
令和元年12月25日 樸句会報【第83号】 本年最後の句会はクリスマスの日。
兼題は「枯野」と「山眠る」です。 入選句と△の句のうち高点2句を紹介します。
○入選
老教授式典に来ず山眠る
見原万智子 老教授個人を表彰する式ではないにしても、その業績によるところ大の顕彰式典と思われる。ところが、いちばんの功績者が出席されない。体調がいま一歩というのは表向きで、最初から式典など晴れがましいところには出たくないのかもしれない。しかし、教授が一生をかけてきた仕事の成果は冬山のように静かに大きくそこに存在している。「山眠る」という季語が底光りしてわたしたちを見守る。渋い句である。
(恩田侑布子) 合評では
「着想が面白いですね。それだけで頂きました」
「なぜ来られなかったのか考えさせられます。体調が悪かったのか、それとも反骨心から出席を拒否したのか」
「“式典に来ず”と“山眠る”が響き合っています」
「教授の信条と冬の山の雰囲気がよく合っています」
「分かりにくい。老教授が来ないとなぜ“山眠る”なのか?」
「山が見えるところで式典が行われているとすれば、“来ず”でなく“来る”もアリか?」
など共感の言葉や疑問、意見が飛び交いました。
(山本正幸)
△ 山眠る緞帳おもき大広間
田村千春 合評では
「いかにも深い山の静けさが伝わってきます」
「温泉ホテルの舞台の緞帳かな」
「そう、さびれた温泉宿でしょう」
「“おもき”と“山眠る”がとても合っている」
「いや、逆に“緞帳おもき”と“山眠る”はツキ過ぎじゃないですか」
「大広間ではなくもっと広いところ、歌舞伎座のようなところを想像しました」
「場所は田舎で、町内か何かが持っている〇〇会館のホールの緞帳かもしれません」
「緞帳の柄が山ってことですか? この句、どうやって読めばいいのでしょう?」
などの感想、疑問が出されました。
恩田は
「大きなガラス窓から山々が見えている温泉旅館の舞台を思いました。歌舞伎座などの都会ではなく、古い懐かしい光景。新し味はないが、表現が手堅く、しっかり描きとっています」
と講評しました。
(山本正幸)
△ 晦日蕎麦兄の齢をいくつ越し
萩倉 誠 合評では
「年越しそばですね。亡くなったお兄さんを偲んで食べているところ」
「しみじみと兄のことを想っている。仲の良い兄弟を連想しました」
「誰かの歳を越えるというのはよくある表現ではないか。母の歳を越す、父の歳を越す…。陳腐な形だと思う」
「父母ならそうかもしれませんが、ここはお兄さんのことだから親とは違った感慨があるのでは?」
などの感想、少し辛口の意見も述べられました。
恩田は
「年越しの夜にお兄さんの享年を考えている実感が胸に迫ります。でも、Nさんのおっしゃるように、類想は多いですね」
と講評しました。
(山本正幸)
投句の合評・講評の前に、芭蕉の『野ざらし紀行』を読み進めました。 伏見西岸寺任口上人(さいがんじにんこうしやうにん)にあふ((う))て
我(わが)衣(きぬ)にふしみの桃の雫(しづく)せよ
大津に出(いづ)る道、山路(やまぢ)を越(こえ)て
やま路(ぢ)來てなにやらゆかしすみれ草 恩田から
「『野ざらし紀行』には芭蕉のエッセンスが入っています。伏見の句は調べが美しく、挨拶句として鮮度が高い。“すみれ草”の句はひとつの冒険句です。それまでの和歌では“野のすみれ”を詠む伝統がありましたが、芭蕉は山道のすみれを詠んだ。“歌の道を知らない奴だ” との批判もありましたが、芭蕉は手垢のついた野のすみれではなく、ひとの振り向かない山路のすみれにこころを惹かれたのです。蕉風確立寸前の句ですね。平易、平明な措辞は“道のべの木槿は馬に食はれけり”と並んで『野ざらし紀行』中の秀逸と評する人もいます」との解説がありました。
注目の句集として、小林貴子『黄金分割』(2019年10月 朔出版)。
このなかから、帯より十句と恩田が抄出した十句が紹介されました。
連衆の共感を集めたのは次の句です 学僧の音なき歩み春障子 花びらを掬ひこぼしてまた迷ふ 大阪の夜のコテコテの氷菓かな 岩塩は骨色冬は厳しきか 月今宵土偶は子供生みたさう
