「2022」タグアーカイブ

あらき歳時記 冬籠

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2023年1月25日 樸句会特選句  冬ごもり硯にとかす鐘のおと                     益田隆久  山寺でつく鐘の音を、作者は硯の陸で墨を磨りながら聞いています。漆黒の濃墨が硯海の水に放たれてひろがりゆくさまに、おりしも梵鐘の余韻が重なり、それを「硯に溶かす」と感じたところ、じつに素晴らしい感性です。山寺は明六つ暮六つと鐘を突くことが多いので、きっとこれは、時の経つのも忘れて書に親しんでいた作者に聞きとめられた夕鐘でしょう。明窓浄几のこころもちのゆたかさ。                         (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

2022 樸・珠玉作品集

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2022 樸・珠玉作品集 (五十音順)     2023・新しいステージへ  コロナ禍の長いトンネル3年目に、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、グローバルなサプライチェーンは震撼させられました。国内は円安による物価高、出産数のさらなる激減、地球温暖化による天災の激増に見舞われました。  そうした社会環境に抗う思いは、しんじつの俳句に結晶し、ここに「2022年樸珠玉作品集」が誕生しました。安閑とした暖衣飽食の中ではなく、さまざまな鬱屈の中でこそ、俳句は力を持つのかもしれません。  昨夏から新たに、毎日新聞前主筆の小松浩さんと、芝不器男新人賞を受賞した田中泥炭さんという素晴らしい仲間を迎え、一番の若手、古田秀さんは全国俳誌協会賞を射止め、樸は新しいステージへ進みつつあります。   一句一句には、それぞれの作者の生まれる前からの蓄積が込められています。その人となりを知らなくても、十七音を一息で読んで共感できるのは、切れにたたまれた入れ子という俳句の余白の素晴らしさです。  当HPをご覧いただいておられる方との温かなつながりにも感謝し、心からお礼を申し上げます。本年もご指導のほど、どうぞよろしくお願いいたします。 恩田侑布子        猪狩みき   白き布濃淡のあり冴えかへる   点滴をはずせぬ母の残暑かな   ぐるぐると幼な描くや黒ぶだう 《句の作り方》    題が出されていなくとも、日々まわりをよく見て句を作っていれば句会の前日頃に慌てることもないだろうに、なかなかそうはできていない。これからはそうしたいもの(と毎年思っている)。  しかし、題が示されることで、その季語から思わぬ連想がわいたり、ずいぶん昔にあった、日頃思い出しもしないようなできごとやあるシーンが浮かびだしてくることがあり驚くことがある。制約があることが、かえって連想をとばせたり深まらせることにつながっているのだろう。  ゆとりの句作も苦しまぎれの句作も味わえる今年にしたい。        活洲みな子   日向ぼこ付箋だらけの句集抱き   病中のことは語らずマスカット   秋の蝶母は娘に還りゆき 《出会いの妙》    4年前、とある書店のエッセイコーナーに紛れ込むように並んでいた句集。偶然にもこの1冊に手を伸ばしたことが、私と俳句との出会いとなりました。句集は少しずつ増え、とうとう俳句のために新たな書架を部屋に据えたところです。12月には師の新しい句集も加わり、嬉しく読ませていただいています。あの時に1冊の句集に手を伸ばしていなかったら、俳句に親しむ今の私はいなかったのかも。つくづく出会いの妙を感じています。        海野二美   ままごとの今日のお菜はいぬふぐり   清流浴鮎に私にプリズム光   小さき露となりても消えぬ母心 《樸のこれからは・・》    昨年は主要メンバーの退会、転じて有望な新人の加入、また古田さんの度重なる受賞、ZOOM句会の開催と、変化の大きな1年でした。しかし昨今のデジタル時代に即した新たな飛躍も期待できます。  樸の皆様の俳句はバリエーションに富み、また恩田先生は個性を尊重し、幅広く評価してくださるので、毎回楽しく勉強させていただいております。  