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3月16日 句会報告

20180316-1 樸句会報

平成30年3月16日 樸句会報【第45号】 駿府城公園の桜のつぼみが大きく膨らんだ昼下がり、3月2回目の句会が行われました。 入選1句、原石賞3句、△2句、シルシ8句でした。 兼題は「菜飯」と「風」です。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)   〇春一番お別れといふ選択肢              萩倉 誠 合評では、 「春一番は一見幸先の良さそうなイメージの言葉だが、あの猛烈な風に当たるとそういう選択肢も浮かんでくるのかもしれない」 「“お別れ”は死別のことなのではないか。死を受け入れるというような」 という感想が聞かれました。 恩田侑布子は、 「季語の“春一番”の次に何が来るかと思うや、破局という選択肢が待っているという。意外性が面白い。お別れではなく、“お別れといふ選択肢”が待つといういい方に含みがある。年に一度しか吹かない春疾風に、このままいっしょに天空に吹き飛ばされてしまいたいのに、そうはいかない。醒めて“お別れしましょう”といいあう。だが、“春一番”の鮮烈な風に煽られた記憶は消えない。消えてほしくない。青春性の熱を秘めた句である」 と述べました。      【原】一角獣空に漂い春愁い              西垣 譲 合評では、 「一角獣=乙女、メルヘンチックなイメージの句」 「空の雲の形が一角獣に見えたのだろう。春の愁い、気だるさを一角獣と取り合わせたのが面白い」 「一角獣と春愁いが即きすぎ」 という感想・意見が出ました。 恩田侑布子は、 「一角獣はユニコーンで、普段は凶暴だが処女(聖母マリア)に会うとおとなしくなるという。パリのクリュニー美術館にある15世紀のタピストリーは有名で、キリスト教とケルト文化の混淆に、私も時を忘れて見入ったことがある。近代ではフロベールの小説やリルケの詩が名高い。この句は中七までは青春性に溢れ素晴らしい。もしかしたら一角獣は、永遠の至純なるものに憧れる作者そのひとではなかろうか。俳句の魅力にこういうロマンチシズムもあることを忘れたくない。ただし季語を替えたい。  一角獣空にただよふ遅日かな こうすれば句柄が大きくならないか」 と講評し、添削しました。           【原】風呂敷に春日包みて友見舞う             石原あゆみ 合評では 「中七が生きていて、情景もよくわかる」 「“春日を包む”という比喩が利いている」 という感想が出ました。 恩田は、 「中七に詩の飛躍があり、やさしい思いも伝わってくる。ただし、言葉がごちゃついている。友までは言わなくていい。  風呂敷に春日包みて見舞ひけり こうすることで、一句は普遍性を得るのではないか」 と講評し、添削しました。           【原】春の雁異国の少女がレジを打つ              萩倉 誠 本日の最高点句でした。 合評では、 「最近コンビニなどでレジ打ちする外国の少女を見る。帰りたくても帰れない少女と発つ雁が対照的だ」 「遠くを飛ぶ雁と、日常でレジ打つ外国の少女の遠近感が良い」 「中七が字余りなのが気になる」 という感想が出ました。 恩田は、 「日本は、少子高齢化による働き手の不足への対策が遅れ、コンビニも飲食店も外人の労働者が増えた。中七の字余りをすっきりさせたい。“春の雁”という季語もまだ座りがいまいちなので  鳥ぐもり異国の少女レジを打つ または  外つ国の少女レジ打つ鳥ぐもり としたいところ」 と講評し、添削しました。        [後記] 今回は特選句がありませんでしたが、磨けば光る原石賞が三句ありました。自分ではブラッシュアップして出したつもりでも、選句者の目に触れることで「その手があったか!」と驚くことが、よい学びにつながる気がします。 次回の兼題は「音」と当季雑詠です。    (山田とも恵)       

