樸俳句会代表・恩田侑布子の芸術選奨受賞記念講演会が、6月24日(土)静岡県男女参画センター「あざれあ」にて行われました。 「あざれあ」大会議室の定員144席が満席となり、大盛況でした。静岡県俳句協会の幹部の方からも、 例年にないことと喜ばれました。 講演は、恩田侑布子の深い学識をベースに、多角的に俳句の本質に迫るもので、熱心にメモを取る聴衆の姿がありました。 恩田撮影の美しい写真がパワーポイントで映し出され、参加者は視覚的にも恩田の世界に誘われたことを特記したいと思います。 講演参加者の感想及び講演の目次を以下に掲載しました。 講演を聴いて 感想 ◎難しい内容でしたが興味深く拝聴しました。同行した友人達は教養のある方々なので、参加して良かったと言っていました。 恩田侑布子の句作のバックボーンにシンパシーを感じました。 ◎ 中身の濃い講演でした。同道した者の感想は、「恩田先生は少女のようなお声をされている!」 でした。 講演の中の「俳句拝殿説」は評論集『余白の祭』でも一章を割いておられます。この章が本日のご講演のキモとなったのではないでしょうか。 唯識思想には全く暗い私ですが、改めて勉強への意欲をかきたてられました。また自句自解もとても興味深く聴かせていただきました。 ◎ お話の前半ではワイルドの「獄中記」、「観無量寿経」、「成唯識論」、「荘子」など出席の皆さんには馴染みのない古典が次々に紹介されて、 例えてみれば、見知らぬ木々のそれぞれに目を取られている間に、俳句という森全体を見失ったところがあるのではないかと思いました。 後半は、作句の秘密の一端を解き明かされた貴重なお話だったと思います。また、スライドの写真も工夫されてよかったです。 ◎韋提希夫人とか四諦とか無量寿経など、何時か言葉として聞いたことがあるのですが、ほとんど脳に残っていません。 でも、なんとなくイメージは湧いてきました。また、往還との言葉に「弥陀の回向成就して 往相還相 ふたつなり」との言葉を思い出しました。 人間が生きていることについての根本的な問いでしょうね。 恩田侑布子のすごいところは、話に引用したいくつもの「根拠」を、俳句という領域に収斂し体系的にとらえていることだと思います。 そして、「俳句」ということから、今度は逆に各領域に想を広げていることだと思います。改めて「句に含まれている背景の深さ」を感じました。 ◎貴重なご講演を拝聴させて戴き有難うございました。私なりにいくつかのキーワードを心に留め、俳句の奥深さを感じ取ることが出来る講演でした。 全体としては一章ごとにテーマ分けされていたことがとても聴き易くノートも取り易かったです。 「言葉に引きずられてものをみてはいないか」「絶望感、厭世観は自我のためである」「混沌のほとりへの往還」「切れにより他者に開かれる」他、 いずれも俳句ワールドの深部へと繋がる大変興味深いお話で、「お能と俳句」についてはまた何かの機会にもっと詳しくお聴き出来ましたら幸いです。 講演会目次 第一章 俳句の三本柱 一本目の柱 五七五定型詩 二本目の柱 季語 三本目の柱 切れ 第二章 俳句の精神 ☆悲哀その可能性と「さび」--二冊の本 ◎オスカー・ワイルド『獄中記』、 『観無量寿経』 ◎「さび」 人肌のぬくもりの背後に、「無」という寂滅の世界がひそむ ☆自己認識の無--唯識 ☆「荘子」の萬物斉同と表現行為 ☆俳句拝殿説(『余白の祭』) 第三章 俳句と日本語・日本文化(恩田侑布子の作品から) 1 日本の行事と俳句 天の枢(とぼそ)ゆるがす鉾を回しけり 2 表記 ひらがなと漢字 くろかみのうねりをひろふかるたかな こないとこでなにいうてんねん冬の沼 醍醐山薬師堂裏鼬罠 石抛る石は吾なり天の川 3 引用とひねり 酢牡蠣吸ふ天(あま)の沼矛(ぬぼこ)のひとしづく 越え来(きた)るうゐのおく山湯婆(たんぽ)抱く 4〈近代的自我〉の表現を超えて ~人称の乗り入れ、他者への開け~ 落石のみな途中なり秋の富士 わが視野の外から外へ冬かもめ 長城に白シャツを上げ授乳せり 夏野ゆく死者の一人を杖として この亀裂白息をもて飛べといふ 男来て出口を訊けり大枯野 終章 他者の心身を待つ芸術 俳句は一緒に揺らぎそよぐ他者への開け。日常は、異界と乗換(コレスポンダンス)する。 切れて大いなるものとつながり、他者と交歓する。 人称も時制も曖昧、変幻自在な日本語と日本文化がそれを保証している。