにおいては、恩田の句はすべからく声に出して読むべし、その音楽性を味わうべし、との意を強くした筆者です。 延期となりましたパリ日本文化会館でのシンポジウムの日程も決まり次第お知らせいたします。どうぞご高覧ください。 次回兼題は、「枯葉」と「鍋」です。(山本正幸)

8月17日 句会報告と特選句

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平成30年8月17日 樸句会報【第55号】 お盆が終わり、酷暑もややおさまった日に、八月第2回の句会がありました。 兼題は「八月」と「梨」です。 特選1句、入選2句、△2句、シルシ6句、・1句という結果でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)                          ◎IPS細胞が欲し梨齧る             石原あゆみ (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                                  〇梨剥いて断捨離のこと墓のこと              伊藤重之 合評では 「梨、断捨離、墓のつながりを違和感なく読んだ。梨の持ち味ゆえのこと。桃やりんごでは無理」 「林檎の青春性、桃の甘さに対して、梨は甘いけれども他の果物とは違う。執着から離れたい気持ちに梨が合っている」 「一口梨を食べたときに浮かんでくる思いが良く表現されている」 「自分の行く末への思いがしみじみ伝わってきます」 など、「梨」という季語のもっている性質が生かされているという評が多くありました。 一方で、「~のこと~のこと」という表現が気になったという声もありました。 また、“断捨離”という新語・流行語を俳句に使うことについての質疑もなされました。 恩田侑布子は、 「梨という果物の本意を十分に見すえて詠っている。梨のさっぱりした感じなどと内容がとても合っている。また、さりげない口調で並べた「~のこと~のこと」がこの句の内容にも合っている。内容と句形が調和している上手な句。下五で死のことを言いおさえている。“墓”に着地しているその仕方に説得力があり安定感がある」 と講評しました。                                    〇八月や南の海の青しるき              山本正幸 この句を採ったのは恩田のみでした。 恩田侑布子は、 「とてもシンプルだけれど、海の青を“しるき”と表現したところが素晴らしい。南の海には今も死者が眠る。まさに戦争を詠っている句で、非戦、不戦の句。省略した表現が読み手に想像をさせてくれる句」 と講評しました。 「八月」という季語のもつ含み(戦争、敗戦など)、重みについてが話題になり、意見が交わされました。「八月」の季語に戦争のことが込められていることが、若い詠み手(読み手)に果たして通じるのか?という疑義が出ました。いや、知らないのならば、次の世代に歴史を伝えることは我々の責務ではないかという意見の一方で、「八月」という季語をそのような意味に閉じ込めるのではなくもっと自由でいいのではという異論も出て議論が深まっていきました。 ===== 句の合評と講評のあとは、芭蕉の『野ざらし紀行』の鑑賞の続きでしたが、時間があまりなかったので時間内で読める範囲を読み進めました。 西行(さいぎょう)谷(だに)のふもとに流(ながれ)あり。をんなどもの芋(いも)あらふをみるに、  いもあらふ女西行ならば歌よまん と芭蕉は「西行谷」(神路山南方の谷で西行隠栖の跡)で詠んでいます。芭蕉の西行に対する崇敬の気持ちがここでもよくあらわれていると恩田の解説がありました。                                             〔後記〕  季語をどうとらえ、それをどう使うかについて考えさせられた会でした。また、句には思わず作者のいろいろが浮かび出る怖さとおもしろさを感じた会でもありました。 次回は、兼題なし。秋季雑詠です。(猪狩みき)                              特選   IPS細胞が欲し梨齧る                       石原あゆみ  切実な病をもつ人が、万能細胞で健康になりたいと願っている。梨はどこか寂しい果物で、その白さや透きとおった感じは病人ともつながる。梨をサクッとかじった瞬間、歯茎をひたす爽やかな果汁に、ふとIPS細胞の新しい臓器の感触を思った。発想の驚くべき飛躍だが、季語の本意を踏まえて無理がない。この句の深さは、作者がIPS細胞を欲しいと願う一方で、それはまだ無理、という現実も十分了解していること。切実な願望を持つ自分と、いま置かれている現実をわかっている自分と、ふたりの自己が鏡像のように静かに照らし合っている。心理的な陰影の深い句である。「が」を「の」にすべきでは、という意見があったが、それは俳句をルーチン化するとらえ方だ。「の」では、調べはきれいになっても他人事になる。「が」で一句に全体重がかかった。「吾、常に此処において切なり」(洞山良价)。そこにしか心を打つ俳句は生まれない。若く感性ゆたかな作者の幸いをこころから祈る。        (選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)

