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11月1日 句会報告

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令和2年11月1日 樸句会報【第98号】 “ニューノーマル”な暮らしを余儀なくされつつも、徐々に市民の文化活動がもとに戻りつつあります。本日のみ、会場をアイセル21から静岡市民文化会館に変更しての句会でした。冬が近づく澄んだ風通しのいい部屋で、新しいメンバーも加わり一同新鮮な気持ちで句会に臨みました。 兼題は「刈田」「そぞろ寒」です。 入選2句を紹介します。 ○入選  そぞろ寒有休残し職を退く               見原万智子 理屈がなく、実感のある句です。パンデミックの二〇二〇年は、途方も無い失業者を世界中で激増させています。作者もなんらかの理由で退社することになりました。「職を退く」の措辞に志半ばのさびしさがにじみます。どうせ辞めるなら有給休暇を目一杯取ればよかったと思うものの、現実は甘くなく、言い出せる雰囲気ではなかったのです。男性は二割強、女性は六割近くが非正規が、現在のわが国の労働環境の実態です。早期退職に応ずれば数千万もの退職金が出る会社もありますが、とてもとても。その薄ら寒い心象と、冬に向かう気持ちが季語に自然に籠もっています。この句の良さは一身上の事情がすなわち、現代社会の写し絵になっている重層性にあります。 (恩田侑布子) 【合評】 今はむしろ会社から有休を取らされるものではないか。 若干説明的かもしれないが、現代の雇用状況の厳しさと「そぞろ寒」の実感の取り合わせが良い。   ○入選  マネキンの顔に穴なしそぞろ寒                古田秀 人間は穴の空いた管です。『荘子』でいえば七竅(しちきょう)(両目、両耳、両鼻孔、口)が、ものを見聞きし、匂いを嗅ぎ、食べ、喋っているのです。マネキンにはうらやましいほど大きな瞳があり、すっきりと高い鼻があります。ところが、よく見るとどうでしょう。穴がありません。ふさがっています。当たり前のことに改めてゾッとした瞬間です。一句はわたしたちが穴の空いた管であることを振り返らせ、同時に、いつもきれいと思っているものの非人間的なそぞろ寒さを突きつけて来ます。同じ秋季でも、やや寒・冷ややか・肌寒はより体性感覚に、そぞろ寒はより心象にふれる季語です。感覚の鋭い「そぞろ寒」の句です。ただし、最近のマネキンはのっぺらぼうや、頭部がそもそもないものが多いようです。都会詠、人事句の古びやすさはその辺にあるのかもしれません。 (恩田侑布子) 【合評】 些事に追われ何かに違和感をおぼえても深く考えないようにしている、そんな私の毎日に釘を刺されたように思った。 思い浮かぶマネキンの様子によって大分印象の変わる句。   披講・選評に入る前に今回の兼題の例句が板書されました。  刈田昏れ角力放送持ちあるく              秋元不死男  鶏むしる男に見られ刈田ゆく              大野林火  ぴつたりと居る蛾の白しそぞろ寒              角田竹冷   口笛を吹くや唇そぞろ寒              寺田寅彦   [後記] 私自身も樸に入会してまだ半年ほどですが、新しい方が加わって句会が活性化するのはいつでも良いことのように思います。一方で、俳句を始めよう、学んでみようと思った人に対して俳人・結社側の姿勢は十分に応えられていると言えるでしょうか。俳壇の高齢化が言われ続けて久しい昨今ですが、当然ながら若年層を多く取り込んでいく組織ほど“寿命が伸びる”でしょう。科学の世界では、研究者は自身の専門分野に関して、世間への啓蒙活動に研究の10%程度の時間を割くべきだと言われています。SNS・インターネットや出版物での適切な情報発信はこれからも重要な仕事だと思います。私も30歳になったばかりです。2,30代の若者よ、ぜひ樸に来たれ! (古田秀)   今回は、○入選2句、△3句、ゝシルシ7句、・5句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   11月25日 樸俳句会 兼題「短日」「帰り花」 入選句を紹介します。 ○入選  短日や匂ひ持たざる電子辞書                山本正幸   金属の辞書はモノとして古くはなっても、紙の辞書のような色つや匂いはありません。ましてや長年の手擦れによる角のまるみや紙のヤケなど、味のあるやつれた表情など望むべくもありません。金属の電子辞書のいつまで経っても怜悧な佇まいに、使い古したつもりでいた自分が、逆にほころぶように老いてゆくことに気づき愕然としたのです。「短日や」の季語に自身の老いが重なり、「匂ひ持たざる電子辞書」が再び「短日や」に返ってゆきます。芭蕉の名言、「発句の事は行きて帰るこころの味はひなり」(「三冊子」)を思い出させる優れた俳句です。 (恩田侑布子) 次回の兼題は「木の葉」「紅葉散る」です。

