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藤田まゆみさん追悼特集

追悼号写真候補6

 藤田まゆみさん追悼特集           二〇二〇年 旧七草の日に    樸の原初会員、藤田まゆみさんは二〇一九年二月一六日、満六十五歳十ヶ月で胆管がんのため逝去されました。一周忌にあたりささやかながら遺句集を編み、樸有志一同心から追悼の句文を捧げます。 最後の入院の十日前まで気丈にも句会に出られて座をはずませてくださり、ふつつかな指導者の恩田侑布子を温かく激励してくださったまゆみさん、本当にありがとうございます。あなたに会えたこと、過ごせた十五年間に心から感謝いたします。これからも胸の中のあなたと会話しながら、あなたが俳句を終生愛したように、わたしたちも俳句とともに生きていきます。天国から見守っていてください。                 樸代表 恩田侑布子  藤田まゆみ遺句集『ひつじ雲』四十五句                           二〇〇四年四月入会 恩田侑布子選               藤田まゆみさんは「具はお花々昆布梅干し木瓜の花」の愉快な句であざやかに登場されました。黒いカシミヤのセーターが似合う、うりざね顔に中高、大きな瞳の典型的美人でした。前の席に座って話にうなずいてくれる笑顔がいまも美しく甦ります。聞けば藤田米店の奥さんで掛川から通って来てくれるということ。翌年には「ああこれが坂東太郎風光る」をはじめ、伸びやかな俳句で「樸」になくてはならないひとになりました。でも、楽しかった日々は束の間。最愛の伴侶が五〇代で末期がんの宣告をうけます。看病から看取りへ。ふるさと静岡に一人住まいになってからの夫恋の句も胸をうちます。そして今度は気づかぬうちに自身が病魔に侵されていました。末期がんであることをこっそり私にだけ教えてくれた時も、こちらが絶句するほど平静でした。句会では、抗がん剤治療中など露ほども仲間に気取られることなく、お茶目ですっとんきょうな応答で爆笑を振りまいてくれました。  こうして代表句をまとめてみると、生来の天衣無縫さと感覚の良さが相まって、生き生きしたインパクトのある俳句ばかりです。そこに彼女がいるようです。 ひとりでも多くの方にまゆみさんの俳句をお読みいただければ幸いです。                   恩田侑布子    『ひつじ雲』      藤田まゆみ  具はお花々昆布梅干し木瓜の花   (二〇〇四年)  ああこれが坂東太郎風光る      (二〇〇五年)  夜濯やをとこのことば消えもせず   緑陰や見上げしあごのそりのあと      いさかひは生命ある事曼珠沙華       病院の隅に陣取り秋行くや  両足をひとにからめて秋暮るる       青色発光ダイオード聖夜来る     (二〇〇六年)  寒茜カーラジオのみしやべりけり      諸共と思ふ時あり日の盛り        病院の長き廊下や遠花火          廃業の届けを出して炬燵かな     (二〇〇七年)  旧家とは墓守る事椿落つ          逝くひとや病棟の果て凌宵花        雲の峰登山者のごと君や逝く        泡立草由緒正しき無人寺          冬山家裏も表も風の音         (二〇〇八年)  元日の住所寝床と決めにけり        春暮れるおぬしと呼びし夫の亡き       玉の汗拭ひて吾の眼前に          満月や風水火力原子力         (二〇一〇年)  立冬の広き背中に会ひにゆく        夏草や又会ふといふ刻はなし        御守は開けてはならず蝉時雨     (二〇一一年)  昼の虫ジャムバタサンドほヽばりて     祖先より甲高番広春野行く         寒月や夫の背中に追ひつけず     (二〇一二年)  深々とヒール吸はるる春の雨         春泥の開かずのお蔵開けず来ぬ       クレーン車ランプの赤き無月かな      梅花講鈴振る腕の薄暑かな      (二〇一三年)  迎火やあの世に多き家族かな        蜜柑食ふ目の前の席永遠にから       空青く末吉結ぶ初詣          (二〇一四年)  手にぎりしむ湿り気ひたと児のすみれ    夏河原父のズボンの小石落ち        梅雨曇バスケシューズの軋む音   (二〇一五年)  ちやんちやんこあだ名で呼ばるしあはせや  二階家の軋む廊下や君子蘭         御便所に起きる子供に夜長かな  しあはせか問ふてみたしや月の秋      通されし仏間の脇のからすうり  落葉踏む堤の端にひとりかな    (二〇一七年)  ひつじ雲治療はこれで終わります。(二〇一八年)        (この句の恩田の鑑賞文は こちら)   もう少し太れといはれ焼き芋よ 追悼小文    「ふだらく渡海」             恩田侑布子                                             数回お見舞いさせてもらった年末の病院で、貴女はもう水だけしか口にできなくなっていました。なのにいつものようにわたしを笑わせようと、 「ねえ、見てえ、わたし妊婦さんになっちゃったわ。ほら」 止めるまもなく、仰臥したまま布団とねまきをめくって、腹水でぱんぱんになったお腹へわたしの手をみちびきました。透き通る青白い肌に、出べそになるほど膨れ上がったお腹が現れました。へんな喩えですが、それは梅のつるつるした琅玕のすわえのように清らかでふたり笑ったのです。「遅れてきた妊婦さん」って。まゆみさんは子どもが欲しくて九州や関東まで一〇年も不妊治療に通った話をしてくれました。産み月のようなお腹にかわいい赤ちゃんがいて「お母さん、お待たせー」って出てきてくれればいいのに、わたしたちは本当にその時思ったのです。  年が明けて病室にゆくと、もう冗談をいう体力は残っていませんでした。石原あゆみさんが手作りしてくださったエメラルドグリーンの『藤田まゆみ句集』が枕もとにありました。「夜は長いわ」と、大きなきれいな瞳でいいました。 「いま、なにかんがえてる」 と訊くと、 「なんにもかんがえないわねえ」 しずかな答え。 