『星を見る人』の最終章で恩田は、芭蕉の『笈の小文』が宗達作『扇面散屏風』の形式を構想して書かれた可能性について触れています(XI、p236)。本書全体の構成が、こだわりなくたくさんの扇面(俳句作品)を散らしたようにも見え、俳句を鑑賞する楽しみを味わえる評論集という印象を受けます。 しかしそこには「絵巻のよう」と激賞された前著『渾沌の恋人(ラマン)』から一貫する主張があり、恩田があるものを希求し続けた闘いの記録、という見方もできるでしょう。さらに、自己探究の手がかりを与えてくれる書でもある…(編集委員・見原万智子) 初めての楽しい俳句講座 古今の名句鑑賞とともに 〜秋〜〈午前クラス〉 | 恩田 侑布子 |[公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター 初めての楽しい俳句講座 古今の名句鑑賞とともに 〜秋〜〈午後クラス〉 | 恩田 侑布子 |[公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター
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早稲田大学オープンカレッジ7月11日(木)〜
恩田侑布子「初めての楽しい俳句講座」開講
恩田侑布子「初めての楽しい俳句講座」開講
新刊紹介
『ゆれるマナー』 恩田侑布子他
中央公論新社 2024年3月18日刊

読売新聞・文化欄に掲載(2019〜23年)された恩田侑布子ほか「現代の賢者」9名のエッセイが、1冊の本になりました。 どこから読んでも面白いエッセイ100篇が、ぎゅっと詰まっています。 『ゆれるマナー』中央公論新社 3月18日刊行 税込1760円 著者:青山七恵/戌井昭人/小川糸/温又柔/恩田侑布子/白岩玄/服部文祥/松家仁之/宮内悠介(五十音順) オープンワールドで見つけた作法、骨法、処方箋 この本にはまえがきもあとがきも無い。ではどのあたりに留意して読めばよいのであろうか? 出版元の新刊紹介に「浮き世をサバイブしてきた賢者9名」によるマナーのエッセイ100篇とある。 賢者とくればテレビゲームと連想した私は、プレーヤーの移動制限がない“オープンワールド“と呼ばれるゲームのように、この本はどのエッセイから読んでもいい、と思うことにした。 ランダムにパラパラパラ…どれもこれも面白い。止まらない。だが、まだ読んでいないのはどれなのか探しづらくなってきた。 ならば、と普通に最初から読み出すと、これまた止まらない。さっきまでのオープンワールド的な読み方とは異なる趣があり、章ごとに新たな知恵を授けられる感じ。 ひとことで言うと100篇はどれも上品である。育ちがいいとはこういう人たちを指すのだろう。 「それ私も同じことやってる」と我が意を得たマナーあり、思わず声に出して笑ってしまったマナーあり。 確かに現代をサバイブするマナー、というより極意、いや処方箋のように思えてくる。しかも楽しみ方を増やし生きづらさというヤツを極小化してしまう処方箋。そこが素敵だ。 では、恩田侑布子のエッセイをゆっくり味わおう。 大さじ一杯で酔っ払う話、追突事故に遭った話、と街なかのモノやコトも出てくるが、どの「マナー」にも、日々、野山や川辺を歩き小さないのちのほとばしりから感得した広大無辺な宇宙の営みのゆらぎを、ことばとして紡ぎ続けている恩田ならではの清々しいオチがついている。そしてちょっぴり置き去りにされたような、ここから先は自分で見つけてねと言われているような、見事な余白がある。マナー=作法というより(俳句の)骨法がエッセイにも通底している。 初出は読売新聞・水曜日夕刊「たしなみ」欄掲載(2019年4月2日〜20年4月7日)。毎回、誌面の真ん中に配置されていた山本容子さんの美しい銅版画をおぼろげに懐かしみつつ、こうして本棚に収まるようになっていつでも手に取れるのはいいなぁ、としみじみする。 そのうち私も9人の賢者のように品のいいモノ・コトの見方・処し方ができるようになって、ひとつくらい「〇〇のマナー」というエッセイが書けるかもしれない。 おっと、こんな大それた妄想はマナー違反か。しかし、久々に並の自己肯定感を抱いて眠れそうとか、ほどよく気持ちが”ゆれる”のは、「まえがきもあとがきもないマナー」からそれほど逸脱していないはず、と思うことにする。 (樸編集委員 見原万智子)
2024年 頌春のお知らせ