6月3日 句会報告と特選句

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平成30年6月3日 樸句会報【第50号】 六月第1回の句会です。 特選1句、入選2句、原石賞1句、シルシ5句、・6句という結果でした。 兼題は「梅雨入り」と「ほととぎす」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎廃炉遠し野の白昼に蛇つるむ              山本正幸 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)    〇梅雨めくや父の書棚に父を知る             石原あゆみ 合評では、 「父との会話はあまりないのだろう。言葉のやりとりはないけれど、父の本棚を見て父が分かったような気がした。“梅雨めく”がいいと思います」 「本棚を見ればその人となりが分かると言う。お父様がご存命かどうかは別として、ここには父の一面を知った発見があります」 「もういない父なのかもしれない。“こんな人だったんだ”という驚きがある」 「きっと俗世間では派手ではなく、出世や金儲けとは縁遠かった父。その父の深さを感じている」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「男の孤独まで感じさせるいい句だと思います。ついぞ父の本心を聞いていなかったなあ、あんなことも聞いてみたかった、という余韻が響きます。作者の中で父が大きな存在感を持っていることもわかります。書棚に梅雨どきの湿りや黴臭さ、そして過ぎ去った父の日々まで感じられる。季語の付け味がとてもいいです」 と講評しました。     〇梅雨ごもり使徒行伝にルビあまた              山本正幸 合評では、 「キリスト教の使徒行伝ですね。“梅雨ごもり”がなんとなく意味深」 「ルビとか注釈が多いんですね」 「“梅雨”は日本的なこと。“キリスト教”は西洋のこと。その対比が面白い」 などの感想。 恩田侑布子は、 「季語が面白い働きをしています。“梅雨”という日本の湿潤な風土の中、異国の聖書を読んでいる。使徒行伝は新約聖書の一部で、イエスが亡くなった後、弟子たちによって書かれたものですね。荘重な文語訳にびっしり振られたルビが目に見えるよう。異民族が西洋のものを読んでいる。“梅雨ごもり” がそれを際立たせている。理解したいけれど今ひとつしっくりこないというもどかしさが体感的に伝わってきます。本日紹介するクローデルもカトリックの信仰を持っていた人です。姉のカミーユ・クローデルの影響で少年時代から日本への強い憧れを持ち、50代になった大正10年から昭和2年まで駐日大使を務めました」 と講評しました。 投句の合評と講評のあと、ポール・クローデルの『百扇帖』を恩田侑布子が俳句と短歌の形に訳出したレジュメが副教材として配布されました。              ↑     クリックすると拡大します     連衆の点を集めた俳句と短歌は次のとおりです。  みづの上(へ)に水のはしれり若楓  秋麗に生(あ)れし漆の眸かな  無始なるへ身を投げつづけ瀧の音  万物や瞑りてきく瀧の音  長谷寺の白き牡丹の奥処(おくが)なる         朱鷺いろを恋ひ地の涯来たる  神鏡はおのが深みに璞(あらたま)の          水の一顆をあらはにしたり 日仏交流一六〇周年記念事業の一環として、神奈川近代文学館で開催された「ポール・クローデル展記念シンポジウム」に恩田侑布子がパネリストとして登壇しました。 「今に生きる前衛としての古典―― 詩人大使クローデルの句集『百扇帖』をめぐって」  日 時 2018年6月17日(日)13時30分開演   会 場 神奈川近代文学館 展示館2階ホール  コーディネーター 芳賀徹  パネリスト 夏石番矢・恩田侑布子・金子美都子 ※ シンポジウムの詳細はこちら     [後記] 句会報が50号に達しました。 これまでの句会報を遡り、連衆それぞれの句と鑑賞を味わう事が、筆者の密かな楽しみとなっています。 自身の句作も句会報のように、日々継続することが大切であると、歳時記を捲りながら想う筆者であります。 次回兼題は「立葵」と「蝸牛」です。     (芹沢雄太郎) 特選   廃炉遠し野の白昼に蛇つるむ                  山本正幸    福島第一原発の廃炉は万人に願われているものの道のりは遠い。メルトダウンした燃料デブリを取り出すことさえできないのだから。富岡町から飯館村まで「うつくしま」とも呼ばれた自然と調和した町 々は帰還困難区域となって7年が経った。今や、2階家まで青葛が茂り、スーパーや団地の駐車場のコンクリートの割れ目から青野が広がっている。「廃炉遠し」という字余りの上句の切れが遣る瀬ない。が、一転して、燦 々たる陽光の中で二匹の蛇が絡み合っている。人間の招いた放射線量など知らぬ。超然と、雌雄が命を交歓している。その白昼の讃歌は逆に、わたしたち人間の所業を炙り出してやまない。蝶などの昆虫や蜥蜴などの小動物の交尾だったらこの力強さは出なかった。蛇は、インドのナーガや中国の女媧や日本のしめ縄など世界中で太古から、いのちと豊穣のシンボルである。そのいのちの脈 々たるエネルギッシュな連鎖と見えない廃炉とが対比され、一種悪魔的な絵をみる思いがする。          (選 ・鑑賞   恩田侑布子)    