「夫の十一周忌もすませたし」 ご主人のがんの闘病の一部始終を見てきたまゆみさんは覚悟が出来ていたのでしょう。何が起こってもうろたえませんでした。腕を枕にしようともたげた二の腕が、鶴の趾のように痩せ細っていても隠しませんでした。二人で淡々となごやかなひとときを過ごしたのです。そのむかし、補陀落浄土への往生を願った上人が食絶ちをして、紀州の南端から蒼海へひとり舟で旅立ったことがありました。 こまかい春雨の降るお通夜でした。最後までがんばったのね。おもわず棺の彼女に声をかけていました。家族のないたったひとりの彼女は白い病床から鶴のように虚空へ翔びたったのでした。    床上の渡海上人梅真白     侑布子    紅椿なきがらかくも冷えゐたる  〃           樸 連衆追悼句集   十五年朧となりぬ棺の紅        佐藤宣雄 料峭に細き眉上げ消えにしか      西垣 譲 白梅や夫のむすびの具はおかか     伊藤重之 春の雷淡き句を詠む友は逝き      林 彰 待ち合わせ場所にベレーや春時雨    森田 薫 いつまでも褪せぬ向日葵胸に挿し    芹沢雄太郎 日傘ゆく常世の果ての待ちあはせ    山田とも恵 陽の君たまゆら愁眉冬の夕       久保田利昭  「赤毛のアン」の舞台プリンスエドワード島行きを夢みていた人に アンのこともつと聞きたし冬の星    天野智美 読み止しの句集に挟む冬菫       村松なつを 隣る世へひらりベージュの冬帽子    山本正幸    中学生のデートみたいに公園で待ち合わせ。彼女は私を引っ張ってベンチに座り目を瞑る、私も慌てて同じように。隣りの彼女がいるだけでなぜか違った空気を吸っているようだった。その日は大道芸を観に来ていたのだ。運よく目の前で大道芸が始まり、彼女の笑顔はとびきりだった。徐々に混みだし彼女は少し前に進んだみたいだ、見失ってはいけないと彼女を追って私も。私は芸人よりも彼女ばかり見ていた、不思議な魅力。子供のように可愛くて心配で目が離せない。すれ違うピエロに笑顔で両手を振り、あまりにピュアな彼女に恋でもしそうだった。 冬夕焼道化師の背睡り落つ       石原あゆみ 冴ゆる夜カラリンロンと響ききて    猪狩みき 白息の集ひて行くはひつじ雲      見原万智子 焼き芋を羊も喰むや雲の夢       島田 淳 亡き人は何してをらむ年暮るる     佐藤宣雄 「ああこれが坂東太郎風光る  藤田まゆみ」  まゆみさんが御主人とドライブに出掛けて利根川のほとりで詠まれた句と記憶しています。なぜか、お幸せなお二人が浮びました。お二人で楽しく笑ってくださいネ。                 原木裕子  鑑賞    「藤田まゆみさんの辞世」                 島田 淳              ひつじ雲治療はこれで終わります。               まゆみ 半年ほど前、友人の外科医にこの句と恩田先生の鑑賞文を読んでもらった。 彼は、がんの患者さんを治療することがよくある。 句と鑑賞文をじっくりと読み、自分に何か言い聞かせるように頷き、彼はゆっくりと口を開いた。 「僕は俳句は全くわからないけれども、この句の言わんとすることはとてもよくわかる。」 「患者さんの残りの人生を苦しい治療で終えてしまっていいのかと考えると、医者が『どこかのタイミングでこう言った方がいいのだろうか』と迷う場面は間違いなくある。」 「ただ、それを患者さんが受け容れられるかどうか、絶望することなく残りの人生と向き合っていけるかどうかは、時間をかけて信頼関係を築いていくしかないと思う。」 そして、まるで患者と医師が晴れた丘の上でひつじ雲を見ながら会話しているようだと彼が感想を述べた。 少し考えて、私は次のように応じた。 「これだけ簡潔な表現で、静かにそのことを受け容れられたというのは、患者さん自身に自分の『いま』を見つめる力が備わっているからかも知れない。うまく言えないが、『諦める』ことと『受け容れる』ことはたぶん違う。その違いをうまく説明することは今はできないが、恩田さんが鑑賞文で述べていることは、そういう事のように思える。」 我々は、そこまで話すと再び黙って酒を飲んだ。    落葉踏む堤の端にひとりかな  まゆみさんが頭書の句の十ヶ月ほど前に詠んだ句である。「落葉」は、自分及び人生で関わりのあった人々の記憶の総体なのだろうか。それらをゆっくりと踏みしめて人生を歩み、今ひとりで突堤の先に立っている。過去も、未来も、総てのものを見渡す事ができる場所。さびしさと同時に、ひとりそこに立つ決然たる気持ちも汲み取れる。今となっては想像するしかないが、この時すでに病魔と向き合っていたのかも知れない。そう思うと、その心根の勁さに静かに感服するほかはない。    もう少し太れといはれ焼き芋よ 「ひつじ雲」の句の約一ヵ月後にまゆみさんが詠んだ句である。抵抗力をつけるために栄養を摂って少し太りましょう、とでも言われたのだろうか。「太るイコール焼き芋」という昭和のティーンエイジャーのような連想をしてしまい、しかもそんな自分を笑ってしまっているような下五である。この句を詠んだちょうど三か月後の同じ日に、まゆみさんは旅立たれた。 私は、この文章を書いていてようやくこの句の持つ意味に気づいた。闘病する人は必ずしも「可哀相な人」なのではない。病床にあるときにも、笑いやおかしみは存在する。まゆみさんの句を読んで、私はそう思った。ただ、そのように『生』を全うするためには必要となる『力』がある。人生の後半というものは、そのような『力』を身につけ養っていく時間なのかも知れない。私はまゆみさんの句から、そうした事を教えられたような気がする。             追悼詩と俳句    「今 この別れ」                   松井誠司  棺に眠る 紅の女  戸外の雨に 今はもう  応える言葉 口を出ず        片手に日々の 常識を  もう片方に 不思議さを  ひとつの体に 持ち合わせ  時によりての 句を紡ぐ    ある日は 真顔で言い放つ  えっ この句が特選句  またある時は 他の人の  心に浸みる 言霊を    今この別れ 雨の夜  最後の最期に 輝ける   あの辞世の句に 秘められた  思いの奥が 胸を打つ         それぞれに残せし言葉冬の雨               誠司

