令和元年 6月26日 樸句会報【第73号】 いかにも梅雨の季節という日に句会がありました。 兼題は「青蛙、雨蛙」と「薔薇」。 ◎特選2句、○入選1句を紹介します。 ◎特選 薔薇園の眼下海抜ゼロの町 天野智美 近景の薔薇園と、眼下に広がる海抜ゼロメートルの町並みの対比が衝撃的である。 赤やピンクの薔薇の中を歩けば王侯貴族の気分を味わえる。ましてや花園は空中庭園と言ってもいいほど、遮るもののない海に突き出た山鼻にある。真っ青な空と海と、あでやかに感覚を蕩かす薔薇の色と匂いと。しかし、遠い海ではない中景の足下には、マッチ箱のような屋根が陽光を反射し無数にひしめいている。防潮堤一枚に囲われ、海と同じ平面に張り付いた町並み。ひとたび、地震による津波が起これば阿鼻叫喚の地獄になる。妖しい美しさと恐怖の危険とが隣り合っている。それは、この薔薇園に限らない。わたしたち二十一世紀日本の普遍的な現実の姿なのだ。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子) ◎特選 金山やつるはし跡の青蛙 海野二美 静岡県では梅ヶ島と土肥が、全国では佐渡金山が有名である。どこも金山といえば、金堀人夫たちが命がけで坑道に取り組んでいた。その昔のつるはしの跡に乗っかって、青蛙が可愛い顔をしてこっちを見ている。四〇〇年前の採掘当時も青蛙が同じようにケロリとやってきたことだろう。無宿人の地獄のような一生の一方で、ゴールドラッシュに沸き返るお大尽もいたに違いない。人間の欲と苦労の営 々たる歴史を何も知らない青蛙のかわいさが印象的だ。洗い立てたような青蛙の眼が、逆に人間の営みを浮かび上がらせる射程距離は大きい。平易な措辞によるさりげない俳句の裏には、作者の長年にわたる修練の裏付けがある。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子) ◯入選 引きこもる窓に一匹青蛙 林 彰 引きこもるそのひとの窓に一匹の青蛙が貼り付いている。 「大丈夫かい。ぼくのいるところまで出ておいでよ」というように。梅雨時の雨が、ときどき降って、窓に雨滴が溜まっている。 物音もしない。なかに人がいるとは思えない静けさ。でもぼくは知っている。そのひとはそのなかに暮らしている。 80-50問題がマスコミでさわがれる。ひきこもりはいまや少青年のみならず全世代の問題だ。時事俳句といえなくはないが、そういいたくない静謐さは、作者のやさしさがそのまま青蛙に乗り移っているから。(恩田侑布子) 今回の最高点句のひとつでした。(もう一句は特選の“薔薇園の”句) 合評では、青蛙のやさしさ、かわいらしさに言及した評が多くありました。また、この句が、部屋の内側から見て書いている句か部屋の外から見ての句かの議論がありました。「内側から詠んだ句と読むと短歌的叙情句となり、つらさが出過ぎる。外から見た方が世界が広がる。俳句的には、‟距離‟がある方が良いので、外から見ている句と読みたい」と恩田が評しました。(猪狩みき) 合評の後は、『文芸春秋』(7月号)、『現代俳句』(6月号)に載った俳句を鑑賞しました。 息継ぎのなき狂鶯となりゆくも 恩田侑布子 教会の鐘に目覚めて風五月 片山由美子 水無月の底なる父の手を摑む 水野真由美 などが連衆に人気。 「写生、即物具象での作句が絶対と考える作家もいれば、象徴詩として俳句をとらえ、隠喩を大事にしている作家もいる。‟どの考え、方法でなければいけない‟とは私は考えていない。それぞれが自分の足場から水準の高い俳句を作ってくれればよい」と恩田が述べました。 [後記] 鑑賞の中で、「詠んでいるものとの距離」が話題になりました。短歌との違い、俳句らしさはその距離にあるということだったと思います。また、ある句について「平易だけれど射程が深い句」と恩田先生が表現していたのが印象的でした。「俳句」の表現についていつも以上に考えさせられた回でした。 次回兼題は、「夏の朝」と「雷」です。(猪狩みき) 今回は、特選2句、入選1句、△3句、ゝシルシ4句、・シルシ 7句でした。欠席投句者の入選が多かった会になりました。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)