明けましておめでとうございます本年も「樸」の俳句と鑑賞をよろしくお願いいたします。初心の方も大歓迎募集中です。 以下、新年のお知らせを申し上げます。 ◎恩田侑布子の私淑する鶴さん讃歌「不良とボサツ ー 鶴見俊輔『思い出袋』」をお読み頂ければ倖いです。 岩波新書〈新赤版2000点突破記念この10冊〉(岩波『図書』2024年1月号) 1月19日より、岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」にて「不良とボサツ ー 鶴見俊輔『思い出袋』」全文をご覧いただけます。 ↑ クリックしてください ◎恩田侑布子新年詠十句と、林桂氏による「百字で鑑賞 ー 恩田侑布子新春詠「三千の竹」十句頌」をお楽しみください。(『現代俳句』2024年1月号)
角川「俳句」1月号の結社マップに樸が
パトリア(精神の祖国)をもとめて 〜久保田万太郎シンポジウムを聴講して〜

12月16日(土)慶應義塾大学三田キャンパスで「久保田万太郎シンポジウム」が開催され、恩田侑布子先生が登壇されました。樸俳句会から猪狩みきさん、島田淳さんを始め数名が参加しました。本会は『久保田万太郎と現代 ノスタルジーを超えて』(慶應義塾大学『久保田万太郎と現代』編集委員会編・平凡社、2023年10月)の出版記念を兼ねています。 基調講演の最初に恩田先生が登壇しました。 講題は「やつしの美の大家 久保田万太郎――『嘆かひ』の俳人よさらば」。 30分という持ち時間でしたが、講演というより文学の講義のような濃い内容で、珠玉の俳句が生まれた理由から俳句表現史上の成果までが朗々と語られました。 また、解説と並行して、恩田先生のみずみずしく鮮やかな鑑賞とともに、いくつかの代表作が凛とした声で朗読されました。 [ 万太郎の句、声に出してよんだおりの味わいを満喫しました。(猪狩みきさん)] [ 岩波文庫の解説からもっと知りたかった「やつし」がよくわかりました。(島田淳さん)] 続いての基調講演は、石川巧氏(立教大学文学部教授)「久保田万太郎から劇文学の可能性を考える」、長谷部浩氏(演劇評論家、東京芸術大学美術学部教授)「万太郎と戸板康二−劇作と批評について」。 次に塾生による、久保田万太郎作品を脚色した朗読劇が上演されました。 休憩をはさみ、基調講演者三人に朗読劇の演出を行なった五十嵐幸輝さんを交え、パネルディスカッションが展開されました。 [ 個人的には、石川先生による戦前・戦中の文壇の状況、長谷部先生の「小芝居」と呼ばれた小劇場の隆盛と万太郎の万能人ぶりなどを併せて聴講したことで、恩田先生の「万太郎論」をより深く理解できたように思います。 また、慶應大学生による朗読劇『大寺學校』について、パネルディスカッションの中で恩田先生が切子硝子の照明から漏れる明かりの描写が場面転換になっていることに触れていらっしゃいました。そして「あの描写によって『劇』が『詩劇』になった」ことに感心されたとおっしゃいました。 そのお話をうかがって、万太郎が「描いたもの」ではなく、「描き方」をよく見なければいけないと、拙いなりに理解しました。 そして、「嘆かひの俳人」「日本文学に永く浅草を伝えるもの」という百年来の後ろ向きのレッテルを恩田先生が剥がされ、新たな万太郎像が目の前に現れたー意味が少しわかったように思います。(島田淳さん)] 終演後、恩田先生、島田さんとご一緒に、同大学図書館の資料室を見学しました。小説や戯曲の代表作、直筆原稿の他、文化勲章、著名人たちのサインが入った還暦祝いの赤い羽織、愛用のメガネや山高帽子、晩年の日記などが展示されていました。 ふと、万太郎が脚色した作品のポスターが目に止まりました。誰もが知っている劇場で、昭和40年度芸術祭参加作品と銘打っています。 万太郎の演劇はドラマらしいドラマが起きない、時として主人公は登場せず他の人物たちに「語られる」のみ、とパネルディスカッションで拝聴しました。現代では難解にも思えるそのような作品が、少なくとも昭和中期まで普通に上演されていたことになります。 会場を後にしてから、恩田先生が講演の終章でおっしゃっていた「近代の果てに精神的難民となった現代人」「パトリア(ラテン語で祖国)としての万太郎俳句集」という言葉を反芻しました。 私自身、高度成長の時代に合わないからという理由で捨て去った、その実、心のどこかで捨てるに忍びないと復権を願い続けていたモノやコトがあるのでは? それらを再び手繰り寄せることで、「やつしの美」への私なりの理解が深まるのではないか、そのように考える機会を与えていただいたシンポジウムでした。 (樸編集委員 見原万智子)
久保田万太郎シンポジウムに恩田侑布子が登壇します
毎日新聞書評欄にて『星を見る人』をご紹介いただきました