2月18日 句会報告

20190218 梅三分

平成31年2月18日 樸句会報【第65号】 二月第一回目の句会です。 兼題は「梅」と「下萌」。   ○入選2句、原石賞2句を紹介します。     ○入選  行き先も言はずに乗りし梅三分               石原あゆみ    「急に思い立って行ってみたくなった気分と下五の梅三分の咲き具合が合っている」という感想がありました。 「詩情のある、リリカルな句です。まだ風は肌寒いけれど、佐保姫(春の女神)に心誘われてどこかに行ってみたい気持ち、遠くではなくて、ちょっとした小さな旅に出かけずにいられないという気持ちが表現されています。日常茶飯とは何ら関係のない旅であるところに清らかさが感じられます。浅春のリリシズムですね」と恩田侑布子が評しました。 「どこということもなく、という思いを“三分”にのせました。賤機山(しずはたやま※)のふもとの梅から思いをひろげました」と作者は述べました。 ※ 静岡市民に親しまれている葵区にある標高170mほどの山。「しずおか」の名もここに由来し、南麓には静岡浅間神社がある。       ○入選  その人のうすき手のひら梅の径                山本正幸   合評では「梅を見ながら手をつないで一緒に歩いている状況。相手は華奢なひと。相手の手の薄さとこの季節の感じが合っている」「“その人の”というはじまりも想像をそそってよい」「年老いた母親かもしれない!?」などの意見がありました。果たして二人は手をつないでいるかいないか。で連衆間で句座はカンカンガクガク盛り上がりました。 恩田は 「感覚の優れた句です。私は手をつないでいないと読みたいです。その方が清らかです。谷間の人気のない弱い日射しの梅の径を、翳りのある関係の二人が歩いていると読みました」と述べました。       原石賞の二句について、恩田が次のように評し、添削しました。 【原】紅梅の香の蟠る夜の不眠                伊藤重之   「紅梅の香にはどこか動物的な生臭さがあり、“蟠る”の措辞はスバラシイです。ただ“夜の不眠”はくどいので“不眠かな”にしましょう」            ↓ 【改】紅梅の香の蟠る不眠かな 「このほうが切なさが出ませんか」       【原】草萌ゆる目で笑ひゐる緘黙児                猪狩みき 「素材がよく、鮮度があります。緘黙という難しさをもっている子を見守っているやさしさが出ていますね。“草萌や”と切り、“で”を“の”に変えてみましょう」           ↓ 【改】草萌や瞳の笑ひゐる緘黙児   「中七の動詞が生き、瞳の光が感じられるようになったのではありませんか」          合評の後は、第三十三回俳壇賞受賞作『白 中村遥 』の三十句を鑑賞しました。      糸を吐く夢に疲れし昼寝覚    音たてて畳を歩く夜の蜘蛛    蓮の花人の匂ひに崩れけり    が好まれていました。    「独自の視点があって、不安で不気味な感じを表現できるのが、この作者の持ち味ですね」と恩田が評しました。       [後記] 句会の数日前に会員のお一人が亡くなられました。病をもちながら句作に取り組まれていたとのこと。今回の句会には弔句がいくつか出されました。俳句での表現という場があったことが彼女の時間を充ちたものにしていたのではないか、そうだったらいいと思っています。(猪狩みき)                      「記」 2018年10月7日の特選句である  ひつじ雲治療はこれで終わります。 の作者、藤田まゆみさんが、2月16日胆のう癌のため65歳で逝去されました。12月2日の句会まで楽しく句座をともにし、最期まで愚痴一ついわなかった彼女の気丈な生き方に心からの敬意を捧げます。16年に及ぶ親交の歳月を銘記し感謝いたします。まゆみさん、ありがとう。貴女からいただいたエールをこれからも温めて参ります。                 恩田侑布子                         次回兼題は、「蕗の薹」と「春雷」です。 今回は、入選2句、原石賞3句、△1句、ゝシルシ9句でした。みなの高得点句と恩田の入選が重ならない会になりました。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

