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12月6日 句会報告

20201206句会報上

令和2年12月6日 樸句会報【第99号】 師走一回目の句会。マスクを着けている鬱憤を晴らすかのように、侃侃諤諤の議論が繰り広げられました。 兼題は「木の葉」「紅葉散る」です。 入選2句を紹介します。 ○入選  「おもかげ」は羊羹の銘漱石忌               前島裕子 【恩田侑布子評】   十二月九日が漱石の命日です。漱石は甘党で「草枕」にもみどり色の羊羹が出て来ます。「おもかげ」の銘といえば虎屋の黒砂糖羊羹です。その黒い表面に漱石が小説で造形したさまざまな人物の面影が映ると見たのでしょう。いろんな人間のおもかげを追い求め、自己を投影した書斎のひと漱石にふさわしい忌日の句です。ふと、「俳句」十二月号の拙文「不可能の恋、その成就」の想い人を「おもかげ」とした唱和かしら、とも思いましたが、たんなるうぬぼれであったようです。 【合評】 漱石は甘いものに目がなかったようで、奥さんが隠すんですよ。そのエピソードと「漱石忌」が響きます。 季語の斡旋が効いている。 下手をすると安っぽくなる句だが、漱石の背景をかぶせて読むととてもいい。「おもかげ」がぴったり。 菓子の名前に頼ってしまうのはいかがなものか。 「おもかげ」の名が作者の琴線に触れたのではないか。一連の心の動きを想像すると味わい深い。       ○入選  灯されてひとりの湯船冬紅葉               古田秀 【恩田侑布子評】   「灯されて」に旅館の露天湯を思います。鬱蒼とした裏山が迫るひとけのない温泉。真っ暗な闇に冬紅葉の黒ずんだ紅が白っぽい灯を浴び、孤独感が迫ります。調べも落ち着いた大人の句の作者が三〇になったばかりの古田秀さんの作品とは驚きました。 【合評】 自分の家ではなく、温泉宿の檜風呂でしょうか。屋内にいる作者から外の冬紅葉が見えて心がほぐれていく。 「灯されて」という受動態がいいですね。一人ということが際立ちます。心象と実際に見えているものが一致している。 寂寥感がある。 強羅温泉に行ったときちょうどこのような感じでした。        「枯葉」「紅葉散る」の例句が恩田によって板書されました。   一ひらの枯葉に雪のくぼみをり              高野素十  枯葉のため小鳥のために石の椅子              西東三鬼  こやし積む夕山畠や散る紅葉              一茶   散るのみの紅葉となりぬ嵐山              日野草城     注目の句集として、宮坂静生 第十三句集 『草魂』(20200901角川書店刊)から恩田が抽出した十二句を読みました。 連衆の共感をあつめたのは次の句です。  冬林檎窓へ子どもの張りつきて    あたたかや半人半(はん)蛙(あ)土器の貌    中村(カカ)の(・)を(ム)じさん(ラド)わつさわつさと大根葉    草を擂りつぶし草魂沖縄忌    わが縄文月下にあそぶ貫頭衣       [後記] コロナに明け、コロナに暮れていく2020年。この疫病は俳句という詩の世界にどんな影響を及ぼすのでしょうか。虚子は「俳句はこの戦争(第二次大戦)に何の影響も受けなかった」と言い放ったそうですが、これはアイロニーではないでしょうか。我らみな「時代の子」たることを免れることはできません。「何の影響も受けな」ければ、それはもはや「詩」ではあり得ないと筆者は思います。 本年、WEBでの投句システムを併用しながら樸俳句会が継続できたのは連衆の熱心な取り組みのおかげです。今年の成果をアンソロジーとしてHPに掲載しました。 「2020・樸・珠玉集」はこちらです                     (山本正幸)   今回は、○入選2句、△2句、ゝシルシ9句、・6句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)  

2020 樸・珠玉作品集

