photo by 侑布子
恩田侑布子の「竹百畳」を読んで
角川『俳句』2023年9月号特別作品21句
上村正明
恩田侑布子の俳句は、難しい言葉が少なく、リズミカルなので読みやすい。駆け出しの私にも「優しい」句が多い。それに引き換え、俳句誌の巻頭部を飾る、多分高名な諸先生の俳句は「字余り」や「字足らず」、難しい言葉が多用されていて、極めて読みづらい。こういう句を見ていると、盆栽展に並んでいる、やたらと曲がりくねる古色蒼然とした盆栽を思い出してしまう。
たまたま購入した、角川俳句・2023年3月号に掲載されていた先生の「はだかむし 自選20句抄」に遭遇し、これらの句が比較的容易に理解できたことが、樸俳句会の門をたたくきっかけとなった。
結ひあぐる黒髪真夜の瀑となれ
普段、女は、男の前では、受動的スタイルを崩さない。男はそれを見て、女をそう理解しがちである。このような男の一人である私は、この句を読んで、女もやはりそうなのかと安心した。
男、女といっても、性には強弱があり、異質のものまである。この句に詠まれている男、女の性はきっと強いに違いない。
走つても/\土手ちゝろ蟲
この句を見れば、駆け出しの私だって、山頭火の代表作を思い浮かべ、それと比較したい誘惑にかられる。先生の意図されているところであろう。「走っても」が「分け入っても」に、「ちゝろ蟲」が「青い山」に対応している。「土手」を省略すれば、字足らずの句ともいえるが、立派な自由律句だ。
山頭火の句と並置しても、二つは、存在感を持って並び立っている。いや、むしろ、先生の句の「土手」が余分のようにさえみえる。
燻りし男を連れて大花火
女が男を想っている気持ちは痛いほどわかる句だ。このような女が身近にいることは男にとってありがたいことだ。しかし、男が日々格闘している世の中は、女が思うほど甘くはない。大花火くらいで癒されることはないかもしれない。しかし、そんな時でも、女には、男を立ち直らせるだけの力があることを知っておいてほしい。
ゴーヤすゞなり苦き一生こそ旨き
755になっても、リズミカルなのが、恩田侑布子の句の特徴であろう。しかし、「苦い一生こそが旨さ」という言葉に軽さを感じてしまうのはなぜだろう。恩田侑布子が一生を語られるには、まだ年季が足りていないからなのかな。
百畳の竹林ぬけし良夜かな
この「特別作品21句」の題が「竹百畳」なので、この句が掲載21句を代表する句なのであろう。
百畳ほど広い竹林は現存するであろうが、ここでは比喩として拝見したい。とすれば、先生は、抜けるのが容易ではない苦難の道を歩み続けてこられた結果、新境地に達せられたと自覚されたのであろう。さすれば、まさに、誠に良き夜である。新境地に達せられた後も、恩田侑布子は、コオロギの鳴く長い土手の道を走り続けられることであろう。
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樸に、最高齢の八十五歳で半年前に入会された上村正明さまは、メキメキ腕を上げられ、拙句に対しても忌憚なく伸びやかな鑑賞文を書いてくださいました。「まだ年季が足りていない」とふつう言われたらギャフンですが、上村さんなら、小さい頃から欲しかった「兄貴」から言われたような気がします。上村さんに感謝し、ご一緒に末長く俳句を楽しめますことと、益々の俳句の豊作をお祈りいたします。
(恩田侑布子)
「燻りし男を連れて大花火」
の句について。
恐らく、上村さんの鑑賞で正しいのだろう。
しかし、この句を見た時思い出した言葉がありました。
攝津幸彦さんがインタビューで答えていた文章です。
「自分を規定している存在性の中の欠如の部分に言葉を送り込んで埋めて、しっかり立たしめるみたいな、そういうのが俳句の一行に隠されているんじゃないかと。」
「男」は実在の男ではなくて、自分の心の中で何か、もやもやと燻りつづけている感情。昔ある男から投げつけられた言葉、または仕打ち、あるいは自分自身を責める後悔の感情、そのような消化しきれていない感情を、大花火という季語の中に消化させようとしているのじゃないか。
そのように鑑賞しました。
攝津幸彦さんがかつてインタビューで「句会」について答えていたものです。
「自分が思ってもいなかったような読み方をされるっていう、
これはたいへん楽しみですね。」