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2023 樸・珠玉作品集

誰も隠しもつ冬麗のふくらはぎ

2023 樸・珠玉作品集 (五十音順)     いつぽんの草木  俳句というゆたかな山に登ろうとするとき、一人では薮に突っ込んだり、ふもとの出湯に浸かりっぱなしになったりしがちです。私は、それぞれの脚力を信じて、「俳句山岳ガイド」をさせていただいております。  「樸」はしらき。山から伐り出した原木です。何にでもなれる可能性のかたまりです。樸の連衆は、生い育った環境、精一杯努めている仕事や家庭、愛好する書物や芸術、そうしたみずからの豊穣の根もとを踏まえて、たったいま出会う風光と火花を散らし、一句をひと茎の草花やいっぽんの木のように、大空の下に立たせようとします。  樸から生まれた俳句が、まだ見ぬやさしい人に迎えられ、ほのかなぬくもりでつながれますように。今年も胸ときめかせ、深い山に登ることができますように。恩田侑布子(2024年1月15日)        天野智美   花朧坂の上なる目の薬師   べつたりと妖怪背負ふ酷暑かな   秋の苔弱き光をこはさぬやう 《二年ぶりに樸に復帰して》    好きなことや逃げ場はたくさんあればあるほどいいというが、家族の問題に振り回され不安を感じない日がないこの一年、なんとかこちら側に踏みとどまっていられたのは、俳句が知らず知らずのうちに足首を掴んでいてくれたからかもしれない。樸に復帰しなかったら、ささやかでも心震わせてくれるものにこんなに目を向けられただろうか。綱を投げてくれた俳句と樸に感謝を。     猪狩みき   しめ縄の低き鳥居に春の風   卯波立つ廃炉作業の発電所   楡新樹望みを抱くといふ勇気 《興味のありか》    植物や動物の兼題が出るたびに、自分が動植物にほとんど興味を持たずに生きてきたことをつくづく思い知らされる。海も山もごく近い田舎に育ったのに、なぜかそうなのだ。(例外は「木」。木の姿かたちと木の奏でる音が好きで興味あり。)俳句の楽しみを増やすためにも、動植物と、もっと親しくつきあえたらいい。と同時に、これまで自分が興味をもって向かい合ってきたもの、ことを俳句につなげられたら、とも思っている。        活洲みな子   父母は茅花流しの向かう岸   読み耽る昭和日本史虫の闇   枇杷の花いつか一人となる家族 《旅と私》    私はよく旅をする。所々に拠点を置いて、ゆったりと旅をするのが好きだ。俳句を学ぶようになり、旅の楽しみがさらに広がった。九州では祖母山の雄大さと神聖な雰囲気に息をのみ、東北では何もない淋代の浜に佇んで句に想いを馳せた。四国遍路の難所二十一番札所へ向かうロープウェイからは、修験の場である山々を眼下に見て、場所は違えどなぜか「葛城の山懐に寝釈迦かな(青畝)」の句が頭を離れなかった。  それでも私は、旅行中は句を作らない。目の前にある今を百パーセント楽しむのが私の遊びの流儀…なぁんて、まだまだ未熟者ということですが。        海野二美   在の春すする十割そば固め   お薬師様見下ろす村に花吹雪   長旅の蝶の夢かや藤袴 《強さとは・・》    皆様にお見舞いいただきました類焼から4カ月。穏やかに元気に過ごしてまいりましたが、食欲も出て抜け毛も収まって来た3カ月過ぎた頃から、感情が元通りに癒えて来たせいなのか、悔しく悲しく、酷く落ち込んでおりました。しかし、くよくよしていても一日、明るくしていても一日と自分を励まし続け、何とか立ち直りました。まだまだ落ち着かない日々が続きますが、これからも自分の強さを信じ、前に進もうと思っています。隣りにはいつも俳句を携えながら・・。      金森三夢   鑑真の翳む眼や冬の海   枯れ尾花わたしのことといふ佳人   ヤングケアラー菜の花の土手見つめたる 《出戻り致します》    「出戻りは三文の価値なし」と言われます。愚生恥ずかしながら新年より句会に戻らせて戴きます。  八月の手術前から『永遠』の二文字が出来損ないの心と頭に浮遊しています。青空を見つめながら「この空をネアンデルタール人も眺めていたのか? 私の死後の未来人も・・・」。少しずつ肩慣らしするつもりです。ウォーミング・ダウンになりませぬよう、何卒宜しくお願い致します。     岸裕之   五月雨の垂直に落つ摩天楼   碌山の≪女≫漆黒新樹光   病葉の猩々みだれ舞ふ水面 《今思ふこと》    私の先祖は秀忠・家光の久能山東照宮、静岡浅間神社造営の際、全国から優秀な職人を集め、気候が良いので、住み着いた漆塗りの職人の末裔と伝わってます。私で八代目ですが、初代は町奴でもあり、眉間に傷があり、岸権次郎こと「向こう傷の権さん」といったそうな。この権さん、坊さんの女関係のトラブルを纏めて一人だけ戒名が良いと伝わっている。で、職人を継がなかった負い目があるので、せめて俳句は職人の美学である「粋」な俳句でも作ろうと今思いました次第です。    小松 浩   酢もづくの小鉢に海の遠さかな   銀漢や調律終へし小ホール   警笛に長き尾ひれや熊渡る 《大リーグボール養成ギブス》    入会して1年余、たくさん基本を教わった。「知識で作るな」「報告句や説明句はだめ」「季語の本意を大切に」「時間の経過ではなく一瞬を詠む」「気持ちをモノに託せ」云々、云々。いちいち照合しながら俳句を作ろうとすると、大リーグボール養成ギブス(ご存知ない方は「巨人の星」「星飛雄馬」で検索を)をはめたようで、頭はギクシャク、指先はがんじがらめになってしまう。かといってこれらを脇に置けば、やっぱり駄句しかできない。  