2月11日 句会報告と特選句

20180211 句会報-1

平成30年2月11日 樸句会報【第42号】 如月第1回の句会。名古屋と市内から見学の男性お二人が見え、仲間のふえそうなうれしい春の予感です。 特選1句、入選3句、原石賞3句、シルシ5句でした。 兼題は「息白し」と「スケート」です。 特選句、入選句及び最高点句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎スケートの靴紐きりりすでに鳥              松井誠司  (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                  〇白息を残しランナースタートす             石原あゆみ 合評では、 「まさに冬のマラソンの情景。選手の意気込みが映し出されている。垢ぬけている句」 「息を残しておきながらランナーはスタートしている。対照の妙がある」 「句の中に短い時間的経過が感じられる。箱根駅伝の復路でしょうか。白息のある場所にもうランナーはいない」 との共感の声がきかれました。 恩田侑布子は、 「発見がある。白息だけがスタート地点に残った。白息を吐いた肉体の主はすでにレースの渦中に飲み込まれた。その瞬間のいのちのふしぎを表現しえた句。ただ句の後半すべてがカタカナになって、ランナーとスタートの境がなくなり緊張感がゆるむのが惜しまれる」 と講評しました。                〇群立ちてわれに飛礫や初雀              西垣 譲 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。 恩田は 「作者が歩いてゆくと前方の群れ雀がおどろいて一斉にぱあっと飛び立った。一瞬、つぶてのように感じた。着ぶくれてのんびり歩いている自分に対して「もっときびきび生きよ」という励ましのように感じたのだ。新年になって初めてみる雀たちからいのちのシャワーを浴びた八十路の作者である。このままでも悪くないが“群れ立つてわれに飛礫や初雀”とするとさらに勢が増し、いちだんと臨場感がでるでしょう」 と講評しました。                   【原】湯たんぽや三葉虫に似て古し             久保田利昭 本日の最高点句でした。 合評では、 「西東三鬼の“水枕ガバリと寒い海がある”の句を思い浮かべました。気持ち良く夢の世界に入りこめそう」 「時間が止まったようだ。また人もいないような感じがする。“古し”にアルカイックなものを感じた」 「素直な句。こねくり回しておらず、何の気取りもない」 「湯たんぽを使っているという“自嘲”もあるのでは?」 などの感想、意見が述べられました。 恩田侑布子は、 「感性と把握が素晴らしい。太古の生命の面白さが出ていて、“場外ホームラン”級の発見。ただし“古し”はよくない。芭蕉の言葉“言ひおほせて何かある”(『去来抄』)ですよ。言い過ぎで、意味の世界に引き戻してしまった。感性の世界のままでいてほしいのです。句は形容詞からそれこそ“古びて”いくのです」 と講評し、次のように添削しました。  三葉虫めく湯たんぽと寝まりけり または  湯たんぽの三葉虫と共寝かな        〇重心の定まらぬ夜と鏡餅             芹沢雄太郎 合評では、 「定まらない心とどっしりした鏡餅との対比が面白い。“夜と”と並べず“夜や”と切ったらどうでしょう?」 「句から若さを感じました」 との感想がありました。 恩田侑布子は、 「自己の不安定さとどっしりと座った鏡餅との対比。“青春詠”のよさがある。“と”だから、揺れながら生きている実感がある。この不安感はみずみずしい。夜の闇のなかに鏡餅のほのぼのとした白さが浮き立つ。うつくしい頼りなさ。作者のこれからの可能性に期待するところ大です」 と講評しました。          投句の講評の中で、今回の兼題について例句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。  息白くはじまる源氏物語             恩田侑布子  この亀裂白息をもて飛べと云ふ             恩田侑布子  スケート場沃度丁幾の壜がある              山口誓子  スケートの濡れ刃携へ人妻よ              鷹羽狩行      [後記] 今年から始まった日曜句会の2回目です。新しい参加者を迎え、新鮮な解釈が聴かれました。 次回兼題は「春炬燵」と「寒明け」。春の季語です。(山本正幸) ※ 恩田侑布子は昨年の芸術選奨と現代俳句協会賞に続いて、この度第9回桂信子賞を受賞しました。1月28日の“柿衛文庫”における記念講演が好評を博し、4月8日に東京でアンコール講演が予定されています。 追ってHP上でお知らせします。                 特選   スケートの靴紐きりりすでに鳥                   松井誠司  フィギュアスケーターは氷上で鳥になる。まさに重力の桎梏を感じさせないジャンプと回転。それはスケート靴のひもをきりりと結んだ瞬間に約束されるという。白銀の世界にはばたく鳥の舞。その美しさを想像させてあますところがない。「すでに鳥」とした掉尾の着地が見事である。折しも冬季オリンピックの前夜。作者のふるさとは信州で、下駄スキーに励んだという。土俗的なスキー体験がかくもスマートな俳句になるとは驚かされる。体験の裏付けは句に力を与える。    (選句・鑑賞  恩田侑布子)

