「2022」タグアーカイブ

朝日新聞 (6/25)「折々のことば」にて『渾沌の恋人ラマン』をご紹介いただきました

候補5

本書より「自分がこの世にいなかった、、、、、世界は、あんがい気持ちよかった。」という一文を引用され、『死が「わたし」という幻の解消だとしたら、人は「死ねばこの世になる」ということ。』と鷲田清一氏がご紹介して下さいました。厚くお礼申し上げます。

あらき歳時記 残暑

ホルマリン漬

2022年8月24日 樸句会特選句   初戀のホルマリン漬あり残暑                   見原万智子  もしも「ホルマリン漬の初恋残暑かな」だったら、どうなったか。初恋の標本というやや鬱陶しい思い出に過ぎなくなった。「初戀のホルマリン漬」はいい。生き返らない永遠がざんこくなほどに保障されている。しかも座五に置かれた残暑が重くひびく。若き日のかがやかしい実質が永く保存され、しかも西日のさす八月の標本室。読みとれる心情は単純ではない。ありありと容は残り、それを隔てるホルマリンも液体とガラス瓶。作者だけが生身。しかも秋暑しである。                         (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

あらき歳時記 蝙蝠

母の恋・紫

   2022年8月7日 樸句会特選句    母の恋父は知りたり蚊喰鳥                   見原万智子  家族の中で完結しない恋愛感情はできれば知りたくないもの。父母のよその異性への恋を子が知ることは気持ちの良いものではない。ましてや父が母の別の男性との恋を知っていて、それを子が理解しているとは複雑だ。俳句を生かすも殺すも助詞助動詞のはたらきである。この句の「は」と「たり」は渋い。父に知られていることに、まだ母は勘づいていないよう。完了の助動詞「たり」で切れ、もう一歩も後に引けない。「知ってしまったのだよ」という含意がこもる。止めに置かれた「蚊喰鳥」は蝙蝠よりも細かく隠微に蠢き羽ばたく。その不気味な感触。  いうまでもなく俳句という詩である。作者のご両親は比翼の鳥。御母堂は遺影の前で三度の食事を召し上がる。いい俳句は必ずしも公序良俗から生まれるというわけではない。                 (選 ・鑑賞   恩田侑布子)  

あらき歳時記 噴水

歳時記「噴水」候補1

  2022年7月27日 樸句会特選句     寄港地の噴水へ手をかざしけり                    田村千春  日本や世界を一周とまではいかなくても、時間のたっぷりした周遊の船旅である。まだ見ぬ港に船体が静かに入ってゆくときの心躍り。作者はしばしばその見知らぬ街の歴史を訪ね、くつろぎ、土地の心づくしの饗応に預かったのだろう。やがて乗船の時刻が近づいてくる。ひと時の風光を愛でた街、名残惜しい公園に噴水が涼しげに上がっている。もう二度と再びこの地を踏むことはないだろう。そう思った瞬間、ひとりでに「噴水へ手をかざし」ていた。永遠に若く美しい噴水に向かって、さようならをしたのだ。初めての遠い土地の噴水へのいつくしみは、ゆきずりのひとの真心にふれた遠い日の記憶も誘う。過ぎゆくものへの清らかな哀惜。                       (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

あらき歳時記 炎天

歳時記「炎天」候補3

2022年7月27日 樸句会特選句   炎天や糞転がしの糞いびつ                    芹沢雄太郎  恐ろしいまでに青い炎天。見れば乾ききった大地に一匹の甲虫が糞を転がしている。スカラベだ。古代エジプトでは、獣糞を球にして運ぶ姿を、太陽が東から西に運ばれる姿になぞらえ、太陽神の化身として崇めたという。その再生の象徴は彫刻として今に伝わる。が、この句のスカラベは美術館や土産物屋に置かれた死物ではない。作者の立つ大地に生きて眼前している。その証拠に、糞転がしが取り付いている糞はまだ丸くない。「いびつ」だ。歪んだ糞を日輪の球体になるまで全身で必死に転がしてゆくのだ。紺碧の炎天の一点になるまで。                         (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