[後記]
平成から令和にかわった年の暮の句会は議論沸騰、散会は午後5時となりました。
今年も和気藹藹、盛り上がった一年でした。風通し良く、自由に発言できるのは樸俳句会の真骨頂と思います。
筆者にとっては、実体験に基づいた俳句には力があるということを再認識した年となりました。アタマで作った俳句はことごとく恩田代表の選から落ちたのです。たとえ実体験を伴わなくとも「詩的真実」があれば選に入るのでしょうが・・・。まだまだ道遠しです。 次回兼題は、「初」と「新年の季語」です。 樸ホームページをご高覧いただいた皆様、本年もありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
(山本正幸) 今回は、○入選1句、△6句、ゝシルシ6句でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

令和元年10月13日 樸句会報【第78号】 10月最初の句会は、台風19号が伊豆半島に上陸した翌日の開催となりました。恩田も避難所生活明けで、名古屋や埼玉の連衆は交通機関の不通などから参加できず空席が目立ち、ちょっと淋しい句会に。台風一過の秋晴れとはいえ、他県の河川の氾濫被害に胸が痛みます。 兼題は「水澄む」と「葡萄」です。 原石賞の4句を紹介します。
【原】黒葡萄ホモサピエンス昏々と
伊藤重之 黒葡萄はたわわに輝いているが地球上の動物の一種、ホモサピエンスだけは「昏々と」している、という句意。作者は「昏々と」で、人類のおろかさを表現したかったのだろう。しかし「昏々と眠る」というように深く眠るさまとみわけがたくなってしまうのが惜しい。そこで、 【改】黒葡萄ホモサピエンス昏みゆく とすれば「黒葡萄」ではっきりと切れる。中七以下との対比が際立つ。黒葡萄はつややかに豊穣の薫りと甘さを持ち、人類はますます昏冥をふかめ闇に呑み込まれてゆくのである。(恩田侑布子) 合評では、
「“昏々と”の次にどんな言葉が隠されているか気になります。“眠る”じゃないですよね?」
「“黒葡萄”と“昏々と”は合っている。ここに詩として醸し出されているものがあるのかもしれないが、私には世界が立ちあがって来ない」
「意味がうまくつかめませんでした」
などの感想がありました。 (山本正幸)
【原】六百句写し終へたり水澄める
前島裕子 作者はある句集に感動して尊敬のあまり、まるごと六百句をノートに筆写し終えたという。ただ原句の「水澄める」に付け足し感がある。俳句は語順を換えるだけで雰囲気が一変する。 【改】水澄むや写し終へたる六百句 こうすれば、水のみならず作者の周りの大気までもが澄み渡り、秋の昼の静けさに実感がこもる。こころをこめて六百句を写し取った達成感は、作者の心境をいつしらず高めてくれていたのである。 (恩田侑布子) 合評では、
「達成感と“水澄めり”がとてもよく合っていると思いました」
「六百句写す行為って何? 写経ほどのインパクトがない」
「季節感が感じられませんでした。季語が動くのでは?」
などやや辛口意見も聞かれました。(山本正幸)
【原】水澄みて木霊の国となりにけり
芹沢雄太郎 このままでも十代の少年俳句ならば悪くない。ファンタジックで童話的な俳句として初々しい。ただ作者は三〇代半ばの三人の子のお父さん。となると、どうか。やはり等身大の大人の句であってほしい。次のように一字を換えてみよう。秋の深い渓谷が出現するのではないか。(恩田侑布子) 【改】水澄みて木霊の谷となりにけり 本日の最高点句でした。
合評では、
「俳句のかたちとして“~~の国となりにけり”はありがちです」
「“水澄む”と“木霊の国”は共通するイメージがあり、即き過ぎかもしれない」
「“国”とは国家ではなく、山国とかの触感や空気感のある“国”だと思う」
「“木霊”とは、声と精霊のふたつのイメージがある。透きとおった木の精霊とすれば、透明感、木々の緑、水の青、という色が見えてきますね」