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二〇二〇年・樸・珠玉作品集    (五十音順)       ゆくえのしれぬ旅の魅惑 恩田侑布子     二〇二〇年はコロナ・パンデミックにより樸の句会も変更を余儀なくされました。他県から参加して下さる方々のために、春から投句はすべてリモートに切り替えました。そこから一室につどって全句稿を手にナマで談論風発の句評を展開する地元組と、オンラインで選評し合い、メールで全句講評をお返しする遠方組と二手に別れることになりました。こうしてコロナ困難を逆手に、遠近全体で一つの場を構成する「リアル・オンライン融合句会」を築けたのは本年の成果でもあります。いま一つの成果は高齢俳人社会のなか、アットホームな樸に、三十代前半の意欲ある若者が三人に増えたことです。  愛知、神奈川、東京、埼玉と遠方の仲間も、地元静岡の仲間も、老いも若きも同じ日に投句し、俳句を選び遠慮なく批評し合う緊張感とよろこびは斉しく一緒。いつもときめきます。世界を襲うウィルスへの不安に加え、それぞれが職場の変動や家族の介護や自身の病気という鬱屈を抱えながらも、俳句という表現のよろこびをあかあかと灯してまいりました。たとえ風雨が強くて火がかき消えそうになっても、俳句の榾は次なる大いなる火を育てようとします。  上手い俳句ではなく、足元から自分の俳句をつくってゆくことが樸の誇りです。連衆一人ひとりの新鮮で多彩な俳句に、私自身どんなに眼を丸くし、感動をもらって来たことでしょう。それぞれの船頭によるゆくえのしれぬ旅ほど面白いものはありません。  樸十八人衆の熱い精選句。これこそが本年最大の成果です。とくとご高覧いただき、「わたしも仲間になろう」、と思ってくださる方がお一人でもあれば幸甚に存じます。      天野智美      多磨全生園      寒林を隔て車道のさんざめき     ひどろしと目細む海や蜜柑山     なまくらな出刃で指切る日永かな                       猪狩みき     木下闇結界のごと香りけり     秋扇やゆづれぬものを持ちつづけ     鰯雲小屋へ荷揚げのヘリコプタ     予想していたよりも早く、そして急に、母と暮らすことになった。好き放題出かけられた生活は一変。遠くまで出かけることは減り、生活範囲がかなり狭くなった。俳句を作るには少し困る事態かな、と思ったりもした。でも、日々の生活の中から俳句の種は見つけることができることを知った。それに、実際の生活の場は狭くても、言葉を使えばどこまでも遠く広い世界を表現できることも知っている。知っているのと実際に作れるとの間はかなり隔たっているけれど。        伊藤重之   マスクの眼改札口を溢れ出る     這ひ廻る人工知能日短か     未遂なる愛の幾つか冬鷗        海野二美   七種や普段に帰す塩加減     海老蔵の睨み寿ぐ四方の春     鳩追ふ児金木犀の香をくぐり     俳句を詠むことも句会も、段々に私の血となり肉となってまいりました。最近秀句を作れずにおりますが、一向にめげておりません。そこがだめな所だとは思いますが、風物に出会う度、感動を言葉に置き換える時間がとても好きです。これからも、凡人の主婦らしく、日々の心情を詠んで行きたいと思っています。        金森三夢   赤べこの揺るる頭(かうべ)や風光る     早苗舟登呂の残照負うてゆく     天の川みなもと辿る野営かな    昨年の霜月、樸の門を叩き早一年。恩田侑布子という優れた師と素晴らしい連衆に囲まれ、月二回の句会を大いに楽しませていただいております。恩田代表の歯に衣着せぬ一刀両断のコメントに打ちのめされ、少しだけ成長できたと実感しております。句会は修行の道場。二年目は措辞を磨くことを目標にして精進致します。何卒お手柔らかに。        島田 淳   早苗投ぐ水面の空の揺るるほど     年上の少女と追へり夏の蝶     土工らの肩冷やしをり天の川     還暦の友人と「これからは創造的な趣味を持とう」という話になった。