11月17日 句会報告

藁科川の上流、静岡市葵区坂本・清源寺大榧前で清澤神楽の話をお聞きして photo by 侑布子

11月2回目の句会が行われました。静岡市街は温暖な気候のせいか、ゆっくりと紅葉が進んでいるようです。 今回の兼題は「猪・鹿・柘榴」。人によっては食欲をそそる季語ですね。今回は色調豊かな入選句が4句出揃いました                〇秋夕焼文庫百冊売つて来し              山本正幸 合評では、 「サッパリした爽やかさと、淋しさが出ている。複雑な心理状況」 「百冊とは結構な量なので終活をイメージした。人生の過ぎゆく早さと秋の暮の早さを詠んでいるのでは」 「寺山修司の“売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき”の短歌を思い出した。百冊が効いている」 という意見の一方、「“秋夕焼”と“売って来し”が即きすぎではないか」という指摘も出ました。 恩田侑布子は 「百冊の文庫本に親しんだ思い出と未練が秋夕焼をさらに赤くする。スッキリしたようで切ない夕焼け。すこし墨色を帯びたさびしさ。はかなく色あせてゆく秋の夕日に、文庫本を一冊づつ買って読んだ長い歳月が反照される。青春性の火照りが残っていて、終活というよりも人生を更新したいという前向きさを感じる。古書との別れの季語として秋夕焼は動かないでしょう」 と講評しました。                  〇仁王門潜れば老いし柘榴の木              佐藤宣雄 合評では、 「自分の原風景に老いた柘榴の木があるので、柘榴にホッとする気持ちがよみがえった」 「景がよく、中七の調べがよい」 「ただの写生句で、スナップ写真のよう」 「老いた柘榴の木じゃなくても成立する」というように、意見が二手に分かれました。 恩田は、 「一瞬に景が立ち上がる重厚な句。朱塗りと赤、茶と緑の色彩も美しい。仁王門を見つめてきた柘榴の長い歳月が感じられます。「老いし」の措辞に、実はつけていても、木のやつれが浮かび、悟り済ませぬ人間の歳月が裏に重なるよう。二重構造の俳句といっていいでしょう」 と講評しました。 〇敬老席どんと座つて運動会              西垣 譲 「なんでもないけど、なるほどなと思うこういう句が好き」 「俳句じゃなくて川柳じゃないか」 「いや、これは川柳じゃなくて一流の句」 と、軽妙に意見が交わされました。 恩田は、 「連合町内会の運動会の敬老席はたいてい見晴らしのいい場所にある。“どんと”がのさばっている感じで滑稽。が、その裏に、もう花形の徒競走など、イキのいい競技に参加できない一抹の淋しさもあります。俳味ゆたかな句です」 と講評しました。               〇兄の如し月命日に台風来             樋口千鶴子 合評では、 「はじめに“兄の如し”と言い切った。スピード感があり、どんなお兄さんだったかイメージできる」 「追慕の心情が出ている」 と感想がでました。 恩田は、 「上五字余りの重量感のある切れが出色です。お兄さんの死に切れぬ情念が台風になって吹きすさぶように感じた。『嵐が丘』のヒースクリフを思い出します。巧まざる倒置法も効果的です。作者は上手い俳句を作ろうとしたわけではなく、亡き兄の気持ちを慰めたい一心なのだと思います。それが図らずもこういう表現をとった。そこに俳句の懐の広さがあります」 と講評しました。 [後記]  句会が始まる前、その日に鑑賞する句が並ぶプリントが配布されます。その冒頭にいつの頃からか、恩田侑布子の叱咤激励文が掲載されています。今回は「ただごと俳句や報告句からいかに抜け出すかに配慮し、感動のある一句を!」と書かれていました。毎回この一文を読むと、座禅中に背後から鋭く警策を食らうような痛みとともに、心地よい緊張感が身を貫きます。いかにダラリと座っていたか気づく瞬間です。次回の兼題は「霜・霜除け・落葉」です。(山田とも恵)

