恩田侑布子『渾沌の恋人ラマン』(春秋社)、読書ノート(第3回)

静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の新著 『渾沌の恋人ラマン』を読み解いて下さいました。川面さんがメール配信されている 『渾沌の恋人』に関する読書ノートを、4回に分けて転載させて頂きます。今回はその第3回目です。
 

鉦たたき弥勒生るる支度せよ

鉦たたき弥勒生るる支度せよ   俳句photo by 侑布子 

読書ノート165 vol. 3

『渾沌の恋人ラマン
第三章 興の俳句

 
第三章「季語と興」で耳の痛いことを言う。「自句自解ほど危ういものはない。そもそも自句を散文で述べられるなら、最初から俳句をつくる必要などない」。私は黒田杏子さんから俳句を作らず散文に徹しなさいと勧められたことがあるため恩田さんの言葉も大きく響いた。
同書の第三章は、川端康成の〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉という句の紹介から述べ始める。川端がノーベル賞を受賞した後の即興句であり、「野」と「鈴」でノオベルと言葉遊びしたのだ。しかし、恩田さんは

  • 「この世という目に見える世界から、あの世という眼に見えない世界へと、白装束がすうっと消えてゆく余韻につつまれる。これは幽明界つづれ織りの名句なのだ」

と解釈している。なまじ川端が随筆で自句自解したばっかりに読み手が間違ってしまった。
 
それはさておき第三章は、同書の核心とも言える興について語っている。興は古来の中国で用いられた賦、比、興という修辞区分のひとつ。いろいろ解説を紹介しながら賦、比、興の現代の俳句を挙げて説明している。
賦(正述心緒・かぞへうた・直叙)の俳句は「写生句にほぼ重なる。平明で景が鮮明である」とし、高浜虚子の〈咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり〉が一例だ。
比(譬喩ひゆ歌・なずらへうた・直喩)は「独自のイマジネーションを持ち味とする。思いがけないものに類似をみつけだし、ちかづけ、橋が架かるゆたかさがある」。森澄雄〈ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに〉がそうだ。
 
興(寄物陳思・たとへうた・隠喩)は「おのおのの感性が多声音楽を生んでいる。それは余白に新たな泉を涌き立たせてやむことがない」という。例句を三十余句挙げているが、その中から以下の通り5句を示そう。
 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
 水枕ガバリと寒い海がある     西東三鬼
 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る
                 中村草田男

 銀河系のとある酒場のヒヤシンス  橋閒石
 吹きおこる秋風鶴をあゆましむ   石田波郷
 
以上とは別に恩田さんは芝不器男の〈あなたなる夜雨の葛のあなたかな〉についてこう解説している。

  • この句には、故人の抒情を超えて、葛の生い茂る山あり谷ありのこの世への呪的な反歌の匂いがたちゆらぐように思われる。なつかしいふるさとの山河よ、あたたかい人々よ、どうかいつまでもやすらかでいてください。しずかな声調に「興」の精神の地下水が脈打っている。

同章を読み、拙句も興の句をめざしたいと思った。(2022・7・12)

『渾沌の恋人』
第四章 俳句の切れと余白

第四章「切れと余白」でオリジナリティに富む俳句講座となる。「名句には切れがある」という小見出しの項で「切れとは俳意の別名である。それによって、ちっぽけな俳句は広やかな時空へ開かれるのだ」と述べ、中村草田男の句を例として挙げている。
それは〈松籟や百日の夏来りけり〉だ。〈松籟に百日の夏来りけり〉の定式では「ソツがなく、息が狭くなる」と以下のように解説している。

  • (前略)不易へのあこがれが「松籟や」の切れとなり、ほとばしった。(中略)さらに、句末「来りけり」の切れに全体重がかかる。精一杯いのちをかがやかし、碧玉のような百日を生き切ろうという決意が、天上の松風と韻(ひび)き合う。

作者が中村草田男で解説が恩田さんだから説得力がある。その通りだと思うが、私たちが上五を「や」で切り、下五を「けり」とした俳句を作れば、句会ではノーと言われる。「や」と「けり」、あるいは「や」と「かな」という切れを一句の中で使うと切れが強すぎるということになり、避けるのが通例だ。
次に挙げた例句、石田波郷〈雪はしづかにゆたかにはやし屍室〉は「はやし」に切れがあると言う。以下のように解説する。

  • (前略)息を引き取ったばかりのひとの生の時間は、翩翻へんぽんたる雪となって「しづかにゆたかに」虚空に舞い始めるのである。空間も、結核療養所の屍室という特殊な状況を超えて、あらゆる人の死の床に変容してゆく。それこそが「切れ」のもつ呪力である。

以上の一節の前に恩田さんは次のように述べていた。「切れの機能には、感動、詠嘆、強調、提示、疑問、安定などがある。掲句の切れは、感動、詠嘆だが、同時に空間を普遍化するはたらきも見逃せない」。恩田さんはここで俳句の先生になっているわけだが、続きの「読み手はそれぞれの胸のなかに棲んでいる大切なひとの死を思い出すだろう」という文言を読むと人生の指南に思えてくる。
俳句は見た景を描写する写生が基本だが、眼に見えないもの、この世にいない人を詠んでもいい。虚実の間に詩が生まれるが、作った句が独りよがり、作者だけの思い込みであれば、句作ノートに記して句会には投句すべきでないと言われる。恩田さんの話は一定の水準をクリアした俳句について言えることだ。
さらに「俳句の神髄」という小見出しの項では「俳句は、切れの余白のなかで作り手と受け手が出会う。切れとは、互いの記憶や感情や体験が変容しつつ、なりかわり合う時間である」と述べている。要するに通じ合う、共感し合うということであろう。肝に銘じたい。(2022・7・13)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です