二〇二一年・樸・珠玉作品集 (五十音順)
iPhoneは禅に生まれし冬うらら 恩田侑布子 HAIKUPhoto
火と土の匂い
恩田侑布子
今年もリアルとリモート両用の樸(あらき)俳句会の珠玉かつ異色の作品が揃いました。2021年というコロナ禍にあっても、俳句を伴走者に日々新しい気づきに恵まれたことは幸せでした。地方都市に住む者の自粛期間は、海山川のいのちと語り合い、句作を楽しむゆたかな時間。日本の毛細血管の血流のすこやかさでした。
多様性(ダイバーシティ)がいま国内外で叫ばれています。当会ではそれをすでに実現出来ていることに胸を張れます。齢は80代から31歳まで、住まいはエチオピアから名古屋まで。生い立ち、教育、職業、家庭のまったく違う来歴の持ち主が、何のわだかまりもなく好きな俳句の解釈と批評に熱くなれます。それはかけがえのない時間。そうした中から立ち上がった俳句は、誰の真似でもない、ひとり一人の足元にある火の匂い土の匂いを持っています。それこそが樸俳句会の特色です。
以下の作品中には恩田の添削句も含まれますが、座の文芸である俳句において、改作は原作者にお返しします。
昨年の恩田は微恙続きでした。本年は温かい仲間とともに健康第一に、三月の第二文芸評論『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社刊)と、秋の第五句集開版に向かって全力投球いたします。
こじんまりした会のなか、次代を切り拓く若者が育っているのもうれしいことです。願わくは、志ある若手の層を厚くし、新たな俳句の潮流をともに生んでゆきたく存じます。
ご訪問いただいている皆さまにおかれましても、およろこび多い年になりますよう心からお祈りしております。ご高覧ありがとうございます。
福引をひく七色のひかりかな 恩田侑布子 HAIKUPhoto
猪狩みき
湖出づる川のさざめき柳の芽
遠雷や大陸を象大移動
雨に濡るる牛と見てゐる大花野
《ねむっているもの》
先日の句会での拙句“ほそ枝のふるへ 映せる白障子”を読んで、恩田先生が “冬の水一枝の影も欺かず(中村草田男)”を思い出したとおっしゃった。この句はとても好きな句なので、それが話題に出てきたことが嬉しかった。作るときに草田男の句はまったく頭に浮かんではいなかったけれど、自分の中のどこかにその見方や表現の仕方が残ってはいるのかもしれない。知らず知らずに自分の中に残っているもの、眠っているものが引き出されてしまう句作を怖いともおもしろいとも思っている。
海野二美
探梅や独り上手の万歩計
向日葵や強情は隔世遺伝
夏草を漕ぎ湿原の点となる
《樸の強み》
恩田先生が無事に回復なさり、コロナ禍に於いても我が樸は喧々諤々(?笑)忌憚のない楽しい句会を重ねることができました。今年最後の句会の折り、先生が皆様個性的な作句が出来るようになって来たと言われましたが、そもそもオールオッケーというか、先生が自由な作句をお許しくださっているからで、今回は花鳥諷詠、たまには時事俳句と会員は想像の翼を拡げて句作ができているからではないでしょうか・・・。
それが一番の樸の強みだと思っています。
金森三夢
職辞せる妻の小皺のあたたかし
下駄ひとつ九月の汀ただよへり
猪鍋や夫婦和合の合わせ味噌
《谷あり谷あり》
樸句会に入会し2年が過ぎた。谷あり谷ありで毎回冷や汗を流しつつの苦会(句会)だが、能力に秀でた連衆とビギナーズラックに支えられ何とか休むことなく励んでいる。恩田氏から「作風が変わった」と評して戴き、少しだけ小さな胸を撫で下ろしている。憧れの岩波文庫に執筆の依頼を受けた辣腕の師に受ける叱咤激励が心を満たし、今年は<自分にしか詠めない句を分かりやすく>をテーマに悪足掻きを続けたい。
塩谷ひろの
鉄板の足場ひびけり梅雨夕焼
椎茸を干すおとついの新聞紙