7月7日 句会報と特選句

photo by 侑布子

7月1回目の句会。本日は七夕。静岡市清水区の七夕祭も今年で65回目になります。 兼題は「バナナ」と「虹」。特選2句、入選2句、原石賞2句、シルシ9句という結果でした。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ ◎虹の橋袂めざして走れ走れ             久保田利昭    ◎アリランの国まで架けよ虹の橋              杉山雅子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                                        〇置き去りのバナナ昭和の色となる              萩倉 誠 合評では、 「こういう発想は今までなかったのではないか。 “置き去り”が分かりにくいかもしれないが」 「古びていく昭和への哀感がある。高度成長した昭和の時代が去っていく寂しさ」 「バナナは昭和の象徴だろう。琥珀色の中に死んでいく昭和」 「“置き去り”のバナナと“昭和”の取り合わせに無理矢理感があるが、発想は面白い」 「“となる”が不自然」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「“意味”に還元していないところが良い。昭和の時代へのノスタルジア、ペーソスを感じ、説明できないニュアンスがある。それは良い句の条件でもある。季語が効いており、面白い感性だ。哀惜の情はあっても、昭和の時代への政治的な批判精神はない。哀惜の情を詠うとき批評は邪魔になる。昭和史の中に眠ろうとするあまたのエピソード。その人固有の体験を呼び覚まそうとしている」 と講評しました。                      〇虹立つやミケランジェロの指の先              塚本敏正 「リズムがすがすがしい。気持ちのいい句」 「私は “ピエタ”が好き。ミケランジェロの指から虹が立っている。本物の虹との二重イメージの句」 「ミケランジェロその人の指ではなく、真っ白な大理石の彫刻の指。例えば、巨人ゴリアテへ投げる石を持ったダビデの手を想像させる。虹は希望の象徴」 「“ダビデの像の”と作品を特定すれば、特選でいただいたのに」 との感想、意見。 恩田は、 「そのままミケランジェロの指と読むべきだ。固有名詞が効いている。例えば“草間彌生の”とすると“虹”と相殺してしまう。ミケランジェロだからこそルネッサンスの時代精神を体現し、芸術賛歌になっているし人間賛歌にもなっている。ミケランジェロの作品名を載せるとそこに収斂してしまう。ここにはエコーのような多層構造がある」 と講評しました。                     【原】スコール過ぎバナナの下に水平線              佐藤宣雄 恩田は、 「迫力のある句。景色に重量感と立体感があるが、上五を変えたい」 と講評し、次のように添削しました。  天霽(は)るるバナナの下に水平線                     【原】バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日々               西垣 譲 合評では、 「まもなく命が尽きるとき、最後に“これを食べたい”という欲望が出てくる。昔バナナは風邪をひかないと食べられなかった。戦争体験が背景にある」 「五七五に収まりきらず、内容は短歌的のように感じた。“切れ”はないが、一気に読み共感した」 「“喰ひ”のほうが良いのでは?」 などの感想と意見が出ました。 恩田は、 「生きるという実感のある句。“喰ひて”の字余りは問題ない。“喰ひ”だと“死なむ”に繋がっていかない。むしろ“日々”を変えたい。このままだと長いある一定の期間となり、理屈に解消し思い出話になってしまう。“あの時”という切実感を出したい」 と講評し、次のように添削しました。  バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日                   [後記] 恩田侑布子の句集『夢洗ひ』が、平成29年度の現代俳句協会賞(第72回)を受賞しました。芸術選奨文部科学大臣賞とのダブル受賞です。 句会冒頭、樸俳句会一同でお祝いを申し上げ、大きな拍手を送りました。連衆にとって励みになることです。 今回の兼題の「バナナ」について話が盛り上がりました。句会参加者の年齢層にあっては、当時のバナナは高級品。一日3本以上食べることもあるという人もいて、健康談義にまで広がりました。皆さんそれぞれ思い入れがあって句作に取り組んだようです。 次回兼題は、「空梅雨」と「トマト」です。 (山本正幸)                         特選                         虹の橋袂めざして走れ走れ                  久保田利昭  虹の脚や虹の根はよく俳句にされるが、「虹の橋の袂」は盲点かもしれない。しかも座五に「走れ走れ」と命令形を畳み掛けたところがユニーク。一読して、あまりにも楽天的な向日性を思う。が、一句の異様な無音に気付くや、世界は一転、不気味な悪夢のように思えてくる。走った末に行き着くところは虹の橋ではなく、袂にすぎない。しかも掴むことも登ることもできない幻かもしれない。それなのにひたむきに走る。もしかしたらこれは、底無しの虚無ではないか。楽天と虚無がメビウスの環のような階段になったエッシャーのだまし絵のような俳句。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)                                   特選                         アリランの国まで架けよ虹の橋                   杉山雅子  「アリランの国」という措辞がよく出たと感心した。何か他の国を象徴するもので代用できないか考えてみたが「サントゥールの国」では甘くなるし、「ウォッカの国」では虹が生きない。アリランは動かない。日本は韓国侵略の歴史をもち、近年は一部の人によるヘイトスピーチもある。また民族分断という悲劇の歴史も継続している。作者は隣国の庶民に深い共感を寄せ、幸せを祈る。それは自身が少女時代に戦争を体験したことも大きいだろう。アリランという哀調の民謡を唄う庶民に人間として共感を惜しまず、この虹を隣国まで架けようという心根は美しい。視覚的にもチマの鮮やかな遠い幻像に、大空の虹が濃淡をなして映発し合う。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