8月2日 句会報告

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令和2年8月2日 樸句会報【第95号】   Withコロナの時代、リアル句会が復活して4回目です。県外の連衆は来館制限されているため少人数でしたが熱い議論となりました。 兼題は、「髪洗ふ」と「裸」です。  ◎特選1句、○入選2句、原石賞1句を紹介します。       ◎ 特選 ラ・クンパルシータ洗ひ髪ごとさらはれて              田村千春  特選句についての恩田の鑑賞はあらき歳時記に掲載しています                 ↑             クリックしてください     ○入選  立ち漕ぎの踵炎昼踏み抜きぬ               山田とも恵 自転車で出発。思わず立ち漕ぎをして急ぎます。心が逸り、炎昼も汗も眼中にはありません。私はそこに行く。まっしぐらに行くのです。もう、心は向こうにあるから。そのとき、です。炎天を踏み抜いた、底が抜けた!と思ったのです。映像を即物的に「立ち漕ぎの踵」に絞ったことが奏効しました。座五の「踏み抜きぬ」で、踵がリアルに異界に突き抜けた感じが出ています。 (恩田侑布子) 【合評】 暑さの激しさと立ち漕ぎで踏み抜くという動きの強さとがマッチしている。      ○入選  裸子の羽あるやうに逃げまはる                前島裕子 ひとは赤ん坊から幼児期に移行するほんのひととき、肩甲骨のあたりに透明な羽をつけます。まだいちども強い日光にさらされていないやわらかな肌。ふくふくした手足のくびれ。その子をバスタオルを拡げて捕獲しようとする母の、なんというしあわせな一瞬。 (恩田侑布子) 【合評】 逃げまわっている子どもの動きが見えるよう。裸であることで楽しさが増すような。 子どもの貝殻骨はよく動く。その光景がよく見えます。 「羽あるやうに」がいいですね。幼児の肩甲骨は天使の羽に擬せられますから。      【原】裸子や目に羊水の波頭               見原万智子 おかあさんの胎内の羊水にただよう胎児を裸子とみた着眼にインパクトがあります。ただ「波頭」はどうでしょうか。強すぎませんか。推敲はいろいろ考えられますが、たとえば一例として次のようにすると、羊水と母なる海とがダブルイメージとなり、内容にふくらみがうまれそうです。 【改】はだか嬰よ目に羊水のしじら波 (恩田侑布子)  【合評】 羊水を海に喩えたのですね。精神分析の世界のようにも思えます。 「生まれたての赤ちゃんの目を覗き込んだら、羊水の波頭が見えた」という風に読みました。なんだか本当の波の音も近くで聞こえているような気もします。とても詩的な光景だと思います。羊水の波頭っていいなぁ…。       披講・合評に入る前に、恩田から本日の兼題の例句が板書されました。 裸  伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸              中村草田男  はだかではだかの子にたたかれてゐる              山頭火  海の闇はねかへしゐる裸かな              大木あまり   髪洗ふ   洗ひ髪身におぼえなき光ばかり              八田木枯  洗い髪裏の松山濃くなりぬ              鳴戸奈菜  髪洗ふいま宙返りする途中              恩田侑布子  風切羽放つごとくに髪洗ふ              恩田侑布子     サブテキストとして、恩田がSBS学苑で指導している「楽しい俳句」の会員の句(2020年5月1日静岡新聞掲載)を読みました。 連衆の共感を集めたのは以下の句でした。    春の雨知らぬ男の傘がある              美州萌春  歌がるた公達の恋宙を跳び              都築しづ子  春の雨窓に小さき鼻の跡              活洲みな子  鉄瓶の湯気やはらかし女正月              石原あゆみ     [後記] やっぱりリアル句会に勝るものはないようです。合評における言葉のやりとり(ときに応酬)が次々に化学反応を起こし新しい世界が現出していく様は、まさに「句座を囲んでいる」ことを実感させるものでした。特に今回は身体に即した兼題でしたので、連衆の生活の一端が垣間見え、大いに盛り上がったのです。恩田も全体の講評の中で「選評にはおのずと異性観や恋愛観があらわれ、愉快な句会でした」と述べています。