
恩田侑布子は、これから先もずっと、守りに入ることはないでしょう。 ささやかな営みが描かれていると思いきや、ふいに大きな決意を目の当たりにしたかのような。『俳句』6月号掲載の「八風」は、これまでの恩田作品にも見られた重層性がいちだんと際立つ、AIには決して読み解けないであろうと思わせる21句です。 五感のすべてで受け止めぜひ感じてください、いのちの色、音、匂い、味、そして痛みを。 『俳句』2025年6月号のご購入はこちらから
2025年5月18日 樸句会報 【第152号】 「五月」というひびきのよい語感には、新鮮な生命力がある。物憂い晩春から一気にベールを脱ぎ棄てて、初夏へ。「新緑」「風薫る」「若葉風」…と季語にもあるように、大地が緑に染まるさわやかな季節だ。 我が『樸』にも若葉風が吹く。アメリカから、フランスから、新しい会員が加わった。インド在住の会員も含め、日本以外の風土や文化を含んだ風が、『樸』に吹き込んでくることをとても楽しみにしている。 今回の兼題は「薄暑」「蚕豆」。特選1句、入選2句、原石賞1句を紹介します。 息継ぎのなき狂鶯となりゆくも 恩田侑布子(写俳) ◎ 特選 スケートボード蔓薔薇すれすれに蛇行 古田秀 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「薔薇」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ○ 入選 肩書のとれた名刺と空豆と 活洲みな子 【恩田侑布子評】 名刺に立派な肩書きがあればあるほど俗人はうれしく誇らしいかもしれません。しかし作者は「そんなもん、やっと取れた」と清々しく思っています。組織の人間でなくなった自由こそが、晴れて味わう五月の空豆の美味しさです。もちろんビールを片手にして。技法的には、「と」で名詞を並列した句は「たるみ」が出がちですが、この句は逆にその並列が効果を発揮してリアルです。 ○ 入選 新快速午睡絶滅皆スマホ 林彰 【恩田侑布子評】 京阪神地域の主要都市を結ぶ快速の車輌風景。昔の夏は、戸外の暑さに疲れた人々が冷房の効いた車内に乗り込むや、ついうつらうつらして船を漕ぎ出したもの。しかし、今ではそんな人は一人もいません。みな小さなスマホの窓を覗き込んで指先で操作しています。名詞を五つ並べた句がビビッドなのは、句頭の「新」と中七の「絶滅」の効果。まず、新しい快速電車が走る午後に昼寝族は「絶滅」したという断定が面白いです。さらに、車両とスマホの相似形も見逃せません。肉体は車両にあり、脳はその縮小相似形のスマホに吸い込まれ、小さな画面から世界大の情報の海に溺れている夏の午後であることよ。「昼寝」の季語を、昼寝しない人らを素材に歌うのも新しい表現。 【原石賞】かたらねど母のかたはら緑さす 前島裕子 【恩田侑布子評・添削】 病床にあって言葉少なくなられたお母さんでしょうか。黙っていても温かく心は通じ合っています。「緑さす」の季語の斡旋が抜群です。この世で許された浄福という感じがします。惜しいのは「かたらねど」の措辞の粘りです。上五を「もだす」という動詞に変えれば、心の通じ合った安らぎが一層感じられるでしょう。 【添削例】黙しゐて母のかたはら緑さす 【後記】 私ごとだが、事情があってこの4月までの半年間、句会を休ませていただいた。「句を作ることを続けないと、句はだめになる」。日ごろの師の教えを胸に、締め切り前にバタバタと投句だけは続けた。 5月から句会に再び参加。久しぶりの句会は…これがなかなか面白いのだ。Zoomの窓が開き、親しい人と目が合って思わず目礼。新入会員の紹介や会員の授賞式のお知らせには、小さな拍手があちらこちらから起こる。画面の窓は小さいけれど、恩田先生は相変わらずエネルギッシュだ。 仲間の句を推す会員相互の熱弁(?)も、師から質問されて一斉に下を向く姿も、画面を通して息遣いまで感じられる。以前の私は断然リアル句会派だったが、会員の幅が広がり、パソコン操作にも少しだけ慣れた今、Zoom句会ならではの面白さを楽しんでいる。 とはいえ、句会に参加できなかった期間に投句だけは続けることができたのは、句会後のお疲れも厭わずに全句講評をお送りくださった師の励ましの言葉や、句会の様子をそっと知らせてくれた句友たちとの繋がりがあったからこそ。俳句は座の文学だと言われるが、心と血が通ってこその座であると、しみじみ感じている。 (活洲みな子) (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) 宙ゆらぐ前に帰らん夏の闇 恩田侑布子(写俳) ==================== 5月4日 樸俳句会 兼題はゴールデンウィーク、若葉。 