会計と致しましては、会費の前納が皆様のご協力で徹底できております事、ありがたく思っております。    金森三夢   職辞せる妻の小皺のあたたかし   菜園の薬味を選りて冷奴   荻の声水面に銀の波紋寄せ 《谷あり、谷あり・・・》    樸句会に参加させて戴き3年が経過しました。谷有り谷あり、ちょっと丘有り、又、谷底という3年でした。愚生は恩田代表が何度もおっしゃる「点数よりも自分の最高句を超えよ」を目指しつつも、提出3句の全てに代表のシルシ以上の評価を揃えたいという煩悩が捨てきれない凡夫です。今年は古稀です。句に爽風を吹き込み新境地を開けるよう精進したいと念じております。皆様どうぞお手柔らかに。    小松浩   古書市の裸電球文化の日   露霜を掠めて速きジョガーかな   大根の熱き中まで透きとほる 《背中を押されて》    1年前は、自分が句会に入って俳句を作る姿など、想像もしていなかった。ふと手にした本が導き手となり、気がついたら著者を囲む人たちの輪に自分もいる。水泳を習おうか逡巡していた少年が、いきなりプールに突き落とされ、必死で手足をばたつかせているような気分だ。でも人生の新しい道はいつだって、こんな偶然の出会いと、モノのはずみから始まるのかもしれない。背中を押してくれた樸の皆さんに、心から感謝しています。    島田淳   割れ残る氷探しつ通学路   卒業式音痴の友は右隣   斎場へ友と白粉花の土手 《自分の友との旅》    コロナ禍の前後から「断捨離」が流行している。モノへの執着を捨て、「不要なモノ」を手放すことでストレスから解放されるのだと言う。今年は「年賀状じまい」という言葉もよく聞かれた。自分に纏わりついている過去を整理しようという欲求なのかも知れない。  掲句はいずれも小中学校の友人達を念頭に詠んだ句である。纏わりついた過去どころか、記憶の奥底に沈んでいた情景である。それが十七音という形式と季語の助けを借りて、自分の中に蘇った。一読して決して立派な友人関係でない事がわかる。にもかかわらず、友人の通夜に一緒に行く友がいることが、自分にとって有り難く、幸せな事だったと再確認できた。句作は自己の内面への旅である。友の姿を句に映しながらその旅を続けられるのは、やはり幸せな事なのだろう。         芹沢雄太郎   サリーごと子ごと浴びたる春の波   水を打つまづガネーシャの眼前に   睡蓮をよけ水牛の浸かりをり  《インドの匂い/日本の匂い》    昨年よりインドに赴任し、インドの匂いに馴染むにつれ、日本の匂いの記憶が薄らいでいる気がします。そんな中、樸の仲間の句を国境を越えて読む度に、日本の匂いを鮮明に蘇らせてくれます。    田中泥炭   吾も亦祈らぬ一人白葡萄   とぢあはせ瞼に熱や藤袴   大未来その目前の鶏頭花 《捨てずに自由》    昨年は色々なことが起きた。まず長年勤めた職場を退職した。その後予期せぬ芝不器男俳句新人賞の受賞。受賞後に生じた迷いの中、矢継早にやってくる各種依頼…全て喜びであり、同時に試練となった。自分自身の迷いを晴らす為、環境を変える必要性を感じて樸句会に入会。句会では振るわなかったが、自身の俳句を一度引いた距離から眺め、そして再び認めることができた。珠玉集の三作品はいずれも句会では無点に近い句群であるが、俳句作者としての自己への認識、その過程が滲む句群である。特に『大未来』の句は筆者にとって昨年一番の成果だと感じている。そして今年は、書く前に措定される意味や内容を捨てず如何にそこから自由な空白地帯を精神的に持てるかが勝負だ…等とぼんやり思っている。    都築しづ子   白髪の頬に紅刷く初鏡   家猫の帰宅いまだし日脚伸ぶ   蕗の薹土もろともに渡しくれ         林 彰   からり、さくり、はらり、蕗の薹揚がる   戒名は不要と残し柚子ひとつ   ふぅふぅと大福茶こそめでたけれ   《嗅覚を巡って》    不勉強の筆者では僭越なのですが、歳時記を捲っていて、嗅覚がピクピクする句に、なかなか出会えません。そこで、「不許葷酒山門」ではないでしょうから、昨年最後の句会では、”ネギ臭さ”に絞り詠んでみました。体臭となれば、官能的にもなります。先生からは、「破礼句」、と御𠮟責を受けた句も思い出しましたが、嗅覚、さらに触覚を十七音に解放してみるのは如何なものでしょう?。