そうか、おのれの異性観・恋愛観を振り返る契機としての句会でもあったのだな…いやまだこれから異性観などを変えることができるのかもしれないなぁ…などと独りごちた筆者でした。 (山本正幸) 次回の兼題は「天の川」「門火(迎火、送火)」です。   今回は、◎特選1句、○入選2句、原石賞1句、△2句、ゝシルシ3句、・13句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)     8月26日句会 入選句  兼題「天の川」・「門火(迎火、送火)」 ○入選    天の川みなもと辿る野営かな                金森三夢    それきりのをんな輪切りの檸檬かな                古田 秀        

7月22日 句会報告

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令和2年7月22日 樸句会報【第94号】 梅雨明けの好天にいよいよ夏らしさが増してきました。コロナ対策のため窓を開け放ち、大暑の熱気に包まれた句会でした。 兼題は「緑蔭」「木下闇」「瀧」です。 原石賞6句を紹介します。      【原】瀧どどど手話のくちびる濡らしをり               村松なつを 「瀧」の季語に「手話のくちびる濡らしをり」は素晴らしいフレーズ。でも、擬音語の「どどど」は内容にふさわしいオノマトペでしょうか。しかもたいへん目立っています。オノマトペは、詩なら中原中也の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」、萩原朔太郎の「とをてくう、とをるもう、とをるもう」、俳句なら松本たかしの「チチポポと鼓打たうよ花月夜」のように、鮮度とオリジナリティがもとめられます。逆にいうと、オノマトペは斬新な手応えがあったときのみ使えるもので、安易に使うものではありません。そこで一例として、こんな添削案もあります。 【改】朝の瀧手話のくちびる濡らしをり (恩田侑布子) 【合評】 爆音と無音のコントラスト       【原】泡と消ゆ瀧くゞれども潜れども               見原万智子 瀧行というわけではありませんが、瀧遊びをした体験をお持ちの作者でしょう。中七以下に実感があってリズムも夏の太陽にふさわしい健康感です。ただしこのままではせっかくの実感が「泡と消」えてしまいそう。もったいないです。素直に次のようにすると、もっともっと潜っていたくなりませんか。 【改】泡真白瀧くゞれども潜れども (恩田侑布子)   【合評】 「くゞれども潜れども」のリズムが、瀧の中でもみくちゃにされている身体感覚を表現してとても面白い。ただ「泡と消ゆ」という外側からの視点とのつながりがよくわからなかった。        【原】果てなむ渇きくちなしの花崩る               山田とも恵 くちなしの花は散る前に黄変して錆びたようになります。そこに心象が重なってくる大変面白い句です。いい得ない女の情念が匂い立ちます。ただ表現上の「なむ」と「崩る」がもんだいです。「崩る」は散るを意味し、地に落ちたら渇きは終わります。そこでまだ終わらない果てしない渇きを出すために次の添削例を考えてみました。でもお若い作者です。じっくり推敲を重ね、ご自身でさらに句を磨きあげていってください。 【改】果てなき渇きくちなしの花尽(すが)れ (恩田侑布子) 【合評】 七七五のリズムと下五の「崩る」が合っていると感じました。         【原】木下闇的外したる天使の矢                金森三夢 キューピッドの番えた恋の矢が的を外れてしまったようです。うっそうとした木下闇に墜ちた矢はそのまま拾う人もいません。原句は中七の「外したる」がもんだいです。的を故意に外した主体が失恋した作者とは別にいるようです。恋の矢が木下闇に墜落したことだけをいいましょう。印象が鮮明になりますよ。 【改】木下闇的はづれたる天使の矢 (恩田侑布子) 【合評】 外れた矢は闇に吸い込まれて見つかりそうもないし、恋の顛末も気になるし、とってもファンタスティックです! キューピッドを思わせる天使が的を外すというコミカルな感じが良い。       【原】木下闇結界のごと香り満ち                猪狩みき ものの感受に詩人の感性があります。野山に木下闇が出現したばかりの五月下旬は、たしかに何の花の香ともしれず芳しい匂いが立ち込めています。それを「結界」と捉える感性に脱帽しました。ただ一つ惜しいのは句末の「満ち」です。これこそ蛇足。俳句は説明過多になると弱くなり、省略が効くと勁くなります。把握が非凡なのです。自信をもっていい切りましょう。 【改】結界のごとくに薫り木下闇 (恩田侑布子) 【合評】 「木下闇」が香るという発想に惹かれました。