消費的な享楽は、いずれ「おもしろうてやがてかなしき」気分になる。「俺は客だ」という驕りがでるかも知れない。創造的な趣味、例えば俳句は、自分の内面と来し方を見つめ、表現する技術と独創性が求められる。点盛りで無点でも折れない心が育まれる。それから…「俺は陶芸をやるわ」と彼は言った。私は、今の気持ちを句にできないか折れない心で考えている。          芹沢雄太郎   冬の蟻デュシャンの泉よりこぼれ     短日の切株に腰おろしけり     鉛筆のみるみる尖り日短か  単身赴任生活が始まって八ヶ月が過ぎた。  家族と会えず、自己と向き合わざるを得なくなった今、ありがたいことに俳句が私のそばに寄り添い、いつも励ましてくれている。  この気持ちを大切に育てて、少しずつ周りの人へ届けられるようになりたい、そんな事を考えながら、今日も句を詠んでいる。        田村千春  早苗田は空に宛てたる手紙かな    ラ・クンパルシータ洗ひ髪ごとさらはれて    よこがほは初めての貌青すすき    樸の会は私にとって発見の場で、俳句以外の話題にも毎回興味津々――例えば本には帯というものがあり、これがあってこそ本といえるのだとか。句集ではたいてい自選句が載っている。  恩田先生の処女句集『イワンの馬鹿の恋』はめったに手に入らない。図書館に予約し、漸くまみえることが叶った時、踊り出しそうだった。ところが、なんと帯がないではないか。喜びと悲しみを行き来する感情を持て余し、一句。  秋寒し帯の散りぬる稀覯本        萩倉 誠   鰤大根妻には言はぬ小料理屋     鬼平の笑ひと涙あさり飯     怪獣図鑑ひろげて眠る小春空     =575はパズルだ= 筆記なしのパソコンでの打ち込文書作成に馴れ、 思考力の低さが加わり、言葉の喪失は増すばかり。 言葉探しと思考力低下の防止も兼ね俳句の手習いを・・・ 俳句道の厳しいこと、(陳腐な貴乃花の相撲道なんかペッ) 待てども待てども言霊は降りず、三駄句の連続。 我が存在は“句会にこびりついた、三等米のご飯粒”。 容赦なく恩田師範の“駄句滅の刃”が一閃、二閃、三閃! ああせめてなりたや“二等米のご飯粒”・・・      林 彰   名をもらひあくびをかへす仔猫かな     桃源に辿り着きしや水温む     ペンを置きカルテを閉じる鰯雲        樋口千鶴子   如何に照るアフガンの地や冬の月     ボランティア震える両手暖めて     お隣は実家へ八十八夜かな        古田秀   マネキンの顔に穴なしそぞろ寒     洋梨の傷かぐはしきワンルーム     それきりのをんな輪切りの檸檬かな    三十歳になった記念というわけではないが、三十歳までしか応募できない石田波郷新人賞に応募した。審査員の一人である村上鞆彦さんの秀逸十句選に一句(「君ずっとしゃべってパセリ皿の上」)を採っていただいたので何となくほっとした。新人賞を取った筏井遙さん『うしろから』からの一句に「全焼ののちの涅槃図見にゆきぬ」。涅槃図と言えば恩田侑布子の「擁きあふ我ら涅槃図よりこぼれ」が印象深い。来年は涅槃図を見に行きたいと思う。        前島裕子   千鳥ヶ淵桜かくしとなりにけり     裸子の羽あるやうに逃げまはる     「おもかげ」は羊羹の銘漱石忌  今年の夏、両親の引っ越しで実家をかたづけたおり、本棚に「陰翳礼讚」を発見。学生のころ読んだのか、色褪せて、小さい文字だ。句会で先生が時々おっしゃる一冊、家に持ち帰り読んだ。何か大事なものがある。  樸に入会してもうすぐ二年になろうとしている。 句会は楽しく、いい刺激を与えてくれるが、句作となると迷い悩む日々である。自分らしい句が詠めるようにと思っている。  「陰翳礼讚」を再度読んでみよう。        益田隆久   つぶらじい月夜の古墳護りたり     寒昴ふるさと発し此処に老ゆ     六十路こそ初投句なれ帰り花    「うしろ手に閉めし障子の内と外・中村苑子」「ピーマン切って中を明るくしてあげた・池田澄子」「酢牡蠣吸ふ天(あま)の沼矛(ぬぼこ)のひとしづく・恩田侑布子」。