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かれいどすこっぷ

20200210 見原さん3

                       白い便箋ふちは螢にまかせやる               恩田侑布子              かれいどすこっぷ 見原万智子  樸俳句会への入会当初こそ、hitch hikeのように軽やかに駿府の細道を行こうなどと、今思えば大それたことをのほほんと考えていたが、知るほどに作るほどに、心の枯れ井戸をスコップで掘れども掘れども「筆遅俳苦」な毎日。そこへ師の作品の鑑賞とは、無謀にもほどがある。しかしながら、昨年夏に発表され、冬を越そうという今になっても頭を離れない句について、書いてみた。    白い便箋ふちは螢にまかせやる              恩田侑布子 (『現代俳句』2019年6月号)    便箋を選ぶ際、紙質や罫線の幅と同じくらい重要なのがふちの装飾だろう。罫線が直線で囲まれていたら、あぁこの人は洋服もトラディショナルなデザインが好きだったわ。花があしらってあれば、彼女は相変わらずガーデニングに精を出しているに違いない。行間のそのまた外側で、意外と雄弁に差出人の人となりを語っているのが、ふち。  ところが掲句ではそのふちを螢にまかせやる、とある。螢に、まかせ、やる。  螢は比較的捕獲しやすい昆虫だ。何匹かそおっと素手で捕まえて虫かごに入れ、この世のものとも思われぬ淡い光を楽しんだ記憶がある。しかし次の日、虫かごの中の螢はもう、光るどころか全く動かなかった。  そのように儚い生き物である螢に、本来は本文を補う装飾、動くはずのない便箋のふちをまかせる、いや、まかせやる。やる、が気になる。パッと見は、えぇい、このどうしようもない恋心、どうせ結ばれない定め、という気だるい投げやりな気持ちのようでありながら…  え、これが恋文とは限らないですって?恋文です。  このご時世、「初めてメールを差し上げます」と電子メールからビジネスをスタートさせても何ら失礼には当たらない。友人ならば、LINE、電子メール、あるいは電話で事足りる。  今や手紙は、相手が確実に開封するまで他の誰にも見られたくない場合に限り使用される通信手段といえよう。ましてや生き物の螢にふちをまかせてしまう手紙なんて、恋文以外にあり得ない。  もう一つ、どのような恋心が綴られているのかが、気になる。だがこの句を何度暗誦しても、開け放たれた障子、白い指先でつまみ上げた何も書かれていない便箋を透かして光る螢を眺める女、それしか思い浮かばない。  こんな妄想に抗うすべなく引き込んでゆく掲句は、超絶としか言いようがない。しかし文字は見えて来ない。  まかせやる。恋心の行方を螢にまかせやり、手紙が男の元へ届くことがあったとして、首尾よくいくつかの関門をくぐり抜け開封されたとして、果たして文字は必要であろうか。  この便箋は和紙でなければならぬ。光が透けるほど薄いのは土佐の和紙。きちんと折りたたんである。が、差出人は達筆で知られるのに、どうやら何も書かれていないのはどうしたことだ。訝しく思いながら折り目を開いた途端に、昆虫としての螢ではなく、薄黄色い螢の光だけが、便箋のふちにぽおっと浮かんでは剥がれ、後から後からゆらゆらと夏の夜のしじまを漂う。  これほど攻撃的なまでに情熱的な恋文を、私は他に知らない。  男は、早く朝になってこの光が消えるとよいのに、と思うだろうか。  それとも淡い光を捕まえようとするだろうか。一つ残らず。  待ってください。あの恩田侑布子さんが、君が考えるような狂恋の句を詠むでしょうか?  あなた、さっきから何ですか。あらやだ。よく見れば私の妄想の中の男。どうしてここに。  僕は恋の相手ではありませんよ。そんなことより僕が君に言いたいのは、恩田さんの句には品があるということです。あれでは蛍が多過ぎる。螢の数はそう、一、二匹。  やはり、あなただわ。  男はそれ以上、否定も肯定もしなかった。   2020年2月 みはらまちこ(樸会員)  

恩田侑布子詞花集  冬

能面

恩田侑布子代表の句を季節に合わせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。今回は句座をともに囲む松井誠司による冬の句の鑑賞です。       冬の詞花集                 白足袋の重心ひくく闇に在り                           恩田侑布子 白足袋の重心ひくく闇に在り      (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版) 句を味わう 俳句と出会って間もないころのことです。ラジオからこんなことが聞こえてきました。司会者の「この俳句は、どういう意味なんですか?」との問いに、作者は「こういうものは、あれこれ説明しないで、感じ取ってくれればいいんです」とのこと。その会話を聞いていた私は、「ふーん、そういうものか・・」と漠然と思っていました。しかし、よくよく考えてみると「感じてくれればいい」ということは、実に厄介なことのように思いました。というのは、物事の感じ方は十人十色なので、他人と完全に一致することはないからです。では、その人なりの感じ方でいいのかというと、これもまた妥協と背中合わせなので曲者なのです。 感性は、生来のものと今までにどれくらいそれを磨いてきたかによって、広さや深さが生まれてくるのだろうと思います。多くは生来のものでしょうが、私のような感性の乏しいものにとっては、ふだんから「感覚を磨く」ということを意図的にやっていかなければ、「味わう」広さや深さを深化できないのではないかと感じています。 こんなことを思いながら、恩田侑布子の句集『夢洗ひ』を読んでみました。が、句に内包されていたり句から醸成されていく世界を、残念ながらイメージできないものがいくつもあります。ですから、「どれがいい句か」と問われても答えられません。しかし、「どの句が好きか」と問われたなら、いくつかの句を挙げることはできます。 白足袋の重心ひくく闇に在り この句は平泉の延年舞に寄せる一連の作品として登場しますが、句を眼にした私には、田舎の粗末な舞台での奉納舞が浮かんできました。年に一度の祭りです。村人たちが何かへの祈りを込めて見入っています。舞人の膝と腰を少しまげて柔らかく、順応力を持った姿勢には、美しさがにじみ出ています。この日のための白足袋と装束が舞う姿は、人と神とをつなぎ、夕闇の中に描かれる「幽玄の世界」です。 恩田侑布子の句には「品のいいすごさ」があるように感じています。広範な知識を身に包んで、俳句という表現に昇華してしまう「すごさ」です。 幸い俳句には「定年制」はないので、これからもより豊かな味わい方ができるように、感じ取る心を磨いていきたいと思っています。 (鑑賞文・松井誠司)

恩田侑布子詞花集 新年

fujiukase 20150913

恩田侑布子代表の作品を、季節にあわせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。 今回は共に句座を囲む山本正幸による、新年の句の鑑賞文をお届けいたします。 後半にはこの句との出会った講演会でのお話も。 句と出会い、それを咀嚼し、消化し、また新たな言葉に紡ぐ楽しさ。 これもまた俳句の楽しみ方ですね!       新年の詞花集   富士浮かせ草木虫魚初茜              恩田侑布子   富士浮かせ草木虫魚初茜 ...