11月16日 句会報告

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平成30年11月16日 樸句会報【第60号】 十一月第2回、暖かさが続き秋の訪れの遅い今年ですが、陽を受ける樹に秋らしさが感じられた日でした。 今回は、入選2句、原石1句、△4句、シルシ10句でした。 兼題は「枯葉」と「鍋」。入選句を紹介します。(◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ ・シルシと無印の中間) 〇枯葉にも生命線や空真青              山本正幸  合評では、「枯葉の葉脈を生命線とみた目のつけどころが良い」「枯葉は土になって次の命を育むことに役立ったり、葉を広げて虫を温めるなどの生命力を持っている。ただ枯れてもう何もないというのではなく、枯葉の持つ生命力を見つけたことがよい」などが出されました。 「枯葉はどこにあるのか?作者はどこにいて見ているのか?」という問いがありました。空を見ることとの関連から、土に落ちた枯葉という見方と枝にしがみついて残っている枯葉という見方ができるのではという意見が交わされましたが、近くにある枯葉を手に取って、あるいは手に取らずとも近くで見ているととらえるのが自然なのではないかという意見にまとまりました。  恩田侑布子は、「近くの枯葉から空という大景に拡げている達者な句。枯葉がその命を精一杯生き抜いた感じを表現した優れた句である」と評しました。          〇つゆだくの牛丼すする寒昴              萩倉 誠  恩田だけが採りました。 「“つゆだく”という措辞がいいです。寒い中、チェーン店と思われる安いびしょびしょした牛丼をすすっている。とても俗っぽい前半と、店を出て振り仰いだ俗でない宇宙との取り合わせが良い」と講評しました。                      【原】悲しきは枯葉と踊る馬券かな              萩倉 誠  この句も恩田だけが採りました。  「おもしろい句です。上五を変えると見違えるように良くなります。たとえば“武蔵野の”とすると、歌枕でもある“武蔵野”と“馬券”の取り合わせになって俳味が出るのではないかしら」との評でした。                 俳味という点では △もう少し太れといはれ焼き芋よ             藤田まゆみ   もおもしろい句と恩田が評しました。「女性が好きな美味しいけど太る焼き芋が、“太れ”と言われる視点の逆転がいいですね。諧謔が効いています」とのことでした。                                [後記]  今回も様々な味わいの句を楽しむことができました。私は「形にすること、何とか俳句らしくすること」に必死で、楽しさや諧謔というものを表現する余裕がまだありませんが、広く深く表現をとらえて作っていくことができればと思います。「上手くなることを第一目標にしないほうが良い。自分という底知れぬ井戸から汲みあげてくる自分なりの表現、その人の気息が通う生きた俳句を作ってほしい。そして句会は、自分の表現を他の人と共感、共振、交響することで自分を高めていく場であってほしい」との恩田の言葉に力づけられました。  次回兼題は、「冬木立」と「鴨」です。    (猪狩みき)