絶対自分では作れそうもない句ばかり好きになる。好きな服や好きな女ほど自分に似合わないのと同じか。昔茶道を習った。連続した所作が漫然と連続しているので無く、所作の切れを意識しつつも切らさない呼吸が俳句と似ているような気もする。        見原万智子   鰤さばく迷ひなき手に漁の傷     老教授式典に来ず山眠る     春の水洗ふや堰の杉丸太  四切れで九十円のパン不味い  コーヒーを二秒で淹れるな  孵らぬ子それ無精卵朝ご飯  友人から時おり句めいたものが送られてくる。拙句を踏まえたものもある。どれも面白くやがて哀しいと思うのは、私が友人の暮らしを熟知しているから。俳句は個を超えた普遍性が求められる。ではどうすれば面白く哀しい普遍性のある句を詠めるのだろうか。  コーヒーの香りの中で「多作多捨でご健吟くださいね」と微笑む恩田先生の姿が揺れている。        村松なつを   熱気球ゆさり野菊へ着地せり     女湯に桶音しきり椿の夜     手枕のこめかみに聞くちちろ虫    新幹線の中でアナウンスが流れる際に短い曲が流れる。同じ音楽でも壮大な交響曲やソナタなどに比べるこの車内チャイムはなんという小作品だろうか。それでいて聴く人の心へ浸み込むように響いてくる。  旅する人にはその無事の祈りに、新生活の若者へはエールに、傷心の青年には慰めに、疲れたビジネスマンには栄養ドリンクに、寝ていた人にはアラームに・・・。  読み手の心の襞に届いて初めて完成する俳句のようだと思う。        山田とも恵   黒南風や日常に前輪が嵌まる     立ち漕ぎの踵炎昼踏み抜きぬ     湯船ごと銀河の底網に揺るる    世阿弥の『風姿花伝』には次のような記述がある。  トキノマニモ、ヲドキ・メドキトテアルベシ。(中略)コレチカラナキイングワナリ。  ヲドキとは何をやってもうまくいく時期、メドキは何をやってもダメな時期。それは因果なのでどうしようもないらしい。私の句作はただいま超メドキである。しかしこの果てで生まれるのを待つ何かの胎動を感じている。その時を迎えるまで樸の面々の胸を借り、腐らず作り続けるしかない。        山本正幸   過激派たりし友より届く蜜柑かな     突堤のひかり憲法記念の日     短日や匂ひ持たざる電子辞書    一年ほど前、「マスクとり団交の矢面にたつ」を投句し、恩田先生に入選で採っていただきました。しかし、現下のコロナ禍にあっては句の意味が一変しました。マスクを外し口角泡を飛ばせば、経営側・組合側双方のリスクとなり、もはや団交どころではなくなってしまうのです。いのちこそ大事。今回の疫病は俳句を含む詩の世界をいかに変貌させるのでしょうか。      

11月1日 句会報告

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令和2年11月1日 樸句会報【第98号】 “ニューノーマル”な暮らしを余儀なくされつつも、徐々に市民の文化活動がもとに戻りつつあります。本日のみ、会場をアイセル21から静岡市民文化会館に変更しての句会でした。冬が近づく澄んだ風通しのいい部屋で、新しいメンバーも加わり一同新鮮な気持ちで句会に臨みました。 兼題は「刈田」「そぞろ寒」です。 入選2句を紹介します。 ○入選  そぞろ寒有休残し職を退く               見原万智子 理屈がなく、実感のある句です。パンデミックの二〇二〇年は、途方も無い失業者を世界中で激増させています。作者もなんらかの理由で退社することになりました。「職を退く」の措辞に志半ばのさびしさがにじみます。どうせ辞めるなら有給休暇を目一杯取ればよかったと思うものの、現実は甘くなく、言い出せる雰囲気ではなかったのです。男性は二割強、女性は六割近くが非正規が、現在のわが国の労働環境の実態です。早期退職に応ずれば数千万もの退職金が出る会社もありますが、とてもとても。その薄ら寒い心象と、冬に向かう気持ちが季語に自然に籠もっています。