足を踏み入れることを拒む「結界」のようだと。その香りには甘美にして危険なものが潜んでいるのかもしれません。       【原】口紅の一入紅し木下闇                田村千春 日を暗むまで枝々の茂る木陰で、口紅の色彩がひとしお強く感じられたという把握に感覚の冴えがあります。ただ耳で聞けば気になりませんが、視覚的には「口紅」「紅し」の文字の重なりが気になります。次のようにされると「ひとしお」の措辞が生きて、不気味な情念まで感じられませんか。 【改】口紅の色の一入木下闇 (恩田侑布子) 【合評】 木下闇を舞台装置とした愛欲を感じさせる措辞が良い。 「木下闇」によって紅さに不気味ささえ感じる。       披講・合評に入る前に「野ざらし紀行」を最後まで読み進めました。次の二句について恩田の丁寧な解説がありました。    ゆく駒の麥に慰むやどりかな    なつ衣いまだ虱(しらみ)をとりつくさず  一句目は甲州を経由して江戸に帰る道中、宿のもてなしに対する感謝を馬のよろこびに託した句。馬が麦畑の穂麦を食む情景を詠いつつ、宿にありつけた自らの姿も重ねている。二句目は「野ざらし紀行」最後の句。長い旅路を終えて深川の芭蕉庵に帰ってはきたものの、旅の余韻に浸りただぼんやりと日々を過ごしているさまを詠っている。旅の衣さえいまだに洗わず放っておいているような、快い虚脱感。 巻末には挨拶句の名手であった芭蕉の、様々な人との交流で生まれた応酬句や、芭蕉を風雅の友として称揚した山口素堂の跋文も寄せられているが、本文中では省略。「野ざらし紀行」は芭蕉が芭蕉になっていく成長段階が濃縮された紀行文であり、「風雅と俳諧の一体化」という芭蕉の文学史上の功績をつぶさに見ることができる。       [後記] アイセルが使えるようになってから3回目の句会でしたが、県外の方はまだ参加できず人数は少なめでした。会場も句会の議論も風通しがよく、自由闊達な意見が飛び交います。今回は複数の句について恩田から「修飾が多いほど句は弱くなる」と指摘がありました。言葉の修飾によって格調や巧さを演出するのではなく、季語との体験を通して身の内に湧き上がる詩情をいかに掬いとるかが大切なのだと痛感しました。小説さえも自動生成できるAI時代にあって問われるものは表現技法ではなく動機です。私たちの心を動かし句を詠ましむるものは何か、今一度振り返るべきだと思いました。(古田秀) 次回の兼題は「裸」「髪洗ふ」です。   今回は、原石賞7句、△1句、ゝシルシ7句、・13句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) 

6月7日 句会報告と特選句

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令和2年6月7日 樸句会報【第92号】 コロナによる自粛生活から徐々に活動も戻り始めていますが、会場のアイセルが休館中のため、今回もネット句会となりました。 兼題は、「早苗」と「五月闇」です。陽と陰、対極にある季語でしたが、どちらも独自の視点に立つ感性豊かな句が多く寄せられました。 特選1句、入選2句、そして△6句の中から1句を紹介します。   ◎ 特選  早苗田は空に宛てたる手紙かな             田村千春  特選句についての恩田の鑑賞はあらき歳時記に掲載しています                 ↑             クリックしてください   【合評】 根付きのびはじめた早苗が風にそよいでいるさまはまるで仮名文字、田をうめている。それは、田の神様が空に宛てた手紙のよう。なんて素敵な着眼。 なるほど、早苗が列をなしている田圃は空へ宛てた手紙なのか。とても納得させられる句です。その手紙を読んだ空は、「よしわかった。しっかりお日さまのひかりを浴びてもらうよ、たっぷり雨を降らせるぞ」と決意したに違いありません。天も地も秋の稔りを待ち望んでいます。      ○入選  早苗投ぐ水面の空の揺るるほど                島田 淳 うつくしい早苗田のうすみどりと、水色の空と白雲。そこに今どきの田植機ではなく、手ずから苗を植える早乙女の姿態まで、しなやかな光景が眼前します。丁寧に一株ずつ植えていくので、これは最後の仕上げでしょうか。全体を見渡して、植え残したところを補充するため、早苗を畦から放ったところでしょうか。「空の揺るるほど」が出色で、初夏の野山の青々としたいきおいまで感じられます。 (恩田侑布子) 【合評】 梅雨晴れの朝、黄緑色の早苗が熟練の手で水田に投げ入れられる。一見無造作に見える所作だが、そこに秋の実りへの期待感が伝わって来る。水面に映える青空の輝きと苗の緑の色彩感覚も見事。 懐かしい田植え作業の一コマを素直に切り取る。