心を自由に飛翔させ、それでいて基本のしっかり染み込んだ句。そういうものをいつか作れたらいいなあ。      坂井則之   家継げり障子洗ひも知らぬまま   二親の去りし我が家に帰省せり   あし鍛ふいま一度富士登らんと 《初心者の苦弁》    2023年春から参加させていただきました。  その暫く前、恩田先生の一つ前の評論集(2022年刊)の校正をお手伝いさせて戴いてからのご縁でした。 (私は先生の高校の4年後輩に当たります)  今は年金給付を待つ隠退者ですが、現役時代の殆どは新聞社で編集部門、原稿内容や紙面を点検する校閲の現場にいました。経験がご著書のお役に立てたならとても光栄なことだと思ったことでした。  いま[樸]に入れて戴いた後、俳句とも言えないものしか書けていません。先生から「(お前は)頭が散文支配になっている。俳句にはそれと異なる韻文の感覚が要る」との叱責を、何度頂戴したか判りません。句会でも、先生からお点を戴けたものは幾つもありません。我が身を省み、先の厳しさ感が拭えないのが現状です。[自選]は、お点を辛うじて頂戴できたものから挙げさせて戴きました。(先生添削あり)    佐藤錦子   蜜月も悲嘆も誰も往く銀河   秋うらら桂花の菓子を頬張れば   疵あまた無骨な柚子よ宛名書く 《旅の途中》    歩く旅が好きだ。歩けば元気。そう信じ背中を突き飛ばし自分を外へと送り出す。パルシェの講座もばしんと背を叩き今春より受講のち樸の会員に加えて頂いた。出会いに恵まれ有難く思う。  句会では、分からない用語が行き交う。感覚をどう掴み自家薬籠中のものとするか。苦悶が始まったところだ。  歩く旅なら3日目あたり、足裏にまめの出来た頃。今しばらくはその痛い足で歩み続けようと思う。  樸の皆さまどうぞよろしくお願い致します。    島田 淳   花南天兄にないしょの素甘かな   引越の最後に包む布団かな   菜の花の果てを見つけて人心地 《鑑賞という名の対話》    恩田代表の鑑賞文を読むと、自分では思いもしなかった指摘にギクッとすることがある。 愚句に対しても、他の方の句に対しても、作者すら自覚出来ていなかった意味や思いを掬い取って、より明確な表現で提示してくれる。  それは、『渾沌の恋人(ラマン)』や『久保田万太郎俳句集』でも見られたものであり、句だけでなく社会的背景や境遇にまで気を配った鑑賞である。 最初の句では、慎ましく地味な南天の花と庶民的な菓子である素甘、それをこっそり食べる小さな背徳が響き合う様を鑑賞文の中で描き出していただいた。  「お兄さんばっかりずるい!」という被害感情を常に秘めている末っ子の気分を、句の中から見事に掬い取ってくださった。  二番目の句は、愚句「転居の日蒲団最後に包みけり」を恩田代表が直してくださった。布団を包むという動作ではなく、梱包された布団そのものにフォーカスを当てることで、引越準備が完了したことをより明らかに示している。「うむ、準備完了」と言う自分の感慨が甦るようである。  最後の句は、愚句をそのまま掲句とした。恩田代表には、添削例として「菜の花の果てに来りぬ人心地」と直していただいた。  これは、俳句の問題ではなく人生観の問題なのだろう。延々と続く菜の花畑の果てらしきものが見えたくらいで気を抜いてはいけないという戒めなのかと受け止めた。果てまで辿り着いて初めて、ある意味病的なモノトーンの世界から人間らしい生の実感を取り戻せるのかも知れない。  私が定年を迎えるのは、来年の夏である。         芹沢雄太郎   春の鳥五体投地の背に肩に   磔の案山子の頭ココナッツ   道迷ふたびあらはるるうさぎかな  《インドのひかり/日本のひかり》    インドで暮らし始めてもう少しで2年になります。季節を二回廻ったことで、だんだんとインドの微妙なひかりの移ろいと、日本のひかりとの違いを感じるようになってきました。今年はそのひかりをこの手で掬い取り、句という形にとどめてみたいです。      田中泥炭   人類に忘却の銅羅水海月   耳鳴のいつでも聴けて稲の花   隠沼にあすを誘ふ栗の花 《実戦の年に》    普段色々な事を考えているはずだが、いざ書くとなると全く思いつかない。そこで昨年は何を…と覗いてみると「書く前に措定される意味や内容を捨てず如何にそこから自由な空白地帯を精神的に持てるかが勝負だ」と書いていた。なんと肩に力の入った内容だと我ながら思うが、この内容を今でも信頼できるのは良い事だろう。来年は実践の年にしたい      都築しづ子   切り貼りは手鞠のかたち障子貼る   初夏やタンクトップにビーズ植う   牡蠣フライ妻と一男一女居て   《師の事 樸句会の事》    いつも思う事だが 師の選評により句に新しい世界が生まれる。平凡な句に詩が生まれる。こんな師にめぐり会えた幸運に感謝、感謝である。  そして、樸の会員の皆様の感性溢れる句に老体は打ちのめされる。しかし、しかし、私はまだ俳句をあきらめられ無い。病と折り合いをつけながら 此れからも作句を続けたい・・・。  この文を記しているうちになんだか元気になってきた!    中山湖望子   鴨鍋や湖北の風が鼻を刺す   夏の月うさぎも湖上走りけり   仏壇に手合わす子らや柏餅 《俳句〜日本という方法の神髄》    俳句は手ごわい。ゴーリ合理で進めてきた私はグローバル資本主義とコンプライアンスに絡まった社会にどう考えても行き詰まってしまい、辿り着いた一つが俳句だ。  観察、見立て、連想や影向などを駆使しようとするのだがまったく心が固まってしまってイメージが動かない。