我が国には、源氏物語の世界をオマージュした、香道、という室町時代から継承されてきた嗅覚芸術の伝統も存在します。    古田秀   おほぞらの隅を借りたる花見かな   花すゝき欠航に日の差し来たる   道聞けば暗きを指され烏瓜 《からさで》    足立美術館目当ての山陰旅行前日、そのとき樸の兼題が「神の旅」で歳時記をめくっていると隣の「神等去出の神事」の項が目に入った。読めば旅行初日の夜に松江の佐太神社で行われるという。その情報だけを頼りに現地へ行くと、提灯のあかりを頼りに冬の山を登ることとなり、沈黙の中儀式が行われた。    進むほかなし神等去出の灯をうしなへど  車を出してくれた友人に感謝。道中の放言を許してほしい。        前島裕子   掌にのる春筍のとどきたる   成田屋のにらみきまりし神の留守    戒名に父の来し方冬銀河 《今年は私の干支》   コロナ禍で始まったネット句会がなんとZOOM句会に。始まるにあたり、古田さんにはご迷惑をおかけしましたが、この齢でZOOM句会に参加できるなんて、あの緊張感、終わったあとの心地好い疲れ、いいですね。  昨年は、義弟と父を亡くし、淋しいかぎりです。今年は私の干支の卯年、とびはまねるまではいきませんが、勉強することはたくさんあります。頑張ります。    益田隆久   箒目のしら砂辿り神の旅   ロケットの打ち上がる空大根抜く   猫の目に落ちゆく眩暈星月夜 《私が俳句を始めたのは》    句をひとつ墓石の脇に刻みたい。世間へのアピールではなく、孫の涼玄が俳句に興味を持ち、おじいさんがどんな人だったか知って欲しいから。俳句をやっていると否応なく自己開示し、「はだかむし」の自分を見つける。「はだかむし」の中に好きな句がある。「茶の花のやうに語らひたき人よ」。私の墓の前で、孫に私の魂と語らひあって欲しい。    見原万智子   麻酔からとろり卯の花腐しかな   大南風屋号飛び交う浜通り   しやうがねぇ父の口真似十三夜 《誘惑》    命の扱い方(実際に起きたあること)が、五十年来の親友と全く相容れないという経験をした。親友は私が最も望まない方法を選び、私は打ちのめされた。心の井戸を覗くと、何やらマグマのようなものが昇ってきて十七の文字になった。詩が書けたかもしれないと初めて感じたが、それ以来、心の井戸から組み上げた水は煤の味がする。命の扱い方を文字にしたのだから仕方がない。ぐいと飲み干し、また掘り進んでいこう。    望月克郎   パリパリと氷砕いて最徐行   バレンタイン忘れて過ごす安けさや   炎天や駆け抜く子らの呵々大笑 《心を映す写真》    この1年の作句を振り返ると、(なんでこんな句を)と思う句は少なくない。自身が進歩した証としておこう。  それよりも戸惑うのは、(あの時あの状況でこう感じたのか?)と不思議に思える句に再会することだ。1年にも満たないほんの何カ月か前の句だ。その時の感性と、今のそれとは微妙に違うことに気づいた。  俳句は、その時その時の心を映し出した写真のような要素もあるかとも思えるこの頃である。    山田とも恵   たらればといふ砂を吐き冬の海   はらわたの波打つほどに息白し   茶の花とともに転がる今朝の夢 《駿府の街》  樸俳句会に参加してから、静岡市内の色々なところに連れて行ってもらった。歴史の深さゆえか、それとも富士に見守られ山と海に囲まれた地形のせいか、「安心」が土の下でごろ寝しているようで、世界が滅んでもあの街でなら変わらない日常を送ることができるような気がする。コロナ禍で句会がリモートになり、遠出を憚る日々が続き、静岡まで車で通うこともめっきりなくなった。時々無性にあの街に向けて車を走らせたくなるのは、何かから守ってもらいたいからなのかもしれない。       後記  2022年の樸会員珠玉作品集、いかがだったでしょうか。私が初めて句会に参加した昨年9月、恩田代表に言われたのが「自分不在の句はダメ」ということでした。俳句は人なり。たった十七文字にもかかわらず、余情を湛えたそれぞれの3句の背後に、いかに多様かつ豊潤な作者の心の世界が垣間見えることか。俳句とは驚くほど不思議な魅力に富んだ文学、詩であると思います。それを生み出す源泉が、あの自由闊達で民主的な句会の場。今年も楽しく、そして緊張感のある句会を一緒に盛り上げましょう。(小松浩)  