邪心のない句。     ○入選  早苗舟登呂の残照負うてゆく                金森三夢 登呂遺跡の古代米の早苗を詠まれ、静岡の誇る地貌俳句になっています。「早苗舟」という傍題の選び方も的確です。「残照」が夕焼けの残んのひかりであるとともに、歴史の残照でもあり、千数百年の民族の旅路をはるばると感じさせてくれます。 (恩田侑布子) 【合評】 弥生時代にタイムスリップしたかのようです。登呂の緩やかな地形を感じます。水平方向の視線の先に早苗舟と夕陽が重なり、胸があつくなりました。 夕刻の光と早苗の青々とした色の対比がいいですね。登呂は弥生時代の農耕生活を伝える地。原初の夕映えのなかを早苗舟がすすんでいく光景はまさに一幅の絵です。      △ 来年のおととい君と苺月               見原万智子 六月の満月を「苺月」というのですね。今回初めて知りました。まだ国語辞書には載っていないようです。「来年のおととい」はけっして来ない夜でしょう。好きな相手、たぶん女性を思いながら報われない思いに小さくヤケになっている男心がいじらしいです。ストロベリー・ラブというのでしょうか?この句の作者がおっさんならいいのですが、もしも作者が女性だと、急にナルシシズムの匂いがしてきます。ふしぎですね。 (恩田侑布子) 【合評】 とるか迷いましたが、攻めてる姿勢に一票。「苺月」は先日のストロベリームーンことでしょうか。「来年のおととい君と」という表現が好きです。言語的には正しくないのかもしれませんが、こんな使い方をしたくなる時がある気がします。「来年の今日だと君と過ごしたい日は過ぎてしまっている」という切実さがあります。ただ苺月だと甘く見えすぎてしまうかなと思います。   今回の句会のサブテキストとして、恩田侑布子の「神橋」12句(『俳句』2020年新年号)を読みました。 『神橋』12句および連衆の句評は恩田侑布子詞花集(←ここをクリック)に掲載しています。     [後記] 「今回はいつもにも増して、しなやかな感性の匂う素晴らしい作品が多かった」との総評を恩田からいただきましたが、筆者も締め切り時間ぎりぎりまで選句に迷いました。自分にはない発想、感性の句は大きな刺激になります。また、今回も恩田の全句講評および電話での懇切丁寧な個人指導もいただき、なんとも贅沢なネット句会でした。(天野智美)   次回の兼題は「青芒」「夏の蝶」です。 今回は、◎特選1句、○入選2句、△6句、ゝシルシ6句、・13句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   

4月5日 句会報告

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令和2年4月5日 樸句会報【第88号】  令和2年度最初の句会は、新型コロナの影響を受けて、樸はじまって以来のネット句会でした。 今回は若手大型俳人の生駒大祐さんが参加して新風を吹き込んでくださいました。 兼題は「鶯」と「風光る」です。   入選2句、原石賞3句および最高点句を紹介します。    ○入選  千鳥ヶ淵桜かくしとなりにけり                前島裕子 桜の花に雪が降りこめてゆく美しさを、千鳥ヶ淵という固有名詞がいっそう引き立てています。 ら行の回転音四音も効果的です。完成度の高い俳句です。 (恩田侑布子)  【合評】 類想はあるように思うが、「桜かくし」という表現がよく効いている。「花」ではなく「桜」という言葉を用いることで、ベタベタの情緒ではなく現実に顔を出す異界の乾いた不気味さを詠み込むことに成功している。     ○入選  赤べこの揺るる頭(かうべ)や風光る                金森三夢 風光るの兼題に、会津の郷土玩具の赤べこをもってきた技量に脱帽です。しかもいたって自然の作行。「赤べこ」は紅白のボディに黒い首輪のシンプルな造型のあたたかみのあるおもちゃです。 素朴で可愛い赤い牛の頭が上下に揺れるたびに春風が光ります。ここは「あたま」でなく「かうべ」としたことで、K音の五音が軽やかなリズムを刻み、牛のかれんさを実感させます。 福島の原発禍からの再生の祈りも力強く感じさせ、さっそく歳時記の例句にしたい俳句。 (恩田侑布子) 【合評】 お土産にもらった赤べこは多分どの家にもあったと思うが、その赤べこの頭の動きが「風光る」と組み合わさることで春らしいささやかな幸せを感じさせる句になっている。東北のふるさとのことを思っているのかとも想像される。       【原】青葉風鍾馗様似の子の泣けり                天野智美 たいへん面白い句になるダイヤモンド原石です。 句の下半身「の子の泣けり」が、上句十二音を受け止めきれず、よろめいてしまうのが惜しまれます。   