「ここには人のいない感じがして少し怖い」
「俳句初学の頃、“とにかく見たものを詠め”と言われた。この句からは何も見えてこない。観念的な句だと思います」
など様々な感想、意見が飛び交いました。
(山本正幸)
【原】しどろなる思考を放棄葡萄むく
萩倉 誠 「しどろなる思考」まではいいが、つぎの「放棄」という熟語は固くて気になる。また葡萄の皮をむくで終わるのは、いささか中途半端。句意を変えずに添削すれば、 【改】しどろなる思考やめなん葡萄食ぶ となる。「もういいかげん筋目なくあれこれ考えるのはやめよう」そう自分に言い聞かせて頬張る大粒の葡萄の甘さ。思考から味覚の酔いへ耽溺するおもしろさ。 (恩田侑布子) 合評では、
「こういうことよくある。深く共感した。漢語が固いが葡萄がそれを和らげている」
「葡萄をむいているけど、まだ思考にこだわっているのでしょう」
「“思考”と“放棄”というふたつの言葉が強くて気になります」
「どうでもいいことを考えているのなら“放棄”なんてしなくてもいいでしょ? 内容に共感しなかった」
と議論が広がっていきました。 (山本正幸)
今回の兼題についての例句が恩田によって板書されました。 黒きまでに紫深き葡萄かな
正岡子規
葡萄食ふ一語一語の如くにて
中村草田男
水澄みて四方に関ある甲斐の国
飯田龍太
澄む水のほか遺したきもののなし
恩田侑布子
注目の句集として、
井越芳子『雪降る音 』(2019年9月 ふらんす堂)
から恩田が抽出した二十一句が紹介されました。
連衆の共感を集めたのは次の句です。 やはらかにとがりてとほる蝸牛
寒の雨夜が来てゐるとも知らず
天辺のしいんと晴れてゐる冬木
ふうりんは亡き人の音秋日向
森はなれゆく春月をベッドより
冷やかに空に埋もれてゐたりけり
あをぞらや眼冷たきまま閉づる
井越芳子『雪降る音』のページへ
[後記]
台風の影響で句会に参加できない連衆が相次ぎ、こじんまりと、それゆえに濃密な句会となりました。
今回、恩田の「等身大の大人の句であってほしい」(上記“木霊の国”の評にあります)との言葉を、精神的にいつまでも青春していたい筆者は「その年代の自分にしか詠めない句」を追求すべしとの鞭撻と受け止めました。確かに歳を重ねるにつれて、知らないことや新しい発見が逆に増えることを実感します。俳句の眼をもって見ればなお。 次回兼題は、「小鳥」と「釣瓶落し」です。
(山本正幸) 今回は、原石賞4句、△1句、ゝシルシ3句、・6句でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

9月1回目の句会。
入選1句、原石賞2句、△2句、シルシ8句。特選句なく、「夏枯れ」を引きずる?樸俳句会です。 兼題は「花火「稲の花」。
入選および原石賞の句を紹介します。
( ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石賞
△ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ )
〇手花火や背に張り付く夜の闇
荒巻信子 合評では、
「今の街の夜は真っ暗にならないが、かつて田舎の夜はとても暗かった。子どもの頃、家の庭で花火をして、それが消えると本当に真っ暗闇になった。“花火”と“闇”の対比が効いている」
「“背に張り付く”がうまい。手元の花火に夢中だったのが、消えると闇に気づく」
という共感の声の一方で、
「闇は薄っぺらではなく深さがあるもの。それを“張り付く”としているが、むしろ“纏い付く”ものではないか」
「“手花火”と“闇”を対比させた句は多い。何か空々しい気がする」
という辛口意見もありました。 恩田侑布子は、
「中七が生きている。線香花火を指先につまんでじいっとしているときの体性感覚がある。無防備な背中へ真っ黒な闇がべったり密着する感じ。 “張り付く”としたことで、よるべない不安感や夜のそぞろ寒さまで感じられる。秋への気配をうまく捉えている」