12月4日 句会報告

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2022年12月4日 樸句会報 【第123号】  近くの市立図書館に子どもたちの選んだ今年の漢字が掲示されていました。第1位は「楽」、第2位は「友」。様々な規制が少し緩んだだけなのに…コロナ禍が子どもたちにどれだけ多くの我慢を強いていたかを痛感しました。  今年4回目のZoom句会、兼題は「鴨」「冬紅葉」「大根」です。入選4句、原石賞6句を紹介します。 ○入選  戒名は父の来し方冬銀河                前島裕子 【恩田侑布子評】  戒名に刻まれているのはわずか数文字です。でもそこには父の一生が凝縮されています。戦中、戦後の筆舌に尽くしがたい災禍を生き抜いて、母と力を合わせて作者兄弟を育ててくれたなんとも慈愛深い父親像が浮かびます。荘厳な冬銀河の中に刻まれるのがふさわしい威厳のあるそして誰よりも愛しい戒名です。     ○入選  日向ぼこ付箋だらけの句集抱き                活洲みな子 【恩田侑布子評】  日向ぼっこしているとのんびりうつらうつらしかかるものですが、なんと作者は「付箋」をいっぱいつけた「句集」を抱いています。俳句に日々向き合う真摯さが香ります。よく味わってみると、「日向ぼこ付箋だらけの文庫抱き」では到底味わえない広やかさがじわじわ染み出してきませんか。付箋を貼られた俳句一つ一つ、が、それぞれの空間と時間を持って待っていて、眠りからこの世へ呼び覚ましてくれる人を待っているよう。なんと豊かな作者と読者との交歓の姿、温かな俳句人生でしょうか。       ○入選  大根の熱き中まで透きとほる                小松浩 【恩田侑布子評】  ふろふき大根、またはあっさりと白味魚などと炊き合わせた旨味の濃い白い大根を思います。面取りされたまんまるな輪切りのなつかしさ。三センチはあろうかという厚さは中心まで熱々で透きとほっています。ごく卑近な食べ物である大根の炊いたんに玲瓏の感を抱いたところ、句姿が美しい。一物仕立ての俳句は至難なのに、素直な実感がじわりときて美味しそうです。これ見よがしでない俳句を初心で作れるとは大したものです。       ○入選  抜糸後の痺れまじまじ冬紅葉                見原万智子 【恩田侑布子評】  「まじまじ」は 日本国語大辞典によると第一義は眠れないさまですが、第三に、「ひるまないではっきりと言ったり見つめたり見きわめようとしたりする様を表す語」があります。術後の麻酔が覚め、しばらく続いた痛みが引くと、今度は皮膚のひきつれたような「痺れ」が気になり出します。作者は気にならなくなる日まで、まずはこの痺れを前向きに受け止めていこうと決意します。冬紅葉の木立を歩きながら、わが人生が冬へ向かってゆくこれも一つの序章、華やかな紅葉の日々なのだと自分に「まじまじと」脳神経の覚醒を言い聞かせているのです。季語の冬紅葉がよく響く凛とした俳句です。さらに、これが「術後の痺れまじまじと冬紅葉」と書かれていたら文句ない特選句でした。       【原石賞】冬花火大往生の父たたふ                前島裕子 【恩田侑布子評・添削】  俳句の表現を云々する前に、立派なお父様の一生とご家族の愛情に脱帽します。日記なら「たたふ」でいいです。素晴らしい子の親への愛情です。俳句表現として練り上げるならば、 【添削例】遠き冬花火大往生の父 句跨りの音律に敬愛と悲しみを込めましょう。        【原石賞】温もりのきえてゆく父冬紅葉               前島裕子 【恩田侑布子評・添削】  終焉を迎えた父と冬紅葉の配合の句です。取り合わせではなく、終焉の姿を冬紅葉そのもの結晶化して差し上げたらいかがでしょうか。   【添削例】温もりのきえゆける父冬紅葉          【原石賞】葉も皮も大根づくし素浪人               見原万智子 【恩田侑布子評・添削】  内容に共感します。なかなかいいです。ただ「も」「も」の畳み掛けと「づくし」はくどすぎませんか。 【添削例】葉と皮の大根づくし素浪人 こうすると「素浪人」の措辞が効いて、脱俗の風流が感じられる素晴らしい俳句になります。       【原石賞】ロケット打ち上がる空よ大根抜く               益田隆久 【恩田侑布子評・添削】  内容には大いに共感しますが、リズムが悪いです。「打ち上がる空/大根抜く」と中七は名詞句で切れを作ると調子がよくなるばかりか、景もはっきり見えるようになり、冬の壮快感が出ませんか。 【添削例】ロケットの打ち上がる空大根抜く          【原石賞】国引や波は冬日をたゝみ込み               古田秀 【恩田侑布子評・添削】  島根に「国来、国来」と新羅の国の一端を大山を杭にして綱で引っぱった『出雲国風土記』に記された神話があり、国引きの伝説が残っています。弓ヶ浜から眺めた海でしょうか。その神のおおらかな国引き神話は掻き消え、近頃は隣国と冷ややかな感情が行き来しています。その現状を憂えるクリティシズム躍如たる句でもあります。「たゝみ込み」という複合動詞がやや説明的なので、畳みたりの連体形にして余白を残しましょう。 【添削例】国引や波は冬日をたゝんだる        【原石賞】影に添ふ冬の灯や紅鶴フラミンゴ               田中泥炭 【恩田侑布子評・添削】  ユニークな把握において今回随一の句です。作者は面白い感性を持っています。調べをととのえると幻想性が増しそうです。 【添削例】紅鶴ふらみんご冬ともしびに添ふる影    でも、これがもしも私の俳句なら「は」行の音韻を生かして、さらに幻想的にしてみたいです。   ひとかげに添ふる冬灯やふらみんご     ...