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◎ 第40回静岡高校教育講演会のアンケート、ありがとうございます
講演「あなたの橋を架けよう」に対して、もったいないほどの感想をあまたの高校生からお寄せいただきました。頼もしいみなさまと出会えて幸せです。深く感謝し、ほんの一部を紹介させていただきます。 これから80年余を生きてゆかれる若いみなさまの真摯な声に、力尽きるまで私もお応えしていきたいです。 こころ痛ましめることがあろうと、新たなステージへ転依(てんね)し、志を持して、大いなる前途を拓いてゆかれますよう、応援しています。 恩田侑布子 教育講演会についての生徒アンケートが寄せられました。その中の12人の方の感想を下記に紹介します。恩田のメッセージが、若いしなやかな感性によって確かに深く受けとめられたことが分かります。 ◯今回の講演は驚きが大きかったです。俳句の表現の深さや、知性と感性、想像力の重要さをよく知ることができました。特に『落葉踏んで人道念を全うす』の奥深さ、味わい深さは驚きでした。先生の講演で、俳句の最も面白いところを教えていただいたと思います。特に衝撃だったのは、俳句朗読パフォーマンスです。最初は静かに朗読するものと思っていたのですが、フランス語や、全身を使った表現に度肝を抜かれました。おそらくあの会場にいたほとんどの人がそうだったと思います。新しいものを感じ、非常に素敵でした。(1年・男) ◯自分が絶望的になっていても文学になんとか頼って生きる希望を得たということは、私にはわかることができない。死にたいと思ったことがないからである。でも、そのような状況の人間をも救い、私のように幸せな人間の生活をさらに豊かにしてくれる文学は本当に素晴らしく、人類にとって偉大なものであるということは、今更ながら知ることができた。 今回の講演でいちばん心に残ったのは「未知の地平を拓く」という言葉である。私は「読む」ことで、自分の世界を広げ、世の中を支えられる人材になってほしいと、恩田さんに託された気がした。時間がたつのは止められないけれど、今、自分にできること、やるべきことを怠らず、一生懸命に努めたい。そして、自分の世界のみならず、誰かの世界をも広げられるような人間になりたい。(1年・女) ◯私は、恩田さんがはじめに説明してくださった、「会へば兄弟ひぐらしの声林立す」という句が、1番印象に残っています。兄弟の部分をはらからと読む理由が、とても奥深くてびっくりしました。実際にひぐらしの声を、恩田さんは体感していたから、とても感動されたんだなと思いました。また、この句を読んで、私もひぐらしの声を肌で感じてみたいと思いました。恩田さんは、今の私には想像できないような高校生活を送っていたことにおどろきました。先が見えない生活をしていたからこそ、俳句のすばらしさに気づくことができたのではないかと思います。今、スマートフォンでのSNS、とくにLINEでの会話がどんどん増えてきていて、俳句のような、日本古来の日本語の美しさに触れる機会が大幅に減っています。私には、この講演会がすごく新鮮なものに感じました。これを良い機会に、俳句や古文などに興味を持ち、昔の日本に触れられたらいいなと思います。ありがとうございました。(1年・女) ◯ぼくが今回の講演会で印象に残ったものは三つあります。 一つ目は、恩田さんの豊かな経験の話です。ひぐらしの句も、鳴き声をたくさん聞いたことのある恩田さんだからこその解釈が面白かったです。 二つ目は、仏教の話です。依りどころを変えてこころを磨く転依という言葉が印象に残り、自分たちとも重なる話が多く、心に残りました。 三つ目は、俳句の朗読です。「三つ編みの髪の根つよし原爆忌」では、床に伏せて悲しみを表現していたのが心に残っています。「三千大千世界」を、仏教用語で「みちおほち」と読んだり、俳句をフランス語で読んだりしていたので、後から「言語によって体の動き方も変わる」という話を聞き、納得しました。俳句は日本語だけでなく、いろいろな楽しみ方もあるのかと思いました。 