猫を撮る落葉に膝を湿らせて
《いたまきし》
俳句ブームの折、二年ほど前からネットなどで「いたまきし」という俳号で投句し始め、たまに選ばれると一喜一憂していました。そのネット上の常連の方が樸句会の方だと知り、勇気を出して地元静岡の俳句の会に入ることにしました。欲張りなもので今では句会だけでなく吟行をしてみたいと思っています。
島田 淳
一列に緋袴くぐる茅の輪かな
春の月財布も軽き家路かな
でで虫や己が身幅に道を食み
《俳句とパワハラ》
昔私がお世話になった上司は、今で言う「パワハラ」気味の人と恐れられていた。私とは気が合ったのは、仕事についての考え方が共通していたためであろう。そこで私は、上司の意図を相手に丁寧に説明して回った。おかげで私は「話の長い人」の異名を頂戴することになった。
俳句は、自分の感動を十七音で伝えなければならない。伝わらないのは表現が未熟だからである。いわゆるパワハラの中には、伝え方の問題に起因するものも少なくない。そして私の「話の長い人」からの脱却も未だしである。
鈴置昌裕
安倍川に異国に慰霊花火降る
踊場にひとり九月の登校日
塾の子のペダルふみこむ小夜時雨
《樸に入会して学んだこと》
7月から入会し、恩田侑布子先生と連衆の皆さんから多くのことを学んでいます。
先生からは、俳人として誠実でなければならないこと、人真似ではない、自分の全体重をかけた句がいい俳句であること、見るとは見られることなど、俳句に親しむ者の基本姿勢を教えられています。
そして、連衆の皆さんからは、人間としての優しさや柔軟性、自己の個性を大事にし、互いを尊重しながら、人生を楽しむ生き方を実感させていただいています。
芹沢雄太郎
胸いだく白きひざしや探梅行
春風の尻尾を掴む夜道かな
春の日や額の高さのよく香る
《海外で俳句に触れる》
2021年に私は海外での仕事を始めて、日本の四季の移ろいの豊かさが相対化される思いがしています。
しかし離れすぎれば実感は遠のくばかり。
そのバランスをいかに保って作句を続けていけるかが、私の本年のテーマとなりそうです。
田村千春
躙口片白草へ灯を零し
かへり路迷ひに迷ひ日雷
銀杏落葉ジンタの告げし未来あり
《きらめく河》
樸俳句会HP『久保田万太郎俳句集』コーナーから、書評にトライ。初めての体験である。「千 波留」なる筆名に変えてみて、やっぱり本名でいいか、と元に戻した。その四文字を見返すうち、「でも元の私とは違う…俳句を知らない頃の私とは」という思いが湧いた。美を見出すたびに、喜びに浸る毎日。俳句がもたらしてくれたものは計り知れない。十七音より生まれる光の河を隔てて、対岸に立つもう一人の自分に出会うことができた。
都築しづ子
媼より給ぶ大根の葉の威風
雪女郎来しか箱階段みしり
原つぱへ一人吟行小春かな
《喜びと痛みと》
昨年のクリスマス。 フラ・アンジェリコの受胎告知を見たくなって画集を開く。 数ある受胎告知の中で一番好きだ。フィレンチェのサンマルコ修道院でこの絵に会った時の喜びが甦る。暫く見入って棚に戻そうと重い画集を手に持った時、それは私の力ない指からズドンと落ちて足の親指をしたたか打った。数日後痛みが指先から膝に及び脚が曲がらない。喜びも痛みも呉れる永遠の名画である。
初日影はらわたに底なかりけり 恩田侑布子 HAIKUPhoto
萩倉 誠
レコードのざらつき微か霜の夜
ぷしゆるしゆるプルトップ開く街薄暑
小三治の落とし噺や草紅葉
《退化論》
奈良公園の鹿のごとくタレントの識別ができず、
散歩なのか徘徊なのかの戸惑。常にとりあえずのトイレ。
アイセルとアイフル、同じページを読み返す、誤認と忘却。
などなど、70有余年経て細胞が入れ替わり、「ジジイ」という亜種に退化。
いかんいかん。
介護士のいじめに耐える体力、独力で三途の川を渡る泳力だけは・・・