あらき歳時記 冬の海

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2022年12月21日 樸句会特選句  鑑真の翳む眼や冬の海                     金森三夢  唐朝の高僧は、数度に及ぶ難破や弟子たちの離反など、死線をさまよう苦難を乗り超えて、本朝に仏教者のふみ行うべき戒律を伝えた。その労苦を思いやる気持ちが「翳む眼や」の措辞に結晶している。光を失ってゆく鑑真和上の眼の翳りの底に白い波濤をあげる冬の海が時空を超えていま、我々の胸にも迫ってくる。芭蕉の名句、「若葉して御目の雫拭はばや」が入れ子になっていて味わい深い。                         (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

11月6日 句会報告

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2022年11月6日 樸句会報 【第122号】  ZOOM句会も3回目。参加者もこの形にだいぶ慣れてスムーズに句会が進むようになりました。兼題は「露霜」「文化の日」「唐辛子」。合評を交わすうちに、晩秋の空気をより感じられるようになった時間でした。  入選2句(2句とも同作者!)、原石賞5句を紹介します。 ○入選  露霜を掠めて速きジョガーかな                小松浩 【恩田侑布子評】  ゆっくりと朝の散歩道を歩いていると、背後からザッザッザッとジョギングの人に追い抜かれた。道端の草に置いた露霜など、意に介さない軽快なフットワーク。なんという速さ。たちまち取り残される。夜毎の露霜に磨かれた蓼の葉は色づき、芒はそそけてわら色だ。走る人には見えないものを、これからはじっくりと味わっていこうと思う作者である。   ○入選  古書市の裸電球文化の日                小松浩 【恩田侑布子評】  神保町では文化の日を挟む旬日、古書市が開かれる。毎年楽しみにしている作者は、収まらぬコロナ禍をついて出かけた。永年馴染んだ書肆から書肆を回っていると、あっという間に日が暮れた。店前からあふれた露店に裸電球が点りはじめる。まだまだ見たいものがある。  調べものもニュースも、あらゆる情報を電子画面から得る時代にあって、昭和の紙の文化への哀惜は深い。仮設の電線に宙吊りになった裸電球が、失われてゆくアナログ文化を象徴し、2022年の文化の日を確かに17音に定着させた。地味だが手堅い句である。     【原石賞】天を突く小さな大志鷹の爪               活洲みな子 【恩田侑布子評・添削】  畑の鷹の爪をよく見て、そこから掴んだ詩の弾丸は素晴らしい。表現上の瑕疵は「小さな大志」という中七にある。また「天」を目にみえる晩秋の高空にできれば、さらに句柄が大きくなる。 【添削例】蒼天を突くこころざし鷹の爪           【原石賞】露霜を摘まんで今朝は始まれり                望月克郎 【恩田侑布子評・添削】  露霜といえば、見るものであったり、踏んだり、歩くものであったりと相場が決まっている。この句がユニークなのは、かがみ込んで摘まんで、しかもそこから今日を始めたこと。「今朝は始まれり」ではやや他人事っぽいので、さらに主体的にしてみたい。 【添削例】露霜を摘まんで今日を始めたり      【原石賞】小さき露となりても消えぬ母心               海野二美 【恩田侑布子評・添削】  目の前の露となって、母の心が語りかけてくるとする感受が素晴らしい。でも、露といえば小さいものだし、「なりても」少しくどい。そこで、それらを省略し、「消えぬ」という否定形を「います」と顕在化してみたい。 【添削例】露となりそこに坐すや母ごゝろ          【原石賞】爪先で大地を掴み秋の雨               芹沢雄太郎 【恩田侑布子評・添削】  一読、インドの大地に降る秋の雨を想像した。そこに裸足同然に立つ人の姿も。「爪先」は女性的なので「足指」と力強くしたい。「大地を掴み」はひっくり返すと切れがはっきりする。 【添削例】足指で掴む大地や秋の雨          【原石賞】秋風や掌の色みな同じ               芹沢雄太郎 【恩田侑布子評・添削】  白、黄色、黒という皮膚の色の差はてのひらにはないという発見が出色。そこに斡旋した「秋風」をさらに一句全体に響かせるためには季語以外をひらがなにしたい。そうすると、地球上に隈なく秋風が吹き渡り、人類の手のひらや身体がひとしなみに草のようにそよぎ出すのでは。 【添削例】秋風やてのひらのいろみなおなじ          【後記】  「文化の日」という兼題は、とても難しい題でした。「文化」という語の抽象性のせいでしょうか。合評中に「文化、福祉、愛というような言葉には”はりぼて感“を感じてしまう」という発言があったのがとても印象に残っています。その語に”はりぼて感”を感じさせないような、実のある、実感のある使い方を見つけることが必要なのですね。抽象語を好み、使いたがる私には大きな宿題です。 (猪狩みき) ...