恩田さんの解釈に納得し、今までよりも俳句に興味がわきました。(1年・男) ◯講演会で一番印象に残ったことは特に2つあります。1つ目は自分の人生を支えてくれるような古典に出会い、耕し読解するということです。私は古典をただの教材としてしか読んだことがありません。しかし恩田さんの話から確かに古典の一つ一つには死者の魂が詰まっていて人生の岐路に立ったときに参考となるものが多く学ぶことができると思いました。私も本が好きなので視点を変えて挑戦してみたいです。2つ目は生身の人間と出会って刺激を受けるということです。今はどこにいてもスマホを持っていれば顔を見たことがない人とさえ会話ができますが、やはり直接会ったほうがより良い刺激を吸収し、自分を成長させてくれると思います。だから積極的に男女問わず様々な人と関わっていきたいです。そして恩田さんが俳句で日本と世界の架け橋になられたように将来誰かのため、何かのための架け橋になるような人間になりたいです。(2年・女) ◯「俳句には共同体に根付く季語が不可欠でいつも背後には自然が存在している。自然は近代的な自我を超えたものであり、作者は感情を季物に託し広やかなものに自我を解放する。今までのものの見方、感じ方の枠を破ることを氏は破行句と呼んでいる。読者は切れの余白の中で作者のいのちと出会う。」と言う考え方は今までであったことがなく、面白いと思った。また、耕し読解…現実社会を能動的に読むという読解方法…を実践して「クリエイティビティーの土台となり心身まるごとの価値観を新たに想像」していきたい。(2年・男) ◯今回、恩田侑布子さんの講演を聞いて、当たり前にあると思っているものを、当たり前と見ず、違う視点で見ることが大切だと思った。恩田さんは、俳句を作る時に身の回りのものを違った視点で見ることで素敵な一句を作り出している。また、配られた紙に載っていた恩田さんが高校1年生の時に書いた卬高新聞にも心が惹かれた。恩田さんの高校時代はまだ家庭科は女子だけというのが当たり前だったのに対して、それを当たり前と思わず、自分の意見をはっきり述べていて、読んでいてすごく共感できる内容だった。また、俳句朗読パフォーマンスでは、それぞれの俳句に合わせて読み方を変えていて表現の仕方によって同じ人が作った俳句でも雰囲気が全く違ってしまうので驚いた。特にフランス語で朗読した時は、日本語のおしとやかな感じと違い、かなり感情的にできることも知った。私は俳句を作ることはあまり得意ではないが、今回の講演で学んだことは普段の生活でも他のことにも当てはまることだと思うので、心に留めておきたい。楽しく有意義な講演だった。(2年・女) ◯先生が何度も仰っていた「耕し読解」という言葉が印象に残りました。仏教のこともあまり知らなかったので、考え方を教えていただけて、とてもよい機会でした。また、何より印象に残ったのは、オウム真理教の中川死刑囚の詠んだという俳句です。人としての感情を失わないまま死刑に処せられたのだと思うと、やりきれない気持ちになりました。 先生の半生を聞いて、子どもの頃の経験がそのまま詩作に生きているのだなと思いました。壮絶な子ども時代を経て、ここ静高にいる間も思い悩み、色々なものに触れた経験が人生を豊かにしているのだろうと思いました。 俳句パフォーマンスも初めて見たので、圧倒されました。貴重な経験になりました。(2年・女) ◯その少女のような声とは似合わない深い言葉は、私の心に深く深く響いた。きっといろいろな困難を乗り越えてきたからこそ心にひびくのだと思った。私も日常生活で使う言葉に影響力を持てるような人間になりたいと思ったし、そのために一日一日を大切に使っていきたいと思った。最後の俳句パフォーマンスも迫力がすごく、とても楽しい時間をすごすことができました(3年・女) ◯(前半略) 今まで「読む」ことについて特に何も考えていなかったけれども、もっと能動的に「読む」という行為をしていきたいと思った。ただ読んでインプットするだけでは確かにAIと何も変わらない。僕は人間なので人間らしく読んで考え発信していくことを意識していきたい。AI に負けないよう、機械にならないようにする。さすが俳人。