散文になったりくっつきすぎたり、ぽちょんすら一つも付かない句会のなんと多いことか。そのたび感性の無さに、言語表現の貧相さに呆れてしまうのだが、石の上にも3年。五感で取り込んだ電気信号が通う脳内ニューロンの新たな回路ができるまでは粘り続ける覚悟です。       成松聡美   柚子青し手帳今日より新しく   きれぎれに防災無線山眠る   鍋焼吹く映画の話そつちのけ   《初心者を楽しむ》    句集などめくったことすらなかった私が、ふと思い立って俳句を学び始めて九か月。樸に入会して三か月。現在、自分がどちらを向いているかも不確かな迷路にいる。何事にも始まりと終わりがあり、この頼りなさもいずれ消えてしまうのだとすれば、今は『初めて』を存分に満喫したい。初学者ゆえに許される無知や無作法をくぐり抜けた先に何が待っているのかは知らない。ただ、少しずつ増えていく本棚の句集や月二回の句会が生活の句読点になりつつあるのは確かだ。初心者である自分を面白がりながら、行けるところまでのろのろ走ろう。そう決めている。    林彰      最高裁「諫早湾開門せず」      海苔炙る有明海を解き放て   沢登り桃源郷あり幣辛夷   深く吸ひゆっくりと吐く去年今年      古田秀   シャンデリア真下の席の余寒かな   うぐひすや渦を幾重に木魚の目   テレビとは嵌め殺し窓ガザの冬 《融》    冬の初めに金沢へ旅行に行った。輪島漆芸美術館で出会った鵜飼康平さんの『融』に目を奪われた。真柏の湾曲した枝に朱の髹漆を施し、異なる質感が融けあいながらも互いに存在を強めている。俳句は徹頭徹尾言葉しかないから、どんなモノでも提示して操作可能だ。その一方でモノを強く存在せしめている俳句がどれほどあるだろう。来年もそんな俳句を希求したい。        前島裕子   菜の花や家々ささふ野面積   スマホすべる付爪のゆび薄暑光           岡部町、大龍勢        先駆けの子らの口上天高し 《外にとびだそう》    私の干支、卯年も残すところわずか。  少しはとびはねようとしたのですが、思うようにはいかないものです。  Zoom中心の句会でしたが、吟行会が春と秋二回行なわれた。大空の下、ゆったりとよく観、想像をふくらませて、作句。句会でしか会ったことのない仲間と、自然のなかでの交流。いい時間を過ごすことができました。  コロナも一段落した様子、家にこもっていないで、外にとびだし新しい発見をしよう。    益田隆久   露の玉点字の句碑に目をとづる   空蝉はゆびきり拳万の記憶   冬ごもり硯にとかす鐘のおと 《村越化石さんの原稿用紙》    藤枝市蓮華寺池公園の文学館に、村越化石さんの手書きの原稿が展示されている。  既に両目共失明していた。原稿用紙の升目を決してはみ出さない。一文字ごとに正確に丁寧に書かれている。見ていて泣きたい気持ちになる。一つ一つの文字に命が宿っている。俳人とは文字を大切にする人ではないか。永田耕衣さんは、労災事故で右手を損傷し左手で書いていた。棟方志功画伯は絵に入れる文字は永田耕衣さんに頼んだ。上手い下手を超越した何かを感じたのだろうか。村越化石さんの手書きの原稿を見てそのことを思い出した。    見原万智子   フライパン買はむ極暑の誕生日   形見分くすつからかんの菊日和   星なき夜熊よりも身を寄せ合はす 《穴があったら入りたい》    涙が出るほど心が動いた誰かとの会話を俳句にしたとする。しばらくして季語が動くと気づく。だが、会話した季節の季語なので大切にしたい。  しばらくしてまた気づく。相手は話を切り出すまで何ヶ月も前、別の季節の頃から逡巡していたかもしれない。長い間、季節があってないような気持ちだったかもしれないではないか。最初の涙は心が動いたことへの自己陶酔?   穴があったら入りたいが、俳句に出会わなかったら、自分は恥ずかしい奴だと気づきもしなかった。      上村正明   もづく酢や昭和を生きて老い未だ   紙兜脱ぎて休戦柏餅        手術宣告        長々と俎上にのせん生身魂      上村正明さんは二〇二三年角川「俳句」三月号の恩田作品に共感され、「少しでも高みを目指したい、少しでも「俳句の三福」を味わってみたい」と、同月十九日入会。八月二〇日までめきめき腕を上げられ、闊達な座談でも周囲を魅了しました。腹部大動脈瘤の手術から回復されることなく、最後の句会から旬日にして他界されたとは言葉を失います。  これから菖蒲の節句が来るたび、仲良し兄弟が紙兜と紙太刀を放って「柏餅」の葉を剥がす勢いを想像し、思わず微笑むことでしょう。墨痕あざやかに八十六年を生き切られた最晩年の俳縁に感謝し、深悼を捧げます。       (樸代表 恩田侑布子)         後記  樸会員による2023年の自選3句集をお届けします。1年間、恩田代表の厳しくも愛情あふれる指導を受け、それぞれの感性や人生観などを踏まえた、俳句に対する向き合い方のうかがえる作品集になりました。(自選3句の後のエッセーは昨年末時点で書かれたものです)。  俳句は世界一短い詩と言われます。この十七音に想いを込めようと四苦八苦していると、ふと、短歌の三十一文字がなんと長いことか、と驚く自分がいます。もちろん短歌も十分に短いのですが、言葉を極限まで削る俳句が、そんな不思議な感覚をもたらすのでしょう。饒舌で大袈裟で無意味な言葉が大手を振って歩いている喧騒の時代に、最小限の言葉で最大限の世界を生み出す俳句の素晴らしさを、今年も樸俳句会で体験していきたいものです。                           (小松)  