この句の良さは一身上の事情がすなわち、現代社会の写し絵になっている重層性にあります。 (恩田侑布子) 【合評】 今はむしろ会社から有休を取らされるものではないか。 若干説明的かもしれないが、現代の雇用状況の厳しさと「そぞろ寒」の実感の取り合わせが良い。   ○入選  マネキンの顔に穴なしそぞろ寒                古田秀 人間は穴の空いた管です。『荘子』でいえば七竅(しちきょう)(両目、両耳、両鼻孔、口)が、ものを見聞きし、匂いを嗅ぎ、食べ、喋っているのです。マネキンにはうらやましいほど大きな瞳があり、すっきりと高い鼻があります。ところが、よく見るとどうでしょう。穴がありません。ふさがっています。当たり前のことに改めてゾッとした瞬間です。一句はわたしたちが穴の空いた管であることを振り返らせ、同時に、いつもきれいと思っているものの非人間的なそぞろ寒さを突きつけて来ます。同じ秋季でも、やや寒・冷ややか・肌寒はより体性感覚に、そぞろ寒はより心象にふれる季語です。感覚の鋭い「そぞろ寒」の句です。ただし、最近のマネキンはのっぺらぼうや、頭部がそもそもないものが多いようです。都会詠、人事句の古びやすさはその辺にあるのかもしれません。 (恩田侑布子) 【合評】 些事に追われ何かに違和感をおぼえても深く考えないようにしている、そんな私の毎日に釘を刺されたように思った。 思い浮かぶマネキンの様子によって大分印象の変わる句。   披講・選評に入る前に今回の兼題の例句が板書されました。  刈田昏れ角力放送持ちあるく              秋元不死男  鶏むしる男に見られ刈田ゆく              大野林火  ぴつたりと居る蛾の白しそぞろ寒              角田竹冷   口笛を吹くや唇そぞろ寒              寺田寅彦   [後記] 私自身も樸に入会してまだ半年ほどですが、新しい方が加わって句会が活性化するのはいつでも良いことのように思います。一方で、俳句を始めよう、学んでみようと思った人に対して俳人・結社側の姿勢は十分に応えられていると言えるでしょうか。俳壇の高齢化が言われ続けて久しい昨今ですが、当然ながら若年層を多く取り込んでいく組織ほど“寿命が伸びる”でしょう。科学の世界では、研究者は自身の専門分野に関して、世間への啓蒙活動に研究の10%程度の時間を割くべきだと言われています。SNS・インターネットや出版物での適切な情報発信はこれからも重要な仕事だと思います。私も30歳になったばかりです。2,30代の若者よ、ぜひ樸に来たれ! (古田秀)   今回は、○入選2句、△3句、ゝシルシ7句、・5句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)   11月25日 樸俳句会 兼題「短日」「帰り花」 入選句を紹介します。 ○入選  短日や匂ひ持たざる電子辞書                山本正幸   金属の辞書はモノとして古くはなっても、紙の辞書のような色つや匂いはありません。ましてや長年の手擦れによる角のまるみや紙のヤケなど、味のあるやつれた表情など望むべくもありません。金属の電子辞書のいつまで経っても怜悧な佇まいに、使い古したつもりでいた自分が、逆にほころぶように老いてゆくことに気づき愕然としたのです。「短日や」の季語に自身の老いが重なり、「匂ひ持たざる電子辞書」が再び「短日や」に返ってゆきます。芭蕉の名言、「発句の事は行きて帰るこころの味はひなり」(「三冊子」)を思い出させる優れた俳句です。 (恩田侑布子) 次回の兼題は「木の葉」「紅葉散る」です。

あらき歳時記 小春日

