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8月25日 句会報告

photo by 侑布子

8月2回目の句会は猛暑日。樸俳句会も「夏枯れ」なのでしょうか? 特選句なく、入選1句、原石賞1句、シルシ11句、「・」(シルシまではいかないが、無印ではない)1句という惨状?でした。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                      〇漲(みなぎ)りし乳房の如く桃抱く              杉山雅子 恩田侑布子は、 「かつて“漲りし”乳房がわたしにもあった。そのときのようにいま、見事な白桃を胸に捧げ持つ。かつての若さをいとおしみ、目の前に生まれ出でた命を賛嘆する句。上五を過去形にしたことで、自分の身に引き付けた。母乳で子を育てたことの矜持もある。八〇代後半になられる雅子さんの作品とわかると、その若々しい感性にいっそう感動します」 と講評しました。                    【原】たなごころ居心地のよき桃一つ              松井誠司 「手のひらに置いた桃の重さが感じられる。桃は傷みやすいので持つのが難しい」 という感想がありました。 恩田は、 「“たなごころ”というひらがな表記がいい。実感をもって迫ってくる」 と講評し、次のように添削しました。  ゐごこちのよき桃一つたなごころ 「上五に“たなごころ”があると重量感が逃げていく。下五にもってくることによって、手に気持ちよくおさまっている桃の様子が浮かびませんか?」と問いかけました。 [後記] 本日の兼題の「桃」については、桃がお尻や乳房を連想させることもあって、オトナの議論がいろいろ広がりました。「深まった」かどうかは別ですが(笑)。やはり句会は楽しさが第一、と筆者は確信しております。  次回兼題は、「花火」と「稲の花」です。(山本正幸)

8月11日 句会報告

photo by 侑布子

8月1回目の句会。世間のお盆休みを尻目に本日も熱い議論が交わされました。 兼題は「汗」と「金魚」。入選3句、シルシ11句という結果でした。 高点句を紹介していきます。恩田侑布子特選はありませんでした。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                        〇らんちゆうや美空ひばりといふ昭和              伊藤重之 合評では、 「景がすぐ浮かぶ。美空ひばりは姿やイメージがまさに“らんちゅう”だった」 「昭和を背負い、昭和とともに去っていったのが美空ひばり」 「いや、その形からして“らんちゅう”は、美空ひばりとは合わないのでは??」 「天童よしみなら合いますかね」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「美空ひばりはその顔の大きさからも“らんちゅう”そのもの。日本髪や衣装も豪華で存在感抜群の歌手で合っている。ただし、“といふ”に理屈が残ってしまったところが惜しい」 と講評しました。                        〇掬はれて般若心経聞く金魚              佐藤宣雄 「お経と金魚の取り合わせが面白い。祭りで掬われて来た金魚。くよくよするな、イライラするな、というお経の声。滑稽味のある句」 「長く人生を生きてきた人。毎日、一人でお経のお勤めをしてきたが、今は金魚も一緒にそれを聴いて、気持ちを共にしている」 「縁日で金魚を掬い、持ち帰ったところがお寺だった。“掬はれて”には“救われて”の意味もあるのでは?」 「上五の場面展開がやや苦しい気がする」 との感想、意見。 恩田は、 「ユニークで面白い句。掬った子どもが世話をしているのではなく、仏壇のある部屋で飼われている。そこでお爺さんがお経をあげているのでは」 と講評しました。                       〇夕づつや金魚の吐息我が吐息              荒巻信子 恩田は、 「リフレインがきれいである。紺青の空のもと、金魚鉢にため息が聞こえる。やるせないが可愛いため息。宵の明星と反映して一層可愛く感じる。自分-金魚鉢-夜空、とまどやかな天球のような広がりがある。聴覚も刺激し調べがよい。“夕星”と“金魚の吐息”に詩がある。少し表記を変えたい」 と講評し、次のように添削しました。  夕星や金魚の吐息わが吐息 「“星”と表記すると秋を思わせる懸念があるとすれば、原句どおり“夕づつ”がいいでしょう。“我が”は“わが”とやさしくひらきたい」  夕づつや金魚の吐息わが吐息                           本日の兼題の「金魚」。次の句が紹介されました。 金魚大鱗夕焼の空の如きあり             松本たかし 恩田侑布子の解説は次のとおりです。 「金魚の美しさに子どものように感動している。小さなものを夕焼けの空と赤さに喩えている。レトリックだけで作っていない。“直喩”は“俗”になりやすいと言われるが、この句は大胆に焦点を合わせている。“如く”だと散文的だが、“如き”としたことで、小さな切れが生まれ、句全体に反照し響く。句の世界が提示されるのである」 [後記] 本日の句会のテーマはまさに「散文ではない俳句を作りましょう」。 いつにも増して厳しく恩田侑布子は次のように指摘しました。 「今回、“散文の一行”のような句が多く見られました。俳句には詩がなければなりません。詩が発見されないと、たとえ切れ字を入れたとしても切れず、どんな余白も余情も涌いて来ないのです。日常に寝そべった気持ちで作ると、ほとんどが散文になってしまいます」  筆者としては何度も肝に銘じてきたことですが、つい説明したくなってしまって・・・。 次回兼題は、「蛇」と「桃」です。(山本正幸)