話し方がきれいだった。「音」にこだわった話し方をしていると感じた。僕も心ひかれるものにはどっぷりとつかろうと思う。(3年・男) ◯仏教の話が一番心に残った。すべてのものは実体がない「空」である、苦悩は嘆くものではないのだ、とうことなどは、現代の生き方、考え方と大きく関わってくるものであると感じた。そして「読む」行為。それは必ずしも字などで示してあるものを対象とはしない。この世界について、様々な抱えている問題について、さらには宇宙の真理なんかも含まれるだろうか。どうしてそうなっているのか、なぜなのか、…。それを読み解いて行き、皆に共有し、よりよい生活を送れるようにする、「耕し読解」をしていくことが大切だという。(中略)今後の社会においては、特にこの「原始仏典」の方の考え方が、生きていくカギとなってきそうである(3年・男) ◯自らの経験から仏教なども絡めた「思想」「生き方」の話をしてくださった。「たがやし読解」という言葉にすごく感銘を受けた。文学に向き合う姿勢は理系の人間だとしてもないがしろにしてはいけないし、先人から多くのことを学びとっていくべきだと感じた。全体を通して、高校生を引きつけるための話し方をすごく意識されているなと感じた。高校生がかかえがちな悩みを共有してくださり、自分としても話に聞き入ってしまった。内容については、仏教観を人生の柱としながら、先生自身の教訓も赤裸々に語ってくださり、あまりそういった話をじっくりと聞くこともなく、宗教を遠いものと感じていた私には衝撃だった。 宗教の主体は神ではなく、そこに救いを求める人間なのだということを改めて感じた。最後の朗読パフォーマンスについても非常に鮮烈で、俳句というのは座っておごそかな気持ちで詠むものだという先入観を見事に打ち破るもので、非常に感動した。 海外で活動なさっているというのもあって、日本人の感覚にとらわれない広い視野や感覚と語り草にすごく刺戟を受けたし、自分も古典にもっと真剣に向き合って見識を広げていきたいと思った。(3年・男)
恩田侑布子の読売新聞夕刊「たしなみ」エッセー、次回は4月7日です。題して「かなしみとよろこびのマナー」。山本容子さんのステキな銅版画もどうぞお楽しみください。
恩田侑布子講演「あなたの橋を架けよう」レポート(下)
「あなたの橋を架けよう」 第40回静岡高校教育講演会 ・日時 2019年5月10日(金)13時30分開演 ・会場 静岡市民文化会館 大ホール ・講師 恩田侑布子 川面忠男様ご寄稿の(下)として、第3章を掲載します。 第3章 世界でなぜ俳句が人気か 《恩田侑布子さんは、2014年にパリ日本文化会館客員教授としてコレ―ジュ・ド・フランス、リヨン第Ⅲ大学、エクスマルセイユ大学などで講演している。それで今回の講演の第三章が「世界でなぜ俳句が人気か」というテーマになっていることも頷ける。以下は恩田さんの話である。》 俳句とはいったい何だろうか。俳句がいま世界中の至るところで作られているのはなぜだろうか。グローバル世界に生きる現代人は俳句のどこに魅かれているのだろうか。 欧米の小学校ではカリキュラムに俳句の実作がある。夏休みの宿題にしているところも多い。 フランスでこの数年間、俳句をめぐる講演を6回行った。フランス人の俳句に対する理解と共感は半端ではない。街の本屋に芭蕉、蕪村、一茶、夏目漱石や山頭火の句集が並んでいる。またEUの前大統領、ヘルマン・ファン=ロンパイさんはベルギー出身だが、俳句に心を通わせ句集を出している。 ここでセザンヌやゴッホなど近代の芸術を支えて来たものは何であったかを思い出してみよう。それは個人の才能だった。作家の個性やその天才性を際立たせるものだった。 一方、俳句は根本の精神が違う。まず俳句には共同体に根づく「季語」がある。その背後には大きな自然が存在する。 自然は近代的な自我を超えたものだ。俳句を作る時、感情を季物に託して広やかで大きなものに自我を解放する。 蛇笏の落葉は、枯れて地べたに落ちて潰えるものという固定観念を破って、一人の人間の道念を支えるものになった。 俳句を作るということは、ささやかでも今までの自分のものの見方、感じ方を破ってゆくものだ。