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20201126 SBS学苑パルシェ「楽しい俳句」講座 特選句  小春日やけんけんぱッの◯の中                   石原あゆみ  一年のうちで小春日和ほど空も日光も清雅な日はありません。冬の寒さが間近なのに春のようにほのぼのと暖かで、ひすいの空はどこまでも青く澄んでいます。音韻的にも華やかなA音五つに、回転するR音のハル、マルが愛らしい軽快なリズムをかもし出し、フリルのスカートの女の子が足を開いたり閉じたりして進む様が思い浮かびます。それは、けんけんぱの遊びさながらの小さな音楽です。作者は自身の少女時代を重ね、永遠だったような束の間だったような冬麗の一日を惜しみます。憂いを知らない一人の幼女が、いま◯のなかに片足立ちしています。漢字の丸や円ではなく、地面に描いた◯をそのまま句中に置いたことで、幾つもの◯がつながる空地が目の前に浮かび、そこに幻の少女が立ち現れます。一読忘れがたい愛誦性もあり、小春の屋外にはずむ可憐な少女の四肢は匂うばかり。小春日の季語は落ち着いた渋めの句が多いものです。その点でも特筆される秀句です。                (選 ・鑑賞   恩田侑布子)     

10月21日 句会報告

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令和2年10月21日 樸句会報【第97号】 秋晴の午後、十月2回目の句会がもたれました。久しぶりに神奈川県から参加した連衆もありおおいに盛り上がりました。 兼題は「鵙」「野菊」です。 入選2句、原石賞1句を紹介します。  ○入選  熱気球ゆさり野菊へ着地せり                村松なつを 地上から見上げて居た秋天の熱気球は点のようだったのに、高度を下げはじめるや、みるみる大きくなり、「ゆさり」と野菊の咲く原っぱに着地した。熱気球の篭の大きさとそこに乗っている人の重みの実感が「ゆさり」というオノマトペに見事に籠もっています。野菊の白さと、細やかな花弁のうつくしさ、気球の渡ってきた秋空の美しさが充分に想像でき、映像として迫ってくる空気感ある秋の俳句です。 (恩田侑布子)   【合評】 秋の空の美しさと地面に咲く野菊の様子が気持ちよく浮かんでくる。 私なら野菊を花野で詠んでしまいそうですが、野菊としたことで、秋の野原の中の、野菊が咲いている一点をクローズアップ出来ています。「熱気球ゆさり」という措辞も面白い。 熱気球は、風を読む力とバーナーの熱の調節だけで操縦するため、思い通りの場所に着地するのはとても難しい。この気球のパイロットも、意図せずに野菊の上に着陸してしまったのかも知れない。「ゆさり」というオノマトペが、熱気球の巨大さと、偶然かつ静かな着地を表現している。 野菊を詠った句の中で、新しい切り口だと思います。 気球と野菊、空と地、大と小の対比を「ゆさり」のオノマトペでつないだ良い句。 野菊でなくてもいいのでは? 秋の澄んだ空が見えてきます。 「野菊に(•)」としたらどうなのでしょう? ← この質問に対して恩田は「ここは<野菊へ(•)>でなくてはいけません。方向と動きが出るのです。<へ>という助詞は使い方が難しいけれど、この句は成功しています」と解説しました。   ○入選  クレジツト払ひの火葬もず日和               村松なつを 「クレジット払ひの火葬鵙日和」の表記のほうがカチッとします。なんでも電子決済になってゆく世の中。とうとう葬儀費用どころか火葬場の支払いまでクレジットカードになった。清潔この上ないつるつるの床の火葬場。無臭で、どこにも人間の体温の気配すらしません。谷崎の陰翳礼讃の日本はどこにかき消えたのでしょう。死者を送る斎場からも一切の陰影が拭われてしまいました。現代の葬儀と、死者をとむらう意味を現代人に問いかけてくる怖ろしい俳句です。 (恩田侑布子)   【合評】 葬儀だけではなく、体と気持ちを寄せ合う機会が急速に減っていることの意味を問う俳句です。 句の現代性がまず良いと思いました。日々の生活の中での新しい視点。クレジットにするとポイントがつきます。人の死に対してポイント? ギャップがあり、恐れ多いことかもしれませんが、そこを繋げる面白さがあります。季語が落ち着かない秋の空気感を表していると思います。 現代を象徴していて、俳味が感じられます。 「もず日和」のイメージと合わないのでは? 