あらき歳時記 神の留守

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2022年11月23日 樸句会特選句  成田屋のにらみきまりし神の留守                     前島裕子  十一月七日、大名跡の十三代目襲名披露興行において、市川團十郎は伝来のお家芸「にらみ」で観客の厄落としをし、満場を唸らせたという。歌舞伎ではふつう見得といわれる芸だが、成田屋お家芸の「にらみ」は、東洲斎写楽の大首絵のような寄り目の独特の表情だ。それが「神の留守」という季語と思いがけないドッキングを果たして、文字通り見事に「きま」った。なんと賑々しく豪奢な神の留守であることか。                         (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

恩田侑布子第五句集『はだかむし』上梓のお知らせ

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 樸俳句会代表・恩田侑布子の第五句集『はだかむし』がこのほど、角川書店より刊行されました。奥付にある初版刊行日11月7日は久保田万太郎の誕生日、生誕133年の節目にあたります。この句集は、恩田が深く敬愛する万太郎へのオマージュでもあるのでしょう。  第四句集『夢洗ひ』(芸術選奨文部科学大臣賞受賞)から6年。2016年夏から2022年春までの作品から、371句を自選したものです。後半期のほとんどはコロナ禍ですが、恩田はこの間、自ら「天空の書斎」と呼ぶ自然豊かな自宅周辺を歩き、水音を聞きながら句作や選句にはげんだといいます。いくつもの川、石河原、小瀧、岩場。多くの俳句が「こうして水ほとりに生まれた」(あとがきより)のでした。  自然と一体化し、日本文学の美しさを潤いある言葉に溶かしこむ恩田の感性は、  足もとのどこも斜めよ野に遊ぶ  たましひの片割ならむ夜の桃  よく枯れてかがやく空となりにけり などの掲載句にも表れています。また、フランスや中国への旅を踏まえた  ブロンズの冬日セーヌに置いて去る  星屑に吊られてありぬハンモック などの海外詠、ロシアのウクライナ侵攻を受けた  筍であれよ砲弾保育所に といった戦争詠にも、その温かな人となりや、豊かで鋭い想像力がうかがえます。  句集名は、中国前漢の『大戴礼記(だたいらいき)』に拠りました。恩田によれば、はだかむしとは、毛も羽もない素っ裸の虫、それも陰陽のまじりけのない精を受けて生まれる人間のことだといいます。  うちよするするがのくにのはだかむし が末尾にあります。  恩田は今年4月、春秋社から『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』を出版し、各紙誌の書評で高い評価を受けました。それに続く今年2冊目の著書が、この第五句集です。句作に、指導に、講演に、著書出版にと、ますます旺盛なエネルギーをみせる恩田の魅力がいっぱい詰まった句集『はだかむし』。ぜひお手にとってお読みください。 (樸編集長 小松浩)