と講評しました。
【原】はつ恋やぱりんとひらく揚花火
伊藤重之 合評では、
「“花火”と“恋”は結びきやすい。これは、あっけらかんとしてドライな恋だ。“ぱりんと”とすることによって爽やかさや軽い感じが出る」
「島崎藤村の“まだあげ初めし前髪の・・”の詩(「初恋」)を思い出した。藤村の時代に比して、現代の初恋は湿っぽくない。いつでも蹴飛ばせる。“ぱりんと”としたことで現代の“恋”と“花火”が生きた」
「恋も花火も“ぱりん”と開いたのでしょう。かな表記がいいと思う」
などの感想に対して、
「“ぱりん”なんてお煎餅みたい」
「共感できない。十代後半の人が詠んでいるようだが、初恋はもっと早く、小学校高学年くらいでしょう。年代にズレを感じ、内容と合わないのでは?」
「“ぱりん”は問題!作者がそこにいない。初恋の実がない。他人事のように感じる」
「恋に恋しているみたいだ」
などと議論沸騰。 恩田は、
「初恋にはオクテの人もいるでしょう。“ひらく”が問題。揚花火は開くものであり、わざわざ言う必要はない。幼い恋で、懊悩がないので浅い句になってしまった。ダブルイメージ、余情や余白がない」
と講評しました。
【原】これきりの恋煙る空遠花火
萩倉 誠 合評では、
「これで終わりという恋が燻っている。恋が遠のくことと“遠花火”とかけたのだろう」
という感想がありました。
恩田は、
「“空”が気になった。惜しい」
と講評し、次のように添削しました。 これつきり恋煙らせて遠花火 [後記]
本日もタイムオーバーしての熱い句会でした。
句会終盤で、「作品と作者」について議論になりました。作者を知って読むのとそうでないのとは理解が違ってくるという問題です。作者が分かっていて読むとバイアスがかかるのは避け難いことですが、作者の境涯を背景に読めば、より鑑賞・理解が深まるのではないでしょうか。逆に作者を知らずに読む楽しみもあります。合評と講評のあと、作者の名乗りがあると「ほおーっ」という声(この句を詠まれたのは〇〇さんだったのね)が連衆から上がる瞬間が筆者は好きです・・。
次回兼題は、「秋の潮」と「瓢」です。
(山本正幸)

7月1回目の句会。本日は七夕。静岡市清水区の七夕祭も今年で65回目になります。
兼題は「バナナ」と「虹」。特選2句、入選2句、原石賞2句、シルシ9句という結果でした。
高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎虹の橋袂めざして走れ走れ
久保田利昭
◎アリランの国まで架けよ虹の橋
杉山雅子
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇置き去りのバナナ昭和の色となる
萩倉 誠 合評では、
「こういう発想は今までなかったのではないか。 “置き去り”が分かりにくいかもしれないが」
「古びていく昭和への哀感がある。高度成長した昭和の時代が去っていく寂しさ」
「バナナは昭和の象徴だろう。琥珀色の中に死んでいく昭和」
「“置き去り”のバナナと“昭和”の取り合わせに無理矢理感があるが、発想は面白い」
「“となる”が不自然」
などの感想、意見がありました。
恩田は、
「“意味”に還元していないところが良い。昭和の時代へのノスタルジア、ペーソスを感じ、説明できないニュアンスがある。それは良い句の条件でもある。季語が効いており、面白い感性だ。哀惜の情はあっても、昭和の時代への政治的な批判精神はない。哀惜の情を詠うとき批評は邪魔になる。昭和史の中に眠ろうとするあまたのエピソード。その人固有の体験を呼び覚まそうとしている」
と講評しました。
〇虹立つやミケランジェロの指の先
塚本敏正 「リズムがすがすがしい。気持ちのいい句」
「私は “ピエタ”が好き。ミケランジェロの指から虹が立っている。本物の虹との二重イメージの句」
「ミケランジェロその人の指ではなく、真っ白な大理石の彫刻の指。例えば、巨人ゴリアテへ投げる石を持ったダビデの手を想像させる。虹は希望の象徴」