火葬料は役所に払うわけですからたぶんクレジット払いはできない。ここは葬儀代ではないのですか?(作者によれば、掲句はじつは飼犬の火葬場を詠んだもので、クレジットカード払いができたとのことです)      【原】ラ・フランス友の名字がまた変はり                田村千春 再婚し、こんどまた三度目の結婚をした友達でしょうか。 おしゃれな味ながらどこか腐臭の美味しさを楽しむラ・フランスに、その女性の人物像が髣髴としてくる面白い俳句です。一字のちがいですが、 【改】ラ・フランス友の名字はまた変はり こうすると調べが軽快になるとともに果物と友のノンシャランな雰囲気も出てきます。 (恩田侑布子)   【合評】 ラ・フランスは、季節にならないと意識に上らない果物。この友人との関係も、引っ越しの挨拶や年賀状のやり取りが中心の距離感なのかも知れません。座五には、経緯のわからない軽い驚きと、ラ・フランスのように人生を追熟して幸せを掴んでほしいという祈りが込められているようです。 取り合わせの意外さに思わず採ってしまいました!また名字が変わるということは結婚と離婚をしたということなのでしょうが、ラ・フランスの効果なのか、私には再婚して名字が変わったように読めました。そして作者はそれを聞いて、あまりネガティブな感情を持っていないような気がしました。 離婚・再婚を繰り返している友なのでしょうか。ラ・フランスとの取り合わせのセンスがとてもいいと思いました。   本日の兼題の「鵙」「野菊」の例句が恩田によって板書されました。 野菊  頂上や殊に野菊の吹かれ居り               原 石鼎  秋天の下に野菊の花辨欠く               高浜虚子  夢みて老いて色塗れば野菊である               永田耕衣  けふといふはるかな一日野紺菊               恩田侑布子 鵙  たばしるや鵙叫喚す胸形変               石田波郷  百舌に顔切られて今日が始まるか               西東三鬼  はらわたのそのいくぶんは鵙の贄               恩田侑布子 (冬季)  冬鵙を引き摺るまでに澄む情事               攝津幸彦     合評に入る前に、芭蕉『鹿島詣』を読み進めました。本日は美文調の擬古文のくだりです。 芭蕉一行は、「句なくばすぐべからず」(句を詠まなければとても通りすぎられない)ほど畏敬する筑波山を見たあと、鹿島への渡船場のあるふさ(布佐)に着く。その地の漁家にて休み、月が隈なく晴れるなかを夜舟で鹿島に至った。 芭蕉は鹿島に「月見」に行ったというのが通説だが、単に月見に行こうしたのではないのではないか。芭蕉の故郷の伊賀から見れば常陸の国はまさに「日出づる処」である。月が昇る三笠山を光背としている春日大社。春日曼荼羅には神鹿(鹿島からはるばるやってきた鹿)が描かれていて、鹿島神宮と春日大社は深い関係にある。芭蕉には、日本人の文化の古層に迫りたいという気持ちがあったのではないかと思う。芭蕉は近世の人だが、ここの文章は中世・平安に近い感じがします。以上、恩田からユニークな解説がありました。   今回の句会のサブテキストとして、「WEP俳句通信」118最新号の「珠玉の七句」欄の井上弘美さんと恩田侑布子の秋の俳句を読みました。 次の句が連衆の共感を集めました。  汽水湖をうしなふ釣瓶落しかな               井上弘美  歳月は褶曲なせり夕ひぐらし               恩田侑布子 [後記] 本日の句評の中で恩田から「<故郷の>は感傷的になりやすい措辞なのでみだりに使わないほうがいいです。叙情・情趣と、感傷との違いを峻別しましょう」との指摘がありました。 これを「lyrical」と「sentimental」と(勝手に)言い換えてみて実に納得できた筆者です。なるほど「センチメンタルジャーニー」はあっても「リリカルジャーニー」はあまり聞かないよなあ、と独りごちました。 句会が果て、投句をめぐる熱い議論をアタマの中で反芻しつつJR静岡駅へ向いました。駿府城公園の金木犀の香にうたれながら。 (山本正幸) 次回の兼題は「そぞろ寒」「刈田」です。 今回は、〇入選2句、原石賞1句、△9句、✓シルシ9句、・4句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (一)  

