4月7日 句会報告

2024年4月7日 樸句会報 【第139号】

 4月7日は静岡では丁度桜が満開で、句会も花の下一杯やりながらといきたいところだが、案の定参加者がいつもより少なく残念でした。というのは、俳句は一方的に作るのでなく、作者と鑑賞者が一句独特の魅力です。省略とか余白は、より鑑賞者の自由な解釈ができるためのツールとしてあるのではないでしょうか。今まで句会において何気ない良句が、鑑賞というフィルターを通して、名句へと旅立っていくのを目の当たりにしました。ここに、投句だけでなく、句会に参加すべき意義があるのでないでしょうか。
 今回の兼題は「鴉の巣」「古草」「花」です。入選4句を紹介します。

あきつしま祓へるさくらふぶきかな

あきつしま祓へるさくらふぶきかな 恩田侑布子(写俳)

○入選
 ファインダー花冷の都市無音なり
               古田秀

【恩田侑布子評】

 高階からカメラのファインダーを覗くと、「花冷の都市」は思わぬ静まりようです。まるで無人都市のよう。にわかに現実とVRが溶け合い、すべての肌触りが遠ざかります。薄い灰色と桜色の雨もよいの都市そのものが非日常の空間としてデジタル画素の網に浮かび上がるハードボイルドな都会詠です。

○入選
 春雨か微睡のなか聴く霧笛
                星野光慶

【恩田侑布子評】

 「霧笛」なので、大きな港湾の近くの住まいが想像されます。うつらうつらした心地よい「微睡のなか」で、外国船の霧笛が遠く聞こえ、その潤みようから、ああ外は「春雨」が降っているのかなと思います。この上五の「か」の切れ字、よく出ました。しかも自然です。「や」なら平凡な句になったものを、「か」の問いかけの一字が救っています。音楽的にも「か」行の脚韻の効果が、春雨のしっとりしていながら、そこはかとなく明るい春光を句全体ににじませています。

○入選
 古草や読み続けゐる文庫本
               猪狩みき

【恩田侑布子評】

 「古草」の季語の本意を深く自分のものとした実直な俳句です。古草は春になっても野山や空き地に残り、誰にも顧みられなくなりますが、一年前には芽吹きも成長もあり、緑の葉の茂みもありました。花も咲かせました。今は、色の抜けた柔らかなわら色の光を投げかけるばかり。「読み続けゐる文庫本」はきっと古典でしょう。なんべん繙いても、前には気づけなかった角度から新しい泉が湧いてきます。人間の精神の財産は一人ひとりの真摯な感受があって、初めて継承され生かされてゆくのだと、静かに襟を正される思いがする俳句です。

○入選
 痛む身の杖の先にも菫かな
               都築しづ子

【恩田侑布子評】

 「痛む身」をおして、春先の日光を全身に浴びようと、杖で歩かれる前向きの作者です。ふと、「杖の先に」すみれをみつけた瞬間のよろこび。足元からやさしく励まされる春ならではの光景のたしかさ。「杖と作者の身体はもはや一体と化しているようだ」という優れた鑑賞が句会でありました。

【後記】
 私は昨年の秋あたりから、意識して選句に力を入れております。動機となったのは、いつも投句の際作った複数句から三句を選ぶのに苦労しているからです。自分の句の優劣も判らぬものが、ひと様の句を批評するなんておこがましいと思ったからです。たまたま恩田代表の「選句に力を注げよ」の檄に乗っかり、これはこれでよかったのですが、判定を代表の選句を正として照らし合わせると、惨たる現状に我ながら呆れかえります。で、他の人も似たかよったかだとの捨て台詞を封印して、「名句を作る近道は選句を磨くにあり」との言葉を信じ、もう少し真剣に取り組もうと思います。また、句作において伸びしろは期待できませんが、鑑賞において、若い方の飛躍の一助になるかも知れないという期待は持っています。

 (岸 裕之) 

(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

花の夜は銀の鱗をもて逢はむ

花の夜は銀の鱗をもて逢はむ 恩田侑布子(写俳)

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4月21日 樸俳句会
兼題は「春の雲 」「遠足 」「磯巾着 」です。
特選2句、入選4句を紹介します。

◎ 特選
 姉妹してイソギンチャクをつぼまする
             猪狩みき

特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「磯巾着」をご覧ください。
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◎ 特選
 街棄つるやうに遠足出発す
             古田秀

特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「遠足」をご覧ください。
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○入選
 遠足のキリンの舌のかく長き
               小松浩

【恩田侑布子評】

 麒麟は動物園でもひときわ印象的な美しい動物。その舌に魅入られていつまでも見惚れている子ども心が端的に表現されています。キリンというカタカナ表記が童心にふさわしく、その長い灰色の舌への驚きと、食べられて次々消えてゆく葉っぱの不思議さが伝わってきます。童心をつねに養っていないとつくれない俳句です。

○入選
 春の雲水子地蔵のまるい頬
               山本綾子

【恩田侑布子評】

 水子地蔵にお参りするのは、流産してしまった子、あるいはもろもろの事情で産めなかった.子の体験をもつ人かもしれません。名前もないことがただあわれで、申し訳なくて、手を合わせます。春の雲が光をいっぱい孕んで浮かび、その光に照らされて水子地蔵のほっぺたも丸々と幸せそう。言葉にしえない人間の運命を感じさせる俳句です。

○入選
 愛想なきパン屋の主春の雲
               長倉尚世

【恩田侑布子評】

 こういわれると、そういえば「パン屋の主」で、八百屋や魚屋のように勢いよく「いらっしゃいいらっしゃい」と呼び込んだり、「毎度あり~」なんていう人がいないことに気づきます。作る人はおおむね静かな人です。主人の白い清潔な帽子も連想され、やさしいちぎれ雲の「春の雲」によく合っています。「愛想なき」こと、おべんちゃらをいわないことが逆にパンを美味しそうに感じさせるから不思議。

○入選
 小さき日の話を母と春ごたつ
               前島裕子

【恩田侑布子評】

 自分を産み育ててくれた母と、春まだ少し寒い頃、こたつに入ってのんびりと自分の幼い日のあれこれを聞くのはかけがえのない時間です。母娘ならではの長閑さも春昼ならでは、ことに「春ごたつ」の身も心も休まる温もりの時間は平凡ながら小さな桃源郷のよう。誰しもの共感を呼ぶ素朴な俳句。  

何んの色ならん春愁うらがへす

何んの色ならん春愁うらがへす 恩田侑布子(写俳)

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