「“ダビデの像の”と作品を特定すれば、特選でいただいたのに」
との感想、意見。
恩田は、
「そのままミケランジェロの指と読むべきだ。固有名詞が効いている。例えば“草間彌生の”とすると“虹”と相殺してしまう。ミケランジェロだからこそルネッサンスの時代精神を体現し、芸術賛歌になっているし人間賛歌にもなっている。ミケランジェロの作品名を載せるとそこに収斂してしまう。ここにはエコーのような多層構造がある」
と講評しました。
【原】スコール過ぎバナナの下に水平線
佐藤宣雄
恩田は、
「迫力のある句。景色に重量感と立体感があるが、上五を変えたい」
と講評し、次のように添削しました。 天霽(は)るるバナナの下に水平線
【原】バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日々
西垣 譲 合評では、
「まもなく命が尽きるとき、最後に“これを食べたい”という欲望が出てくる。昔バナナは風邪をひかないと食べられなかった。戦争体験が背景にある」
「五七五に収まりきらず、内容は短歌的のように感じた。“切れ”はないが、一気に読み共感した」
「“喰ひ”のほうが良いのでは?」
などの感想と意見が出ました。
恩田は、
「生きるという実感のある句。“喰ひて”の字余りは問題ない。“喰ひ”だと“死なむ”に繋がっていかない。むしろ“日々”を変えたい。このままだと長いある一定の期間となり、理屈に解消し思い出話になってしまう。“あの時”という切実感を出したい」
と講評し、次のように添削しました。 バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日
[後記]
恩田侑布子の句集『夢洗ひ』が、平成29年度の現代俳句協会賞(第72回)を受賞しました。芸術選奨文部科学大臣賞とのダブル受賞です。
句会冒頭、樸俳句会一同でお祝いを申し上げ、大きな拍手を送りました。連衆にとって励みになることです。 今回の兼題の「バナナ」について話が盛り上がりました。句会参加者の年齢層にあっては、当時のバナナは高級品。一日3本以上食べることもあるという人もいて、健康談義にまで広がりました。皆さんそれぞれ思い入れがあって句作に取り組んだようです。
次回兼題は、「空梅雨」と「トマト」です。
(山本正幸)
特選
虹の橋袂めざして走れ走れ
久保田利昭 虹の脚や虹の根はよく俳句にされるが、「虹の橋の袂」は盲点かもしれない。しかも座五に「走れ走れ」と命令形を畳み掛けたところがユニーク。一読して、あまりにも楽天的な向日性を思う。が、一句の異様な無音に気付くや、世界は一転、不気味な悪夢のように思えてくる。走った末に行き着くところは虹の橋ではなく、袂にすぎない。しかも掴むことも登ることもできない幻かもしれない。それなのにひたむきに走る。もしかしたらこれは、底無しの虚無ではないか。楽天と虚無がメビウスの環のような階段になったエッシャーのだまし絵のような俳句。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)
特選
アリランの国まで架けよ虹の橋
杉山雅子 「アリランの国」という措辞がよく出たと感心した。何か他の国を象徴するもので代用できないか考えてみたが「サントゥールの国」では甘くなるし、「ウォッカの国」では虹が生きない。アリランは動かない。日本は韓国侵略の歴史をもち、近年は一部の人によるヘイトスピーチもある。また民族分断という悲劇の歴史も継続している。作者は隣国の庶民に深い共感を寄せ、幸せを祈る。それは自身が少女時代に戦争を体験したことも大きいだろう。アリランという哀調の民謡を唄う庶民に人間として共感を惜しまず、この虹を隣国まで架けようという心根は美しい。視覚的にもチマの鮮やかな遠い幻像に、大空の虹が濃淡をなして映発し合う。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)

6月1回目の句会。兼題は「夏の日」と「更衣」です。