イワン1

       『断絶を見つめる目』                   古田 秀  生と死、明と暗、人工と自然、主体と客体。近代化とは人間を自然から切り離し、あらゆるものに線を引き分類し続ける営みであった。結果として世界の解像度は飛躍的に上がったが、個人と世界、個人と個人の間にさえ、深い断絶が横たわることとなる。俳人・恩田侑布子の作品は、美しくしなやかな言葉の魔法でその断絶のむこう側を描き出す。しかしそれは読者に断絶を再認識させることであり、彼女もまたままならない世界との隔たりを見つめている。恩田侑布子第一句集『イワンの馬鹿の恋』は、その断絶を見つめる視線と緊張感が魅力的である。    擁きあふ我ら涅槃図よりこぼれ    後ろより抱くいつぽんの瀧なるを    蝮草知らぬわが身の抱き心地    擁きあふ肌といふ牢花ひひらぎ  「擁」「抱」の字が印象的な四句。他者や自然と一体化する行為でありながら、自らの肌が知覚する接触面がそのまま隔たりとして現れるもどかしさ。しかし半端な慰めを求めず、その隔たりを見つめる凛としたまなざしがある。    手を引かれ冥府地つづき花の山    死に真似をさせられてゐる春の夢    会釈して腰かける死者夕桜    卯の花の谷幾すぢや死者と逢ひ    寒紅を引きなつかしやわが死顔  「死」は生者と常に伴走する。「死」を遠ざけんとしてきた現代社会の在り様とは異なり、恩田は当然のように「死」と対話する。近代化が作り出した生と死の断絶を、彼女は言葉で乗り越える。    わが庭のゆかぬ一隅夏夕べ    かたすみの影に惹かるる祭笛    わが影や冬河の石無尽蔵    寒灯の定まる闇に帰らなむ    くるぶしは無辺の闇の恋螢  「影」「闇」の存在が印象的な五句。全貌が知れない、未知のものを怖ろしいと思うのは、近代的啓蒙主義の副産物。自らも作り出す影、光に寄り添うようにそこにある闇をひとたび受け入れれば、曖昧なままを許す底の知れない懐の深さに魅入られ、目をそらせない。    粥腹の底の点りぬ梅の花    翡翠や水のみ知れる水の創    髪洗ふいま宙返りする途中    冬川の痩せつつ天に近づけり  世界と対峙するとき、自らの肉体の変化と眼前の自然の変化は呼応する。それまで知覚できなかったものが、言葉となって現前のものとなる。これまであった世界との隔たりが消えたかのように、感性の翼が自在に空を駆ける。    みつめあふそのまなかひの青嵐    寒茜光背にして逢ひにくる    吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜    再会の頬雪渓の匂ひして  恩田曰く、恋は感情の華。表現せずにはいられない衝動にも似た心の震えは、断絶を乗り越えるための大きな原動力となる。互いの存在を確かめ合うのと同時に、最適な距離をさぐる緊張と撓み。恋慕の相手への、まっすぐで凛々しい視線がある。    生涯を菫の光(か)ゲへ捧げたり    仮の世に溜まる月日や花馬酔木    来し方やいま万緑の風の水脈    龍淵に潜み一生(ひとよ)のまたたく間    光陰に港のありし冬菫    長かりし一生(ひとよ)の落花重ねあふ  宇宙の壮大な時間に比べれば、人間の一生は短く儚い。だからこそ今この瞬間の生命のきらめきがあると言えよう。野の草花が、風が、川の流れが、虫や鳥の声が、いま私たちの一瞬と交錯する。恩田侑布子の詩の翼は断絶を悠悠と越え、今この瞬間のきらめきを普遍の境地へ導くのである。     (了)                  (ふるたしゅう・樸俳句会員) 『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)