特選2句、入選3句、原石賞1句を紹介します。 ◎ 特選 吾の歌に母の輪唱桜の実 活洲みな子 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「桜の実」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ◎ 特選 天上の母はすこやか樟若葉 活洲みな子 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「樟若葉」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ○ 入選 死にたまふゆびのささくれ夏みかん 見原万智子 【恩田侑布子評】 「死にたまふ」と、胸底に敬語で呼びかける人はどなたでしょう。ささくれた指から肌の乾燥し痩せ細った高齢の母を思います。母とは幼い日から夏みかんの厚い皮をむきあって、数限りない睦まじい時間を過ごしてきました。自分を産み育て、年老い、弱っていった愛しいその指はもう、くすっとも動いてくれません。しぶきのように迸る黄金の果汁に、ともに指先を濡らすこともありません。ややぶっきらぼうに投げ出された三段切れは茫然たる悲しみです。陽の色をした夏みかんの丸々した重量に、死者の指先の蒼ざめた硬直が哀切です。 ○ 入選 母がりは永遠の緑陰なりにけり 益田隆久 【恩田侑布子評】 母はいつでも作者の憂悩を癒し、励ましてくれたやさしい方なのでしょう、まるで涼やかな緑陰のように。今も木陰を通り抜ける気持ちのいい風にくつろいでいると、ありありと母が甦ります。永遠に失われた肉体が、緑陰となって作者を待ってくれているようです。句末の「なりにけり」には文語のよさが発揮されています。ただ、「母がりは」はどうでしょう。上代は、母+接尾語「がり」で、母のもとへ、母のところへ、の意ですが、中古以降は助詞「の」を介し、「母がりの半日あまり桐の花 細川加賀」、「母許の廂の古りぬゑんど飯 永田耕衣」 などの先行句があります。「の」を介さない単独の名詞としての使用にはやや違和感があります。 ○ 入選 木香薔薇あふれんばかり死者の庭 成松聡美 【恩田侑布子評】 一挙に咲き誇って、あたりを異様なまでの明るさにする木香薔薇の黄色のはんらんが、かえって死者の庭に合っています。「霊園」や「墓地」という言葉を使わなかったことで普遍性を獲得しました。その静寂に包まれて佇むことの不思議さ。初夏のひかりが迫ってきます。 【原石賞】夕若葉マーマレードの煮詰まるる 長倉尚世 【恩田侑布子評・添削】 庭若葉にはまだ充分に日があるのに、時計の針はすでに夕刻をさしています。作者はたぶん夏みかんのマーマレードでも煮ているのでしょう。柑橘類の香りが厨いっぱいに広がります。日永は春の季語ですが、実際には夏至が最も日が長いので、夕方でも暗くならない若葉の和らいだ色と、ジャムの黄味とが響き合います。ただし句末の文法は誤りです。助動詞「る」は「詰まる」に接続しません。鍋の中に焦点を絞れば実感が出ます。 【添削例】夕若葉マーマレードの煮詰まり来(く) 卯の花の谷幾すぢや死者と逢ひ 恩田侑布子(写俳)
前島裕子
photo by 侑布子
三光鳥月日はづんでなんぼなる
恩田侑布子
(『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)
百景共吟の五句で
三光鳥月日はづんでなんぼなる
の「三光鳥」にひかれた。
何年か前に岡部町の玉露の里で、その尾だけを見た。残念ながら全身は見えず、鳴き声も聞けなかったと記憶している。先日、今はどうなっているのか行ってみたが、それらしき気配はみうけられなかった。
それでは電子辞書でこえだけでもと思い、聞いてみた。
『ツキヒホシ ホイホイホイ』
何度か聞いているうちに、何か楽しく、明るい気持ちになってきた。
そんななか、句を読み返してみた。すると、「月日」は人生、「はづむ(ん)」は思いきって何かをする、「なんぼなる」はすることに価値がある。『人生、思い切って何かすることに価値があるんだよ』と「三光鳥」が励ましてくれている、などとかってな考えが浮かんできた。この句は、そんな一つの生き方をさし示してくれているように思えてきた。
久しぶりの一句鑑賞。一語一語かみしめ、恩田の意図するところは?と、深く考えることができた。
photo by 侑布子
サシでゆく波の昂さや夏の川
恩田侑布子
(『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)