12月23日 句会報告

あらあらと色のぬけゆく冬の暮

2023年12月23日 樸句会報 【第135号】  暖かな日が続いていた後にやってきた寒波で、空気がピンと張った冬晴れの日。今年最後の句会がありました。  兼題は「数へ日」「鍋焼」「熊」。  特選2句、入選4句、△4句、レ4句、・8句。高点句と高評価の句があまり重ならなかったことから、それぞれの読みをめぐって活発に意見が交わされました。「鍋焼」の食べ方談義も楽しい時間でした。          ◎ 特選  斎場のチラシかしまし冬の朝            林彰 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「冬の朝」をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ◎ 特選  警笛に長き尾ひれや熊渡る            小松浩 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「熊」をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ○入選  数へ日やかき抱きたき犬のなし                天野智美 【恩田侑布子評】  「かき抱きたき人」ではなく「かき抱きたき犬」で、とたんに俳諧になった。いつも一緒にいた小柄なお座敷犬が想像される。その愛らしかった瞳やら毛並みやら。もう一緒に迎えるお正月は来ない。「数へ日」が切実である。   ○入選  星なき夜熊よりも身を寄せ合はす                見原万智子 【恩田侑布子評】  「星なき夜」でなければならない。一粒でも星が瞬けば童話になってしまうから。月もない真っ暗な夜。希望もない。声もない。が、「身を寄せ合はす」人がいる。飢えかけているときに一番食べものが美味しいように、絶望しかけている時ほど、愛する人がいる幸せを感じる。居ないはずの熊を感じるのは、作者が熊になりかわっているから。    ○入選  数へ日の日毎重たくなりにけり                海野二美 【恩田侑布子評】  毎日は二十四時間で変化がないはずなのに、年が詰まり、あとわずかになると、言われるように一日が沈殿するように「重たくなる」。あれもしていない。こっちの片付けもまだ何もやっていない。どうしよう。日数が足りない。途方に暮れても、時間の流れは容赦ない。省略が効いていて、覚えやすい良さもある句。    ○入選  鍋焼吹く映画の話そっちのけ                成松聡美 【恩田侑布子評】  映画の帰りに店に寄ったのだろう。今まで夢中で主人公や脇役の話をしていたのに、「鍋焼」が湯気を立てて運ばれてきた途端、もう映画なぞ「そっちのけ」。ふーふー。ずるずる。アッチッチと言ったかどうか知らないが、美味しく楽しく夜はふけてゆく。         【後記】  年末のあわただしい気分がありながら、句会の間は別の時間が流れているような気持ちにもなりました。  「“発見”が大事といつも言っているけれども、それは“知”“頭だけ”での発見ではなくて“知・情・意”があるものでなければ」との恩田先生の言葉に、詩的な発見のための構えについてあらためて感じるところがありました。また、「情、気持ちの切実さは十分に持ちつつそれに耽溺せず表現するのが俳句」との言葉も。難しい、ですが、その難しさを楽しむ気持ちで新年に向かえたらと思っています。 (猪狩みき) (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)    ==================== 12月12日 樸俳句会 兼題は「冬ざれ」「山眠る」「枇杷の花」です。 特選2句、入選3句を紹介します。       ◎ 特選  テレビとは嵌め殺し窓ガザの冬            古田秀 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「冬」をご覧ください。             ↑         クリックしてください     ◎ 特選  枇杷の花サクソフォーンの貝ボタン            益田隆久 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「枇杷の花」をご覧ください。             ↑         クリックしてください    ○入選  枇杷の花いつか一人となる家族                活洲みな子 【恩田侑布子評】  枇杷はしめやかな花。半日陰を好むようで、遠目にはそれと知れない。トーンの低い冬の日差しに似合う。大きな濃緑の葉影に静まって地味に群れ咲く。「いつか一人となる家族」。この感慨にこれほどピッタリと収まる花は他にはないだろうと思わせる。             ○入選  磔の案山子の頭ココナッツ                芹沢雄太郎 【恩田侑布子評】  案山子は秋の季語。ココナッツの頭はエキゾチック。作者は南インド在住の芹沢さんと想定して入選に。 まず案山子を「磔」とみたことに驚かされる。今まで衣紋掛けは連想しても、キリストの磔刑など、夢にも想わなかった。言われてみれば、案山子が痩せこけた磔刑像のキッチュなポップアートのように思えてくる。そこら辺のココナッツで無造作に頭を代用しているとなればなおさら。インドの原色の服装も見えてくる。名詞をつないで勢いのある面白い俳句だ。        ○入選  きれぎれに防災無線山眠る                成松聡美 【恩田侑布子評】  よくある山村が目に浮かぶ。限界集落ともいわれる山間地の寒村だろう。「きれぎれに」の措辞がリアル。谷住まいの評者も日々経験しているが、山や木や風に遮られて明瞭には聞こえてこないもの。ばかばかしいほどゆっくりとした広報の声が風に乗って、だいたい何を伝えたいかだけはわかる、あいまいの国、日本。「空気が乾燥しているので火の元に気をつけましょう」とか。大したことは言っていなそう。山は安堵して眠りについている。      