恩田侑布子代表講演「『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き (10/29)」を聴いて

講演感想_前島さん

樸会員 前島裕子、島田淳の聴講記    北斎の画中の人になりかわって 十月二十九日。延期になっていた現代俳句講座−『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き−に出かけた。 久しぶりの東京、新幹線、山手線、地下鉄、都電と乗りつぎ、ゆいの森あらかわへ。  そしてそこに足を踏み入れたとたん、驚きです。大きな図書館、こういう所はテレビでは見ていましたが実際に入るのは初めて。一階にホール、二階には吉村昭の文学館、エレベーターで三階につくと目の前に現代俳句センターが。天井までの書架に句集がびっしり、俳誌もたくさんある。あわただしく館内を一まわりして会場へ。  「ゆいの森ホール」が会場です。正面の大スクリーンに今日のタイトルが写し出されていた。いよいよ先生の講演が始まり、進行して北斎の話になると、スクリーンに「富嶽三十六景」より、「青山圓座松」「神奈川沖浪裏」「五百らかん寺さざゐどう」が次々大写しになった。おいおい本物はB4サイズよ、両手に持てて、じっくりながめるのがいいのよ。こんなに大きくして持てないよ。 いや待て、これだけ大きければ舟にも乗れる笠をかぶった坊やの後からついていける、欄干にも立てる。これが入れ子、なりかわり、なのか。一人スクリーンの中に入りこんだような不思議な気持ちになりました。 今でもあの三枚の浮世絵の大写しが、目にうかんできます。 また質疑応答のコーナーでは思わず「是非樸に見学にいらして下さい」とさそいたくなる場面もありました。  講演が終わり、聴講できた興奮と充足感。 そこもだけど、ここをもっと聴きたかったというところもありましたが、講演できいたことをふまえ、再度読み、深めていこうと、思いながら帰路につきました。 ありがとうございました。 (前島裕子)   「第46回現代俳句講座」(主催:現代俳句協会)に参加して 今年8月6日の毎日新聞書評欄で、演劇評論家の渡辺保氏は恩田侑布子『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』の書評を、「斬新な日本文化論が現れた」の一文から書き起こしました。そして、著者による名句鑑賞を引いて、「近代の合理的な思考から、日本文化を解放して」「目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養う」と述べています。 今回の講演は、日本人の美意識の源流を辿る壮大な物語のエッセンスでした。 主体と客体が「なりかわる」描写、単一の意味でなく多面的な「入れ子構造」、『華厳経』の蓮華蔵世界さながらのフラクタルな世界観。こうした日本人の美意識を、俳句にとどまらず葛飾北斎の浮世絵、近代詩、万葉集から古代中国の「興」へと自由に往還しながら説き明かしていきます。 「興」に淵源を持つ「季語」によって詠み手と受け手の間に共通のイメージが広がり、「切れ」によってそのイメージを自分の現在ある地点に結び付ける。こうした構造がある事によって、俳句はたった十七音で詩として成立するのだと得心できました。 『渾沌の恋人』は、自宅そばの猪の描写から古代中国の『詩経』へなど、現代から一気に過去の時代に跳んだりする場面が多くあります。最初は戸惑いましたが、こうしたタイムワープが可能なのは、おそらく現代は古代と切り離されたものではないからなのでしょう。古代人の感情が現代のわれわれのそれと大きく隔たってはいないからこそ理解可能なのであり、それを仲立ちするのが「興」にルーツを持つ「季語」なのでしょう。言い換えれば、風土に根ざした共同体の共通認識だからこそ、時代を超えて受け継がれていくのだと。 また、古今の名句を声に出して詠むことの素晴らしさ、大切さも再認識しました。「五七五(七七)定型は、日本語の生理に根ざした快美な音数律」とレジュメにありましたが、実際に古今の名句を耳から聴くことでそれを実感することができました。 階段状のホール最上段でも聴きやすい明瞭な発声、落ち着いた抑揚、「切れ」をきちんと意識し微細な緩急のある速度。五音七音の調べに身を委ねる心地よさは、定型の俳句が紛れもなく十七音の詩であることを身体感覚として理解させてくれました。 講演終了後、冒頭に引用した渡辺保氏の「目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養う」という文章を思い出しながら、夕暮れの町屋駅前に向かったのでした。 (島田 淳)