海と比べて気がつきにくいが、川辺を歩くと川も波立っているのが見える。中・上流ならなおさらだ。流れの速いところ、川の曲がるところ、岩や堰など障害物のあるところでは、どう動くのか予想もつかない荒々しい波を目にする。川波には生き物の様相がある。恩田にとって、川辺を歩くことは日常の営みだろう。うきうきしたとき、つらいとき、想いを受け止めてくれるのも、その川波に違いない。
この句で着目すべきは、中七の「波の昂さ」だ。一般的な「高さ」に置き換えて句を並べると違いは一目瞭然だ。
サシでゆく波の昂さや夏の川
サシでゆく波の高さや夏の川
川波の変幻自在な姿は、「高さ」では表しきれない。併せて「昂」の文字は、川と向き合う者の心の昂りをも感じさせる。
「サシでゆく」は、流れと対峙するように遡って歩いてゆく意であろうが、サシで語る、サシで勝負する…とも読み取れる。カタカナ表記の勇ましさが、「夏の川」の季語とも相まって、作者の内面にある青春性をも感じさせる一句だ。
益田隆久
photo by 侑布子
逢はで死ぬる心筋の闇ほとゝぎす
恩田侑布子
(『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)
なぜ「心臓」でなく「心筋」なのか?「心臓」、それは身体から取り出した物体のイメージ。「心筋」ならば、今現在鼓動している「生命」そのもの。生命の躍動を強く感じさせる「心筋」という措辞。「逢はで死ぬる」、大切なものは目に見えない。「闇」は生命の根源。生命を、宇宙を創造した根源こそ「闇」。そして「ほとゝぎす」は、心筋の如く命の限り啼き続ける。その口の中は血のように赤いという。
恩田侑布子は、若い頃大病を経験したと聞く。私も子供の頃、長く入院し体育の時間は小中9年間教室で過ごした。そのような経験をすると自分の身体というものを意識する。心筋を詠った俳句は見たことが無い。目に見えないものが実は大切なものであることを人は知らない。
子供の頃、吉展ちゃん事件というものがあった。何年に一度あるかというような大事件だった。それが、今ではほとんど毎日のように残酷な事件が起こる。戦争は無人爆撃機をパソコン画面で操る。罪悪感無しに命を弄ぶ。昭和30年代に比べたら物質だけは溢れているが、社会が病み、心が病んでいる。こういう時代だからこそ、闇の中で休むことなく鼓動する「心筋」を、命というものを深く考える。
2025年3月9日 樸句会報 【第150号】
3月最初の句会、今治西高校2年の野村颯万さんが参加して下さった。第27回神奈川大学全国高校生俳句大賞・恩田侑布子賞受賞の高校生である。
YouTubeで、受賞句「早梅や連綿線の長き脈」を確認。素晴らしいと思った。書道技法講座『関戸本古今集 伝藤原行成』を改めて開いて確認する。長き脈を一気に引いた後、まるで梅を咲かせる如くゆっくりひらがなを咲かす。しかも早梅である。恩田先生が「早梅が動かない」と仰ったことに完全に同意。「梅」だけでも絵が浮かぶが、「早梅」とすることで、筆の動きと馥郁とした香りまで漂ってくる。脈から思い通りに文字を咲かせた時の喜び、満足感まで共感する。『関戸本』を習う時、野村さんの俳句を思い出すだろう。
今日の句会はあと3時間ぐらい欲しいと思ったほど。野村さんに感謝したい。句会に出した野村さんの俳句は、恩田先生の特選、そして最高得点句であった。
3月9日の兼題は「春の水」、「囀」。
特選2句、入選2句、原石賞1句を紹介します。
閃きはつばめの腹にこそあらめ 恩田侑布子(写俳)
◎ 特選
春水のつぶれぬやうに墨を磨る
野村颯(そう)万(ま)
特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「春の水」をご覧ください。
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◎ 特選
パレットへ囀りの色溶きにけり
益田隆久
特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「囀」をご覧ください。
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○ 入選
囀りや石窯で焼く手ごねパン
岸裕之
【恩田侑布子評】
パンを「石窯で焼く」とは本格的。しかもパン練り機ではなく「手ごね」とは。
「囀りや」の切れから、木立ちの豊かなイタリア地方都市の朝が、映画のように浮かんできます。いかにも美味しそうです。
○ 入選
水茎のあの人らしさ花なづな
益田隆久
【恩田侑布子評】