決まり切ったものの見方、パターン認識の縛りから精神が自由になってゆく。 作者が一句の中に生き切った俳句は、切れの余白の中で読み手が新たに生き直すことができる。蛇笏の〈落葉踏む〉の句は六十余年が過ぎて、一人の高校生の胸に飛び込んできた。今も心の底に落葉の踏み心地が感じられるのだ。 俳句は、作者と読者の一人二役を楽しめる興奮の場だ。表現の喜びと共感の喜びがある。 現代は技術革新が加速し、人間疎外どころか人工知能というAIに管理される時代になっている。そうした中で自然と共生し人と共感し合い精神の潤いを求める人たちが増えている。俳句は現代人が星の子としてつながり合うことができる可能性を持っている。 (川面忠男 2019・5・23) 講演の締めくくりに、恩田は自句21句を「俳句パフォーマンス」という形で披露しました。写真スライドを背景に、13句は日本語のみで、8句は日本語とフランス語で。 本抄録でも触れられているように、俳句は韻文であり調べやリズムという音楽性を持つこと、俳句が国際的な広がりを持っていることを、「俳句パフォーマンス」として直接伝える機会となりました。 これだけ多くの若者、しかも俳句に興味がある人ばかりではない講演会は恩田にとってもあまり経験が無いことでした。しかし、高校生の皆さんから「一冊の本を読むような講演会でおもしろかった」「まるで小説を読んでいるかのような感覚」などの感想をいただきました。恩田も、無事に大役を果たすことができたことを安堵しております。 終演後に控室とロビーで1時間半近くも続いた質疑応答や五百通以上の個別の感想をいただき、恩田自身も今後の創作活動に大いに刺激をいただくことができた講演会でした。 開催に向けて一方ならぬご尽力をいただいた静岡高校の志村剛和校長先生、教育講演会を主催した静中・静高同窓会ご担当の三浦俊一先生をはじめとする静岡高校の教職員の皆さまに、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
恩田侑布子講演「あなたの橋を架けよう」レポート(上)
「あなたの橋を架けよう」 第40回静岡高校教育講演会 ・日時 2019年5月10日(金)13時30分開演 ・会場 静岡市民文化会館 大ホール ・講師 恩田侑布子 恩田の母校・静岡県立静岡高校では、総合学習の一環として毎年各界で活躍する卒業生による講演会を開催しています。 今年は、恩田が講師として選ばれ、全校生徒約千人と保護者・同窓生及び一般参加の市民の方々を前に講演をいたしました。 講演は今回のために新たに作った100枚余のスライドを使い、以下の6章立てで進めました。 1)「辛かった子ども時代」 2)「高校時代に出会った感動の俳句」 (抜粋を掲載します) 3)「世界でなぜ俳句が人気か」 (抜粋を掲載します) 4)「読むという行為」 ・AIの時代だからこそ、人間にしかできない 『耕し読解』を深める ・理系や科学者こそ俳句の精神に合う …現実の直視と固定観念の打破 5)「東洋思想から餞のことば」 ・釈尊の原始仏教は『耕し読解』の優れた実例 ・自分に執着する心は最後の支えにならない …原始仏教の教え「空の智慧」 ・これから十年間で、生涯を支える精神の骨格 を作る 6)「俳句朗読パフォーマンス」 この講演会に同校OBとして参加された川面忠男様が抄録を作ってくださいました。その中から、第2章・第3章を(上)(下)二回に分けてレポートを掲載させていただきます。川面様、ありがとうございます。 第2章 高校時代に出会った感動の俳句 《静岡高校の生徒であった頃、恩田侑布子さんは中村草田男と飯田蛇笏の俳句に出会い心の救いを得た。恩田さんは教育講演会の第2章を「高校時代に出会った感動の俳句」と題し、あらまし以下の通り語った。》 俳句は定型のリズムと切れの余白によって感情を表現する。 会へば兄弟ひぐらしの声林立す 「兄弟」は「はらから」と読み、この中村草田男の句を歳時記から見つけた瞬間、全身がどこか別の場所に連れて行かれるようだった。 ひぐらしの声は天上から林に降りそそいでいる。それぞれの人生が山と谷をはるばるやって来て今ようやくここで出会った二人はお互いの静かな眼差しの中に憩うのだ。 