6月16日 句会報告と特選句

yurri

6月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「麦秋」「鮎」。 夏の季語なのに「麦の“秋”」これ如何に!?日本語の季節をあらわす言葉は実に面白いですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                          ◎日表に阿弥陀を拝す麦の秋             荒巻信子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)                     〇麦の秋ことさら夜は香りけり             西垣 譲 「見た目でなく香りに着眼した所が良い」 「湿気ているような香りで季節感を表現している」 というような感想がでました。 恩田侑布子は 「麦秋は一年で一番美しい季節だと思っている。その夜の美しさがサラッと描けている一物仕立ての句」 と講評しました。                   〇カーブを左突き当たる店囮鮎            藤田まゆみ 「なんとも不思議な句。理屈はいらない。囮鮎のお店へ向かうワクワク感が詠み込まれている」 という意見が出ました。 恩田侑布子は 「見たことのない個性的な句。運転手と助手席の人との会話の口語俳句。可笑しさがあるだけでなく、“カーブ”という言葉から川の流れに沿って蛇行した道を車が走っていることが分かる。沿道には緑の茂みがあり、季節感まで詠みこまれている」 と講評しました。                   〇巨大なる仏陀の如し朴の花             塚本敏正 恩田侑布子は 「“巨大なる仏陀”と先に言うことで、作者の驚きが出ている。山を歩いているとき、谷を覗くと朴の花がその谷の王者のように咲き誇っているところに出会う。その姿を想像すると“巨大なる仏陀”は決してこけおどしでなく、朴の花の本意に届き、その気高さを捉えている。直喩はこれくらい大胆なほうが良い。誰もが思いつくようなものはだめ。直喩には発想の飛躍が必要」 と講評し、直喩を使った名句を紹介しました。  死を遠き祭のごとく蝉しぐれ               正木ゆう子  やませ来るいたちのやうにしなやかに                佐藤鬼房  雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし                飯田龍太                          〇駄犬どち鼻こすり合ふ春の土手             西垣 譲 「やさしい句。“駄犬”と“春の土手”が合っている。あまり美しくない犬でしょ」 という感想がでました。 恩田侑布子からは、 「散歩している人と犬同士が出くわし、はしゃぎあっている様子が分かる。“どち”の措辞がうまい。“駄犬らの”にするとダメ。作者も犬と同化していて、動物同士の温もりと春の土手の温もりが感じられる」 との講評がありました。  今回の句会では点がばらけたこともあり、たくさんの句を鑑賞しあうことができました。が、それゆえ終了時間間際はかなり駆け足になってしまいました。それぞれ思い入れのある句を持ち寄るものですから、致し方ないですね。作者から句の製作過程を直接伺えるのも句会の楽しみの一つです。  次回の兼題は「バナナ・虹」です。 (山田とも恵) 特選    日表に阿弥陀を拝す麦の秋                  荒巻信子  日光のさす場所が日表。田舎の小さなお堂に安置された阿弥陀三尊像だろう。もしかしたら露座仏。磨崖仏かもしれない。阿弥陀様は西方浄土を向いておられるから、まさにはつなつの日は中天にあるのだろう。背後はよく熟れた刈り取り寸前の麦畑、さやさやとそよぐ風音も清らかである。阿弥陀様のまどやかなお顔、やさしく微笑む口元までも見えてくる。「拝す」という動詞一語が一句を引き締め、瞬間の感動を伝える。日表と麦秋という光に満ちた措辞が、この世の浄土を現出している。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)