先日のお知らせ欄で告知いたしましたように、毎日新聞9月23日書評欄で、演劇評論家の渡辺保様から『星を見る人 日本語、どん底からの反転』を大きくご紹介いただきました。渡辺様は、昨年8月6日の同紙書評欄でも『渾沌の恋人』を取り上げてくださっています。『渾沌の恋人』『星を見る人』の2冊が恩田侑布子による俳句文学を軸とした日本文化論の総論・各論だとすれば、渡辺様の書評も昨年、今年と二つを合わせて、恩田の日本文化論の全体像を捉えたものとなっています。2年続けて著書を広く世間に知らしめていただきました渡辺様に、恩田侑布子はじめ樸一同より深く御礼申し上げます。 新説の正否、批評を超えて作品に 渡辺保 竹馬やいろはにほへとちりぢりに 久保田万太郎の名句である。 恩田侑布子は、この句を平安朝の「襲かさね」に例える。「襲」とは衣裳いしょうを襲ねることをいい、著者はこの句に四段の「襲」があるという。一枚目は「竹馬の子らが散らばって遊ぶさま」。二枚目は「冬の夕暮れに三々五々家へ帰りゆくさま」。三枚目は「その後の人生行路にゆくえ知れずになった竹馬の友への思慕」。四枚目は「『いろはうた』の無常観」。この四枚が重なってこの句の風趣を作る。なるほどいわれてみると、漠然としていた風景が鮮明になる。 その一方で、万太郎の俳句には表記に独特なものがあるという。 割りばしをわるしづこゝろきうりもみ という句を全て漢字で書くと、 割箸を割る静心胡瓜揉 これでは「騒がしい暑苦しさへと一変する」。漢字一字の効果と仮名表記の柔らかさが、この句には視覚的な読む効果を生む。 また万太郎には別な技法もある。たとえば古典との交錯である。 枯野はも縁の下までつゞきをり いうまでもなく「枯野」は芭蕉の「旅に病やんで夢は枯野をかけ廻めぐる」の「枯野」。その「枯野」が縁の下まで一気に来て、現実になる。読んでいてゾッとする人生の残酷さ、過酷な現実眼前である。 こういう様々な分析によって、万太郎の俳句の朧気おぼろげで、かそけき気配、その微妙なニュアンスが鮮明になる。こうなると俳句そのものも面白いが、著者の解釈が面白く、批評の文学になっている。 この本の中には、万太郎の他にも、多くの詩人、俳人、画家、批評家が登場する。そのなかでも白眉はくびは、最後の二編。井筒俊彦の芭蕉観と、芭蕉の『笈おいの小文こぶみ』についての新説。前者は井筒俊彦の『意識と本質』の言語化し難い観念をよく言語で捉えている。 井筒説によれば、意識の中には個体的リアリティーと普遍的リアリティーの二つがある。問題はこの二つが交錯する瞬間であり、著者は、その瞬間を俳句の切れ字の場面転換の作用によって解釈した。個体的リアリティーはこの作用によって普遍的なものに変わり、その関係が鮮明になった。 こうして万太郎から井筒俊彦に至った著者は、この本の最後に珠玉の作品を作った。すなわち「新説『笈の小文』」。芭蕉の『笈の小文』は『おくのほそ道』その他の紀行文に比べて評価が低い。それは作品自体の価値の問題ではなく、様式の問題であると著者は指摘する。たとえば日本美術には二つの様式がある。一つは「源氏物語絵巻」はじめ時間軸に沿って展開する絵巻物様式。もう一つは俵屋宗達の「扇面せんめん散屏風ちらしびょうぶ」の様な個々の扇面を画面に散らす、反時間的な展開の様式である。扇面式の『笈の小文』を『おくのほそ道』と同じ絵巻物様式では解釈できない。その証拠にもし扇面式に解釈するとたちまち別な世界が開ける。それは芭蕉とその晩年の恋人杜国との噎むせ返る様な恋であり、二人の死を目前にした命のほてりともいうべき炎であった。その熱っぽさは、さながら人間最後の生命の証の如ごとく、新説の正否、批評を超えて一つの作品になった。久保田万太郎に始まって井筒俊彦に至り、俵屋宗達を経て美しさに満ちた作品に達したのである。

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