ということで、週2,3回ジムでお魚になっています。
まてよ、体力が付くということは徘徊が遠方まで・・・
林 彰
明けやすし夢の続きを探しをり
葉脈は骨格となり朴落ち葉
摩天楼崩れし九月青い空
古田秀
ししむらを水の貫く淑気かな
言はざるの見ひらくまなこ日雷
彫るやうに名を秋霖の投票所
《家族会議》
新型コロナウイルスの蔓延以来久しく帰省しておらず、ついに大晦日に家族でzoomミーティングをすることになった。染めるのをやめて白髪になった親と、背景に映る懐かしい実家の部屋。子ども部屋はもう親の仕事場になってしまったらしい。終わったあとの除夜の静けさの中、今年最後の新幹線が窓の外を過ぎていった。
前島裕子
八橋にかかるしらなみ半夏生
腕白が薫風となる滑り台
めくるめく十七文字新樹光
《来年こそ》
今年も残すところ数日となりました。
一年前の自分のエッセイを読み返してみて、フムフム、
今も同じことを思っている。
コロナ禍の中リアル句会にも参加させてもらっているのに、いい副教材もいただいているのに、自分は・・・。
一歩踏み出したい。
「継続は力なり」という。めげることなく自分らしい俳句をめざしやり続ける。来年も。
益田隆久
朝にけに茶の花けぶる水見色
内づらの吾しかしらぬ障子かな
しづけさを午後の障子にしまひをり
《影あってこその形》
吾64歳。若い時を振り返ると、寅さんの口上ではないが恥ずかしきことの数々。坂を上る時には自分の影は見えない。下る時になって初めて、上っている過去の自分の影が見える。当時見えなかった周りの風景も見える。過去と現在はすれ違う。自分の影を直視することは魂の救済になるのかもしれない。久保田万太郎俳句集を読んでいると当時の彼と私とが俳句を通して出会い互いの魂が共鳴する。
見原万智子
目刺焼くうからやからを遠ざかり
瓜揉や食卓に小ぶりの遺影
ひと皿は椎茸の軸慰労の夜
《入れる、抜く》
見原家は舅の代までずっと漁師。魚中心の食生活は味覚が鋭くなるようで、家族に美味しいと言ってもらえるまで何年もかかり、その後も調理に力を入れてきた。だから兼題が食べもののときはつい張り切ってしまう。
ところが恩田先生や連衆に採っていただいたのは、ひとりの気楽な昼餉、実母の簡素な献立、居酒屋の脇役的な一品。どれも力が入っていない。入れたら抜いて、呼吸するように。と俳句の神様が言っているかのようだ。
望月克郎
いつからか夏野となりし田しづか
声高く子らの走るや落葉踏み
おでん煮る一人住まいの暖かさ
《俳句を始めて半年》
6月に入会して以来、毎回出される兼題に振り回されるかのような半年でした。燕を観察し、甘酒を作り、里芋を煮転がし、あちこちから空を見上げ、風を感じる。日常の中に新しい発見をいくつも経験しました。
山田とも恵
冬灯落つ階段の会釈かな
急坂や肺いつぱいの夏至ゆふべ
輪廻してまた佇みぬ大花野
《輪廻》
「言葉」とかくれんぼをしている。「言葉」は隠れるのがうますぎる。私は見つけるのに疲れ、つい目をそらして探すのを休もうとしてしまう。しかし、疲れ果てた仕事終わりに見る冬の星や、ふくらみ始めた梅のつぼみの影に「言葉」の気配を感じると、またかくれんぼをはじめる。2022年はもっと多くの「言葉」を見つけ出したいと思う。
山本正幸
短夜や文庫の『サロメ』★ひとつ
雷遠く接種の針の光りけり
人妻の幼馴染と踊るなり
《紙の本》
自選句に挙げたワイルド作・福田恆存訳『サロメ』(岩波文庫)は★ひとつで定価50円。ビアズレーの妖しい挿画に惹かれた。半世紀前、青版の岩波新書もなべて150円だった。学生の懐にやさしかったが、今は昔。先般購入した文庫本は266ページしかないのに何と税込1870円!年金生活者の懐にはきつい。安い古本をネットで渉猟することも屡々。電子書籍版なら手軽で廉価なのか?でも、紙の手ざわりと匂いを愛でつつ、ボクは読み続ける。