特選2句、入選2句、原石賞1句、シルシ10句。粒揃いの句が多かった前回と比べると今回は不調気味。
兼題にもよるのでしょうか。浮き沈みの激しい?樸俳句会です。
高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします
◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ
◎風立ちて竹林にはか夏日影
松井誠司 ◎先生の自転車疾し更衣
山本正幸
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇膝小僧抱きて見る君夜光虫
山田とも恵 合評では、
「幻想的な句。ロマンティシズムも感じられる。夜光虫の青白い光が“君”という人間のかたちになってくる」
「発想が面白い」
「膝小僧を抱くのが誰なのか分かりにくい」
などの感想、意見がありました。
恩田は、
「膝小僧を抱いて遠くから好きな人を見ている。海辺には大勢の仲間がいる。あの人が好きなのに傍に行けないもどかしさ。夜光虫のブルーの光が幻想的に渚を彩る」
と講評しました。
〇吹き抜けに大の字でいる夏日かな
久保田利昭 「こういう光景にあこがれる。誰もいないお寺かな」
という感想。
恩田は、
「天井の高い吹き抜けのフロアーに大の字で寝ころがる。高窓から午前の陽が射しており、まだ涼しい時間である。いまにもストレッチ体操でも始まりそうな健康的な感覚に溢れている」
と講評しました。
【原】立ちこぎて夏を頬ばる男子かな
萩倉 誠 合評では、
「自転車に乗って、頬ばった夏の風はどんな味がするのだろう?」
「風を受けて爽やかな感じが伝わってくる」
「“夏を頬ばる”の措辞で採った」
などの感想。
恩田は、
「“立ちこぎて”が耳慣れない。また“男子(だんし)”がそぐわないかな」
と講評し、次のように添削しました。 立ち漕ぎの夏を頬ばる男の子かな
=====
投句の合評と講評のあと、いつも恩田が現俳壇から注目の句集を紹介し鑑賞するコーナーがあります。
今回は5月29日の朝日新聞紙面の「俳句時評」で恩田侑布子が取り上げた上田玄氏の俳句(『月光口碑』より20句抄出)を読みました。
はじめに恩田から、作者を取材して知り得た来歴、時代背景などの紹介がありました。 連衆からは、
「挫折していった仲間たちを想って詠っていると思う」
「同世代として共感できる句がある」
「生きていくことへの決意を感じる。自分をスカラベに擬した句に共感」
「イメージが追いついていかない」
「いちいち辞書を引かないと理解がおぼつかない」
「戦争体験者としてはやや違和感がある」
「この世代の“戦争”とは“ベトナム戦争”を指すのではないか」
「謎めいている。謎解きを読者に強いる」
「深刻すぎないか? ナルシシズムを感じる」
「やはり万人に分かる俳句であるべきだろう」
「俳句というより“詩”に近いと思う。
『現代詩手帖』に出てきそう」
「この内容を読者に媒介する人、訳す人が必要」
など様々な感想や意見がありました。 恩田は、
「多行形式という表現技法は措いて、実に深い世界である。古典の素養も背景にある。こういう句を埋もれたままにしておいてはいけない、と思った。今、俳壇が軽く淡白になってゆく中で貴重だ」
と語りました。
一番票を集めた句は次の二句です。 人間辞めて
何になる
水切り石の
跳ねの旅 塩漬けの
魂魄を
荷に
驢馬の列 [後記]
上田玄氏の俳句について、同じ時代の空気を吸ってきた筆者としては俄かには評価しがたい感じに襲われました。まさに、おのれの来歴と現在の在り方を問うものであるからです。どの句にも “祈り”(家族への、友人たちへの、時代への、そして・・)がこめられていると思います。
次回兼題は、「麦秋」と「鮎」です。(山本正幸) 特選
風立ちて竹林にはか夏日影