11月12 日 句会報告 

冬木のみ触れて一日のたなごころ

2023年11月12日 樸句会報 【第134号】  記録的な猛暑だった今年、借り地の菜園は夏野菜のみならず冬野菜の生育もさっぱりです。視線を落とせばノジスミレやホトケノザの返り花。つくづく季節をつかみにくくなったと感じます。  しょんぼり日々を送るなか、樸zoom句会が開催されました。やれ嬉しやとパソコンの画面の中へ飛び込みたいような気持ちで参加しました。  兼題は「ばつた」「障子洗ふ」「柚子」。  特選2句、入選2句、△4句、レ11句、・11句。恩田先生が「切れの余白がゆたかで、調べもよく、多様で面白い俳句がそろった」と評した豊作の会となりました。          ◎ 特選  形見分くすつからかんの菊日和            見原万智子 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「菊日和」をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ◎ 特選  切り貼りは手鞠のかたち障子貼る            都築しづ子 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「障子貼る」をご覧ください。             ↑         クリックしてください   ○入選  疵あまた無骨な柚子よ宛名書く                佐藤錦子 【恩田侑布子評】  健康な生活実感があふれる俳句だ。庭の柚子はたくさんなるが店頭に並ぶピカピカの別嬪さんではない。疵やシミや凹みがあちこちにある。でもいいじゃん。早速あの人に送ろう!茎を切っただけで芳しく匂う。料理にかければ魔法の調味料、一瞬で高級になる。お風呂にもプカプカ浮かべてもらおう。なんともいい香り。「無骨な柚子」に新しみがあり、「宛名書く」の動詞にも勢いがある。         ○入選  柚子青し手帳今日より新しく                成松聡美 【恩田侑布子評】  気がつくと庭の柚子が葉影に大きく実っている。まだ青々として、もぐには早いが、黄色いひかりの珠になって、清らかな香りが初卓や湯殿にあふれる日は近い。そうだ、新しい手帳を下ろそう。そう思わせるときめきは、軽快な調べを奏でる定型感覚のよろしさと、上五のキッパリした切れから来ている。         【後記】  季節以外にも実感をつかみにくくなったものがあります。いくつかの動作です。 ちなみに今回の季語「障子洗ふ」のかんれん季語「障子貼る」とほぼ同じ「障子を貼る」が、『絶滅危惧動作図鑑』(祥伝社、藪本晶子)という本に収められています。「障子を貼る」は絶滅危惧レベル全5段階のうちレベル4「ちいさい頃に何度かやったことがある動作」。今ではあまり見かけないということでしょう。  かく言う私も、破れないグラスファイバー入り障子紙なるものを購入してから、洗うどころか張り替えすらやっていません。  しかしひとたび季語として作句を試みれば、障子紙を寸法に合わせて切る者、刷毛で桟に糊を塗る者、自分が開けてしまった穴を切り貼りする子ども、夕暮れが迫り七輪で魚を焼く祖母、薪で風呂を沸かす祖父など、懐かしい光景が立ちどころに蘇ります。俳句には絶滅の危機に瀕したことばの保護という側面があるような気がします。  単に動作のさまを伝えるだけではないでしょう。  たとえば今回の特選句「切り貼りは手鞠のかたち障子貼る」から連想されるのは、まず、丸く切って手毬に見立てた千代紙。次に、暮らしを機能一辺倒に終わらせない作者の美意識やお人柄です。創意工夫を凝らした衣食住のあれこれが次々と目に浮かび、しみじみと、私もこの人のように生きてみたいという思いに駆られます。俳句には作者の心の持ちようを共同体に伝播させ継承させ得るはたらきがあると感じました。  これは恩田先生の超人的なご鑑賞をお聞きし、連衆の忖度のない議論に参加して初めて湧いてきた思いであり、数年前にひとりで何となく十七音を並べていた頃には想像もつかなかった気づきです。俳句は句座を囲む文芸、囲むことで完結する文芸であると改めて感じた句会でした。  この日を境に、季節は駆け足で冬へと向かっていきました。 (見原万智子) (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)    ==================== 11月23日 樸俳句会 兼題は「七五三」「木の葉髪」「柊の花」です。 入選1句、原石賞4句を紹介します。         ○入選  乾杯の音頭決まりて木の葉髪                岸裕之 【恩田侑布子評】  大勢の集まりでは、まず司会者から指名を受けた人が乾杯の音頭を取ります。 挨拶、自己紹介、会の趣旨を手短かに話し、「乾杯!」の斉唱でグラスを合わす瞬間です。若い頃は音頭をとる人のテキパキと堂に行った采配に憧れたものですが、いざやらされる年代になってみると、なにげない手櫛にもはらりと髪が纏いつきます。会場の華やかな席に明るい声が響くだけに、昔日の若さを失った実感が迫ります。ペーソスある俳句です。           【原石賞】柊の花の家遠し跨線橋               見原万智子   【恩田侑布子評・添削】  いま歩いている「跨線橋」から、かつての家、それも柊の花の記憶を蘇らせた感性が素晴らしいです。ただ「ハナノイエトオシ」という中七字余りはいただけません。もたつきます。素直な定型に調べるだけで、ぐっと格調の高い句になります。 【添削例】柊の咲く家遠し跨線橋     【原石賞】吾娘もまた母の顔せり七五三               小松浩   【恩田侑布子評・添削】  孫の七五三でようやく我が娘が、一人前の母親らしい顔つきになったことに気づいた作者です。自身にも、祖父になった実感が迫ります。ただ、「もまた」の説明臭を刈り込みたいです。世代交代のめでたさと、着実な継承を印象付けるため、省略を効かせ、かつての娘の七五三もダブルイメージさせましょう。 【添削例】母の顔になりし娘や七五三      【原石賞】旅の荷は下着二枚や小春富士               古田秀   【恩田侑布子評・添削】  旅荷が「下着」だけというのはさっぱりと気持ちがいいです。このままでもなかなかの句ですが、さらに水準を高めるならば、「二枚」と「小春」の甘さを消して「一組」「冬の富士」にすれば気持ちも調子も引き緊ります。 【添削例】旅の荷は下着一組冬の富士     【原石賞】すきま風指輪リングを見遣る銀婚日               林彰   【恩田侑布子評・添削】  戸障子を吹き込む冬の季語の「隙間風」を心象に転じた着眼が面白いです。「指輪」にリングのルビを振ったことで、エンゲージリングとわかり、結婚式から二十五年経って、ぷっくりしていた指がやつれたことまで想像させます。ただ、銀婚式の日を縮めて「銀婚日」というのはやや無理がありましょう。 【添削例】銀婚の指輪リングを見遣るすきま風      