2月17日 句会報告

撮影 侑布子・安倍川より

2月2回目の句会が行われました。 今回の兼題は「寒晴」「春を待つ」。 静岡から望む富士山はすでにあたたかさを帯びているようで、春の訪れを感じました。 まずは今回の高得点句から。 春を待つテトラポットの隙間かな             佐藤宣雄 恩田侑布子入選句。 「テトラポットとは危険なところに積まれていると聞いていたので、怖いイメージを持っていた。その隙間に春を感じた作者の着眼点が面白い」 「恋の予感を感じる。テトラポットの上に若い人が佇んでいるイメージ」 というような、砂浜などではなく“テトラポットの隙間”に着眼点を置いたところに面白さを感じた方が多かったようです。 恩田侑布子からは 「“テトラポット”という語呂は愛らしい。ただ、情景を思い浮かべると寒々しい。そこに意外性はある。が、下五の“隙間かな”が宙づりになってしまっている。無機物のなかにどんな有機物が隠れているのかがわかれば、さらに面白くなる」と講評しました。     初富士や絹麻木綿翻り            藤田まゆみ 恩田侑布子入選句。 「正月の空の色が見えてくる」 「織物工場でも作者は見たのかな?富士山の雪の白さと、その前で翻る反物の色彩が鮮やかに見えるよう」という意見が出ました。 恩田侑布子は 「富士山の雪を絹・麻・木綿に見立てたのだと思った。天候によって同じ雪でも姿は変わる。その姿を布の種類で表現したことが良いと思った」と講評しました。     寒晴や婦唱夫随の土手歩き             西垣 譲 恩田侑布子入選句。 恩田侑布子は 「本来は“夫唱婦随”。夫と妻の位置が逆ですね。この季語が“秋晴”だったら甘くなりすぎてしまうが、“寒晴”としたところが良い。また、“土手歩き”というところも年配のご夫妻のぶっきらぼうさが出ていてこれまた面白い。」と講評しました。 寒晴れやダブルバーガーがぶり食い             萩倉 誠 恩田侑布子入選句。 「母と娘がハンバーガーを食べている風景が思い浮かんだ。幸せな親子のちょっと特別なひと時を感じた」 「中七から下五への濁音の連打がとっても効いている」 という感想が出ました。 恩田侑布子は 「一見無内容で行儀が悪い。しかも現代仮名遣いでドライに書かれている。読み下すと、なんだか空しいような、嗚咽が潜んでいるような感じだ。ポールオースターの小説のような虚無の底知れなさをちょっと思った。一人でがぶり食いする視線の先にある冬の青空の虚無感。濁音が続き、ストリートミュージシャンの音楽のような個性的な句」と講評しました。    今回の句会では難読漢字の句が多く、非常に興味深かったです。例えば「蕪穢(ぶあい)」や「蛾眉(がび)」「漫ろ(そぞろ)」などです。普段あまり目にしない言葉を知るのはとても勉強になります。が、難読漢字の力に引っ張られて句の世界観が狭くなってしまう、という意見もありました。  気に入った言葉を使う際には、その言葉の力を最大限生かせる寝床を調えて句作したいと思いました。  次回の兼題は「春の闇」「ものの芽」です。兼題の季語も春へと移りますよ!(山田とも恵)