「2024」タグアーカイブ

あらき歳時記 遠足

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    2024年4月21日 樸句会特選句  街棄つるやうに遠足出発す                 古田秀  街なかの幼稚園か保育園の年長さん、あるいは小学校低学年の遠足でしょう。さあ、待ちに待った遠足、出発だ!というときめきが溢れます。ところがそれを見ている作者は、まるで街がこのまま子どもたちに棄てられてしまうように感じるのです。意気揚々とした子どもたちと、大人の不穏な感慨の落差の大きさ。海山のへんぴな土地が限界集落と呼ばれ、姨捨山状態になりつつある現代、今度は子どもたちに都市を棄てられたらどうなるのか。大胆な発想ゆえに、読むたびに怖くなる独自性のある俳句です。                    (選 ・鑑賞   恩田侑布子)  

注目の一冊・岩淵喜代子『末枯れの賑ひ』

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 俳句は「喜怒哀楽を心の中で消化した後に謳い出す精神の醗酵を待つ詩形」(『頂上の石鼎』二〇〇九年刊)という俳句観をもち、論作をよくする作者の熟成期の第七句集。原裕と川崎展宏、両師の詩脈を継ぎ、抒情と人間洞察において深々とした大人の渋い句集である。 (恩田侑布子選評)          ↑ クリックすると拡大します

あらき歳時記 磯巾着

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    2024年4月21日 樸句会特選句  姉妹してイソギンチャクをつぼまする                 猪狩みき  干潮になった磯に忘れ潮の岩場があり、磯巾着が張り付いています。仲良しの姉妹が見つけて、興味津々、棒切れで突いてキャーキャー笑っているところ。「姉妹して」と「つぼまする」が呼応して、イソギンチャクの派手な色彩が浮かび、どこか変にエロティックな感じ。まだ性を知らない十歳前後の女の子の嬌声が聞こえ、陽春の海景が鮮やかに切り取られています。                    (選 ・鑑賞   恩田侑布子)  

注目の一冊・高橋睦郎『花や鳥』

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 名刀の沸にえさながらに磨き上げられた措辞に、一句一句は虚実すら超えて、冥と明の境に佇立する。刀身の鎬のゆるやかな反りが鋒の虚空へ溶ける生と死の狂おしさ。狂狷の高貴。装丁も、花の枝に金銀の撒き砂子、帯の沈金がゆかしく美しい。 (恩田侑布子)          ↑ クリックすると拡大します

「角川俳句年鑑」2024年版、「諸家自選五句・恩田侑布子」を読む

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「哀しみ」と「おかしみ」 益田隆久 花の枝の空に乗れよとさ揺らげる 白波のたちまち過去や皐月富士 人はみな逝きつぱなしや梅雨夕焼 燻りし男を連れて大花火 枯蘆にくすぐられゆく齢かな 「哀しみ」の中にも「おかしみ」があり、「おかしみ」の中に「哀しみ」がある。  だから、「救済」がある。「重力」があり、「恩寵」がある。 泣笑ひしてわがピエロ  秋ぢや! 秋ぢや! と歌ふなり ・・・・・ 秋のピエロ 堀口大学     花の枝の空に乗れよとさ揺らげる 「空に乗る」それは救い。 地上は「哀しみ」。空は「おかしみ」の世界。二つがぶつかり昇華されそこに救済がある。 「花の枝の揺らぎ」は、自然が人にささやく「まばたき」。 そして、詩人、俳人とは、「まばたき」を受け取る感性を持つ人のことである。     白波のたちまち過去や皐月富士 時間は救いである。 今は「哀しみ」。時間の経過は「おかしみ」。 皐月富士は救済の象徴。救済された時間。つまり永遠である。        人はみな逝きつぱなしや梅雨夕焼 人とは、「哀しみ」。梅雨夕焼は「おかしみ」そして「救い」。 「逝きつぱなし」とは、「哀しみ」の中にある永遠つまり「おかしみ」であり「救い」である。         燻りし男を連れて大花火 燻りし男とは、内なる「哀しみ」。大花火は、外なる「おかしみ」、そして「救い」。 二つが、ぶつかり合い昇華され、そこに「救済」がある。        枯蘆にくすぐられゆく齢かな 最終的に、「哀しみ」は、「おかしみ」を携えて、「救済=永遠」へと昇華される。 枯蘆は「象徴」として使われる。 つまり、俳人だからこそ成し遂げる最終的な「救済」なのだ。