毎日新聞書評欄にて『星を見る人』をご紹介いただきました

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 先日のお知らせ欄で告知いたしましたように、毎日新聞9月23日書評欄で、演劇評論家の渡辺保様から『星を見る人 日本語、どん底からの反転』を大きくご紹介いただきました。渡辺様は、昨年8月6日の同紙書評欄でも『渾沌の恋人』を取り上げてくださっています。『渾沌の恋人』『星を見る人』の2冊が恩田侑布子による俳句文学を軸とした日本文化論の総論・各論だとすれば、渡辺様の書評も昨年、今年と二つを合わせて、恩田の日本文化論の全体像を捉えたものとなっています。2年続けて著書を広く世間に知らしめていただきました渡辺様に、恩田侑布子はじめ樸一同より深く御礼申し上げます。       新説の正否、批評を超えて作品に   渡辺保  竹馬やいろはにほへとちりぢりに  久保田万太郎の名句である。  恩田侑布子は、この句を平安朝の「襲かさね」に例える。「襲」とは衣裳いしょうを襲ねることをいい、著者はこの句に四段の「襲」があるという。一枚目は「竹馬の子らが散らばって遊ぶさま」。二枚目は「冬の夕暮れに三々五々家へ帰りゆくさま」。三枚目は「その後の人生行路にゆくえ知れずになった竹馬の友への思慕」。四枚目は「『いろはうた』の無常観」。この四枚が重なってこの句の風趣を作る。なるほどいわれてみると、漠然としていた風景が鮮明になる。  その一方で、万太郎の俳句には表記に独特なものがあるという。  割りばしをわるしづこゝろきうりもみ  という句を全て漢字で書くと、  割箸を割る静心胡瓜揉   これでは「騒がしい暑苦しさへと一変する」。漢字一字の効果と仮名表記の柔らかさが、この句には視覚的な読む効果を生む。  また万太郎には別な技法もある。たとえば古典との交錯である。  枯野はも縁の下までつゞきをり  いうまでもなく「枯野」は芭蕉の「旅に病やんで夢は枯野をかけ廻めぐる」の「枯野」。その「枯野」が縁の下まで一気に来て、現実になる。読んでいてゾッとする人生の残酷さ、過酷な現実眼前である。  こういう様々な分析によって、万太郎の俳句の朧気おぼろげで、かそけき気配、その微妙なニュアンスが鮮明になる。こうなると俳句そのものも面白いが、著者の解釈が面白く、批評の文学になっている。  この本の中には、万太郎の他にも、多くの詩人、俳人、画家、批評家が登場する。そのなかでも白眉はくびは、最後の二編。井筒俊彦の芭蕉観と、芭蕉の『笈おいの小文こぶみ』についての新説。前者は井筒俊彦の『意識と本質』の言語化し難い観念をよく言語で捉えている。  井筒説によれば、意識の中には個体的リアリティーと普遍的リアリティーの二つがある。問題はこの二つが交錯する瞬間であり、著者は、その瞬間を俳句の切れ字の場面転換の作用によって解釈した。個体的リアリティーはこの作用によって普遍的なものに変わり、その関係が鮮明になった。  こうして万太郎から井筒俊彦に至った著者は、この本の最後に珠玉の作品を作った。すなわち「新説『笈の小文』」。芭蕉の『笈の小文』は『おくのほそ道』その他の紀行文に比べて評価が低い。それは作品自体の価値の問題ではなく、様式の問題であると著者は指摘する。たとえば日本美術には二つの様式がある。一つは「源氏物語絵巻」はじめ時間軸に沿って展開する絵巻物様式。もう一つは俵屋宗達の「扇面せんめん散屏風ちらしびょうぶ」の様な個々の扇面を画面に散らす、反時間的な展開の様式である。扇面式の『笈の小文』を『おくのほそ道』と同じ絵巻物様式では解釈できない。その証拠にもし扇面式に解釈するとたちまち別な世界が開ける。それは芭蕉とその晩年の恋人杜国との噎むせ返る様な恋であり、二人の死を目前にした命のほてりともいうべき炎であった。その熱っぽさは、さながら人間最後の生命の証の如ごとく、新説の正否、批評を超えて一つの作品になった。久保田万太郎に始まって井筒俊彦に至り、俵屋宗達を経て美しさに満ちた作品に達したのである。    