【改】青葉風鍾馗様似のややこ泣く のほうが青葉風が生きてきませんか。 (恩田侑布子)         【原】鱗粉をつけて春昼夢を覚める               村松なつを            内容に詩があります。半ば蝶の気分で春昼の夢から覚めるとはゴージャスです。アンニュイとエロスも匂います。 残念なことに表現技法が内容を活かしきれていません。なにがなにしてどうなった、というまさに因果関係の叙述形態になってしまっています。 また、「つけて」という措辞はやや雑な感じ。 そこで添削例です。 華麗にしたければ、   【改1】鱗粉をまとひて覚むる春昼夢 抑えたければ、   【改2】鱗粉をまとひて覚めし春昼夢 など、いかがでしょうか。 (恩田侑布子)  【合評】 現実に体のどこかに鱗粉がついているのか、鱗粉がついてしまう夢を見ていたのか判然としない。「鱗粉をつけて」「覚める」と言い切ることによって、昼の夢から覚める瞬間のぼんやり感へ読み手を連れて行く。そうか、春のきらめきを鱗粉に例えたのだな、と考えるとますます散文に翻訳不能になり紛れもなく「詩」なので、特選で採らせていただきました。 「胡蝶の夢」の故事を踏まえた句だろうが、つきすぎや嫌みではないと感じた。それは「春昼夢」という造語めいた言葉が句の重心になっているからで、機知よりも虚構の構築に向けて言葉が機能している。 夢の中で蝶と戯れていた。いや自らが蝶になって自在に遊んでいたのでしょう。まさしく「胡蝶の夢」。春昼の夢から目覚めたら、おのれの体だけでなく心も鱗粉にまみれていたという驚き。官能性も感じられる句です。現実に還ればそこはコロナウイルスがじわりと侵攻している世界でした。       【原】花の雨火傷の痕のまた疼き               芹沢雄太郎 詩があり、情感がよく伝わってきます。 ただこのままですと表現がくどいです。 添削案として一例を示します。 【改】花の雨およびの火傷また疼き  (恩田侑布子)       ※ 本日の最高点句 【・】風光るバイク降り立つ調律師               見原万智子 風光る と、調律師 の取り合わせは面白いですが、「降り立つ」でいいのでしょうか。 (恩田侑布子) 【合評】  「バイクを降り立つ」のが「調律師」であるという展開に、意外性が良いと思いつつ納得もしました。確かに家々を回る調律師の仕事にバイクはよく似合います。季語「風光る」が、バイクのエンジン音までリズミカルに、楽しげに聞こえさせているとともに、これから調律されるピアノの期待感を増幅しているように思います。 調律師がバイクで現れる意外性、その調律師の様子が「風光る」に表されている。 繊細な職業の方が颯爽とバイクから降り立つとは・・正に風が光りました。 言葉の選び方が素敵、「風光る」にふさわしい! 宮下奈都さんの『羊と鋼の森』を読んで、涙が出るほどの感動を覚えたのを、鮮やかに思い出しました。「ピアノを食べて生きていく」と決めた人を支える、調律師という仕事を選んだ若者の成長を描いた小説です。 風を切って疾走し、コンサートホールの前で停まるナナハン。調律するピアノの調べが春のイメージを乗せて聞こえてくるような句。ヘルメットを外すベテラン調律師のしゃんとした背筋が光る。 繊細な神経と技術を持つ調律師がバイクから降り立つ様が「風光る」によっていっそうきりっと浮かび上がる。しいて言うと、かっこよすぎて戯画調になっているきらいも。     [後記] ネット句会をはじめて体験しました。このワクワクドキドキ感はなかなか味わえません。恩田代表や連衆の講評・感想、作者の自句自解が一覧でき、何度でもじっくり読み返すことができる大きなメリットがあります。とはいうものの、フェイス・トゥ・フェイスで口角泡を飛ばしての白熱した議論(今は泡をとばすとコロナ感染の恐れがありますが)こそが句会の醍醐味ではないでしょうか。新型コロナウイルスの収束を只管祈ります。   次回兼題は、「筍」と「浅蜊」です。 (山本正幸) 今回は、○入選2句、原石賞3句、△2句、ゝシルシ9句、・7句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   なお、3月25日の句会報は、特選、入選がなくお休みしました。   https://www.youtube.com/watch?v=NIwxvNW6MzE

3月1日 句会報告

20200301 句会報用特選句用