10月7日 句会報告と特選句

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平成30年10月7日 樸句会報【第58号】 十月第1回は、なんと真夏日。 特選1句、入選2句、原石3句、シルシ12句でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 特選                         ひつじ雲治療はこれで終わります。                  藤田まゆみ    ひつじ雲は季語ではない。無季の句、いや超季の句である。  一読胸を衝かれる。いつか誰もがこう言われる。死の現実が確かにやってくる。でもわたしたちは考えないようにしている。癌は完治するひとも多いが、そうでない場合は闘病生活が長くなった。  「治療はこれで終わります」は医者のことばだろう。あまりにそっけない。だがこれは、すでに、よく診てくれたお医者さんとの間に暗黙の合意がしずしずと築きあげられて来た結果であろう。昨日今日会ったお医者さんはこうは言うまい。  この句の異様さは、無季と口語の上に、最後の句点にある。「。」で終わる句はみたことがない。散文でないのにあえて「。」を打った。そこに医者の宣告を円満にしずかに受け入れる覚悟がある。一期を卒え、すべてに別れなければならない現実の冷厳さ。というのに何なのだろう。どこからやってくるのだろう。この不可思議な明るさは。秋でも春でもない、季節を超えたしずかな白いひかりは。  窓から大空が見える。青空の所 々に、羊がもくもく群れ遊んでいるような高積雲がひろがっている。ああ、ようやく長かった抗がん剤の治療から解放される。そんなに遠くない日、あのまるい柔らかな羊雲のようにわたしは大空に帰ってゆく。風に吹かれて木立をどこまでも散歩するのが好きだったように、天上でもやわらかに風に吹かれていたい。  悲しい、寂しい、苦しい、なにも言わない。人間は生まれて、愛して、死ぬ。それが腹落ちしている。精一杯明るく、甘えず、愚痴もいわず生き抜いてきた自負が、柔らかなひつじ雲にあどけなく輝いている。  現実をしかと見て、どこにも逃げない。毅然と最後まで胸を張って生きる。見事な俳人の生き方である。          (選句 ・鑑賞   恩田侑布子)                                            〇ハンカチのしわは泣き顔赤とんぼ              天野智美 恩田侑布子は、 「“季重なり”(ハンカチと赤とんぼ)ですが、“赤とんぼ”がしっかり座っているのでいいでしょう。生き生きしています。中七から下五にかけての詩的な飛躍がいいです。顔を埋めて泣いたあとのハンカチを即物的に捉えている。悲しみを押し付けられず、想像力をかきたてられる句ですね」 と講評しました。 合評では、 「乙女チックな感じ」 「かわいい句。“しわ”が泣き顔を類推させる。赤とんぼの取り合わせにノスタルジーを感じる」 「捨てられた女の句じゃないですか?」 「擬人化がよくないのでは」 などの感想、意見が述べられました。                     〇受賞者の緩みなき顔秋澄める              猪狩みき 恩田侑布子は、 「いい句です。“緩みなき顔”という措辞、よく出ましたね。受賞者の来し方の“一生懸命さ”と精神性の高さが表出され、季語とよく響き合っています」 と講評しました。 合評では、 「季節としてはスポーツの賞とも文化の賞とも取れるが、この句の受賞者は、長年の文化的な功績を称えられた方のように感じます。“緩みなき顔”に受賞者の真面目な性格を思い起こされます」 との感想がありました。 [後記] 今回も連衆の最高点を集めた句が恩田の特選になりました。選句眼が向上した樸俳句会です。 合評の中で、「季重なり」と俳句で使われる文法を「取り締まる動き」が現代の俳句界にあることを恩田は憂えつつ紹介しました。恩田は「表現の冒険を許さない動きは文学をやせ衰えさせることになる」といいます。筆者も同感です。句作の原則があってもなお、そこから文法的にはみ出した名句は数多くあります。例えば筆者の愛誦する横山白虹の「ラガー等のそのかちうたのみじかけれ」は形容詞の活用誤りと思われますが、その感動はいささかも減ずることはありません。 次回兼題は、「木の実」と「露」です。(山本正幸)

7月1日 句会報告

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平成30年7月1日 樸句会報【第52号】 例年より早い梅雨明け後の、七月第1回の句会です。 入選2句、原石賞3句、シルシ1句、・7句という結果でした。 兼題は「夏の燈」と「葛切または葛桜」です。 入選句と原石句から1句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)                              〇夏ともし母が箪笥を閉める音             芹沢雄太郎 合評では、 「涼しさと静けさのなかの音と。静かで寂しい感じでもあり、静かで平穏な幸せを感じでもある」 「涼しい感じ、夏痩せした母だろうか、ちょっとさみしげな句」 「老いた母の立てる音、さみしい感じが表されている」 というような老いた母をイメージさせるという評がある一方、 「あまり寂しい感じはしない。リズム感のある句で日常のいろいろな場面が想像できる」 との感想もありました。 恩田侑布子は、 「老いた母とは思いませんでした。子どものころ、夏蒲団の上でうとうとしていると、几帳面な母がたたんだ衣服を箪笥にしまう音がするといった光景でしょう。夏灯の持っている庶民的な生活のふくよかさと同時に昭和の簡素な暮らしの匂いも感じる。読み下すと響きも良い。夏灯に涼しい透明感があります。箪笥を閉める静かな音に一句が収斂していくところがいい。つつましくも清潔なくらし。ほのぼのとした句ですね」 と講評しました。                         〇岬まで歩いてみよか夏灯              天野智美 合評では、 「“夏灯”と上五・中七が合っている、風を感じられる句」 「涼風!が吹いている」との感想がありました。 恩田侑布子は、 「小さな岬に行く道の途中に夏灯がポツンポツンとある情景が浮かび、涼しさが伝わってくる。西伊豆に多い30分で行って戻れるような岬でしょうか?単純化された良さがあり、また軽快な口語がシンプルな内容とあっている。夏灯の季語が生き生きと感じられる愛すべき句」 と講評しました。                【原】梅雨の月太り肉な背白濁湯             藤田まゆみ 恩田侑布子は、 「よくある温泉俳句だが、平凡を免れている。五・七・五がすべて名詞で、そこから今にも降り出しそうなふくらんだ月、白濁した露天の湯、脂ののった女体、という存在感が迫る厚みのある描写である。中七の“な”が口語っぽいのが問題。“太り肉な背”→“せな太り肉(じし)”にしましょう。 〈 梅雨の月せな太り肉白濁湯 〉となり、これなら文句なく◯入選句でした」 と講評しました。                         投句の合評と講評のあと、本年2月10日90歳で逝去された石牟礼道子の句集『天』の俳句を鑑賞しました。 当日のレジュメです。クリックすると拡大します。            ↓  椿落ちて狂女が作る泥仏    わが酔えば花のようなる雪月夜  常世なる海の平(たいら)の石一つ   などが連衆の共感を呼びました。 「子規以降、近代以降の俳句とは違うところから書かれている。“写生”という姿勢から出発していない俳句。専門俳人の高度な技術とは違う次元、別の土俵から立ち上がっている句である。子規の写生がすべてではない。“俳句という文芸の広さゆたかさ”を意識していたい」 と恩田が話しました。                            〔後記〕 俳句初心者には、鑑賞、合評でかわされる感想がとても興味深いです。入選句の母の年齢をどうイメージするかのそれぞれのとらえ方の違いを楽しみました。 次回兼題は「山開き」「夏越」です。     (猪狩みき)