呵々 十六句

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『WEP俳句通信』2022年12月号に掲載されました、恩田侑布子の俳句16句を紹介いたします。           呵々          枯蘆にくすぐられゆく齢かな      尾けゆくは地に生ふる影大枯野      駿河湾茶の花凪と申すべう        山上に菩提寺  華やかに落葉砕きて母がりへ     極月の揚げせんべいは鯵の骨     黄昏の干菜湯いろの橋わたる      冬の夜柱鏡をトンネルに      隔たるや日々片々と敷松葉      青天や枯れたらきつと逢ひませう      葉隠や尽きぬ遊びを佛手柑      錠かけしチェロを背中に落葉道     コートの背「嘆きの壁」に曝したる      浮くもののなべて重たし冬運河      納豆の糸にこゑある冬日かな      淫り喰ふ酢なまこ死後の硬直を      一休の呵々大笑よ寒牡丹    【初出】『WEP俳句通信』二〇二二年十二月号 競詠十六句      呵々十六句鑑賞                  益田隆久 俳句から受けた第一印象です。 個人的解釈につき、まっとうかどうかはわかりませんが。 「呵々十六句」に共通して流れるもの。 「そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、 いづれの人か骸骨にあらざるべし。」   一休宗純 十六句は絵巻物。その展開の流れを味わうと飽きがこない。   起   枯蘆にくすぐられゆく齢かな     第一句目で全体の色調を示す。 枯蘆は自分を見ているもう一人の自分。 ああ、あたしってなんか理由はないけど可笑しいよね。 っていうか自分で笑うしかないじゃん。     尾けゆくは地に生ふる影大枯野    ああ、やっぱりまだ燻り続けているいろんなものがあるのかなあ。    駿河湾茶の花凪と申すべう   いままで色んなことがあったけど、少しは振り返る余裕が出来たのかなあ。    黄昏の干菜湯いろの橋わたる   歳を取るほど魅力的になる女でいたいよなあ。    冬の夜柱鏡をトンネルに   結局、人の死って、朝であり、春であり、トンネルを抜けるということなのかなあ。    隔たるや日々片々と敷松葉   人生ってさあ、斑模様だよね。密度の濃い時もあったし、薄い時もあったなあ。    青天や枯れたらきつと逢ひませう   死んだら好きなあの人とも逢えるよね。     ここから転調。      錠かけしチェロを背中に落葉道   今まで数え切れないほどたくさんの俳句を作ってきたよなあ。 それらは捨てるわけじゃないけど鍵をかけておこう。 そして、あたしにしか作れない新しい俳句を作ってやるぞ。    浮くもののなべて重たし冬運河   重くて流れていかないんだよなあ。いつまでも浮いてて嫌んなっちゃう。   納豆の糸にこゑある冬日かな   あの日のあの時の声がいつまでも耳に残ってるなあ。    ...

あらき歳時記 虫の闇(二)

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2023年9月10日 樸句会特選句  惑星の形なりの遊具や虫の闇                    田中泥炭  残業の帰り、小さな公園の横を通る。街灯に照らされて浮かび上がる遊具に人気ひとけはない。ふと宇宙空間に浮かぶ惑星を思う。リング付きの木星か、地球か。虫しぐれを背景に、上五の「惑星」は本来の“惑い”の姿となり、おぼつかなく大宇宙に彷徨い始める。こおろぎ、松蟲、鉦叩きの声は星屑さながら。子供たちが遊んでいた昼間の姿は一変し、人類の死臭が鼻をよぎるのである。                         (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

あらき歳時記 虫の闇(一)

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2023年9月10日 樸句会特選句  読み耽る昭和日本史虫の闇                   活洲みな子  半藤一利の『昭和史』の戦前・戦後編二冊本だろうか。 加藤陽子の『さかのぼり日本史(2)昭和 とめられなかった戦争』だろうか。いやいや水木しげるの『昭和史』全八冊もある。そこには小中高の学校では教わらなかった日本の加害者としての謀略や狂気の実態が書かれている。「読み耽る」の措辞に、次々信じがたい歴史の展開に息を呑む実感がこもる。夜は更けても中断できない。ここに書かれていることも著者の一つの解釈であり、真相は一匹一匹の虫が抱く深い闇の中だ。しかも未だに解決されず、衰退する日本の今につながる問題も多い。虫の音はいよいよ澄みわたり、名もなく戦禍に斃れていった兵卒の声のよう。                         (選 ・鑑賞   恩田侑布子)