「花なづな」の白い小さな花から、手紙なのか一筆箋なのか、恥ずかしげなやさしい初々しい筆跡が目に浮かびます。作者が好ましく思っていることも伝わってきます。「あの人らしさ」なので、まだそんなに間柄が深くなさそうなことも。花言葉は「あなたにわたしのすべてを捧げます」。作者の弁から、恋とは違う大切な旧友とわかりました。こんな同級生がおられるのは幸せです。
【原石賞】海賊の連歌一巻花月夜
野村颯万
【恩田侑布子評・添削】
勇壮な春の俳句です。中世には長連歌が流行りました。これはその二条良基の周辺で活躍した連歌師たちの高尚な連歌ではありません。「海賊の」といいます。そこが俳諧精神躍如たるところ。ただし、俳句という詩の表現を完成させるにはたんに意味だけでなく、言葉それ自体の質感が大切になります。「海賊」の措辞はバイキングを思わせやや乱暴で内容にそぐわないように思います。村上水軍や九鬼水軍が活躍した時代を彷彿させましょう。上五の質感を変えるだけで、さらに格調高い大柄句になります。
【添削例】水軍の連歌一巻花月夜
【後記】
巻尺を伸ばしてゆけば源五郎 ( 波多野爽波 『骰子』)
巻尺は、自分の価値観、そして表現すべき言葉。自分の巻尺には限界があり、自在に動き回る源五郎には届かない。初めて樸俳句会に出た頃、古田秀さんの俳句の良さがほとんどわからなかった。つまり、私の巻尺では届かない俳句に出会った。それが、自在に動き回る源五郎であろう。
自分の価値観、手持ちの言葉を超える俳句に句会で出会い、衝撃を受ける。恩田先生から、何十回とダメ出しをもらう。そのような、殴られるような経験を句会で積み重ねることで、自分の巻尺の可動範囲が拡がってゆく。一人でやっていたら、やがて言葉が枯渇する。
本を100冊読む以上に句会で鍛えられる方が、枯渇した言葉がまた充填される。これが、句会でしか経験出来ない醍醐味である。
(益田隆久)
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)
野遊びのつひに没日の海へかな 恩田侑布子(写俳)
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3月23日 樸俳句会
兼題は龍天に登る、たらの芽。
入選1句、原石賞4句を紹介します。
○ 入選
春の暮真子の煮つけは反り返る
成松聡美
【恩田侑布子評】
真子は魚の卵巣で腹子ともいいます。ちなみに白子は雄の魚の腹にある精巣。たしかに卵塊は、包んでいる薄皮と収縮率がちがうせいか、煮ると反り返ったり破れたりします。これは鋭い着眼です。反り返って破れた袋から無数の魚卵の粒がはみ出す様まで想像させ、春の夕暮にふさわしい気怠い懊悩までも感じさせます。
【原石賞】龍天の涙壺より溢るるか
小松浩
【恩田侑布子評・添削】
「龍天に」までいえば季語になりますが、「龍天の」では季語になりません。ただ独特な発想が斬新です。「涙壺」から龍が飛び立つというふうにはっきりと表現すると、現代の戦乱の絶えない世界を象徴するみごとな現代俳句になります。
【添削例】涙壺より龍天に登りけり
【原石賞】多羅の芽の眼下鵜(う)山(やま)の七(なな)曲(まが)り
活洲みな子
【恩田侑布子評・添削】
近景の春の山菜と、中景から遠景へ伸び広がる景色の対比が効いています。大井川の蛇行のさまを一望する雄大な景勝地「鵜(う)山(やま)の七(なな)曲(まが)り」の地名をよく生かし切った句です。漢字がごちゃごちゃしているので季語はひらきましょう。「眼下」の措辞よりも身体感覚に響く「足下」を持ってくると、川底に向かう斜面から俯瞰した奥行きも出ます。
【添削例】たらの芽の足下鵜(う)山(やま)の七(なな)曲(まが)り
【原石賞】龍天に昇り昼夜は真半分
坂井則之
【恩田侑布子評・添削】
発想がユニーク。着眼の独自性に感心します。が、それを十分に生かしきれていないのが残念です。原句のままでは「龍天に昇り昼間と夜間がちょうど真半分になった」と、春分の時候の説明臭が残ります。俳句には謎が必要です。次のようにすれば、いま現在の酷い世界の闇の部分まで浮き上がりましょう。
【添削例】龍天に昇る昼夜を真つ二つ
【原石賞】龍天に登る柏槇の突兀
益田隆久
【恩田侑布子評・添削】
柏槇は寿命の長い常緑針葉高木です。沼津の大(お)瀬(せ)崎(ざき)の柏槇樹林は樹齢千年ともいわれる国の天然記念物で、鎌倉には建長寺、円覚寺、浄智寺など、柏槇の大樹のある寺が多いです。中国では真柏(しんぱく)と呼ばれ、山東省曲阜市の孔子廟を訪ねた時にも、真柏が亭々と天に聳えていました。「突兀」の措辞によって、ねじれ曲がる複雑な樹肌が彷彿とします。その天へ伸び上がる大樹の勢いを活かし、「龍天に」で言い納めると大柄句になります。
【添削例】柏槇の突兀として龍天に
閼伽水にうかぶ白蛾や春の昼 恩田侑布子(写俳)