12月22日 句会報告と特選句

20171222 句会報1

平成29年12月22日  樸句会報 本年最後の句会会場はいつもと違って小ぶりな会議室。至近距離での親密な熱い議論がかわされました。投句の評価は、特選1句あったものの、入選なし、原石賞1句、△1句、シルシ9句という結果でした。一年の疲れが出たのでしょうか? 兼題は「時雨」と「“石”を入れた句」です。 話題句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎「AI」と「考える人」漱石忌             久保田利昭 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)            【原】石垣の滑らなりしや水洟や             藤田まゆみ この句を採ったのは恩田侑布子のみでした。 恩田は、 「発想は面白く、表現が未だしの句。語順を変え切字を一つにすると、水洟を垂らす作者の今と、駿府城の四〇〇年の濠の歴史が対比され、作者のユニークな感性が生きるのでは」 と評し、次のように添削しました。  水洟や濠の石垣滑らなる                △しぐるるやマドンナを待つ同期会              山本正幸 この句を採ったのは男性ばかり。 合評では、 「情景が浮かぶ。ホテルの受付。気が付けば外は雨。そういえばあの〇〇ちゃんはどうしているだろう?今日は来るのか?雨の持つしっとり感と同期の女性への想いが一致した」 「同感!“しっとり感”ですよ」 「“しぐるる”は心の中のざわつきでもある。急に降ってくるのが時雨。彼女は昔のイメージと変わっているかなぁ。もしかしたら・・」 「待つときのもどかしさ、複雑な感情を詠った」 という感想の一方で、 「なんだか、全然ピンときません」 と女性の声(複数)もありました。 恩田侑布子は、 「まだ来ない人を待つ心情のしっとりとした感じはある。小さな喫茶店での会を思った。“同期会”が行われる百人単位の大きなホテルには“しぐるるや”は合わないのでは。きっと会場はビルの中でもう同期会は始まっているのだろう」 と講評しました。                 ゝ石橋を冬日と渡り八雲の碑              森田 薫 本日の最高点句でした。 合評では、 「目に浮かぶ光景。“八雲館”のある焼津だろうか。詠われた自然と人名が合っている」 「中七の“冬日と渡り”の措辞がとてもいい」 との共感の一方で、 「句としてはよくできていると思う。しかし、八雲の碑と冬日が少しそぐわないのでは?」 「“あなたと渡り”ではいかが。私は“叩いて渡り”ますが(笑)」 「石橋と碑(いしぶみ)がくどいのではないか」 などの意見が述べられました。 恩田侑布子は、 「皆さんの鑑賞に同感です。石橋と碑がくどいという指摘はそのとおり。上五~中七はいい。しかし、下五が“八雲の碑”の必然性があるか?吟行の嘱目詠ならいいですが」 と評しました。 今回の兼題の「時雨」について、恩田侑布子は下記の句を紹介し、それぞれ解説をしました。  水にまだあをぞらのこるしぐれかな             久保田万太郎 一句一章の句。万太郎の和文脈です。「かな」の切れが実に美しい。  翠黛の時雨いよいよはなやかに              高野素十 しぐれの持つ“艶”を引き出した句です。京の翠黛山に降る時雨を詠ったものですが、王朝人の翠のまゆずみで描いた眉も奥に幻想され、下五の“はなやかに”が効いて名句になりました。 投句の合評と講評のあと、桂信子の俳句(『桂信子全句集』(1914~2004年) 60歳以降の作品から)を読みました。 共感の声が多くあがりました。「若い頃の“女性性”を前面に出した句よりも格段に良い」との評価も。「忘年や・・」の句に対する「モノではなく、ひとは心の中にいるのですね」との最年長会員の感想に一同大きくうなずきました。 特に点の集まったのは次の句でした。  たてよこに富士伸びてゐる夏野かな  大寒のここはなんにも置かぬ部屋  忘年や身ほとりのものすべて塵  闇のなか髪ふり乱す雛もあれ  冬滝の真上日のあと月通る 恩田侑布子は第一句集を出版した際、桂信子から評価の葉書をもらい、俳句のパーティーでもやさしく声をかけてもらったことがあるそうです。 [後記] 句会の冒頭、恩田侑布子から「このたび“桂信子賞”をいただくことになりました。句集『夢洗ひ』だけでなく、これまでの俳人としての歩みを評価されたことがとても嬉しいです。来月伊丹市の“柿衛文庫”での授賞式に出席し、記念講演を行います」との報告がありました。芸術選奨文部科学大臣賞、現代俳句協会賞に続く受賞で、実に喜ばしいことです。連衆から心よりのお祝いの言葉が述べられました。 (授賞式のご案内はこちらをご覧ください) 本日配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。 「見たマンマを詠むと説明的で即きすぎの句になります。月並ではない新しみある俳句を!」 どうしても発想が月並になってしまう筆者ですが、一気に新しさの高みにのぼる王道がない以上、コツコツ句作を続けようと思います。 次回兼題は、「“寒”を入れた句」「コート」です。              (山本正幸)                  特選   「AI」と「考える人」漱石忌                 久保田利昭  AI、考える人、漱石忌、三つの名詞が並列や直列の関係にないところが新しい。これはトライアングル構造の句である。もし〈AIと「考える人」漱石忌〉なら、三角構造は崩れて弱くなる。カギカッコで括られた「AI」は「考える人」同様、すでに存在として受けとめられている。ブロンズの「考える人」が覗き込むロダン(1840〜1917)の「地獄の門」は1900年前後の作という。漱石(1867〜1916)は ロダンより二十七も歳下だが、ロダンより一年早く四十九歳で卒した。ロダンの生存期間にすっぽり入るから、同時代の近代を象徴する彫刻家と文豪といえる。そう思うと切れは、〈「AI」と/「考える人」漱石忌〉になり、漱石のみ実在者と思えば、切れは、〈「AI」と「考える人」/漱石忌〉となる。人工知能とロダンの考える人を対比させ、漱石忌でうけとめた後者ととるのが自然だろう。とはいえ、切れの位置の変幻は読者を思弁に誘い込む。人工知能が近未来にかけて猛威を振るい世界の活動を根底から変えようとしている。その「AI」 と「考える人」を、漱石が双肩に受けて真面目な顔で考えて居る。漱石の胃に穴が空いたのは我執のもんだいであったが、今やartificial intelligenceが加わった。山本健吉は、俳句は認識を刻印する芸術であるといった。刻印というより認識の迷宮をそぞろ歩きし、あ、もういいやと、漱石の口髭を撫でたくなる句ではないか。          (選句/鑑賞  恩田侑布子)