8月19日 句会報告

yuri

 8月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「向日葵」「夏服」でした。 今回は恩田侑布子の特選句が出ませんでしたが、「あと一歩で名句だったのに!」という句が目立ちました。イメージが沸きやすい兼題にも関わらず、個性豊かな世界観が広がっていたような気がします。 さて、まずは今回の高得点句から。 夏服や遠くに海を見るホーム             佐藤宣雄   「すごく単純だけど、心惹かれる青春句に感じた」 「涼やかで悲哀に満ちて落ち着きがある」 「津波で町が流され、遠くにある海まで見渡せてしまう悲哀を感じた」という感想が出ました。 “ホーム”という言葉にそれぞれ違うイメージを持ったようです。 青春句と感じた方は「夏の制服を着た若者が電車のプラットホームから海を眺めている様子」を、 悲哀に満ちた句と感じた方は「老人ホームの窓から海を見ている老人の様子」を、 そして「東日本大震災の被災地をプラットホームから眺め、季節が巡っても光景が変わらない様子」を見たのです。  恩田侑布子はこの読み手のイメージのばらつきは、やはり“ホーム”を曖昧に描写しているところに理由があると感想を述べました。 同じ音でも違う意味を持つ言葉には注意が必要ですね。      さて、続いての句は添削してみるとより面白くなると話題になった句です。 アロハ着て夜の国ゆくピアノ弾き             伊藤重之   恩田侑布子はとても個性的な世界観の句で、ひとところに収まらない、放浪のジャズピアニストをイメージできると鑑賞しました。しかし中七の「夜の国ゆく」というところがメルヘンチックになってしまい、損をしているように感じたようです。そこで、このような添削例を出しました。 (添削例) アロハ着て千夜をゆけりピアノ弾き アロハ着て千夜をゆくとピアノ弾き  「千夜一夜」という言葉の持つ妖艶さが、夜から夜に渡り歩くピアニストの放浪の旅と結びつき、句の世界観をより一層高めるのではないか、というアドバイスでした。 作者は「千夜をゆけり」が気に入ったようです。  次回の兼題は「秋の日」「きのこ」です。 すっかり秋の季語です!!この兼題では「秋日」「秋日和」「しいたけ」「タケノコ」などの食べ物としてのきのこでも、「キノコ狩り」のような使い方でもOKと、幅広く季語を探していいとのことですが…逆にとても頭を抱える二週間となりそうです。(山田とも恵)

八月のプロムナード

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樸の八月の佳句を恩田侑布子が鑑賞していきます。 夏から秋にかけての刹那的な熱がほとばしる季節をお楽しみください。(山田とも恵) ≪選句・鑑賞 恩田侑布子≫ 胡瓜もみ昨日も今日も明日もかな            樋口千鶴子  子どものころ「今日もコロッケ、明日もコロッケ」という歌がよく流れていた。コロッケは冬季の季語にふさわしいが、こちらは火を使わない夏の定番料理、胡瓜もみ。ひらがなのなかに「胡瓜」、「昨日」、「今日」、「明日」と漢字がとびとびに埋まっていて、あたかも日めくりの暦をめくるよう。めくってもめくってもそこに現れるのは胡瓜の塩もみ。透明な翡翠色の食卓が永遠につづくような気がする。素手素足で生きる涼しさ。こんな滑稽はわるくない。 原爆忌父の命日でもありき             佐藤宣雄  父は長い戦後を生き抜いてぼくらを育ててくれた。その命日が八月六日。まさに原爆忌であった。一個のいのちを喪った悲しみすら言い尽くせないのに、原爆の死者を一口に14万とも35万人ともいう。だが、アメリカ人の多くは「原爆は戦争終結に役立った」と今も考える。そこに日本が加害者として戦争を始めた根深さがある。「戦争を日本人自身の手で終わらせることができなかったことの意味は今後もこの国に長く尾を引くでしょう」と鶴見俊輔は問いかけた。掲句も座五の「でもありき」が不断に問いかけて来る。社会や歴史に、わたしたちはかけがえのない個として切実に向き合ってゆくしかない。父の無言の遺言が聴こえる。   揚花火老い知らぬまま華のまま             海野二美  夏の夜空を焦がす大輪の花火。その炸裂音。花火は老いを知らない。衰える前に消える。この句は、華のまま美しく別れましょうというせつない恋の句であろうか。生涯をかたむける一夜限りの逢瀬は、時を闇に発光させる花火さながら。しかし、声に出して口遊んでみると意外にもふっくらとやわらかなリズムに包まれる。次々に揚がる花火のように、うつくしく華やかに生きたいわという夢みる女ごころかもしれない。