句会報告 8月6日

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2023年8月6日 樸句会報 【第131号】  口をついて出てくる言葉は、「暑い、暑い」。先回のリアル句会、日傘に帽子、アームカバーといういでたちで出かけた。久々にみなさんに会えたのは嬉しかったのですが、熱中症警戒アラートが出されているこの時期、クーラーの効いた部屋でのZoom 句会はありがたい。今回も高成績。 ◎2句 ○3句 △3句 ✓14句 •8句でした。  兼題は「極暑」「帰省」「病葉」です。             ◎ 特選  病葉の猩々みだれ舞ふ水面            岸裕之 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「病葉」をご覧ください。             ↑         クリックしてください       ◎ 特選     竹生島  夏の月うさぎも湖上走りけり            中山湖望子 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「夏の月」をご覧ください。             ↑         クリックしてください       ○入選  べつたりと妖怪背負ふ酷暑かな                天野智美 【恩田侑布子評】  江戸時代は怪談や「百物語」が流行り、そうした浮世絵の名作も生まれた。この句はお化け屋敷のお化けのみならず現代の「妖怪」を背負っている。そこに新しみがある。二十一世紀の妖怪は、侵略戦争、核兵器、地球温暖化、AIシンギュラリティ、格差分断社会、特に日本の少子社会と男女不平等。それらの袋小路めいた重圧が「べつたりと」背中に張り付き「酷暑」を益々息苦しくしている。批評精神が詩と結婚した俳句である。       ○入選  フライパン買はむ極暑の誕生日                見原万智子 【恩田侑布子評】  おかしい、思わず笑ってほっこりしてしまう。作者は極暑の日に生まれた。毎年誕生日が来るたび、それを痛感する。昔は、なぜ気持ちの良い春や秋じゃなかったんだろうと思ったこともあった。が、今は違う。私は「極暑」の人間なのだ。そうだ、いっそ、新しいフライパンを自分のために奮発しちゃおう。そしてこの気狂いじみた暑さも汗も、何もかも豪快に炒めまくってやれ。       ○入選  地球ごと水に浸けたき極暑かな                小松浩 【恩田侑布子評】  地球に網をかけ、西瓜のように捕縛して冷水にざぶんと漬けてやりたい。「地球ごと」が愉快で大胆な発想。異常気象の常態化は、局地的なゲリラ豪雨をもたらしても、一般に潤う雨は少なく、今夏は静岡も旱川が多い。ただならぬ連日の暑熱に命の危機を感じ、南欧では山火事が頻発している。極暑の「極」に実感がある。         【後記】  私はタブレットでZoom句会に参加しています。お話されている方一人一人が画面いっぱい大写しされ、目を見てお話を聞いているようでリアルです。  今回もいい句がたくさん。特に新入生の方々の目ざましい進歩に圧倒され身の引き締まる思いでしたし、先生の特選句の講評を聞いていて、読み手によっていい句がますますよくなるということを、つくづく感じました。又、中村草田男についての話もあり、聞いているうちに草田男の句を読んでみたくなり、スルーしていた「俳句」八月号の特集を読んでみました。  そして再度肝に銘じたことがあります。忌日の句を作るにあたり、先生のことばをお借りしますが「故人への敬虔な気持ちと深い理解(学び)」の大切さ。私も心している、「継続は力なり」の大切さです。  今回はいつも以上に熱の入った、充実した句会でした。 (前島裕子) (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ==================== 8月20日 樸俳句会 兼題は「終戦記念日」「盂蘭盆」「西瓜」です。 原石賞3句を紹介します。       【原石賞】俎板に身を長々と生身魂               上村正明 【恩田侑布子評・添削】  なんとなく手術のことかとは思いますが、原句のままでは今ひとつスッキリしません。原因は「俎板」という措辞にあります。「俎の上の鯉」という慣用句を思い出させ、手術台の上で運命は医者任せ、という受動的な意味あいになってしまいます。こういう時こそ、俳諧精神の振るいどころ。この句の良さは自分自身を「生身魂」といったことにあるので、あくまで思い切り良く手術台に上る方が、一句の背筋が通りましょう。同じ慣用句でも、「俎の上の鯉」より理知的に乾いた「俎上に載せる」を選ぶべきです。長身を手術台に横たえる即物描写がそのまま、一身にさまざまの体験をたたみ込んだ星霜のダブルミーニングと化し、より奥行きの深い俳味をかもします。一生にそうそうあることではないので、簡潔な前書きがあればさらに堂々とした俳句になります。   【添削例】    手術宣告 長々と俎上に載せん生身霊       【原石賞】    類焼により自宅全焼に二句 焼け出され眠れぬ油汗の首               海野二美   【恩田侑布子評・添削】    家族に何の落ち度もなく、一方的に隣家からの火で丸焼けになって焼け出されてしまいました。人生でこれほど理不尽極まることはありません。「焼け出され」た直後からの過酷な肉体的過労の上に、これからのことを思って「眠れない」夜が続きます。精神的疲労は募るばかり。中七を「眠れぬ油汗」と一塊にしないで、切れを作ると、句跨りの「油汗の首」が凄まじいほど引き立ちます。 【添削例】焼け出され眠れず油汗の首       【原石賞】水茎のそのれんめんや水馬               益田隆久   【恩田侑布子評・添削】  発想が非常に面白いぶん、表現が未だしです。まず、中七の「その」は余分です。さらに「れんめん」だけでは物事が長く絶え間なく続いている様子にとどまります。あめんぼうの水上の動きを、ひらがなの連綿体とはっきりと言い切ることで、能筆によってしたためられた古歌や、歌切れまでもが水面に彷彿と浮かび上がります。 【添削例】水茎のれんめん体を水馬