12月1日 句会報告と特選句

photo by 侑布子

 12月1回目の句会が行われました。 この日は句会終了後に樸俳句会の忘年会が開催されることもあってか、いつもに増して真面目な雰囲気の句会だったように感じました。今回の兼題は「落葉・霜・冬季雑詠」。久しぶりに特選句も出て、大いに盛り上がりました。 今回の入選句をご紹介します。                浮雲のどれも陰もつ一茶の忌              伊藤重之   合評では、 「俳句の形としてお手本のような句」 「一茶の幸福とは言えない人生が見えるよう」 「“陰もつ”を“陰もち”にした方が、切れが深くなるのではないか」 という意見が出ました。 恩田侑布子は、 「生涯辛酸を舐め続けながらも俳諧自由のこころを失わなかった俳人一茶への共感がある。浮雲は年中見られるけれど、“どれも陰もつ”という措辞に十一月の季感がただよい、肌寒さを感じさせる」 と講評しました。                 落葉踏む堤の端にひとりかな             藤田まゆみ 恩田は、 「堤の突端 まで落葉を踏んでゆく。つくづく誰も居ないなと思う。作者の背後には落葉が記憶のように降り積もっている。孤独感とさみしさをうたって、嫌味や押し付けがましさのないところがいいじゃありませんか」 と講評しました。               リヤカーの塀に倒立石蕗の雨              森田 薫 合評では、 「絵として美しく情景が見えるようだが、リヤカーが立てかけてある情景を“倒立”とするところに少し違和感を持った。“塀に立てかけ”のほうが自然ではないか」 という意見が出ました。 恩田は、 「一枚の絵に完全になっている。内塀でしょう。ほとんど使わないかすでに使い手のいなくなったリヤカーが、広い元農家の敷地片隅の塀に立てかけてある。しずかに降る雨が過ぎ去った時間を慰撫するよう。日のひかりの薄い初冬の情景として出色」 と講評しました。  下記に掲載する特選句は、今回、恩田を含む参加者の約半分が点を入れるという最高得点句となりました。この特選句に関しては「“霜雫”という季語が、どんな情景を描いているか」というところで議論を呼びました。植物に降りた霜から溶け出した雫なのか、屋根にできた霜が垂れ落ちる様子か。たった二文字の言葉に語りつくせぬ情景が詰まっている豊かさに、言葉の持つ面白さを改めて噛みしめる時間となりました。次回の兼題は「時雨・石」です。(山田とも恵)                特選        霜雫この世の時間使ひきる                 伊藤重之  霜雫は温かい静岡平野の市街地ではまず目にすることはない。わたしも四半世紀前にいまの山中に引っ越して、初めて厳寒の時期だけ見聞きするようになった。霜が降りる日は、明け方冷え込んでも日中はよく晴れる。冬晴れの下、山あいでは納屋などのトタン屋根から霜雫がかがやくように地に落ちる。それは朝霜の一面の厳しい白さとはまた別種の風情。どこかあの世の明るさもふくむ明るさ、ふしぎな時間である。すべてを昇華した末のような水滴が、寒気のゆるんだ日向に銀色のしずくを滴らせ、ときに水銀柱をおもわせる垂線を引く。静かで清らかな冬の真昼。愛するかけがえのないひとは、なすすべもなくこの世のいのちの火を使い切ってしまった。霜夜のような凍てつく時間、凍る思いの日 々のはてに、いま真っ青な冬晴れに見守られて大地にかえってゆく雫。泪のとけこんだ銀のかがやきがひとの一生に重なる。「霜雫」の季語の本意本情に一歩を付け加え得た俳句といえるのではなかろうか。      (選句/鑑賞   恩田侑布子)