松井誠司 夏日影は陰ではなく、夏の日のひかりをいう。純然たる叙景句は難しいが、技巧の跡をとどめない自然な句である。カタワカナカと6音のA音が主調をなす明るい調べも内容にマッチして心地よい。一陣の風に竹幹がしない、いっせいに大空に竹若葉がそよぎわたる。はつなつの光が放たれる里山の光景である。竹の琅玕、若竹のみずみずしさ、きらきらと透き通る日差しのなかに、読み手もいつしらず誘われてゆく。
藤枝市在の白藤の瀧への吟行と、あとから聞く。地霊も味方してくれたのだと納得。
特選
先生の自転車疾し更衣
山本正幸 更衣の朝、通学路は一斉にまばゆいワイシャツの群れとなる。「おはよう」。背中からさあっと風のように追い越してゆくひと。あ、先生だ。作者の憧れの先生は女性だが、読み手が女性なら男の先生を想像するだろう。初夏の風を切ってゆく背中が鮮やかである。更衣の季語から朝の外景に飛躍し、はちきれんばかりの若さにあふれる。疾しと、中七を形容詞の終止形で切り、座五を季語で止めた句姿も美しい。一句そのものに涼しいスピード感がある。
(選句 ・鑑賞 恩田侑布子)

2月2回目の句会が行われました。
今回の兼題は「寒晴」「春を待つ」。
静岡から望む富士山はすでにあたたかさを帯びているようで、春の訪れを感じました。 まずは今回の高得点句から。 春を待つテトラポットの隙間かな
佐藤宣雄 恩田侑布子入選句。
「テトラポットとは危険なところに積まれていると聞いていたので、怖いイメージを持っていた。その隙間に春を感じた作者の着眼点が面白い」
「恋の予感を感じる。テトラポットの上に若い人が佇んでいるイメージ」
というような、砂浜などではなく“テトラポットの隙間”に着眼点を置いたところに面白さを感じた方が多かったようです。
恩田侑布子からは
「“テトラポット”という語呂は愛らしい。ただ、情景を思い浮かべると寒々しい。そこに意外性はある。が、下五の“隙間かな”が宙づりになってしまっている。無機物のなかにどんな有機物が隠れているのかがわかれば、さらに面白くなる」と講評しました。
初富士や絹麻木綿翻り
藤田まゆみ 恩田侑布子入選句。
「正月の空の色が見えてくる」
「織物工場でも作者は見たのかな?富士山の雪の白さと、その前で翻る反物の色彩が鮮やかに見えるよう」という意見が出ました。
恩田侑布子は
「富士山の雪を絹・麻・木綿に見立てたのだと思った。天候によって同じ雪でも姿は変わる。その姿を布の種類で表現したことが良いと思った」と講評しました。
寒晴や婦唱夫随の土手歩き
西垣 譲 恩田侑布子入選句。
恩田侑布子は
「本来は“夫唱婦随”。夫と妻の位置が逆ですね。この季語が“秋晴”だったら甘くなりすぎてしまうが、“寒晴”としたところが良い。また、“土手歩き”というところも年配のご夫妻のぶっきらぼうさが出ていてこれまた面白い。」と講評しました。 寒晴れやダブルバーガーがぶり食い
萩倉 誠 恩田侑布子入選句。
「母と娘がハンバーガーを食べている風景が思い浮かんだ。幸せな親子のちょっと特別なひと時を感じた」
「中七から下五への濁音の連打がとっても効いている」
という感想が出ました。
恩田侑布子は
「一見無内容で行儀が悪い。しかも現代仮名遣いでドライに書かれている。読み下すと、なんだか空しいような、嗚咽が潜んでいるような感じだ。ポールオースターの小説のような虚無の底知れなさをちょっと思った。一人でがぶり食いする視線の先にある冬の青空の虚無感。濁音が続き、ストリートミュージシャンの音楽のような個性的な句」と講評しました。
今回の句会では難読漢字の句が多く、非常に興味深かったです。例えば「蕪穢(ぶあい)」や「蛾眉(がび)」「漫ろ(そぞろ)」などです。普段あまり目にしない言葉を知るのはとても勉強になります。が、難読漢字の力に引っ張られて句の世界観が狭くなってしまう、という意見もありました。
気に入った言葉を使う際には、その言葉の力を最大限生かせる寝床を調えて句作したいと思いました。
次回の兼題は「春の闇」「ものの芽」です。兼題の季語も春へと移りますよ!(山田とも恵)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。