令和2年3月1日 樸句会報【第87号】          3月最初の句会です。新たに入会希望の方も見学に来られ、句会に新たな息吹が感じられました。 兼題は「水温む(春の水)」と「石鹸玉」です。   特選1句、入選1句、原石賞2句を紹介します。       ◎ 特選  なまくらな出刃で指切る日永かな             天野智美      特選句についての恩田の鑑賞はあらき歳時記に掲載しています                  ↑             クリックしてください   合評では、「日永との取り合わせが面白い」「“な”が4回出てきて、調べが日永に合っている」「心もなまくらでボーッとしていて・・自戒をこめた句」などの意見が出ました。また日永という季語の本意が掴みにくいという声もあった。ちなみに山本健吉著「基本季語500選(講談社学術文庫)」では日永について次のように書かれている。 「俳諧の季題では、日永が春、短夜が夏、夜長が秋、短日が冬である。日永と短夜、夜長と短日は、算術的に計算すると、一致すべきはずだが、和歌、連歌以来そう感じて来ている。季感は人間が感じ取るものだから、理屈で割り切っても仕方がない。待ちこがれていた春が来た歓びと、日中がのんびりと長くなったことへのひとびとの実感が、日永の季語を春と決めたのであって、長閑が春の季語であることも相通ずる」 (芹沢雄太郎)         ○入選  春の水洗ふや堰の杉丸太               見原万智子 春になって水量がゆたかになり、土砂の崩れた岸や山際に、杉皮のついたままの丸太が土止めとして使われている光景を、いきおいと力のある措辞でいい切った句。景色に鮮度と野性味がある。「春の水洗ふや」という一息九拍のスピード感が「堰の杉丸太」にぶつかる様がリアルだ。春の力とういういしさを同時に感じさせる。 (恩田侑布子)  合評では、「景が良く詠めている」「今は堰に杉丸太を使う所は少ないだろうが、どこを詠んだ句なのか気になる」などの意見がでました。  (芹沢雄太郎)      【原】水温む駆け寄る吾子の頬に砂               活洲みな子 芳草が萌出し春らしくなった川ほとり。石川原のあいだの砂場で一心に砂掘りしていた子が、なにか見せようとするのか、「おかあさん」と駆け寄って来る。上気したまるい頬は汗ばんで、こまかい砂をつけている。情景がよく見える。ひとつ惜しいのは「吾子」の措辞。まさに、吾が子可愛やの「吾子俳句」そのものになってしまった。子にも孫にも「吾」は要らない。余分なものをとれば、俳句が普遍性を獲得する。 【改】かけ寄れる子の頬に砂水温む (恩田侑布子)  本日の高得点句でした。合評では、「春の喜びが句から伝わってくる」「孫は寒い時期は動きが鈍い。それが暖かくなってくると、外で夢中に遊び始めるのを思い出した」「実にほほえましい光景ですね」「動詞が多いのが少し気になる」等の意見が出ました。  (芹沢雄太郎)      【原】黒猫に漱石吹くや石鹸玉                安国和美 「吾輩は猫である」の猫は黒猫だった。「黒猫に漱石」では即きすぎかと思うが、後半で予想は小気味よく裏切られる。文豪の漱石が、幼児の好むしゃぼん玉を、愛する猫に向かって吹く面白さ。胃潰瘍の漱石の人生にもこんな長閑なひとときがあったらよかった。ただ、「切れ」は大切だが、何でも切ればいいわけでもない。切字は内容と相談しよう。この句に勇ましい切字は要らない。やさしく夢のようなしゃぼん玉を飛ばせてあげよう。 【改】黒猫へ漱石の吹く石鹸玉 (恩田侑布子)       合評の前に本日の兼題の例句が恩田により配布されました。 連衆の共感を集めたのは次の句です。  春の水山なき国を流れけり               与謝蕪村  春の水岸へ/\と夕べかな               原 石鼎  春水をたゝけばいたく窪むなり               高浜虚子  野に出づるひとりの昼や水温む               桂 信子    向う家にかがやき入りぬ石鹸玉               芝不器男  ふり仰ぐ黒き瞳やしやぼん玉               日野草城     句会の終り近く恩田から、2月26日に東京青山葬儀場で行われた芳賀徹先生の告別式の様子が報告されました。 「無宗教の花葬の立派なご葬儀でした。小学校から中学・高校・大学まで、八〇年間も肝胆相照らす親友で、東大教養学部一期生の揃って大学者になられた平川祐弘先生と、高階秀爾先生の弔辞が、お二人で一時間近く。中身が濃く細やかで情がこもって圧巻でした。 ご子息のご挨拶も、見事なご尊父の生涯を「みなさまがいてくださったからこそ」と感謝し褒め称えるもので、半分は三保の松原の天人の世界のできごとのようでした。  また中村草田男の愛嬢・中村弓子先生と、昨冬パリでご一緒させていただいた金子美都子先生と歓談でき、芳賀先生が私のことを「野性味がいいんですよ」と認めてくださっていたことを弓子さんからお聞きし、芳賀山脈の居並ぶ秀才をさし置いて、シンポジウムのメンバーにこんな駿河の山猿を抜擢してくださったことをあらためて感謝した次第です」     [後記] 本日の句会中に、恩田から芳賀徹さんの葬儀に参列された際のエピソードが語られました。