6月22日 句会報告

2022.6句会報上

2022年6月22日 樸句会報 【第117号】 樸俳句会のメンバーの中には、連れ立って、兼題の季物を見に出かける方も。たとえ本命に巡りあえずに終わったとしても、他の句材を得たり、さらに友情を深めたり――そうした裏話を伺うたび、あらためて俳句の素晴らしさを思います。コロナ禍でつい家に籠りがちになりますが、やはり季語の現場へ繰り出し、五感をフルに躍動させてこそ作品に命を吹き込めるのですね。 兼題は「夏の川」「亀の子」「夏木立」です。 入選1句、原石賞2句を紹介します。 ○入選  屋久のうみ亀の子月と戯れる                林彰 【恩田侑布子評】 屋久島の夜の海辺で目にしたさりげない光景です。やさしいしらべは凪いだ海さながら。屋久杉の生い茂る円かな島にひたひたと打ち寄せる藍色の海。波間には月光が散らばり、亀の子がやわらかな手足を伸ばしています。それを「月と戯れる」と把握し、うたいおさめたところに虚心な詩が生まれました。旅先のくつろぎのひととき、肩から力の抜けた小スケッチが永遠に通じています。     【原】底に臥し太陽見上ぐ夏の川               鈴置昌裕 【恩田侑布子評・添削】 プールで泳ぐより、川泳ぎが好きな人の俳句。静岡県下の河、安倍川、藁科川にはじまり、大井川、天竜川、富士川で泳ぎまくった少女時代を持つ私は大いに共鳴します。同時に、老婆心ながら「太陽見上ぐ夏の川」はゲームばかりしている現代っ子には一生詠めないのでは、と心配になります。川底の清らかな砂礫に腹を擦り付けるように潜り、そこから反転して浮かび上がる刹那にきらめく太陽の光こそ夏の醍醐味です。添削したいのは上五「底に臥し」の硬さです。 【改】潜りこみ太陽見上ぐ夏の川 【合評】 水面を透かして見る陽光にうっとり。 私の住む町の川は市民から親しまれているが、夏には水量が極端に減り、岸でバーベキューというのが定番。この「夏の川」はどんな状態なのか、「底」にどう寝ているのか、原句ではわかりにくい。     【原】還暦の洟たれ小僧夏河原               林彰 【恩田侑布子評・添削】 ちょうど還暦を迎えた作者でしょう。六〇歳は、壮年期の終わりを告げられるようで、今までの誕生日とはちょっと気分が違います。しかし作者は、俺はまだ「還暦の洟たれ小僧」にすぎないと言い聞かせ、夏河原をほっつき歩いています。このままでも十分気持ちは伝わります。が、たった一字の助詞を変えるだけで、「俺」という自意識から解放され、句柄が大きくなります。季語も生きてきます。 【改】還暦は洟たれ小僧夏河原 【合評】 こういう自虐めいたことを言える還暦の大人になりたいです(笑)。私は三八歳ですが、十代の記憶を持ったまま還暦になるような気がします。 傍題の「夏河原」を選んだのがいいですね。具体的な場所に自分を置き、客観視している。   今回の例句が恩田によってホワイトボードに記されました。 なお、最後の句(付)は兼題そのものではなく、「夏の川を詠んだ」作品として紹介されています。     亀の子  子亀飼ふ太郎次郎とすぐ名づけ               皆吉爽雨    夏木立  夏木立伊豆の海づらみえぬなり               大江丸  井にとゞく釣瓶の音や夏木立               芝不器男     夏の川・夏川・夏河原  夏河を越すうれしさよ手に草履               蕪村    付  渓川の身を揺りて夏来るなり               飯田龍太 【後記】 入選句について「気負いのない作品の良さ」が話題になりました。愛唱句の条件でしょう。万人に愛されるといえば、前回の句会報の後記で取り上げた「馬ぼく/\我をゑに見る夏野哉」。ふうふう息をつきながら馬に揺られている作者・芭蕉翁が浮かんで、微笑みを誘われます。実は縦書きで紹介したかったのですが、この句会報はスマホに合わせているので、ほとんどが横書きです。最近買った本、『松尾芭蕉を旅する:英語で読む名句の世界』では、著者ピーター・J・マクミラン氏が以下のごとく英訳していました。   Ambling on a horse through the summer countryside― Feels like I'm moving through a painting. これなら横書きがふさわしい、芭蕉の旅がアップデートされたように感じます。ところで俳句はなぜ縦書きなのでしょう。思わず膝を打ちたくなる答が、恩田侑布子の新著『渾沌の恋人(ラマン):北斎の波、芭蕉の興』に載っております。ぜひ、ご一読のほど賜りますよう。 (田村千春) 今回は、入選1句、原石賞3句、△4句、ゝ7句、・7句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) =============================  6月5日 原石賞紹介 【原】清流浴鮎に私にプリズム光                海野二美 【恩田侑布子評・添削】 「森林浴」という言葉があるので、「清流浴」と言ってみたくなったのでしょう。しかし、「鮎」は清流にしかいない魚ですから、念押しは野暮です。それに引き換え中七以下「鮎に私にプリズム光」は素晴らしいフレーズです。清流に潜った人の臨場感あふれる措辞です。ここを最大限生かすには、上五はあっさり動作だけにする方がいいです。それこそ清らかな水と一体化する感じがしますよ。 【改】泳ぎゆく鮎にわたしにプリズム光    【原】野糞すや旱の牛に見られつつ               芹沢雄太郎 【恩田侑布子評・添削】 「旱の牛」で野外ということが十分にわかります。「野糞すや」は俳諧味を狙ったとしても強烈でくどいです。「くそまる」といういい措辞があります。 【改】糞りぬ旱の牛に見られつつ こうすれば、恥ずかしさと、開放的な気分がともに表現されます。旱の牛との共生感覚が立ち現れ、光彩陸離たる野糞のインド詠に早変わりです。  