10月20日 句会報告と特選句

20171020 酒

10月2回目の句会が開催されました。雨続きの今秋ですが、静岡はこの日晴れ間が見え、暖かな日差しが差し込んでいました。 本日の兼題は「酒」。お酒を楽しまれる方が多い樸俳句会。実感のこもった俳句が多く盛り上がりました。高得点句を中心にご紹介してまいります。(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎一葉忌縦皺多き爪を切る              杉山雅子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                             ◯隣室は数学を吾は新酒を             藤田まゆみ 合評では、 「数学の難しい問題に挑むワクワク感と、新酒を飲むワクワク感。別々の部屋にいるのに静かなワクワク感が共通している」 「論理的な思考と、感情的な楽しみが隣り合わせになっている面白さのある句」 という感想が出ました。 恩田は、 「ユニークな内容に句またがりの破調が合っていて面白い。隣では数学の難問に取り組んでいる子ども、わたしはへっちゃらで新酒を傾ける。秋の夜長にそれぞれの楽しみがあっていい。型にはまらない個性的なのびのびとした俳句で楽しい」 と評しました。 ◯深酒を洗ひ流すや天の川             久保田利昭 合評では、 「酒飲みの心境がよく詠まれている。きれいな星空を見て、ちょっと反省することってあるよね」 「サラッとした句。ヒヤッとした夜の空気を感じる」 恩田は、 「酒豪はやることが大きい。深酔いして夜更け家路につくとき、天の川の下で酒気を洗い流すという。恩田は天の川で夢を洗う「夢洗ひ」でしたが久保田さんは酒を洗う「酒洗ひ」。してみると天の川はミルキーウェイじゃなく、どぶろくどくどくでしょうか」 と評しました。   ◯良寛のいろは一二三や草の花              伊藤重之  この句は恩田のみ入選で、ほかは誰も点を入れませんでした。 その理由として「あまりにも上手」「良寛にもたれかかってしまっていると感じた」というような意見が出されました。 恩田は、 「良寛に“いろは”“一二三”の双幅があって名高い。良寛の手跡のやわらかさと草の花が絶妙な配合で上手い句。欲をいうと技術力で書けてしまったような、どこか肉声から遠い感じのするうらみもある」 と講評しました。          [後記]  秋の季語には「酒」を含むものが多くこの兼題となりましたが、想像以上に幅広いお酒の種類が句に登場し、いつも以上に自由な明るい句会となりました。お酒は感情に直結する飲み物なので、句が思い浮かびやすいのかもしれません。飲めない筆者としては、羨ましい気持ちになりました。次回の兼題は「身に入む」「林檎」です。(山田とも恵)               特選       一葉忌縦皺多き爪を切る                     杉山雅子  縦皺の爪は老化現象といわれる。雨の降るような手足の爪を久しぶりに切る。気づけば今日は二十五歳で死んだ樋口一葉の命日十一月二三日。いつの間にか一葉の何倍も年を重ねてしまった。桜貝のような爪であった一葉のうら若い肉体を蝕んだ結核、病のなかではげしく才能を燃焼させて書き綴った不滅の文学作品、そして我が八十路の来し方をこもごも重ねみる。  一句の良さは対比された文学者一葉と私の命との等価性にある。どちらもずっしりと重く、その価値に軽重はない。冬の深まりにこの世に生きる悲しみを分かち合い人の世の不思議な運命を思う。 (選句 ・鑑賞 恩田侑布子)