筆者は話を聞きながら「俳句あるふぁ2019年冬号」にて、芳賀さんと恩田がポール・クローデルの百扇帖をめぐって意見をぶつけ合うのを読み、興奮したのをひとり思い出していました。対談での互いに譲らないすさまじい熱量を目の当たりにし、自分に芯をしっかりと持つことの大切さを学んだ気がします。 次回兼題は、「ヒヤシンス」と「囀」です。 (芹沢雄太郎)   今回は、◎特選1句、○入選1句、原石賞2句、△4句、ゝシルシ10句、・3句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)    

かれいどすこっぷ

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                       白い便箋ふちは螢にまかせやる               恩田侑布子              かれいどすこっぷ 見原万智子  樸俳句会への入会当初こそ、hitch hikeのように軽やかに駿府の細道を行こうなどと、今思えば大それたことをのほほんと考えていたが、知るほどに作るほどに、心の枯れ井戸をスコップで掘れども掘れども「筆遅俳苦」な毎日。そこへ師の作品の鑑賞とは、無謀にもほどがある。しかしながら、昨年夏に発表され、冬を越そうという今になっても頭を離れない句について、書いてみた。    白い便箋ふちは螢にまかせやる              恩田侑布子 (『現代俳句』2019年6月号)    便箋を選ぶ際、紙質や罫線の幅と同じくらい重要なのがふちの装飾だろう。罫線が直線で囲まれていたら、あぁこの人は洋服もトラディショナルなデザインが好きだったわ。花があしらってあれば、彼女は相変わらずガーデニングに精を出しているに違いない。行間のそのまた外側で、意外と雄弁に差出人の人となりを語っているのが、ふち。  ところが掲句ではそのふちを螢にまかせやる、とある。螢に、まかせ、やる。  螢は比較的捕獲しやすい昆虫だ。何匹かそおっと素手で捕まえて虫かごに入れ、この世のものとも思われぬ淡い光を楽しんだ記憶がある。しかし次の日、虫かごの中の螢はもう、光るどころか全く動かなかった。  そのように儚い生き物である螢に、本来は本文を補う装飾、動くはずのない便箋のふちをまかせる、いや、まかせやる。やる、が気になる。パッと見は、えぇい、このどうしようもない恋心、どうせ結ばれない定め、という気だるい投げやりな気持ちのようでありながら…  え、これが恋文とは限らないですって?恋文です。  このご時世、「初めてメールを差し上げます」と電子メールからビジネスをスタートさせても何ら失礼には当たらない。友人ならば、LINE、電子メール、あるいは電話で事足りる。  今や手紙は、相手が確実に開封するまで他の誰にも見られたくない場合に限り使用される通信手段といえよう。ましてや生き物の螢にふちをまかせてしまう手紙なんて、恋文以外にあり得ない。  もう一つ、どのような恋心が綴られているのかが、気になる。だがこの句を何度暗誦しても、開け放たれた障子、白い指先でつまみ上げた何も書かれていない便箋を透かして光る螢を眺める女、それしか思い浮かばない。  こんな妄想に抗うすべなく引き込んでゆく掲句は、超絶としか言いようがない。しかし文字は見えて来ない。  まかせやる。恋心の行方を螢にまかせやり、手紙が男の元へ届くことがあったとして、首尾よくいくつかの関門をくぐり抜け開封されたとして、果たして文字は必要であろうか。  この便箋は和紙でなければならぬ。光が透けるほど薄いのは土佐の和紙。きちんと折りたたんである。が、差出人は達筆で知られるのに、どうやら何も書かれていないのはどうしたことだ。訝しく思いながら折り目を開いた途端に、昆虫としての螢ではなく、薄黄色い螢の光だけが、便箋のふちにぽおっと浮かんでは剥がれ、後から後からゆらゆらと夏の夜のしじまを漂う。  これほど攻撃的なまでに情熱的な恋文を、私は他に知らない。  男は、早く朝になってこの光が消えるとよいのに、と思うだろうか。  それとも淡い光を捕まえようとするだろうか。一つ残らず。  待ってください。あの恩田侑布子さんが、君が考えるような狂恋の句を詠むでしょうか?  あなた、さっきから何ですか。あらやだ。よく見れば私の妄想の中の男。どうしてここに。  僕は恋の相手ではありませんよ。そんなことより僕が君に言いたいのは、恩田さんの句には品があるということです。あれでは蛍が多過ぎる。螢の数はそう、一、二匹。  やはり、あなただわ。  男はそれ以上、否定も肯定もしなかった。   2020年2月 みはらまちこ(樸会員)