恩田侑布子「あきつしま」二句を巡って 角川『俳句』2022年6月号特別作品「土の契り」21句より 

鑑賞文用(富士と桜)

恩田侑布子「あきつしま」二句を巡って 角川『俳句』2022年6月号特別作品「土の契り」21句より  芹沢雄太郎      あきつしま卵膜ならんよなぐもり    一読、恩田の第四句集『夢洗ひ』所収の一句を思い出す。  あきつしま祓へるさくらふぶきかな    あきつしま(秋津島・秋津洲)とは古事記や日本書紀にも登場する言葉で、大和国、そして日本国の異名である。 古代の人びとにとって、あきつしまは世界にある一つの島国ではなく、全世界そのものであったはずだ。 「さくらふぶき」の句を読むと、そんなあきつしまに生きる人びとが、桜吹雪を眺めているうちに、桜吹雪が神に祈ってけがれや災いを取り除いてくれているのではないかと感じている、そんな光景が浮かび上がってくる。 また一方で、桜前線が次第に北上し、日本全土を次第に浄化していくというイメージは、テレビなどを通して日本を俯瞰して眺められるようになった現代的な光景とも重なる。 古代から現代に続く人びとの営みは大きく変化したかも知れないが、桜吹雪を前にした時の祈りに似た気持ちは、きっと変わらずにいるのだろうと、強く思わせてくれる俳句である。    今回の「よなぐもり」の句は、「さくらふぶき」の句からさらに進んで、日本とそれを取り囲む周辺諸国との関係を感じさせる一句である。 この句の「よなぐもり(=黄砂)」からは周辺諸国からの不穏な足音が聴こえ、それに対する日本のあまりにも無防備な姿は、まるで現代日本の情勢を象徴しているかのようだ。 また「あきつしま」「よなぐもり」というスケールの大きい言葉をぶつけながら、間に「卵膜」という言葉をはさみ、包み込むことで、この句は一気に身体的な実感を帯びはじめる。 時間軸に対する一瞬性と永遠性、空間軸に対する鳥瞰的な空間の広がりと虫瞰的な身体性、そういった相反するものが渾然一体となった恩田侑布子の俳句に、私は強く惹かれている。

『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』書評陸続!①

書評用1

『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社2022年4月19日刊) 多くの書評に浴しました。心から厚くお礼申し上げます。  ◎荒川洋治氏(現代詩作家)推薦! 帯文  詩歌の全貌を知るための視角と、新しい道筋を、鮮やかな絵巻のように描き出す。重点のすべてにふれてゆく、大きな書物だ。 ◎小池昌代氏(詩人) 日本経済新聞朝刊 5/21 「俳句に『詩』の奥義を求めて」  ともすれば、今一つ身に落ちてこない翻訳批評言語を駆使した文学批評の檻おりから、詩を、生きたまま、救い出してくれたような一冊だと思った。(中略)  著者の探究心は意外なものを次々手繰り寄せ、読者は知の渦に巻き込まれる。批評の根底には愛があった。言葉にすると平凡だが、それを感じさせる本に久しぶりに出会った。 ◎渡辺祐真氏(書評家) 毎日新聞夕刊 5/25  芭蕉や北斎を通し、(人を超えた)何かに思いを馳せる見事な芸術論である。…何よりも論を支えているのは、著者の祈りにも似た敬虔な気持ち、そして自己と他者、合理と非合理、彼岸と此岸といった対立を大胆に跨ぐ度量だ。 ◎三木卓氏(小説家) 静岡新聞 5/30 「日本文化の『興』と『切れ』」   一口でいうと、これは日本文化論であり、俳句論ということになるだろうが、しかしありきたりのものではない。…実力が噴き出している力作である。題名の「渾沌の恋人」とは、多文化のカオスから咲きつづけ、発展しつづけて来た日本の文学、文化への愛のあらわれだろう。 ◎福田若之氏(俳人) 「現代詩手帖」 6月号 「数寄屋の趣」  語り口の鮮やかさにも、その美意識がふんだんに感じられる一冊だ。   ☆松本健一先生の愛弟子、脇田康二郎さんから出版祝いの花束を頂きました。沖縄の空の香りをありがとうございます。       ※本書の詳細はこちらからどうぞ