
恩田侑布子代表の作品を、季節にあわせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。 今回は共に句座を囲む山本正幸による、新年の句の鑑賞文をお届けいたします。 後半にはこの句との出会った講演会でのお話も。 句と出会い、それを咀嚼し、消化し、また新たな言葉に紡ぐ楽しさ。 これもまた俳句の楽しみ方ですね! 新年の詞花集 富士浮かせ草木虫魚初茜 恩田侑布子 富士浮かせ草木虫魚初茜 ...
恩田代表の俳句を、季節ごとに鑑賞していきます。
五月第二回目の詞花集では、ふじの句をとりあげます。 「ふじ」は、藤、不二、不時、富士など、おおくの連想を生じさせてくれます。 作品をつうじて、おひとりおひとりにとってのふじなるものに思いを馳せていただけましたら幸いです。 五月の詞花集 きりぎしまでゆけば来てくれますか 藤 恩田侑布子 きりぎしまでゆけば来てくれますか 藤 恩田侑布子 きりぎしはきりたった崖のことで、はっきりとした境界を感じさせる。この世とあの世の境目かもしれないし、正気と狂気のあわいかもしれない。 だから、来てくれますかと問われた人は、ふつうに会える相手でないのだろう。自分とは別の次元にいるか、非日常の機会にしか逢えないひと。すでにこの世のものではないひとだろうか。それとも叶わぬ恋の相手だろうか。 「きりぎしへ」ではなく「きりぎしまで」とした字余りが、会いたい願いの強さを物語っているようだ。張り裂けそうな気持ちが極まって行けるところまで行ってしまえば、あるいはきりぎしを踏み越えるような身を滅ぼすほどの覚悟をみせれば、あなたは来てくれるのですかと、狂おしくかなしく訴えている。 藤の色調は、花房のなかにこまかい光を集めた独特のかがやきとグラデーションとに特徴づけられる。境界の混じりあうような、あわいの美しさである。下垂して咲く姿からは、花房の重量感とともに、不安定さや繊細さも感じられる。毅然としつつも頼りない、心騒がされる魅力をまとう花なのだ。 視覚的にも、「きりぎしまでゆけば来てくれますか」の部分は、一線にしだれる藤の長房だ。藤棚のひとふさのこの世ならぬ妖艶さ。しかし一方で、恩田の作品としては非常にめずらしいひとます空けの技法によって、絶壁の深淵に向かってかかる、寄る辺なく弧絶した山藤の姿もみえてくる。 房のむこうにみえてくるのは、死別の悲しみに打ちひしがれて、あるいは恋の切ない喜びに輝きながら、白靴のハイヒールでゆらゆらと絶壁にすすむあやうい女の姿である。いっそ思いの絶頂でこと切れてしまいたい、という情念すら感じられてくる。藤はまた、呼びかける相手の象徴でもあるだろう。決して手の届かない愛おしいひと。ひょっとすると、かのひとの名前には藤の字が含まれているのかもしれない。余白によって強調された一句の「切れ」に、言葉にならない思いの丈が凝縮されている。 ふじの音は、不二にも不時にもつうじるようで、いとしい相手にたいして抜き差しならない問いを口にしてしまう制御不能のひとときを、ダブルイメージとして響かせている。一句をつうじて繰り返される鋭いカ行音、とりわけガラスを擦るような「キ」の音は、気がふれんばかりの切実な思いを伝えてくれる。 来てくれますかと願ったことは、おそらく届かず叶わないだろう。だからこそ想いは終わることなく深まってゆく。エネルギーの圧縮装置である十七音に折りたたまれた祈りは、かのひとだけではなく読者をも誘いつづけている(鑑賞 大井佐久矢)。
恩田侑布子代表の作品を、季節にあわせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。 初回は、みずみずしく満ち足りたおもむきの季語「八十八夜」を詠み込んだ作品をとりあげます。 みなさまはそれぞれの場所で、どのような八十八夜の季節をお過ごしでしょうか?? 春雨にみどりが深まり、山々から雲が湧く甲府から、鑑賞文をお届けいたします。 ご一緒に季節を感じていただけましたら幸いです! 五月の詞花集 富士に野に八十八夜の水走る 恩田侑布子 富士に野に八十八夜の水走る 恩田侑布子 (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版予定) 晩春の美しい季語「八十八夜」を、「夏も近づく八十八夜」ではじまる茶摘みの童謡から聞き知っている向きも多いだろう。茶処・静岡では、八十八夜がことに生活になじんでいる。里の蕎麦屋にゆけば、自家製の緑茶のみならず、茶葉の天ぷらまでがふつうに出てくる土地柄なのだ。 八十八夜は立春から八十八日目を指し、今年は五月一日だった。つい先週である。まさにいま、いのちを育てる慈雨がせせらぎとなって、富士にも田畑にも満ちはじめているのだ。狭庭の隅々にまでゆきとどくような水の動態的なイメージが、血の通ったみずみずしい世界の印象をいっそう鮮烈にしている。静岡にいずとも、私たちにとって身近な野山にあたらしいいのちがめぐみはじめる喜びを、この句はまさやかに感じさせてくれるだろう。 句を縦書きにすると、「八」が端麗な富士山の姿にも、また水の流れにもみえて面白い。作品全体をはっきり貫く中心線と、「八」の末広がりの形象によって、清冽なせせらぎが目に浮かぶようだ。 幼少期は藁科川や笹間川で泳ぎ、川の一生に興味があるという恩田にとって、水は特別な存在である。川のみなかみ、源流をたずねて、ワンダーフォーゲルをはじめたときくほどだ。たえまない流れによってのみ清流が保たれるように、不断の自己変革をつうじていのちを輝かせていこうとする表現者としての覚悟が、恩田を水にひきつけるのだろう。 天地を循環する水はまた、いのちの触媒でもある。自然と人間、他者と自分とが互いに呼び交わす、その関係においてこそ、いのちが実現することを想起しよう。この句のいのちを支えているのは、「富士」「八十八夜」「走る」という、ハ行の通奏低音だ。ハ行音は息の音。晩春のゆたかな息吹がめぐる、呼吸としての俳句である。 (鑑賞 大井佐久矢)