8月5日 句会報告と特選句

sando

 8月1回目の句会が行われました。今回の兼題は「風鈴」「夜店」でした。 「風鈴」は住宅環境の変化によって最近は姿を消しつつありますが、あの音色は日本人のDNAに刻まれているのか、自然と涼しい風を感じることができる気がします。 さて、まずは今回の高得点句から。 風鈴に音みな吸い取られし午後             佐藤宣雄 「夏の午後の倦怠感がある」 「音を“吸い取られる”という表現がとても勉強になった」 「風鈴の音が聞こえるからこそ、より周りの音が静かに聞こえるという感覚が共感できる」 というような意見が出ました。 恩田侑布子からは、 「発想は面白いがリズムが良くないと思う。静謐な風鈴の音を感じる上五と中七があるのに、最後の「午後」という音が雑音になってしまっていてもったいない。」という意見が出ました。  作者は情景を明瞭にしたいと思い、あえて「午後」を入れたとのことでした。   全体のリズム感を保ちつつ、自分の描きたい情景を浮き上がらせる…難しい!    さて、続いての句です。 ちちははとあにあねと行く夜店かな             藤田まゆみ 「幼いころを思い出している光景かなぁ」 「夜店の出ている場所へと向かう、幼い日のあたたかい雰囲気が懐かしくなる」 「できたらもう一度戻りたい」 「あとから付いていく自分の姿を俯瞰で見ているよう」 というような、幼いころを思い出す意見が多く出ました。 が、一方で 「これはこの句会(大人しかいない句会)で投句されているから“過去を懐かしんでいる”というような鑑賞になるが、誰が投句しているか分からない状態だったら小学生の素直な句と感じるのではないか?」というような意見も出ました。 恩田侑布子もこの意見に賛成とのことでした。 また、「ちちはは」は良いとしても「あにあね」まで平仮名にしてしまうのはやや作為的に感じてしまう、という意見が出ました。 あえて作為的にしたからこそ、小学生の素直な句には思えなかったのかもしれません。  とはいえ、指摘があった通り「句会の状況を見て、句を勝手に解釈してしまう」というのは句の本質をとらえ損ねる危険があるので、今後も注意していきたいと思いました。  次回の兼題は「涼し」「残暑」です。暦では秋ですが、現代の日本では8月下旬はまだ秋の実感よりも、夏がかげっていく実感の方がしっくりきますね。夏好きとしては、離れがたい気持ちでいっぱいです。(山田とも恵) 特選   貝風鈴カウンセリング始まれり                         山本正幸  貝風鈴がカウンセリングの小部屋に吊るされている。白やスモーキーピンクのやわらかな色の薄い貝殻たちが透明な糸につづられて音もなき音、かそけき音をたてる。砂浜を裸足で歩くときのあの心地よさをからだのどこかが思い出すような音色(ねいろ)である。これはなんのカウンセリングだろう。深刻とまではいかないけれど、もやもやとした気の晴れない悩みごと、心配ごとの相談に来たのだろう。カウンセラーの話を聞く前に、揺れる貝殻のしずかに触れ合う音に癒されてゆく。こころはすでになかば静まって、これから対処してゆくべきことが夜明けの水のように感じられる。作者はカウンセリングの受け手であったかもしれないが、不思議にも掲句のデリケートさ、やさしさ自体がヒーリング効果をもっているようだ。A音の頭韻に、ラ行のリリレリが添って、調べに微妙な風と陽光がささめく。七月初めの梅雨の晴間。ゆれる貝殻のむこうに青空がみえてくる。         (選句・鑑賞 恩田侑布子)