このはかない苦しい人生にあってカナカナの澄んだ声に二人が包まれている永遠の瞬間だ。寂しくても生きながらえてさえいれば、いつか心を受け止めてくれる人に出会えるかもしれない。 「はらから」、ここに深い切れがある。俳句は切れの余白を味わうところに醍醐味がある。下五の〈林立す〉は詩人ならではの感受性だ。ひぐらしの声が林立し、現か幻か境のない空間に読み手は誘われていく。 兄弟という漢字に「はらから」とルビを振ったのはなぜだろうか。調べやリズムという音楽のためだ。俳句は韻文であり、名句は音楽である。 ◇ 飯田蛇笏との出会いは次の句だった。 落葉踏んで人道念を全うす 歳時記を読んだ時、目が釘付けになったが、道念という意味がわからなかった。広辞苑には「道を求めること、求道心」とある。蛇笏にとって俳句は仏道と同じなのかと思った。 この落葉に死屍累々という言葉が浮かんだ。落葉は滅び去って行った数知れない人々の思いではないだろうか。生きている自分は病弱な母が産んでくれた命。地球上で生と死が繰り返され、命をつないできてくれたことであろうか。 そう言えば夢中に読んでいる本も死者たちのものだった。図書館の書架の前に立つと死者たちの魂に囲まれているような感じがした。人類も自然の歴史も死屍累々だ。 〈落葉踏んで人道念を全うす〉とつぶやくたびにかわいがってくれた祖父母の仕草が次々に浮かんできた。その思い出は散りたての落葉のようだ。人の一生は死んで終わりではない。落葉を踏み死者を思うとき生きている者は自分の志を全うしようと思うのだ。 一生は自分一人のものではないと思った。その時だ。見たこともない、会ったこともない飯田蛇笏と言う人がまるで我が人生の師のように立ち上がった。俳句という文学の不思議さを痛感していた。 (続く) (川面忠男 2019・5・21)
5月15日 句会報告と特選句
令和元年5月15日 樸句会報【第71号】 五月第二回目の句会。まさに五月晴れの中を連衆が集ってきました。 兼題は「鰹」と「“水”という字を使って」。 ◎特選 緑降る飽かず色水作る子へ 見原万智子 「緑さす」は夏の季語。「緑降る」は季語と認められていないかもしれません。でも、朝顔の花などで色水をつくっている子の周りに、ゆたかな緑の木立があって、一心に色を溶かし出している腕や手や、しろがねの水に「緑が降る」とは、なんという美しい発見でしょう。ピンクや紫色の色水に、青葉を透かして陽の光の緑がモザイクのように降り注ぎます。色彩の祝福に満ちた夏の日の情景。誰の胸の底にもある原体験をあざやかに呼び覚ますうつくしい俳句です。 見原さんはこの句で、「緑降る」という新造季語の作者にもなりました。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子) ◯入選 皮のままおろす生姜や初鰹 天野智美 句の勢いがそのまま初鰹の活きのよさ。ふつうはヒネ生姜の皮を剥くが、ここでは晒し木綿でキュキュッと洗って、すかさず下ろし、大皿に目にもとまらぬ早さで盛り付ける。透き通る鋭い切り口に、銀色の薄皮が細くのこり、生姜や葱や新玉ねぎの薬味も香り高い。初鰹の野生を活かすスピード感が卓抜。(恩田侑布子) この句を採ったのは恩田のほか女性一人。 「美味しそう!」との共感の声があがりました。(山本正幸) ◯入選 藁焼きの鰹ちよい塩でと漢 海野二美 ワイルドな料理を得意とするかっこいい男を思ってしまった。港で揚がった鰹を、藁でくるんでさっとあぶり、締めた冷やしたてを供してくれる時、「ちょい塩で行こうぜ」なんて言ったのかと思いきや、これは作者の弁によれば、御前崎の「なぶら市場」のカウンターでのこと。隣に座ったウンチク漢のセリフという。やっぱり体験がないと、俳句は読み解けないことを痛感した次第。(恩田侑布子) 選句したのは恩田以外一人だけでしたが、合評は盛り上がりました。 「“漢”で終わっている体言止めがいい。暮らしが見えてきます」 「“漢”がイヤ。“女”ではダメですか? ジェンダー的にいかがなものか」 「ジェンダー云々というのではなく、文学的にどうかということなのでは?」 「お客さんがお店のカウンターで注文したところじゃないでしょうか?」 