9月1回目の句会。 入選1句、原石賞2句、△2句、シルシ8句。特選句なく、「夏枯れ」を引きずる?樸俳句会です。 兼題は「花火「稲の花」。 入選および原石賞の句を紹介します。 ( ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石賞 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ) 〇手花火や背に張り付く夜の闇 荒巻信子 合評では、 「今の街の夜は真っ暗にならないが、かつて田舎の夜はとても暗かった。子どもの頃、家の庭で花火をして、それが消えると本当に真っ暗闇になった。“花火”と“闇”の対比が効いている」 「“背に張り付く”がうまい。手元の花火に夢中だったのが、消えると闇に気づく」 という共感の声の一方で、 「闇は薄っぺらではなく深さがあるもの。それを“張り付く”としているが、むしろ“纏い付く”ものではないか」 「“手花火”と“闇”を対比させた句は多い。何か空々しい気がする」 という辛口意見もありました。 恩田侑布子は、 「中七が生きている。線香花火を指先につまんでじいっとしているときの体性感覚がある。無防備な背中へ真っ黒な闇がべったり密着する感じ。 “張り付く”としたことで、よるべない不安感や夜のそぞろ寒さまで感じられる。秋への気配をうまく捉えている」 と講評しました。 【原】はつ恋やぱりんとひらく揚花火 伊藤重之 合評では、 「“花火”と“恋”は結びきやすい。これは、あっけらかんとしてドライな恋だ。“ぱりんと”とすることによって爽やかさや軽い感じが出る」 「島崎藤村の“まだあげ初めし前髪の・・”の詩(「初恋」)を思い出した。藤村の時代に比して、現代の初恋は湿っぽくない。いつでも蹴飛ばせる。“ぱりんと”としたことで現代の“恋”と“花火”が生きた」 「恋も花火も“ぱりん”と開いたのでしょう。かな表記がいいと思う」 などの感想に対して、 「“ぱりん”なんてお煎餅みたい」 「共感できない。十代後半の人が詠んでいるようだが、初恋はもっと早く、小学校高学年くらいでしょう。年代にズレを感じ、内容と合わないのでは?」 「“ぱりん”は問題!作者がそこにいない。初恋の実がない。他人事のように感じる」 「恋に恋しているみたいだ」 などと議論沸騰。 恩田は、 「初恋にはオクテの人もいるでしょう。“ひらく”が問題。揚花火は開くものであり、わざわざ言う必要はない。幼い恋で、懊悩がないので浅い句になってしまった。ダブルイメージ、余情や余白がない」 と講評しました。 【原】これきりの恋煙る空遠花火 萩倉 誠 合評では、 「これで終わりという恋が燻っている。恋が遠のくことと“遠花火”とかけたのだろう」 という感想がありました。 恩田は、 「“空”が気になった。惜しい」 と講評し、次のように添削しました。 これつきり恋煙らせて遠花火 [後記] 本日もタイムオーバーしての熱い句会でした。 句会終盤で、「作品と作者」について議論になりました。作者を知って読むのとそうでないのとは理解が違ってくるという問題です。作者が分かっていて読むとバイアスがかかるのは避け難いことですが、作者の境涯を背景に読めば、より鑑賞・理解が深まるのではないでしょうか。逆に作者を知らずに読む楽しみもあります。合評と講評のあと、作者の名乗りがあると「ほおーっ」という声(この句を詠まれたのは〇〇さんだったのね)が連衆から上がる瞬間が筆者は好きです・・。 次回兼題は、「秋の潮」と「瓢」です。 (山本正幸)