4月1日 句会報告

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平成30年4月1日 樸句会報【第46号】 四月第1回の句会。「静岡まつり」のメイン会場である駿府城公園は桜が満開です。今日は祭の最終日で、恒例の大御所花見行列の大御所に扮したのは歌手の泉谷しげるさん。 今回から三人の女性会員(お二人は市外)を迎え、心弾む新年度のはじまりです。 入選2句、シルシ5句、・5句という結果でした。 兼題は「当季雑詠」と「“音”を入れた一句」です。 入選句のうち一句および話題句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇雨は地に椿落つ音聞きに来し             石原あゆみ 合評では、 「読んではっとさせられた。雨をこういうふうに表現できるんだと」 「雨が上から落ちてくる。椿のボタッと落ちる音を聞きに来たということでしょうか?」 「“音”を聞きに来たのは雨なんですか?」 「切れがないような・・。ズルズルしている感がありますね」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「上五の“雨は地に”のあとにかすかな切れを読み取りたい。雨は地をしめやかに音もなく濡らし静まり返っている。作者はこぬか雨の中、一人傘をさして椿の落ちる音を聞きに来た。すでに落椿は足もとにおびただしく転がっている。黄色の列柱のような蕊に雨粒を溜めて地に落ちたばかりの大きな花弁。花びらの傷みかけたもの。茶色に焦げて地に帰らんとするもの。でも作者は、この樹上の真紅の椿が雨の大地に着地するその瞬間の音が聞きたい。傘のなかで薄い肩をすぼめ、闇を曳いて咲き誇る椿をじっとみている。逝く春の懈怠の情趣が濃く、作者も読者も、紅椿が命を全うするさまを春雨とともにいつまでもみつめて立ち尽くす。 が、こうした鑑賞はやや好意的にすぎるかもしれない。“地に”に小さな切れがあるとは気づかないひとも多いだろう。誰も間違いようのない伝達力のある俳句にするためには、さらに次のような省略が必要だろう。   雨は地に椿の落つる音聞きに こうすると余白がさらに縹渺と広がらないでしょうか」 と講評しました。 ・春昼の岸壁ポルシェから演歌              山本正幸 本日の最高点句でした。 合評では、 「私も“春昼”で作ろうとしたができなかった。“春昼”のけだるさと“岸壁”という緊張感のある場所を一句に取り入れた発想が面白い」 「現代俳句として優れている。まとまっていて魅力的」 「“ポルシェ”と“演歌”の取り合わせがいい。ポルシェって金持ちの息子やヤクザが乗ってるんでしょ?」 「春昼=のどか、岸壁=危険なところという対比の面白さ」 「いや、“ポルシェ”と“演歌”はどうみてもあざといですよ!」 「青空と黄色いポルシェの安っぽさがいいのでは?」 など反応は様々。 恩田侑布子からは、 「うまく作ってある。俳句に上手く仕立てましたという俳句。俗な即きかたで、いかにもという風景。この書き方がすでに流行歌です。緊張感はなく、逆にけだるさや放恣な感じがある。港の持っている卑猥さ、成金趣味の俗悪な光景についての消化度は低い。キッチュでもない。キッチュなら徹底的にキッチュを突き詰めてほしい。樸がこういう方向に行くと、先行きが危ういです!」 と激辛の評がありました。       本日恩田侑布子が副教材として用意したのは、恩田が書いたふたつの新聞記事です。 ① 2018年3月16日(金) 讀賣新聞夕刊   「俳句 五七五 七七 短歌」 3月の題「芽」 ② 2018年3月19日(月) 朝日新聞朝刊   「俳句時評 破格の高校生」  句会では点盛はできたものの、残念ながら合評の時間は取れませんでした。    ① に掲載された句   山かけてたばしる水や花わさび             恩田侑布子 仙薬は梅干一つ芽吹山             恩田侑布子 いつの世かともに流れん春の川             恩田侑布子 天つ日をちりめん皺に春の水             恩田侑布子 遠足の大空に突きあたりけり             恩田侑布子 (花わさびの句が最高点)    ② に取り上げられた句 ぼうたんのまはりの闇の湿りたる        渡辺 光(東京・開成高) 母の乳房豊満なりし早苗月        白井千智(金沢錦丘高) 採石場ジュラ紀白亜紀草田男忌        渡邉一輝(愛知・幸田高) 性別を暴く制服百合白し        西村陽菜(山口・徳山高) 性という製造番号七変化        西村陽菜 風鈴やスカートを脱ぎ捨てる部屋        西村陽菜 (風鈴の句が最高点) [後記] 本日、恩田の紹介した高校生の句の新鮮な切り口とその感性には瞠目させられました。 これらの句は『17音の青春 2018 五七五で綴る高校生のメッセージ』(神奈川大学広報委員会 編  KADOKAWA発行)に収められています。 所収の入選作品にはそれぞれ恩田の寸評が付けられており、筆者はこれらの寸評こそこの新書の白眉と思います。かくも深くかつ温かく鑑賞し、句の世界をさらに拡げてくれる恩田の評を読んで作者の高校生たちはどんなに励まされることでしょう。 次回兼題は「藤」と「“水”を入れた春の句」です。(山本正幸)