「男の料理と思いました」 など議論沸騰。 (山本正幸) ◯入選 水滸伝読み継ぐ午后のラムネかな 山本正幸 上手い俳句。明代の伝奇小説の滔々たる筋に惹き込まれてゆく痛快さに、夏の昼下がりをすかっとさせるラムネはぴったり。ラムネ玉の澄んだ音まで聞こえてきそう。この水滸伝は原文の読み下しの古典ではなくて、日本人作家の翻案本か、ダイジェストか、あるいは漫画かもしれない。という意見もあったが、たしかに長椅子に寝転がって読んでいる気楽さがある。夏の読書に水滸伝はうってつけかも。(恩田侑布子) 合評では 「“水滸伝”に惹かれました。複合動詞がぴったり。ラムネも好き」 「上手いけど、ありそうな句。手に汗を握ってラムネを飲んでいる」 「“水滸伝”は昔少年版で読みましたよ」 「“水滸伝”の“水”と“ラムネ”の取合せがどうでしょうね?」 などの感想、意見が聞かれました。(山本正幸) 【原】まだ距離をはかりかねゐて水羊羹 猪狩みき 知り合って間もないふたりが対座する。なれなれし過ぎないか。よそよそし過ぎないか。どんな態度が自然なのか。どぎまぎする気持ちが、水羊羹の震えるような切り口に託される。が、このままでは調べがわるい。「ゐて」でつっかえ、水羊羹に砂粒があるよう。 【改】まだ距離をはかりかねをり水羊羹 「はかりかねをり」とすれば、スッキリした切れがうまれ、水羊羹の半透明の肌が、ぷるんとなめらかな質感に変化する。「り・り・り」の三音のリフレインも涼しく響きます。 【原】はがね色目力のこる鰹裂く 萩倉 誠 詩の把握力は素晴らしい。でもこのままだと、「のこる」のモッタリ感と「裂く」のシャープ感が分裂してしまう。 【改】鰹裂くはがね色なる眼力を こうすれば、鰹に包丁を入れる作者と、鰹の生けるが如き黒目とが、見事に張り合う。拮抗する。そこに「はがね色」の措辞が力強く立ち上がって来るのでは。 【原】水中に風のそよぎや三島梅花藻 天野智美 柿田川の湧水に自生している三島梅花藻は、源兵衛川でも最近はよくみられるという。清水に小さな梅の花に似た白い花が、緑の藻の上になびくさまはじつに涼しげ。それを「水中にも風のそよぎがある」と捉えた感性は素晴らしい。しかし、残念なのはリズムの悪さ。下五が七音で、おもったるくもたついている。 【改】みしま梅花藻水中に風そよぐ 上下を入れ替え、漢字を中央に寄せて、上下にひらがなをなびかせる。「風のそよぎや」で切っていたのを、かろやかに「風そよぐ」と止めれば、言外に余白が生まれ涼しさが感じられよう。 (以上講評・恩田侑布子) 第53回蛇笏賞を受賞した大牧広(惜しくも本年4月20日に逝去)の第八句集から第十句集の中から恩田が抄出した句をプリントで配布しました。 連衆の共感を呼んだのは次の句です。 枯葉枯葉その中のひとりごと 凩や石積むやうに薬嚥む 外套の重さは余命告ぐる重さ 落鮎のために真青な空があり ひたすらに鉄路灼けゐて晩年へ 春帽子大きな海の顕れし 人の名をかくも忘れて雲の峰 秋の金魚ひらりひらりと貧富の差 仏壇にころがり易き桃を置く 本日句会に入る前に『野ざらし紀行』を読みすすめました。 あけぼのやしら魚白き事一寸(いつすん) 漢詩には「白」を主題に詠む伝統があり、芭蕉の句もこれを継いでいるという説がある(杜甫の“天然二寸魚”)。しかし、典拠はあるものの芭蕉の句は杜甫の詩にがんじがらめになっていない。古典の知識だけで書いているのではない、遠く春を兆した冬の朝のはかない清冽な美しさがここにある。新しい文学の誕生を告げる句のひとつである。と恩田が解説しました。 [後記] 句会の終わり際に読んだ大牧広の句には筆者も共感しました。80歳を超えても、「老成」せず、枯れず、あたかも北斎やピカソのように「自己更新」してやまない俳人の姿に多くの連衆がうたれたのです。 恩田も5月10日の静岡高校教育講演会において、「きのふの我に飽くべし」との芭蕉の言葉を援用し「自己更新」の喜びを語っていました。 ※講演会についてはこちら 次回兼題は、「五月・皐月」と「“手”という字を使って」です。 (山本正幸) 今回は特選1句、入選3句、原石3句、△3句、シルシ6句、・11句と盛会でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)
