毎日新聞書評欄にて『星を見る人』をご紹介いただきました

 先日のお知らせ欄で告知いたしましたように、毎日新聞9月23日書評欄で、演劇評論家の渡辺保様から『星を見る人 日本語、どん底からの反転』を大きくご紹介いただきました。渡辺様は、昨年8月6日の同紙書評欄でも『渾沌の恋人』を取り上げてくださっています。『渾沌の恋人』『星を見る人』の2冊が恩田侑布子による俳句文学を軸とした日本文化論の総論・各論だとすれば、渡辺様の書評も昨年、今年と二つを合わせて、恩田の日本文化論の全体像を捉えたものとなっています。2年続けて著書を広く世間に知らしめていただきました渡辺様に、恩田侑布子はじめ樸一同より深く御礼申し上げます。
 
 
 
新説の正否、批評を超えて作品に  

渡辺保

 竹馬やいろはにほへとちりぢりに
 久保田万太郎の名句である。
 恩田侑布子は、この句を平安朝の「かさね」に例える。「襲」とは衣裳いしょうを襲ねることをいい、著者はこの句に四段の「襲」があるという。一枚目は「竹馬の子らが散らばって遊ぶさま」。二枚目は「冬の夕暮れに三々五々家へ帰りゆくさま」。三枚目は「その後の人生行路にゆくえ知れずになった竹馬の友への思慕」。四枚目は「『いろはうた』の無常観」。この四枚が重なってこの句の風趣を作る。なるほどいわれてみると、漠然としていた風景が鮮明になる。
 その一方で、万太郎の俳句には表記に独特なものがあるという。
 割りばしをわるしづこゝろきうりもみ
 という句を全て漢字で書くと、
 割箸を割る静心胡瓜揉 
 これでは「騒がしい暑苦しさへと一変する」。漢字一字の効果と仮名表記の柔らかさが、この句には視覚的な読む効果を生む。

 また万太郎には別な技法もある。たとえば古典との交錯である。
 枯野はも縁の下までつゞきをり
 いうまでもなく「枯野」は芭蕉の「旅にやんで夢は枯野をかけめぐる」の「枯野」。その「枯野」が縁の下まで一気に来て、現実になる。読んでいてゾッとする人生の残酷さ、過酷な現実眼前である。
 こういう様々な分析によって、万太郎の俳句の朧気おぼろげで、かそけき気配、その微妙なニュアンスが鮮明になる。こうなると俳句そのものも面白いが、著者の解釈が面白く、批評の文学になっている。

 この本の中には、万太郎の他にも、多くの詩人、俳人、画家、批評家が登場する。そのなかでも白眉はくびは、最後の二編。井筒俊彦の芭蕉観と、芭蕉の『おい小文こぶみ』についての新説。前者は井筒俊彦の『意識と本質』の言語化し難い観念をよく言語で捉えている。
 井筒説によれば、意識の中には個体的リアリティーと普遍的リアリティーの二つがある。問題はこの二つが交錯する瞬間であり、著者は、その瞬間を俳句の切れ字の場面転換の作用によって解釈した。個体的リアリティーはこの作用によって普遍的なものに変わり、その関係が鮮明になった。

 こうして万太郎から井筒俊彦に至った著者は、この本の最後に珠玉の作品を作った。すなわち「新説『笈の小文』」。芭蕉の『笈の小文』は『おくのほそ道』その他の紀行文に比べて評価が低い。それは作品自体の価値の問題ではなく、様式の問題であると著者は指摘する。たとえば日本美術には二つの様式がある。一つは「源氏物語絵巻」はじめ時間軸に沿って展開する絵巻物様式。もう一つは俵屋宗達の「扇面せんめん散屏風ちらしびょうぶ」の様な個々の扇面を画面に散らす、反時間的な展開の様式である。扇面式の『笈の小文』を『おくのほそ道』と同じ絵巻物様式では解釈できない。その証拠にもし扇面式に解釈するとたちまち別な世界が開ける。それは芭蕉とその晩年の恋人杜国とのせ返る様な恋であり、二人の死を目前にした命のほてりともいうべき炎であった。その熱っぽさは、さながら人間最後の生命の証のごとく、新説の正否、批評を超えて一つの作品になった。久保田万太郎に始まって井筒俊彦に至り、俵屋宗達を経て美しさに満ちた作品に達したのである。
 
 

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里神楽星へつがへる白羽の矢  恩田侑布子(写俳)

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