青女 30句 恩田侑布子
『俳壇 』二〇一九年一月号 三〇句 青女 恩田侑布子 「俳壇」2019年1月号に掲載された恩田侑布子の「青女」30句をここに転載させていただきます。 「俳壇」二〇一九年一月号 三〇句 青女 恩田侑布子 南面の榧の神木冬に入る 虫食ひの粉引徳利冬ぬくし たまゆらは永遠に似て日向ぼこ 日当れば岐れ路ある枯野かな よく枯れて小判の色になりゐたり 引くほどに空繰り出しぬ枯かづら 霜ふらば降れ一休の忌なりけり 手から手へ渡す小銭や冬ぬくし 鬼の歯は川原石なり里神楽 群峯は羅漢ならずや冬茜 琅玕の背戸や青女の来ます夜 のど笛のうすうすとあり近松忌 淡交をあの世この世に年暮るる 水音のほかは黙せり初景色 初凪は胸の高さや神の道 初富士を仰ぐ一生(ひとよ)の光源を 初風に鵬のはばたき聞かんとす 橙の鎮座にはちと小さき餅 山水を満たす湯舟や四方の春 宝船手ぶらで来いと云はれけり 牛蒡注連うねりくねつてどこへゆく つややかに吾も釣られたし初戎 跳ね返るもの福笹と呼びにけり 新玉のあたまのなかをやはらかく まばたきに混じる金粉三ヶ日 初閻魔肋骨に肉殖やしては 枯蘆にくすぐられゆく齢かな 母呼ばぬ永き歳月冬牡丹 寒晴にあり半月と半生と 絶壁の寒晴どんと来いと云ふ
5月5日 句会報告
令和元年5月5日 樸句会報【第70号】 10連休のさなか、夏のような陽気の5月5日に句会がありました。 兼題は「袋掛」と「夏山」。 入選1句、△2句を紹介します。 ○入選 げんげ編めば編むほどひと日長くなる 田村千春 恩田以外に採った人は男性が一人。 「かわいいなあという思いがわく。少女が野原で日が暮れるのを忘れるほど集中してげんげを編んでいる。時間の長さとひと日の長さのハーモニーが良い」と共感を述べました。 「観察者ではなく編んでいる人になりきって詠んでおり、ふしぎな詩の発見がある。”編めば編むほどひと日長くなる“と感じられるときがある。いまこのときが永遠のような気がする感覚。‟春日遅遅”の情が深くとらえられた。春の空気感がリアルで、リズムと内容が合っている。前半の「げ」「ば」「ど」の濁音が編み込まれてゆく湿ったげんげ束の質感をおもわせ、大変効果的」と恩田侑布子が評しました。 △ 青重くとろり滴る山となる 萩倉 誠 「一物仕立ての句。芭蕉の“黄金打延べたる句”ですね。一物仕立ては難しいのだが、成功すればうまい、平凡でない句になる。山の存在感が表現されている、感覚のいい句。‟青重く‟は、この句のよさでもあり悪さでもあるところ。‟青“と‟滴る山”で季重なりの気味があるからです。青を消す方向で考えてみると大化けしそう」と恩田が評しました。 △ 薫風や四元号をかくる友 前島裕子 恩田のみに採られた句でした。 「友がいい。父や母なら成り立たない。友はある意味、人生の伴走者なので、大正、昭和、平成、令和の四元号を駈ける実感がともなう。そこに句の力強さが生まれた。実際に即していえば、かなりお齢のはなれた友だろう。その老境の友への尊敬とエールが、こちらに反響してかえってくる。こころあたたまる句です」(恩田評) (参考)芭蕉の“黄金打延べたる句” 先師曰く、発句は頭よりすらすらといひ下し来るを上品(じょうぼん)とす。先師酒堂に教えて曰く、発句は汝が如く、二つ三つ取り集めするものにあらず。金(こがね)を打延べたる如くなるべし、と也。(『去来抄』) [後記] 季語をどう斡旋するか、季語の本意をわきまえて使うことの重要性も合評の中で話題になりました。季語を自分の中でどう実感のあるものにしていくかが大事だということをあらためて感じました。「題を出されてそれに合わせて句を作るだけでなく、自分の表現したいものをその時々の季語を選んで作句するという主体的な句作りも大事に大切に育てていってほしい」という恩田先生の言葉を心にとめておきたいと思います。 次回兼題は、「鰹」と「‟水“の文字を使った句」です。(猪狩みき) 今回は、入選1句、△3句、シルシ4句、・15句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)